2026年2月14日土曜日

主にあって喜ぼう

主にあって喜ぼう
2016年2月14日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック兄

ネヘミヤ
8:10 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」

御代田の福音センターには二つのドアがあるんですけど、入ってきてから後ろを見ると、この言葉が書かれています。みなは気がついていないかもしれない。日本語ではなくて、ドイツ語で書かれているから。『主を喜ぶこととはあなた方の力です。』今日のテーマは、『今まで以上に主にあって喜ぼう。』これは、御心です。ダビデと言う男はそれを体験しました。詩篇を見ると、16篇の11節の中で彼は次のように告白して、証ししました。

詩篇
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

フサオ兄弟よりも、僕は先に癌になっちゃたね。12年前に血の癌、白血病になっちゃって、皮膚の癌になっちゃって、糖尿病になっちゃって。けど、風邪か癌か、別に。人間は病気のため、年齢のためには死なないよ。主の決まったときです。そして、主の決めるときはもちろん、最善です。私たちには分からないでしょう。けど、遅くても、天国に行ってから必ず分かるようになります。ヨハネ伝からちょっと読みましょうか。

ヨハネ
3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

バプテスマのヨハネの証しです。私の喜びはいっぱいです。どうして?30節がその答えかな。

ヨハネ
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

すごい言葉です。

ヨハネ
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

真理そのものであるイエス様がこのように言われました。

ヨハネ
17:13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。

イエス様はお別れの言葉として伝えたのであります。私たちはますます、次のようなことに心を配らなければならないのではないでしょうか?すなわち、自分のことはどうでもかまわない。自分が良く思われたいとか、人の上に立ちたいとかいうことではなくて、ただイエス様お一人が、栄光を受けられますように。

一方において、信仰者は霊的に成長することがどうしても必要であり、他方において、各人は本当に信者の交わりの中に溶け込むことができ、自分を無にすること(が必要)です。この二つのことが信じるものにとって一番、大切なのではないでしょうか。

私たちは人間により頼むのではなくて、ただ主イエス様にのみより頼まなければならない。そのときにのみ、主は私たち用いることができ、導くことがおできになります。キリスト者の正しい生活というものは、主とともに十字架につけられた生活に他ならない。いつも言いますけど、信じるものにとってもっとも大切な箇所のひとつは、ガラテヤ書2章20節でしょう。パウロの心からの正直な証しです。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

今読んでもらいました箇所、ネヘミヤ記8章の中で、『悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれる』のです。いったいどうすれば、この主にある喜びを体験することができるでしょうか?これに対して5つの答えを与えることができるんじゃないかと思います。

まず第1番目。私たちが、我々を救うことのできる主の大いなる力を体験的に知るときに、この喜びを体験することができます。私たちはしばしば、自分自身の力で何かをしようとしますが、不幸にもそのようなときには、この喜びが消えてしまいます。この喜びの秘訣は、『私の思いではなく、主よ、あなたの御心がなりますように、』と言うことにほかなりません。

しばしば、イエス様は私たちが考えることとは違ったかたちで、私たちを導くのではないでしょうか?我々の思いや考え、また、感情は主の御心に反しているのではないでしょうか。自分の思いや自分の考えにこだわるとき、人間は不幸にならざるを得ません。自分の思い、考えを犠牲にする覚悟のあるものだけが、本当に主イエス様の大いなる力を、すばらしい喜びを体験することができます。

どうすれば、主ご自身の喜びを自分のものにすることができるか。今、話したように初めの答えは、イエス様を自分の救い主として受け入れるとき、許されたことを信じ、いつまでも主のものとなったから、喜ぶことができます。

第2番目の答えは、イエス様のご臨在を確信することも、大いなる喜びを与えてくれます。私たちが主に従って行こうとするときには、自分は本当にだめなものであり、何の力もないことを知るようになるのです。私たちが本当に打ちひしがれ、砕かれたときに、主を見上げれば、われわれの弱さにもかかわらず、主の大いなる力と、すばらしい喜びとを体験することができます。私たちはいつ、いかなる場合でも決して一人ではありません。いつも主イエス様が共におられます。

マタイ
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

真理そのものであるイエス様はうそを知らない方です。自分の約束を守るお方です。この方は、『わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる。』すばらしい約束です。もう一箇所読みます。

哀歌
3:57 私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな。』と仰せられました。

こう仰せられました、主は近づいてくださるお方です。

イザヤ
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イエス様ご自身が共におられる、この確信こそわれわれに大きな喜びを与えてくれます。

今までのことをまとめるてみると、次の二つのことが私たちに喜びを与えてくださいます。すなわち、私たちがイエス様の救う力を体験するときに、私たは本当の喜びを知ることができます。二番目、私たちがイエス様のご臨在を確信するとき、喜びを体験することができます。

3番目の答えはイエス様の導きを確信し、体験することも私たちに大きな喜びを与えてくれます。我々の人生においては、しばしば痛い。この場合、私たちは何をしたらよいのか、何をすべきかという問題に直面するときがあります。そう言った時こそ、私たちはイエス様がともにおられ、私たちを導いておられるという確信を持つことができれば、本当に幸いです。これこそ私たちの本当の喜びを与えてくれます。

この世のことにおいて、さまざまな出来事が起こってきますが、何ひとつとして、主の許しなくして、生じてくるようなことはない。私たちはまことに生きておられるイエス様によって、導かれているのだ、という確信こそ、大いなる喜びを与えてくれるに違いない。詩篇の作者であるダビデは言ったのです。

詩篇
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

107:6 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
107:7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。

107:14 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

107:28 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。

136:16 荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。

これらの詩篇の御言葉はすべて個人的な体験されたことの証しに他ならない。主によって導かれると言うこのことが、まさにイスラエルの民の経験でした。また、喜びでもあったのです。私たちがイエス様の導きを本当に確信できるときに、大いなる喜びを体験することができます。

どうすれば、主ご自身の喜びを自分のものにすることができるでしょうか?今、話したように、第一番目、イエス様を自分の救い主として受け入れるとき、許されたことを信じ、いつまでも主のものとなったから喜ぶことができる。二番目の答えは、イエス様のご臨在を確信することも、大いなる喜びを与えてくれます。3番目、イエス様の導きを確信し、体験するときも、大いなる喜びを与えてくださいます。

4番目の答えは、イエス様が我々のためにすべてを備えてくださる、と言うことも大きな喜びをもたらしてくれます。私たちは、私たち自身ではとても理解できないようなことを、体験することがあります。なぜ、逃れ道が全然、ないのか、まったく分からないと言うようなことを体験したことがあるかもしれない。

このように、どうして私たちがこのことを、体験しなくてはいけないのか、まったく、分けが分からないようなときでさえも、イエス様がすべてを備えてくださると言う確信があれば、いかに大きな喜びが与えられるでしょう。

イエス様は人間一人ひとりをまったく個人的に愛していてくださるお方です。イエス様が自分のためにすべてを備えていてくださる。この確信を持っている人はなんと、幸いな人でしょうか。前に読みました詩篇の作者であるダビデはまた言ったのですね。

詩篇
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

34:10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

イエス様はあるとき、弟子たちに訊いたんです。

ルカ
22:35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」

必要なものが与えられたからです。

第一コリント
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。

どうすれば、イエス様ご自身の喜びを、自分のものにすることができるでしょうか?今、4つののことを言いましたね。イエス様を自分の救い主として受け入れたとき、許されたことを信じたとき、いつまでも主のものとなったから、喜ぶことができた。二番目、主のご臨在を確信するときも、大いなる喜びを与えてくれます。3番目、イエス様の導きを確信し、体験することも私たちに大きな喜びを与えてくれます。4番目、イエス様が我々のためにすべてを備えてくださる、と言うことも大きな喜びをもたらしてくれます。

5番目の答えは、喜びの源として考えられることは、イエス様が私たちを待ち望んでおられると言うことです。このことはまだ、私たちが体験していないことですけど、聖書を読めばこのことが事実であるとはっきり分かります。死ぬと言うことは、消滅してしまうと言うことではなく、主のもとに帰るとことです。

これら5つの確信は、いついかなるところにおいても我々に、本当の喜びを、また、勇気を与えてくれます。イエス様は私たちの罪を全部、許してくださっただけじゃなくて、『私はあなたの罪を思い出さない』と書いてあります。我々は時々忘れたいことがあるかもしれないけど、なかなか難しい。イエス様はできる。私はあなたの罪を忘れました。覚えがない、と言うようになる、もう想像できません。けど、ありがたいね。イエス様はすごいお方です。

イエス様にある喜びは、我々に大いなる力を与えて、すべてのことをすりぬく力を与えてくれます。このイエス様にある喜びは、単にひとつの力となるのみならず、我々の信仰の土台を測るものともなるのです。

私たちがイエス様に不従順であれば、喜びがなくなります。けど、私たちが正しくないことをした場合に、包み隠さず、イエス様に打ち明けるならば、イエス様は全部、許してくださり、永久的に忘れる。結果として、新しい喜びを与えてくださいます。私たちがこの喜びを持っているか、いないかということとはどうでもいいことではない。この喜びがなければ、いかなる証しもできなくなる。そして、イエス様はもはや、私を用いることができなくなってしまいます。

詩篇の作者であるダビデから、また2~3か所読んで終わります。

詩篇
5:11 こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

33:21 まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

68:3 正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。

104:34 私自身は、主を喜びましょう。

イエス様は、私たちも詩篇の作者と同じように、心からイエス様をほめたたえ、喜ぶことを望んでおられます。

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