2016年2月20日、高知よろこびの集い
ゴットホルド・ベック
第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
イエス様に出会った人々の心からの願いは、いったい何なのでしょうか?もちろん、イエス様に出会っていない人々は、主なる神との和解を受け、イエス様の提供されている赦しを受け取り、主なる神との平和を自分のものにすることです。
私たちは皆、口をそろえて、言うことができればありがたい。すなわち、『イエス様はなんでもできるお方であるから、私はこの主に頼ろう』と、新たに決心します。そういう思いがあれば、非常にありがたいと思います。なぜならば、イエス様のない人生は、あまり意味のない、無価値なのではないでしょうか?なぜならば、イエス様のみが真(まこと)の救い、永遠のいのちを与えることができるお方であり、真の満足をあたえ、すべての問題を解決する力を持つお方であるからです。
今日は、いつものようによろこびの集いです。どうして?何の苦しみもない、悩みもないからではないよ。人間は共通して、悩むものです。どうして、よろこびの集いであるかと言いますと、悔い改められるからです。あらゆる人間にとって、いちばん大切な言葉は、『ごめんなさい。憐れんでください。赦して。』そういう気持ちがあればいいんですって。
イエス様の一人の弟子、ヤコブという男は、聖書全体のことを、一文章にうまくまとめたんです。彼が何を書いたかと言いますと、『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵んでくださる』ということです。
悔い改めることができるから、よろこびの集いね、今日は。けど、それだけではなくて、イエス様の忠実さを褒め讃えるものでもある。イエス様は不思議なお方です。どうして?ダメなものを捨てないから。人間だってゴミみたい・・・・捨てられても当然だよ!どうして捨てないのか、分かりません。けど、ありがたい。したがって、何があっても安心して、前向き生活することができます。
イエス様は、我々に、『わたしは、決してあなたから離れず、あなたを捨てない』と、約束してくださいました。したがって、我々は本気になって、主の約束を信じ、すべてを安心して、ゆだねることができるから、主は、ご自分の約束を守ってくださるから、私たちのようなものを導いてくださるから、本当に感謝です。
我々の願いとは、どういうものであるべきかと言いますと、すなわち、『自分の人生において最優先されるべきであるのは、イエス様だけです』と。今、読んで来てくださった箇所は、みんなもう暗記している。けど、大切な箇所ですから、もう一回、読みましょうか。
第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
主は何を望んでいるか、何を願っているか、この一節の中で全部、含まれています。人間は皆、例外なく幸せになりたい。どうして?幸せになれなければ、全てはおもしろくない、意味のないものになってしまうからです。
ここで、『これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです』と、書いてありますが、いったい主なる神は何を望んでおられるでしょうかね?言うまでもなく、キリスト教という宗教に入ることでもないし、あるいは、特別な教えを信じ込むことでもないし、また、自分の知恵、自分の力に頼って、より良い人間になることでもありません。主なる神の要求、主なる神の命令は、今、読みましたように、三種類のものです。
第一番目、『いつも喜んでいなさい。』たまにではないよ。一日おきでもない。いつも!旧約聖書の中で、358回、よろこぶ大切さについて書いてあります。新約聖書で133回です。あわせて523回(491回?)、よろこぶことの大切さについて述べられています。もちろん、大切な言葉は、『キリスト・イエスにあって』ということばです。
すなわち、この誰からも奪われることのないよろこびの秘訣は、イエス様を知ることです。イエス様について、いろいろなことを分かることではなくて、イエス様ご自身との出会いによって、イエス様を知ることです。孤独、傲慢、自分中心の利己主義、絶望など、あらゆる悩みが解消してしまうのです。
そして、他方においては、本当のよろこび、平安、満足が与えられるのです。イエス様は、我々にまことの救い、すなわち、罪の赦しを与えるために、このめちゃくちゃな世にお入りになりました。それだけではなく、救いの代価を支払ってくださった。自分のいのちを捨ててくださったのです。
我々は、生きているあいだに、この代価とはどういうものであったか、つかめません。けど、永遠の世界に入っていけば、誰でも忙しくなる。感謝したくてしたくて、どういうふうに自分の感情を言い表したらいいか、まったく分からない。イエス様は、我々にまことの救い、罪の赦しを与えるために来られました。そして、代わりに犠牲になったのです。
罪を知らない方、罪を犯す可能性を持っていなかったイエス様が、罪のかたまりとされた。すなわち、すべての人間の過ち、わがままを、一人ぼっちで犯したもののようにされてしまったのです。イエス様は、まことの救い、すなわち、罪の赦しを与えるために犠牲になったのです。
イエス様との交わりの中にこそ、本当のよろこび、絶えざるよろこびの源があります。すなわち、イエス様こそ、いのち、希望、よろこび、平安の泉、そのものです。他の言葉で言いますと、イエス様によって、すべての悲しみは、よろこびに変わります。イエス様によって、疲れ果てた者が、新しい力を得ます。イエス様によって、あらゆる人間的な努力の空しさ、あせりが、全き平安と安らぎの静けさに変わるのです。
本当のよろこびの泉は、イエス様ご自身です。イエス様が、この地上に来られた時、み使いは宣言しました、『恐れることはない。今、わたしは、この民全体のためのよろこびを知らせに来たのです。あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。』変わらないよろこびがなければ、人生は全く重苦しいものになってしまいます。変わらないよろこびがなければ、全部、退屈なものになります。
主のみことばである聖書を通して、提供されているすばらしいよろこびは、どういうものでしょうか?もちろん、単なる楽しみではない。あるいは、一時的な問題の解決よりも、ずっと大切なものです。聖書を通して、提供されているすばらしいよろこびは、絶えざる幸せを心の底から感じさせるものであり、そして、全き平安に導き、完全に父なる神の御手の中に守られていることの確信を強めてくれるものです。
マタイ伝のはじめに書かれているのは、『マリヤは、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その罪から救ってくださる方です』と。イエスとは、罪を赦すお方です。あらゆる人間がどうしても必要なものは、今、話したように、自分の過ち、自分のわがまま、罪の赦しを得ることです。
なぜならば、罪が赦されると主なる神との交わりが可能となるからです。そして、父なる神との交わりによってのみ、人間は満たされ、幸福とされ、幸わせになります。すなわち、誰からも奪われることのない喜びの根拠は、今、話したように、罪の赦しです。
罪は、人間と生きるまことの神とのあいだにある隔ての壁です。けれども、イエス様の犠牲によって、イエス様の身代わりの死によって、この人間と主なる神との隔ての壁が取り去られました。身代わりとなる方がなければ――罪のない方が代わりに死ななければ――救いの道がない。罪の赦しはないと聖書は、はっきりと言っているのです。
イエス様が十字架で死んでくださった時、イエス様は、今日、来られた一人ひとりの代わりに犠牲になったのです。イエス様の死は、人間のわがまま、過ちに対する罰、また、裁きでした。イエス様の死によって、罪は罰せられたから、今になって、聖なる主なる神は、我々の罪を赦すことができるようになったのです。
主なる神の約束を信じる者は、救われます。主の約束とは、『おいで。』『キリスト教には入れ』ではないよ。『聖書を勉強せよ』なのでもない。ありのままで私のところに来なさい。助けを求めれば、すべて十分です。
変わらないよろこびは、したがって、我々自身の中にあるのでもなく、また、私たちが持っているもの、また、周囲のものの中にあるのでもありません。ただ、イエス様ご自身の中にあります。イエス様に結びついていることが許されているということこそ、本当のよろこびを意味しています。すべての他の『よろこび』は大したものではない。過ぎ行くものであり、永遠に続くよろこびではありません。
『いつもよろこんでいなさい』とありますね。それは、主の我々に対する提案ではない。命令です。これこそが、主の思いであり、主の望んでおられることです。悲しさ、落胆、敗北感は禁じられています。主は、私たちがいつもよろこぶべきであると、強く言っておられます。この主の命令に対して、不従順な態度を取ることは、もちろん、罪です。
ニ番目の命令は、絶えず祈りなさい。祈ることこそが、人間にとって、もっとも大切です。祈ることとは、もちろん、助けを求めることです。がまんすることではない。祈らない者は、みじめです。あわれむべき存在です。祈らない者は、本当のよろこびを知らないし、実を結ばないし、用いられ得ないのです。
なぜ、多くの人は、打ちのめされているのでしょうかね?ほとんど祈らないか、ほんのわずかしか助けを求めないからなのではないでしょうか。なぜ、多くの敗北を体験するのでしょうか。ほとんど祈らないか、祈ったとしても、ほんのわずかしか助けを求めないからです。なぜ、わずかな人々しか、暗闇から主の光の中に導かれないのでしょうか。ほとんど祈らないか、あるいは、祈りが少なすぎるのではないでしょうか。
何でもできるお方は、以前とまったく同じように、今もなお、全能なる主です。以前と同じように、今もなお、人を救おうと願っておられます。すなわち、主の御手が短すぎて、助けることがおできにならないのではありません。
すべての失敗の原因は、我々の不十分な祈りの生活に他なりません。祈りによってどうしようもない我々人間は、全能なる主の力を用いることができると、聖書は言っています。すなわち、私たちが祈る時、真剣に祈ると、心から祈るとき、全能なる主は働いてくださり、奇跡を成してくださるのです。残る実は、いつも真剣な祈りの結果です。
我々の人生の目標は、いったい何でしょうかね?知恵でも、名誉でも、力でもない。永遠の実です。そして、この実は、ただぶどうの木であるイエス様と結びついている時にのみ、実を結ぶのです。主と結びついていなければ、そして、祈りの生活がなければ、後で残る実を結ぶことは絶対にできません。
絶えず祈りなさい。これは、主の望んでおられることです。主の恵みによって、祈りの人になろう!そうしたら、私たち自身、変わります。他の人々も、家族も友だちも変わります。絶えず祈ることは、自分勝手な行ないをせずに、主により頼むことです。主により頼むこととは、ありがたい、大いなる特権なのではないでしょうか。私たちが、祈るか祈らないかということは、我々にとって、どうでもいいことではない。絶えず祈ることは、主の命令です。そして、主の命令に従わないことは結局、罪です。
もうひとつ、最後ですね。『すべてのことについて、感謝しなさい』と書いてあるんです。
もし、『たまによろこびなさい。日曜日ごとに喜べ』と言われれば、なるほどと誰でも思うでしょう。けど主は、『いつもよろこびなさい』と、命令しておられます。もし、『時々、祈りなさい、少なくても朝と晩』と言われれば、誰でもが、『そうでしょう』と賛成します。けれども、主は、『絶えず祈りなさい』と命令しておられます。そして、今度は、『あるときについて感謝しなさい』と言われれば、みんな、『わかった、わかった』と、賛成するでしょう。けど、主は、『すべてのことについて、感謝しなさい』と、命令しておられます。
『すべてのことについて感謝しなさい。』すべてと書かれています。すべてのことを通して、私たちはイエス様をより良く知るべきです。イエス様をより良く知ることとは、もっとも価値のあることなので、私たちは意識して、すべてのことについて感謝しようではないでしょうか。
私たちはいつもよろこぶことができる。絶えず祈ることができる。すべてのことについて、感謝することができると思っているからではない。絶対にできないと、確信しているのではないでしょうか。
けど、私たちはイエス様の言葉を覚えるでしょう。信じています。『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません』とあります。イエス様から離れて、誰からも奪われることのないよろこびを知ることができないし、絶えず祈ることもできないし、そして、すべてのことについて、感謝することができません。無理よ。
ヨハネ伝15章の姿をごらんくださいますと、『イエス様ご自身がまことのぶどうの木であって、そして、あなたがたはその枝である』と言われました。木の幹は、その枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができます。ぶどうの幹は、力といのちが満ちています。
イエス様は、約束してくださいました。『人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は、多くの実を結びます。』イエス様から離れては、私たちは、本当の意味で、信じることも、祈ることも、悔い改めることも、愛することも、感謝することもできません。少しもできません。それは、イエス様のことばです。そして、イエス様は、何事でも大仰に言われません。
私たちは、告白すべきです。すなわち、私たちは、主の願っていることをちゃんと解かっているけど、守ろうと思っても無理。まったく、不可能です。だから、私たちは、何でもできるお方に頼る。自分たちはみじめ、貧しい者であるから、全能なる主に頼る。
主に頼ること、主に寄りかかることは、泉につらなることを意味しているのです。私たちの学ばなければならないことは、ペテロの経験しなくてはならなかったことではないでしょうか。イエス様は、彼に次のように言われました。これを最後に読んで終わりましょうか。
ヨハネ
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。
全く主に寄りかかるということが、実を結ぶこと、また、祝福された生活の秘訣、そのものです。主によりかかることこそが、まことの自由、そのものなのではないでしょうか。
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