2016年2月9日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
第一テサロニケ
5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
今日は、この五章の前半について、1節から11節までについて、一緒に考えてみたいと思います。テーマは、言うまでもなく、主イエス様の再び来られることです。
本当の回心のしるしは、意識して、イエス様の再臨を、待ち望んでいるということです。そのことについて、パウロは、私たちがイエス様を待つために――救われるためだけではなくて――イエス様を待つために救われた。待つために、回心する恵みに与かるようになったとありますね。
第一テサロニケ
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
イエス様が、来られます。当時、イエス様が再び来られるということを知ることとは、信者たちに対して、大きな慰め、また、勇気、そして、よろこびを与えたのです。それに比べて、今日、私たちの場合はいったいどうでしょうか。イエス様の再臨を知って、私たちは、慰めと勇気とを与えられているのでしょうか。主のみことばの真理を、本当に自分のものとすると必ず、慰め、希望、勇気を与えられるのです。
次に、三つの質問について、考えたいと思います。
まず、第一に、「イエス様が出現する時は、いつか」という問いに対して、パウロは、いったい何と答えたのでしょうか。パウロは、一番目、誰が来るかについて、はっきりと記したのであり、ニ番目、どのように来るのかについて書き、そして、三番目、いつ現れるかについて、はっきりと述べております。
一番目、イエス様ご自身が再び来られると、全く明確に記されています。今日、青少年犯罪の問題、あるいは、さらに、戦争の問題が将来、いったいどのようになるのかということを、非常に心配し、憂いている人がいます。けれども、これらの問いに対しては、いかなる人間も、いかなる宗教も、答えられません。ただ聖書だけが、答えを与えることができます。
マタイ
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
すなわち、別の言葉で表現すれば、将来、さらにひどい状態になり、そして、それは、今まで、かつて、一度もなかったような恐ろしいものであると聖書は言っています。少しずつ良くなるということはない。
やがて、栄光のうちに再び来られるイエス様のことを考えると、本当に希望を持つことができ、安心して、将来に向かうことができます。また、ちょうどイエス様が受難の時、全く力なく、十字架で血を流されたように、やがて、絶大なる力をもって現れることも真理です。また、復活の時、イエス様が死を打ち負かされたように、やがて、天と地、また、死者と生者に対する主として、イエス様が来られることも真理であります。
何十年も前の話しですけれども、いわゆる時限爆弾が仕掛けられたとき、一定の時が経つと、正確に爆発するのと全く同じように、復活された主イエス様が、ある時に必ず、再臨なさることが確かであります。なぜなら、復活という事実が、とりもなおさず、再臨を証明する事実だからであります。イエス様は、また来る、これこそ我々のよろこびの根拠なるものです。
ニ番目、どのようにして主が再臨なさるかについて、パウロは、はっきりと書き記しております。すなわち、イエス様は予期しない時に、突然、盗人が夜、来るように来ると言っているのです。盗人は、自分が泥棒に入ろうとする時間をあらかじめ知らせるような愚かなことはしません。
イエス様が今日、再臨なさるということが、たとえ考えられないとしても、それが実現される可能性があります。そのことを考えると、私たちは、本当によろこぶことができ、また、力づけられるのです。けれども、信者の中には、そのことを考えても、本当によろこぶことができないような人もいるのではないでしょうか。私たちの場合は、いったいどうでしょう。
三番目、いつイエス様が再臨なさるかについて、パウロは、はっきりと答えています。すなわち、人々が、平和だ、うちだと言っている、その矢先に、主が来られるということです。まだ、この地のどこでも平和という言葉が聞かれ、また、たいていの人々は、それがうちだと思っています。
しかしながら、聖書はそのように思いこむことが誤りであると、はっきり言っています。3節に書いてあるように、イエス様が再び来られることを確信して、心から待ち望むことをしていない人々にとっては、主の再臨はとりもなおさず、滅びを意味しているのです。イエス様は来られるという事実について考えると、本当にうれしくなります。
次に、『夜の者』とは、いったい、いかなる者であるのか。どのように見えるものであるかについて考えたいと思います。すなわち、彼らは、イエス様など来ないと言うか、あるいは、当分、来ないと言うかのどちらかです。しかし、彼らが取る態度の結果、あるいは、終わりは、恐れ、患難、そして、滅びです。それですから、彼らは、希望なく、望みなき人間です。聖書のことばによると、彼らは眠っている者であり、酔う者であると言っています。
私たちは、酔う者がどういう者か知っています。酔う者は、責任能力がない、心身の状態が正常ではない者です。酔っ払い運転が見つかれば、すぐに免許証を取り上げられてしまいます。聖書の中では、未信者は酔う者に例えられています。すなわち、酔う者は、自分は何をしているか、分からずにいるわけですけど、未信者も、提供された救いを拒むという、全く愚かなことをしている自分の状態に気が付かないでいるわけです。なぜなら、イエス様を拒むことの結果が、滅びに至るということを、知らないでいるからです。
また、聖書は、未信者のことを、眠っている者とも、呼んでいます。すなわち、未信者は、イエス様を待つことをせず、神のみことばを真剣に受け取ろうとせず、愚かにも、自分勝手な道を行こうとしているのです。
イエス様をまだ、体験的に知っていない人々には、当然、次のような問いが起こってきます。光の子となるためには、どうしたらよいのでしょうか。
パウロは、ローマ書の中で、3章23節によると、『すべての人は、罪を犯したゆえに、神の栄光を受けられなくなっている』とあります。
【参考】ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・・、
また、内容的に同じものです。
イザヤ
64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。
光の子となるためには、自分自身の罪だらけの状態を知ることです。失われた状態を認め、告白することです。それから、もちろん、離れることが大切です。
箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。
隠すとうまくいかない。『成功しない』とあります。光の子となるために、自分自身の罪だらけな状態を、失われた状態を、今、話したように認めること、告白すること、そして、それから離れることは必要です。その次の一方は、まさに、主のことばを――理解することではない――信じることです。例えば、エペソ書を見ると、すばらしいよろこびの訪れ、そのものが書かれています。
エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
聖書の中では、だいたい複数形が使われていますけれども、自分勝手に単数形で読むことができたら、いいじゃないの?「私は、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです」と言える人は、本当に幸せなのではないでしょうか。
もうひとつ、すばらしい箇所。七十一年前でしょうか、私はこのみことばによって導かれ、救われたのです。
イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」
もう一箇所、読みます。内容として同じです。
マタイ
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て(・・・・中風の人の信仰ではないようですね、彼らの信仰を見て・・・・)、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
からだの病よりも、問題は、心の孤独。赦されたいという願いなのではないでしょうか。
信じること。どうして信じることができるか。幸いにも、イエス様の名前は、『信仰の創始者』であるから。自分で信じます!と言っても、そんなものではないよ!理解できても、それはちょっと違う。「信じたいけど無理、憐れんでください。私の持っていない信仰をお与えになってください」という態度があれば、本当にそれで充分です。
ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
すばらしい約束なのではないでしょうか。
それから、次の一歩は、自分の罪のために、尊い血潮を流して、贖ってくだったイエス様に感謝をすることです。しかも、感情的にそうするのではなく、聖書に書かれているから、神のみことば、約束に対して、感謝することが必要です。
また、最後の一歩は、イエス様を隠さずに、恥ずかしがらずに、どこにでも公に告白し、証しをすることです。
ローマ
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
最後に、今とは反対の質問、すなわち、昼の子とは、いかなる者でしょうかね。6節によると、光の子とは、目を覚ましている者であり、二番目、慎んでいる者であります。すなわち、イエス様を待っている者です。彼らは、望みとよろこびに満たされています。
また、前に読みました8節によると、胸当てとかぶとを身に着けている者です。すなわち、非常に、よく装備している者です。ここで、胸当てとは、イエス様を信じる信仰とイエス様に対する愛との胸当てであります。自分により頼むことをしなくなり、すべてを主に委ね、何ものにもましてイエス様を第一にし、誰よりもイエス様を愛する者だけが、完全な装備をしている者であり、いかなる敵に対しても、立つことができる者です。
また、かぶととは、イエス様が必ず来られるという確信とよろこびのかぶとであります。イエス様は今日、来られるかもしれないという待ち望みを持っていない者、すなわち、そのようなかぶとを身に着けていない者は、弓矢で射られたり、槍で傷つけられやすい、非常に危険な状態にあるわけです。
これらの武具、すなわち、胸当てとかぶととは、まさに、主の賜物以外の何ものでもない。けど、あらゆる賜物は、同時に、その中にひとつの課題、あるいは、使命を宿しているのです。目を覚ましていなさい。慎んでいなさい。眠っている者には、意識がありません。したがって、近づく危険を感じ取ることができない。戦いを放棄してしまっているのです。
酔っ払っている者は、全く無防備な状態に置かれています。私たちは、絶えず目を覚まして、慎んででおり、互いに助けあうように召されています。11節、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」とあります。私たちは、お互いの交わりによって成長しますから、自分の信仰を望むものは、お互いの徳を高め合うようになるのです。
私たちは、いったい光の子なのでしょうか、それとも、夜の者なのでしょうか。眠っている者なのでしょうか。そして、目を覚ましている者なのでしょうか。酔う者でしょうか。そして、死んでいる者でしょうか。望みのない、生き生きとした望みを持っている者なのでしょうか。不安に満たされている者でしょうか。それとも、よろこびに満たされている者なのでしょうか。全く無防備な者なのでしょうか。それとも、良く装備した者なのでしょうか。
私たちは、イエス様の再臨という大切な真理について考えるべきです。それは、私たちにとって、何を意味しているのでしょうか。イエス様が再臨なさるというこの事実は、私たちの決断を迫る、すなわち、イエス様は私たちとの出会いを望んでおられるが、私たちは、このイエス様を今、受け入れますか、それとも、拒むのでしょうか。今日こそ、その決断をする絶好の機会なのです。さもなければ、後になって必ず後悔します。
神の時、救う時は、今です。今日です。イエス様が再臨なさるというこの事実は、私たちが主に仕えることを迫るのではないでしょうか。自分だけのことを考え、のんびりと楽な生活を楽しむための時間は、もはや無くなりつつあります。私たちは、イエス様のために、実を結ぶように召されている者です。イエス様のために実を結ぶとは、他の人が、永遠のいのちを持つことができるよう、そのきっかけを与えることであります。
イエス様が再臨なさるというこの事実は、私たちを不安から引き出す。多くの人は、心配や不安のため、将来のことを考えようとはしない。私たちが、将来のことで思い煩い、心配するならば、それは、私たちのイエス様に対する不信頼の表れなのではないでしょうか。私たちは、思い煩ったり恐れたりする必要はありませんと、イエス様は、はっきりと言われました。
黙示録
1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
イエス様は、こう言うことができたのです。
生きている者、すなわち、イエス様は、再び来られます。もし私たちが、今日、すべてをイエス様にあけ渡し、ゆだねるならば、イエス様の再臨の真理をよろこぶことができるのです。主の望んでいるのは、それに違いない。
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