2026年9月5日土曜日

待ち望む大切さ

待ち望む大切さ
2016年4月1日、秦野家庭集会
ゴットホルド・ベック

ルカ
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ヘブル
9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

黙示録
1: 7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

あきらめる必要はない、主は生きておられるから。生きておられるお方として、もちろん、どこでも臨在しておられ、『また来る』と約束してくださいました。御言葉である聖書は、イエス様の出現について、多くのことを言っています。すなわち、イエス様の3回にわたる出現についてです。

最初に、イエス様は人類を救うために、みどりごとして奇跡的にお生まれになりました。第2番目に、イエス様は、主の恵みによって救われた人々をご自分に迎えるために、今度はみどりごとしてではなくて、花婿として出現なさるとあります。そして、第3番目に、イエス様は、いわゆる千年王国を建てられるお方として出現なさるのです。私たちは、毎日、この3つの出現について考えるべきなのではないでしょうか。

イエス様が来られる時には、いつでも、人々は2つのグループに分けられるのです。イエス様の第1の出現について考えてみると分かります。

だいたい2千年前にイエス様はお生まれになりました。そのときに、イエス様の誕生を、本当に心から待ち望んだ人々は、そんなに多くなかった。少数の人々だけでした。初めての人間であるアダムとエバに、すでに、ひとりの救い主が与えられることが約束されたのです。それ以来、自分の救いの必要性を認めたすべての人々は、この救い主の出現を心から待ち望んでいたのです。

この約束された方の出現を待ち望んでいたすべての人々は、その方が出現された時に、その方がどういうお方であるか、ということを知ることができたのです。また、そのことを知ることができた人々は、誰でも、この方を喜んで受け入れたのです。しかし、大多数の人々は、この方、すなわち、イエス様を拒んでしまったのです。どうしてであるかと言いますと、光よりも、闇を愛したからです。想像できません。

ヨハネ
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

へりくだろうとしなかった。頭を下げようとしなかった。悔い改めたくなかったのです。これらの人たちは、心の目が暗くされていたので、自分たちがイエス様を必要としているということが分からなかったのです。当時の聖書学者、宗教的な指導者たちは、まったく無関心でした。そして、イスラエル(の民)はへりくだろう、悔い改めようとしなかったし、王様、当時のヘロデ王と言う男は何を考えたかと言いますと、この救い主を殺そうとしたのです。

イエス様を待ち望まないということ、また、イエス様を認めないということは、結局、イエス様を拒むことを意味します。そして、これほど悪いことは、他にありません。聖書全体が何回も言っていることとは、真理は求められなければならない。『求めよ。そうすれば与えられる、』と約束されています。本当にすばらしい主の約束です。

東の博士たちは、非常に遠いところから、救い主に会いに来ました。そして、それはこの人たちにとって、決して楽なこと、簡単なことではなかったのです。けど、彼らにとって、これほど大切なことは他になかったのです。だから、彼らは真剣に、真理を求めて、長い旅をし、そして、真理をついに見出すことができたのです。彼らはいったい、どのような態度をもって、主にお会いしたのでしょうか。まず、第1番目に、幼子のような信仰をもって。第2番目に、まことのへりくだりをもって。第3番目に、心からの感謝をもって、彼らはイエス様にお目にかかったのです。

幼子の信仰をもって、彼らは、イエス様が自分たちのためにお生まれになられたこと、そして、イエス様が救い主であられることを、理解はできなかったでしょうけど、素直に信じました。彼らは教養の深い人たちでしたが、これらのことを説明することも、証明することも、できませんでした。けども、彼らはこれらのことを信じたのです。

それから、彼らはへりくだった人々でした。そのことを私たちは、『博士たちが幼子の前にひざまずいていた』という、その態度の中から知ることができます。私は、自分たちの生活の中にイエス様をただちに受け入れることをしない人々の心を認めると、本当に悲しくなります。この最も大切な決定を、先へ先へと延ばしている人々のことを思うと、本当に悲しくなります。

当時の博士たちは、幼子の信仰を持ち、また、まことのへりくだりを持っていたのであり、またもうひとつ、心からの感謝をささげることができたのです。彼らの感謝のしるしとして、彼らがささげた贈り物を見ると分かる。彼らは自分たちの持てる最高のものをイエス様にささげました。私たちもまた、我々の救い主となるために、天の栄光を捨てておいでになられたイエス様の前にひざまずき、感謝しようではないでしょうか。

ルカ
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

イエス様は救いをもたらすために来られました。まことの救いを与えることがおできになるのは、確かにイエス様しかない。イエス様の救いについて、聖書はなんと言っているでしょうか?イエス様の救いには、7つの面があります。

マタイ
1:21 その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

イエス様は罪の債務からの救いをもたらしたのです。

ルカ
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

2番目、イエス様は、罪の力からの解放をもたらしたのであります。よく読む箇所です。使徒パウロの告白です。

ローマ
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

圧倒的な勝利者になる。何でもできる。3番目、イエスは、罪ののろいを取り除かれたお方です。

ガラテヤ
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

パウロはガラテア地上に住んでいる人たちに向かって書き記すことができたのです。4番目、イエス様は、『死の恐れからの解放』をもたらしたのです。

ヘブル
2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

5番目、イエス様は、『来たるべき御怒りからの救い』をもたらしたということです。テサロニケ第1の手紙、1章10節に一文章だけですけど、『やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス』という表現が出てきます。

ヨハネ
3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

6番目、イエス様は、『いつも逆らう自己からの解放』をもたらすお方です。パウロは、ガラテア地上に住んでいる人たちに書いたのです。信じる人たちにとって、もっとも大切な箇所のひとつです。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

もうひとつ、7番目ですけども、イエス様は、『今の邪悪な世からの解放』をもたらしたのです。

ガラテヤ
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。

この完全な主イエス様の救いを自分のものとして体験した人は、誰でも心から喜ぶことができます。ルカ伝1章には、3つの讃歌が載っております。ひとつは、エリザベツ。もうひとつは、マリア。そしてもうひとつは、ザカリヤの讃歌です。そして、次のルカ伝2章には、御使いの讃美、羊飼いの喜び、そして、シメオンとハンナの証しが載っています。これら全てのものは、喜びに満ちあふれているのです。全てこれらのものは、主への感謝であり、主に対する讃美です。パウロは歓呼の声をあげて書いたのです。

テトス
2:11 すべての人を救う神の恵みが現われ(た。)

御使いの知らせは、『恐れるな。見よ。すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝えるために来た。』御使いたちの知らせを聞いたときに、羊飼いたちはどのような態度を取ったのでしょうか。彼らは、『さあ、行こうよ、見てこよう』、と互いに話し合ったのであります。

羊飼いたちの態度はどのようなものであったかと言いますと、『幼子のような信仰』、そして、『直ちに従うこと』、それから、『喜ばしい確信』でした。彼らの幼子のような信仰は、彼らが、何が起こったのであるかということがはっきり分からなかったにもかかわらず、『御使いのことばに彼らが従った』ということの中に表われています。彼らはいろいろと考えることなくして、直ちに御使いに従って、大急ぎで出かけました。『喜ばしい確信』について、次のように書いてあります。

ルカ
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

最初に、イエス様は全人類、人間一人ひとりを救うために、結局、みどりごとして出現されました。第2番目に、イエス様は主の恵みによって救われた信者たちを、ご自分に迎えられる花婿として将来、出現なさるとあります。ヘブル人への手紙、9章を見ると書かれていますね。前に読んでもらった箇所です。

ヘブル
9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

このことばは、先ほど学びましたように、イエス様の第1の出現のことを書いているみことばです。主は救いを成就するために来てくださいました。マルコ伝の中の一番、大切な言葉は10章45節と言われています。

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

ヘブル書の著者も同じ事実について書いたのです。

ヘブル
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

今のことばの中に、『罪を負うためではなく』ということばがありますが、これは『罪なしで』という意味です。この言葉は、イエス様が2度目に来られるときには、罪との一切の関係のないお方として、我々のところへ来てくださるということです。けども、この場合においても、イエス様の前に、結局、2つのグループの人々に分けられるのです。イエス様が2度目に来られる時には、それは、悔い改めたくない人々を裁くためではなく、ご自分の花嫁である、からだなる教会を、ご自分のために迎えるために来られるとあります。マタイ伝の24章の中で、この二つのグループに分けられること、書き記されています。

マタイ
24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

これは、分けられる二つのグループのことを言っている言葉です。集会の中においても、どの人がどちらのグループに属しているかということは、結局、誰の目にも明らかではありません。ある人たちは確かに、生まれ変わりを体験しているように見えるかも知れないけど、実際はどうであるか、分からない。また逆に、ある人たちは、信じているかどうかがはっきりしない人たちがいるかも知れないが、このような人たちの中にも、『主が受け入れておられる』人たちがいくらでもおられるのではないでしょうか。

けども、イエス様が2度目に来られる時には、すべてこれらのことがはっきりとされるのです。そして、イエス様が2度目に来られる時に、イエス様に属しているすべての人々、すなわち、『その人の死んだ霊が、主の霊によって生き返らせられた人々』は、みな、急にその姿が見えなくなります。よく空中再臨と言われていることであります。パウロがテサロニケにいる人々に書いた箇所です。

第1テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

この祝福について、いくら考えても、考えられない。私たちは、『いつまでも』、何年間ではない、何億年でもない、いつまも、永久的に、イエス様と一緒になる。これは最高です。同じ事実についての箇所です。

第1コリント
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

どうしてここに、『聞きなさい』という言葉が使われているのでしょうか。それは、『今まで以上に、待ち望みの生活をしなさい』という意味でしょう。いま、イエス様を待ち望んでいない人々は、不従順な人です。そして、不従順は罪です。第2番目に、『今まで以上にイエス様に喜ばれるような生活をしなさい』という意味です。それは、自分自身の気に入るようなことだけをするのではなく、また、人の気に入られるようなことだけをするというのではなく、『ただ、主のみこころにかなうことだけをしなさい、』という意味です。だからパウロはガラテヤ地方に住んでいる兄弟姉妹たちに書いたのであります。心からのパウロの証しでもあり、告白です。

ガラテヤ
1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

本当にパウロのすばらしい告白であり、証しなのではないでしょうか。パウロは本当に主を喜ばせたいと切に望んだのです。今までより以上に、まだ救われていない家族、親戚のために祈り、かつ、戦いなさいという呼びかけです。イエス様は我々に答えようとなさっておられます。けども、我々の祈りに対して、答えようとされています、祈らなければ主は答えられません。

ですから、いつも思うことを言っているのです。天国に行って最高、けども、誰でも、後悔すると思う、生きている間にもっと祈ったら・・・。主は、もっともっと奇跡を成そうと思ったけど、祈らなかったから主は何もできなかった。祈ること、助けを求めることとは主の命令であり、主の望んでおられることです。『イエス様への待ち望み』が、私たちの毎日の生活を決定するものでなければならない。私たちが救われたことの理由のひとつは、なんでしょう?イエス様を待ち望むことです。

第1テサロニケ
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

このテサロニケの信じるものとは、結局、主の喜びだったでしょう。彼らは、この態度をとったから用いられる器となったに違いない。イエス様が2度目に来られる時には、多くの人々が後に残され、歯噛みをすることになると聖書は言っています。いわゆる『引き上げられる』体験を、今まで二人くらい経験したんじゃないかね。ひとりは、エノクという男です。ヘブル書を見ると彼について次のように、書き記されています。

ヘブル
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

人々は当時、必死になってエノクを捜したんですけど、エノクは見つけ出されることはなかったのです。死を見ないで、墓を見ないで、そのままで天国に行くようになった。もうひとりは、エリヤという預言者でした。聖書は次のように言ってます。

第2列王記
2:15 エリコの預言者のともがらは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている。」と言い、彼を迎えに行って、地に伏して彼に礼をした。
2:16 彼らはエリシャに言った。「しもべたちのところに五十人の力ある者がいます。どうか彼らをあなたのご主人を捜しに行かせてください。主の霊が彼を運んで、どこかの山か谷に彼を投げられたのかもしれません。」するとエリシャは、「人をやってはいけません。」と言った。
2:17 しかし、彼らがしつこく彼に願ったので、ついにエリシャは、「やりなさい。」と言った。それで、彼らは五十人を遣わした。彼らは、三日間、捜したが、彼を見つけることはできなかった。
2:18 彼らはエリシャがエリコにとどまっているところへ帰って来た。エリシャは彼らに言った。「行かないようにと、あなたがたに言ったではありませんか。」

エリヤも人々が探したけど、見つけることができなかったんです。主なる神がエリヤを取り去られたからです。これと同じように、すべての主の恵みによって救われた人々が、一瞬のうちに取り去られる時に、後に残された人たちは、これらの人々を捜し求めることになる。けど、ついに見つけることはできません。その時に、多くの人々は、自分の人生について、また、取り去られた自分の妻や両親、あるいは子供たちのことについて、真剣に考えるようになるでしょう。

今は救いの時です。もし、今、主イエス様を自分の救い主として受け入れるならば、これからでも、新しい人生、また、永遠のいのちを得ることができます。イエス様は、いわゆるお別れの言葉の中で次のように言われました。イエス様の別れの言葉は主にヨハネ伝の14章、16章、17章に書き記されています。

ヨハネ
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

御言葉に書かれています。

第1テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

イエス様は告白しました。祈りの中です。イエス様の祈りはあちこちに書かれていますけど、一番よく知られている祈りはおそらく、ヨハネ伝17章じゃないでしょうか。ヨハネ伝17章24節を見るとイエス様は祈ったんです。頼んだんです。

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。

前に言いましたように聖書は、イエス様の出現について、いろいろなことを書いてます。最初に、イエス様は全人類を救うため、みどりごとして出現されました。2番目、イエス様は、主の恵みによって救われた人たちをご自分に迎えられる『花婿』として出現なさいます。そして第3番目に、イエス様は、いわゆる、『千年王国』を建てられるお方として、出現なさるのです。もう一回、マタイ伝に戻ります。

マタイ
16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

この第3番目のイエス様の出現の場合には、『見よ』ということばが書かれています。

黙示録
1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

その時、イエス様はみどりごとしてではない。花婿としてでもない。約束された『メサイア』として来られるのです。すなわち、イエス様に捕らえられた人々、イスラエルの民にとって、イエス様は約束された救い主として来られ、しかし、すべての悔い改めたくない人々信じたくないひとたちに対しては、イエス様は裁き主として来られます。その時、すべてのユダヤ人は、国民として、イエス様をメサイアとして認めるようになり、受け入れるようになるのです。彼らにとっては、イエス様は喜びであり、救いであり、勝利となるのです。だから、国民としての輝かしい将来を持つ国は、イスラエルしかない。

将来の世界の一番よく知られている、望まれている街とは、ベルリンでもない、ニューヨークでもない、東京でもない、エルサレムになります。信じたくない、悔い改めたくない人々にとって、イエス様はもっとも恐るべき方なのではないでしょうか。

黙示録
6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

これは、恐るべきほら穴の中での祈りです。まったく、役に立たない祈りです。何故なら、これらの人たちは、救いの時に祈ったのではなくて、裁きの時に祈っているのです。これは、『時すでに遅し』と言うべきです。彼らは祈っておりますけど、それは、救いの神への祈りではなく、山や岩に向かう祈りです。従って、それは何の役にも立たない。彼らはなぜ、祈っているのでしょうか。彼らは、小羊である主イエス様の御怒りを恐れているからです。また、彼らはイエス様の裁きを恐れているからです。けど、この祈りは誰からも聞いてもらえません。

イエス様は大いなる御力と、栄光のうちに、再びおいでになります。ひとたび、イエス様とともに引き上げられた、からだなる教会は、イエス様とともに、一緒に来るようになります。エルサレムはその時、世界の首都となります。いわゆる千年王国の特徴は、正義、平和、幸福、長いいのちと健康、物質的な幸せ。のろいは自然から取り除かれるのです。世界の国民の望んでいる事柄は、すなわち、イエス様の再臨によってのみ、完全に成就されます。最後にパウロの証しを一緒に読んでみたいと思います。

第2テモテ
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われ(主の再臨)を慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

私たちもパウロのように言うことができるのでしょうか?私たちもまた、主の現われを本当に心から慕っているのでしょうか。このことに、正しい審判者である主イエス様が、いかなる判断を我々のうえに下してくださるか、ということが掛かっているのです。

マタイ
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』

ここで、私たちはひとつの招きと、ひとつの裁きとを見ることができます。従って、ここでも人々は2つに分けられるのです。今日でもイエス様のところに来て、イエス様を受け入れる人々は、主のこの招きにあずかることができます。けど、自分の道を変えないで進もうとする人、何があっても悔い改めたくない人々は、イエス様のこの裁きを受けることになります。

待ち望む大切さについて、聖書にはたくさん書いてあります。イエス様は、また来ます。過去において、イエス様はみどりごとして全人類を救うために来られました。そして、近い将来、イエス様は今度は、みどりごとしてじゃなくて、花婿として、信ずる者を迎えるために来るようになります。そして、ずっとその後で、イエス様はまた来る、メサイアとして、千年王国を立てるために来られるようになります。我々にとって大切なのは、イエス様の再臨を待ち望むこと。遠くないと思います。今晩かもしれない。ですから、もうちょっとでイエス様は来られると毎日、考えると不安から、心配から解放されます。

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