2016年2月24日水曜日

主の心がまえ(2016年)

主の心がまえ(2016年)
2016年2月24日、春日部家庭集会
ゴットホルド・ベック

ピリピ
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

もっとも、忌まわしい間違いとはなんなのでしょうか?すなわち、死後、すべてが終わると言う考え方です。もちろん、聖書の言っていること、はっきり、告白していることは、人間の魂は、死後にも生き続けます。そして、裁きを受けるため創造主なる神の前に引き出されるようになると言うことです。

けど、不完全なものとして、過ちを犯すものとして、どうしようもないものとして、イエス様の御許にゆき、すべての過ち、わがままを告白するものは、自分のわがままが許されているということを知ることができます。と言うのは、イエス様は次のように約束してくださいました。私のところに来るものを、私は決して捨てません。結局、助けを求めればOK。こういうふうに約束しておられるお方とは、イエス様とはいったいどういうお方なのでしょうか?

今、読んでもらいました箇所を見ると、はっきり答えはあります。パウロのピリピにいる兄弟姉妹に書き送った言葉です。本当に、すばらしい事実です。

ピリピ
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

もちろん、イエス様は強制などされなかった。自分で決めたのです。そして、

ピリピ
2:8 ・・・人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

よく挨拶で、『お元気で?』と言われます。けど、元気の元とは何でしょうか?元気の元はイエス様から目を話さないことです。自分のことを同情しないで、罪人たちの反抗をしのばれたイエス様のことを考えること。結果として必ず、希望がわいてきます。元気になります。そうしないと、元気を失い、疲れ果ててしまいます。イエス様を仰ぎ見ることこそが、考えられないほど大切です。

前に読んだ箇所を見ても分かります。仰ぎ見るべきイエス様について、4つのことが書かれています。第1番目、自分を無にしてくださったお方。2番目、自分を卑しくしてくださったお方。3番目、死にまでも従ったお方。4番目、人、人間に仕えるお方としてイエス様を仰ぎ見るべきです。

まず、イエス様は自分を無にしてくださったのです。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

イエス様は、永遠なる神であられたのに、天におられたならば、何の不自由もなく、驚くべき祝福のうちに住むことができたのです。けどイエス様は、自分自身を空しくしてくださったのです。自分の持ち物、自分の知恵、また、力を結局、全部捨てたのです。使おうとしなかったのです。

イエス様は、人の誉れも、人の名誉も得ようとは、思ったことはない、おそらく、一秒も思わなかった。また、自分のものを求めようとも思われなかったでしょう。全く自分を空しくしておられました。ある人は、これは私の権利だと思い込んでしまい、戦うようになりますけど、我々の持つ権利とは、自分の権利を捨てる権利にすぎない。すなわち、自分自身を空しくすることです。

イエス様は、自分の喜びを求めることや、自分の名誉を求めることや、もちろん、富を求めることとは全く無関係でした。イエス様の切なる願いとはいったい、なんだったでしょう?いつも祈られた、「父よ。あなたの御名が崇められますように。」そういう切なる願いだけでした。

イエス様は、「わたしは、自分の栄光を求めない。父の栄光を求める、」と正直に言うことができたのです。イエス様は、「わたしは、自分の意思ではなく、わたしを遣わされた父の意思によって歩むのである、」と告白することができたのです。イエス様は、自分自身を無にしてくださいました。

2番目、自分自身を卑しくしてくださったのです。

ピリピ
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

本当の意味での謙遜なるお方とは、もちろん、イエス様しかない。「わたしは、へりくだっている。」とイエス様は、真心から言うことができたのです。すなわち、イエス様は、自分のことを完全に忘れたのです。自分自身を喜ばせようとはなさらなかったのです。自分自身を喜ばせるとは、もちろん、自己満足です。人は、簡単な、楽な道を望みます。

人は問題に入りたくない。自分の利益を追求する。イエス様は、自分自身を喜ばせなかったただ一人のお方です。神の敵であり、人間の敵でもある悪魔は、傲慢のかたまりですけど、イエス様は、自分を卑しくしてくださいました。そして、主なる神の御心は何であるかと言いますと、主イエスの内にみられる心構えでいなさいと言われます。ペテロ第1の手紙の5章5節を見ると、ペテロは当時の、イエス様にあって、イエス様を信じるようになった人々に書いたのです。

第1ペテロ
5:5 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

聖書全体の言わんとしていることは、それです。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えるお方です。もう一箇所よみます。

コロサイ
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

なぜ、そんなに実りが少ないのでしょうか。なぜ、御霊はそんなにしばしば、悲しまれるのでしょうか。なぜならば、信じる者が自分自身を喜ばせているからなのではないでしょうか。何かの役割を演じたいと思うからなのではないでしょうか。結局、自分自身に同情するからです。主は決して同情しません。愛しているからです。

第3番目になりますが、死にまでも従うこととあります。死にまでも従うこと、これこそ、主イエス様の心構えの特長でした。従順は謙遜の結果です。イエス様は、自分自身を忘れ、誤解されたり、そしられたりすることを良しとされました。一番、軽蔑されたお方とはイエス様です。一番、孤独になったお方もイエス様でした。そればかりでなく、イエス様は、人間の過ち、わがまま、罪に対する聖なる神の怒りの裁きを、ご自分の上に引き受けることをOK、良しとされました。

イエス様は、のけ者にされ、呪われることを良しとされたのです。自分自身の名誉欲を満たしたいと思う者、また、自分自身の利益を追求する者は、気の毒、災いです。祝福がないからです。イエス様は、『我々は、心からへりくだった者です。

だから、『私は自分の意思を追求せず、わたしを遣わされたお方の御心を求めます、』と、心から証しすることができたのです。自分の考えによって導かれる者は、本当に気の毒、災いです。祝福がないからです。イエス様は、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたと、あります。

第4番目、すなわち、人に仕えることもイエス様の心がまえの特徴のひとつでした。へりくだる者だけが、従順に従うことができ、従順に従う者だけが、本当の意味で、仕えることができるのです。イエス様は、次のように告白することができたのです。マルコ伝10章、マルコ伝の中の一番、大切な言葉と言われています。

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

イエス様のこの世に来られた目的とは、それです。すなわち、イエス様はしもべの形をとり、弟子たちの足を洗ったと聖書は言っています。それはまさに当時の奴隷しかしなかったことです。奴隷の仕事にほかなりませんでした。しかもイエス様は、強制されたからやったのではない。喜んでしてくださったのです。我々の生まれつきの性質の特長は、自分自身だけのことを考えるということじゃないの。だからこそ人は、不幸になり、孤独になり、満たされていない。

だからこそパウロは、ローマの刑務所の中で、信じる者の成長のために心配し、また、祈りながら書き記したのです、『主イエスのうちに見られる心構えでいなさい。』イエス様は、自分を無にしてくださり、自分を卑しくしてくださり、死にまでも従順に従う者となり、救いの代価を払うことによって、犠牲になることによって、本当の意味で人に、どうしようもない人間に、仕えたのです。もう一回読みます。

ピリピ
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

父なる神は、イエス様に一番高い御位をお授けになったのです。イエス様は今、天の御位に座しておられますが、けど、イエス様はただ一人でそこにおられることを願っていません。イエス様が、十字架に架かってくださったのは、信じる者の一人ひとりがイエス様の心がまえを持ち、御座に着くことができるようになるためだったのです。

だからこそ、私たちも、どんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に続く十字架の道を選びましょう。主は強制なさいません。主の目標を心の目で見た人は、自分自身をかえりみません。足かせから開放されます。イエス様のうちに見られる心構えでいなさいと、提案されているのではなく、命令されています。

私たちは、すべてを、すなわち、自分が持っている考え、自分の意思、自分の感情をすべて主に捧げ、また、自分が当然良いと思われる権利も、イエス様に捧げようではないでしょうか。その結果は、どういうものになるのでしょうか?パウロは、証ししました。自分の体験として次のように言いました。

ピリピ
3:8 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

すばらしい証しです。パウロは結局、イエス様との出会いによって、イエス様の犠牲のすばらしさを見たとき、結局、こういうふうに告白せざるを得なかったのです。そして、結局、パウロは当時の信じるものたちに書いたのです。『イエス様のうちに見られる心構えでいなさい。』

すべての問題の原因は、我々の生まれつきの性格にあるのではない。我々の我がままな気持ちにあります。とくに、いつも自分を正当化しようという気持ちが、また、傲慢な思い、自己追求などが問題の原因なのではないでしょうか。確かに、イエス様のために生きたいと思う者は、犠牲を捧げるようになりますけど、損をするのではない。失うこともない。多くのものを得るようになります。

確かに、イエス様のために生きたいと思う者は、いろいろなことで悩むようになります。自分自身のことだけを考え、自分自身の楽しみを追求する者は、心からの満足を得ることができません。また前進することもできなくなります。イエス様をより良く知りたい、そして、主に用いられたいと願う人は、幸せです。絶対に後悔しません。

自分自身の思い、自分自身の感情、自分自身の意欲などを大切にしないで、ただイエス様だけが、すべてのことにおいて最優先されるという備えができる人は、間違いなく豊に祝福され、主の姿に似た者に変えられるようになるに違いない。私たちもパウロのような態度をとることができたらありがたい。

ピリピ
3:8 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさい・・・・

大部分ではない、

ピリピ
3:8 ・・・いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

一度はすごく大切なものと思ったんですけど、後で、役にたたない、ごみに過ぎないと思うようになりました。『私の主であるキリスト・イエス』かつての、クリスチャンたちを迫害したパウロはこういうふうに変えられたのです。主にしかできない奇跡なのではないでしょうか。

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