2016年2月28日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック
詩篇
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
イエス様を見上げる者は、前に想像しなかったほどの喜びを与えられます。そして、イエス様を見上げる程度にしたがって、その度合いに応じて、喜びを与えられます。今の詩篇の作者であるダビデは言ったのです。『私はあなたを教え・・・・、』もちろん、主の召使いとしてそう言っているんですね。『私はあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたに留めて、悟るであろう。あなたは、悟りのない馬のようであってはならない。また、驢馬のようであってはならない。彼らは、くつわ、手綱をもって押さえられなければ、あなたに従わないであろう、』とあります。
聖書は、救われて神の子であっても、いわゆる救いの喜びがなくなる可能性があると書いています。信仰が成長しない理由は、イエス様だけを見ないで、他人を見たり、悪魔の惑わしに耳を傾けたりするからに他ならない。イエス様を見上げないものは、間違った道に進んでしまいます。けど、いつかは必ず回復されると聖書は言っています。ですから、何があってもあきらめる必要はない。主は約束を守ってくださるお方であるからです。
読んだ箇所を見ると、2つの導き方がありますね。一つは目を留めて諭す導き方であり、もう一つは、くつわや手綱を持って押さえて従わせる方法です。信じる者の中には、イエス様の目、あるいは、イエス様のまなざしによって導くことができない人々もいるようです。だからダビデはこういうふうに書いたのです。そのような人に対しては、主は、仕方がなくて、やむを得ずくつわや手綱を持って従わせざるを得ない。
それはあまりおもしろくないでしょうし、しばしば、苦しみや悩みを伴うものです。けれども、くつわや手綱を持って導かれる場合でさえも、主は捨てることなく、愛し続けてくださるのです。それですから、いかなる状態にあっても、イエス様の愛を覚えることによって、信じるものは誰でも、喜んで感謝することができるのです。ですから、自分を見るよりも、他人を見るよりも、主の約束をつかむこと、そのために感謝することこそが、考えられないほど大切です。
くつわや手綱を持って導かれる時には、確かに、今話したように苦痛を伴います。私たちの自己決定や自己支配を捨てて、イエス様だけを見上げて、信仰生活を歩む方がどれほど苦痛を伴わず、簡単なものであるか解かりません。私たちの見上げる目の方向によって、喜びに満たされる者になるか、あるいは、自ら墓穴を掘る結果となるかのどちらかに分かれてしまうでしょう。
皆さんご存知のように、日光には見猿、聞か猿、言わ猿という3つの猿があります。すなわち、悪いものを見たり、聞いたり、話したりしなければ、安全に保たれるという教訓を意味しているのではないかと思います。すなわち人間が、見たり、聞いたり、話したりすることのない状態に置かれた時、たとえば、めくら、おし、つんぼは、いろいろな事から間違いなく守られます。ただ目に見えるものだけに心を奪われて、イエス様を見失ってしまうときが、一番、危険なときです。旧約聖書から一箇所、読ませていただきます。
民数記
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
遣わされた者は、イスラエルの人々に、結局、次のように悪く言いふらしたのです。『私たちには自分がいなごのように思われ、彼らにもそう見えたに違いない。』だから、あきらめたほうが良い。無理だよ。けれども、その時、ヨシュアとカレブの二人は、次のように言いました。『主にそむいてはなりません。また、その地の人々を恐れてはなりません。主が私たちとともにおられますから。彼らを恐れてはなりません。』
この聖句からも解かるように、確かに目に見える現実は、遣わされた使者が言ったとおりだったことでしょう。けど、彼らは目に見えない現実を、きれいに見失ってしまったのです。すなわち、主を見上げることをしなかったのです。けども、今、話したように主を見上げる者は、想像しなかったほどの力を、間違いなく体験できます。
ヨハン・セバスチャン・バッハという音楽家は、多くのカンタータを作ったのです。ちょっと信じられないけども、毎週、新しいカンタータを作ったそうです。毎週!プラス・アルファ。毎日、いろいろな人に教えたし、子供が20人いました。20人の子供を養うのは大変だよ。けども、今、話したように彼はいろいろなカンタータを作ったんです。そのひとつのカンタータの中で、『主を見上げる者は、新たなる力を得、鷲のようになる、』と言っています。主を見上げる者は、鷲のようになる。
けども、残念なことに多くの信じる者も、鷲のような者ではなくて、もぐらのような者になってしまっているのではないでしょうか。見る方向によってまったく違います。イエスのまなざしについて考えたいね。まず、イエス様の愛に満ちたまなざしについてちょっと考えましょうか。
マルコ
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
どなたがもっと悲しんだのかちょっと分からない。もしかするとイエス様じゃないでしょうか?イエス様は、彼に目を留め、いつくしんで言われた、と書いてありますが、この箇所を見ると、金持ちは少なくても飢え渇きを持っていました。だから、イエス様のもとに走り寄って、御前にひざまづき、永遠のいのちを受けるためには、何をしたらよいかと尋ねました。彼は、豊かな財産にもかかわらず、心は満たされていませんでした。というのは、彼には見えるこの世のものが、移り行く、はかないものである事が解かっていたため、永遠のいのちについて尋ねたんです。
人間はすべて、永遠のいのちによってのみ、満たされます。永遠のいのちを得るために、自分の滅び行く状態を知って、救いの必要性を知ることはどうしてもなくてはならないものです。その状態を示すために、イエス様は若者に、昔々のモーセの十戒を示されました。『殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証を立てるな。欺きとるな。父と母を敬え、』すると彼は、『それらのことは守っております、』と答えました。けども、彼は、自分自身の本当の状態について、何も知らなかった。全くめくらでした。自分自身の罪を知らない者は、当然、罪を告白することもできません。そして、罪を告白しない者は、罪の赦しを得ることもできません。さらに罪の赦しを得ていない者は、永遠のいのちをも持つことができません。
ヨハネ
3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
今日、多くの人は、この金持ちと同じように、『私は、すべての事を守っている、』と思うかも知れない。結局、間に合っています。これは、取りも直さず、悪魔が、その人々の心の目をくらまし、自分自身の本当の状態を見ることができないために、そのような事になってしまうのです。イエス様を信じる者の場合でもあり得ることです。黙示録の中で、大変なことが書いてあります。
黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
イエス様は、この金持ちの少年に結局、言ったのです、彼の状態を見たから。けども、彼が、悪魔によってめくらにされてしまったのです。詩篇の作者であるダビデは、次のように書いたのです。
詩篇
34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
どうしてこういうふうに書いたのか?ひとつの証し、告白です。自分で経験したのです。
詩篇
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
彼はまた、次のように告白したのです。
詩篇
147:3 主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
けども、ダビデだけでなく、イザヤも同じ事実について証ししたのであります。これもすばらしい箇所です。
イザヤ
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
66:2 主の御告げ。わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
今、読みました金持ちは自分自身の本当の心の状態を知らなかったにもかかわらず、イエス様は、限りない愛をもって彼を見つめられました。その時、イエス様は、彼に向かって、『あなたには、一番大切なものが欠けている、』と言われました。『もしも、あなたが、わたしに従って来たいならば、持っているものをみな売り払って、わたしの十字架を負って、わたしに従ってきなさい、』とイエス様は答えられました。イエス様は、この御許に来た人を心から愛しておられた。まことの深い愛が、すべてを売り払い、十字架を負って従うことを要求したのです。
この金持ちに向けられたイエス様の深い愛のまなざしは、もちろん、我々一人ひとりに対しても向けられています。イエス様は、救おうとしておられるだけではなく、ご自分に従ってくるようにと招いておられます。罪を赦された者こそ、永遠のいのちを持ち、救われている者です。イエス様は、いつも我々のことを思い、最後の目的を指し示そうとしておられます。その意味で救われたから、後はたいしたことはない、もう充分だと思っている人がいるならば、それは大間違いです。
イエス様のまなざしとはどういうまなざしでしょうか?今、考えたように、愛のまなざしです。次に、イエス様は愛のまなざしだけではなく、希望のまなざしです。もう一箇所読みましょうか?有名なザアカイのはなしです。
ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
彼は、今日は仕方がないからあきらめましょう・・・・とは思わなかったのです。
ルカ
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
喜んだのではない。つぶやいた。
ルカ
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
そうなると、もう何も残ってはいないでしょう。
ルカ
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
この5節ですね。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われました。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』この背景になっている場所、すなわち、エリコという町は、主なる神によって呪われた町でした。ザアカイは、取税人のかしらで、金儲けに一生懸命になっていました。おそらく彼は、正しくない方法も使って金を貯めたことなのではないでしょうか?けれども彼は、豊かであるにもかかわらず、満足していなかった。平安もなかった。喜びもなかった。まことの希望も彼は知らなかったのです。
彼は、どういうわけかイエス様によって、自分の満たされない気持ちが満たされるに違いないと思ったのです。だから、『イエスを見たい。イエス様に会いたい、会いたい、』と望んだのです。ここに書いてあるね。イエスは上を見上げました。ザアカイは、イエス様が自分の名前を呼ぶのを聞きました。そしてそれと同時に、イエス様が自分に対して何らかの関心を持っていることも分かりました。しかも、イエス様はザアカイの家に泊まると仰り、ザアカイとの交わりをも提供してくださったのです。ザアカイは、イエス様を自分の家に受け入れる準備ができていました。
ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ザアカイこそがこれを体験的に知るようになりました。イエス様の弟子であるヨハネも、次のように書いたのです。
第1ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
原本を見ると、『はっきり確信させるため』となっています。イエス様の近くにいることは、大いなる祝福を意味しているということを、ザアカイは知るようになりました。イエス様に出会った者は、決して闇の中に留まることはない。なぜならば、イエス様は光であられるからです。ザアカイは罪を告白せざるを得ませんでした。そして、彼はイエス様の口から直接、自分の罪が赦されていることを聞かさました。ザアカイにとって、ひとつの大転換を意味していました。それまで、彼は自分中心の生き方をし、欲の塊で、がんじがらめになっていましたが、今や、イエス様を喜ばせ、イエス様に従って行きたいという願いだけを持つようになったのです。
私たちも、イエス様の希望のまなざしを必要としているのではないでしょうか。将来のことを考えると、人間的には望みがなく、慰めのない状態のように思われるかもしれない。焦ったり、失望したり、落胆したりすることがあるかもしれない。その時には、イエス様を見上げて。そうすれば、ザアカイと同じように、イエス様の希望のまなざしを見ることができます。主の希望のまなざしは、私たちがイエス様と交わりを持つようにと招いておられます。
イエス様との交わりとは、イエス様が光の中を歩まれたように、私たちもイエス様と共に、光の中を歩むことに他ならない。イエス様との交わりは、いのちそのものであるイエス様以外に喜びを持たないことを意味しています。イエス様との交わりは、ただイエス様に喜ばれる者となりたいという心からの願いでもあります。イエス様のまなざしとは、我々に与えられている愛のまなざしであり、希望のまなざしでもあります。
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