2016年4月3日日曜日

私はよみがえりの主に出会いました

私はよみがえりの主に出会いました
2016年4月3日、大洗よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。


20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

ここまで来ると、いつも、ちょっと懐かしいと、思っているんです。なぜならば、61年前に、隣の那珂湊に住むようになり、那珂湊にも、日立にも、土浦にも、この大洗にも集会を持つ恵みに預かるようになりました。もちろん、そのときは舗装された道はなかった。全部、砂利道で、いつもホコリだらけだったんです。

主は生きておられる証拠でしょう。今日、このようにして、一緒に集まることができるのは。確かに、私たちはいつも、喜びの集いといいます。どうして?集まっているのは、悩んでいる人ばかり。孤独病にかかっている人々ばかりではないでしょうか?どうして、喜びの集いと(いうかと)言いますと、悔い改められるからです。へりくだれば、OK。イエス様の一人の弟子、ヤコブは聖書全体のことをうまく、まとめて言ったんです。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与える(ヤコブ4:6)。』へりくだれば、主にとって十分です。だから、悔い改められるから、喜びの集いというようになっています。

先週、また、バンクーバーだったんですね。バンクーバーだったら、いつも、いろいろな人に会えましょう。ちょうど、いつも、私の誕生日になっちゃう。毎年、一人の姉妹はみんなのために、ケーキを作るんです。このくらいの・・・すごい!あの姉妹の名前を、ぜひ、覚えて祈ってもらいたい。弘美姉妹。

彼女は日本人ですし、ご主人はたぶん、イギリス人だと思いますけども、別々に住んでいます。彼は、毎日、(家に)帰るんですって。子供に会いたい、犬と散歩したいから。けど、奥さんとは挨拶しません。つらい。けども彼女は、やはり、主にあって、いつも喜んでいるのです。彼女もやはり、ダビデの祈りを捧げる姉妹です。ダビデの祈りとは詩篇です。

私も前によく言ったのは、マタイ伝から読まないほうが良い。難しい。系図ですし、我々にとっておもしろくない。ユダヤ人にとっては、もっとも大切です。後で、『マルコ伝を読んだら?』と、思っちゃったけど、最近は、詩篇を読んだら(と薦めます)。詩篇を読んで祈れば、祈りながら詩篇を読めば、光が差し込んでくる。安心して、また、前向き生活することができるのです。

日本のカレンダーを見ても、おそらく、イースター、イエス様の復活祭のことは書いてないんです。向こうで調べたんです。アメリカのカレンダーにも書いてないんですって、最近。いったい、どういうことですか?カナダのカレンダー、ドイツのカレンダーには、ちゃんと書いてあります。イエス様がよみがえられなければ、もうお終いよ。もう何の望みもない。ですから、この復活なさったイエス様との出会いこそが、もっとも大切です。それは可能であり、必要であり、大切です。

いわゆるよみがえりの書があります。コリント第一の手紙の15章です。2~3節、読みましょうか。

第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、

パウロは、『人間がどう思っているか、何を考えているかは、別にどうでもいい、聖書はなんと言っているか』、という態度を取ったから、ここでも二回、『聖書の示すとおり』、『聖書に従って』、という表現が出てきます。

15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

ケパとはペテロだったんです。

15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ここで、パウロは喜んで言えたのです。『キリストは、私にも、現われてくださいました。』

昔、何十年前だったか、分からないけど、ソ連、ロシアでは、復活祭がどんなぐあいにお祝いされたかと言いますと、主のよみがえりを讃える教会の鐘は、一週間のあいだ、町々に響き渡り、人々は、喜びに胸をはずませて、イエス様を賛美し、町で会うと、『こんにちは』のかわりに、『主イエスはよみがえった』という言葉をかけます。

その返事として、『まことに主はよみがえった』と、言いました。実に喜びにあふれた、活気に満ちた町々でした。それだけではない。40日後の昇天記念日まで、いつも、床にひざまずいて祈った習慣のあるロシアのクリスチャンたちは、よみがえりの喜びのあまり、その40日間は立ったままで祈ったということです。

また、このよみがえりから昇天までの40日間のあいだに誰かが死ぬと、墓の周りで悲しい賛美歌は歌いません。死に打ち勝ちったイエス様を讃える、よみがえりの歌を歌ったということです。

我々にとって、大切なのは何でしょうか?新しく、よみがえりのイエス様にまみえ、新たにされることなのではないでしょうか?

パウロは、『イエス様は、最後に私に現れた』と言って、よみがえりの主イエス様にお会いした喜びを書いてます。私たちも、主に新しく会いたいのではないでしょうか。パウロはなぜ、イエス様を信じるようになったのでしょうか。理屈で攻められ、納得させられたからではない。脅かされて、強制させられたから、イエス様を知るようになったのでもありません。

パウロは、よみがえりの主にお会いしたから、それから、彼の人生そのものは根本的に、よみがえられた主に変えられたのです。よみがえりの主こそが、パウロにとって、すべてのすべてになりました。私たちが、さし迫って必要としている愛は、やっぱり、新しい主なる神の愛なのではないでしょうか。

よみがえられたイエス様を拝した3人の人々をちょっと考えて見ましょうか。第1番目、ペテロです。2番目、トマスと言う弟子です。そして、3番目、ヤコブと言う男です。

復活なさったイエス様に出会ったペテロは何を得たでしょうか?御言葉を見るとはっきり分かります。すなわち、新しい信頼を得られたのです。イエス様のよみがえりは、ペテロのすべてのすべてとなりました。

もし、イエス様がよみがえられなかったならば、ペテロはどうでしょうか。もう想像できません。ペテロはイエス様を公然と否認しました。『私はイエスを知らない。何のことか分からない』と、愛するイエス様を裏切ってしまった。

3年半イエス様と一緒に生活したでしょう。ほんとに、とんでもないずるい男でした。彼はとくに、今、話したようにイエス様のそば、近くを歩み、3年半、イエス様に愛されるという特権にあずかり、色々な忠告をイエス様の御口から聞くことができたんですけど、それにもかかわらず、『私は決してイエスを知らない。』決して、イエス様を捨てないと、言っただけじゃなく、誓ったんです。ペテロは、イエス様を否んでしまいました。

否んだイエス様は、十字架で亡くなられたのです。地上でこのペテロを助ける者はもちろん、誰もいない。よみがえりの主イエス様だけが、ペテロを助けることができたにちがいない。

マルコ
16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

よみがえられたイエス様は、助けを送り、ご自分のよみがえりを弟子たちに告げましたとき、とくにペテロの名前をあげたのです。『イエスはよみがえった。今から弟子たちとペテロの所へ行ってこう伝えなさい』と、言われました。

ペテロはイエス様を否んだまま、イエス様に死なれたので、まったく、打ちのめされていました。『弟子たちとペテロ』と、ペテロの名前を特別につけて、名指しで呼ばれなければ、ペテロはもう駄目になったに違いない。決して、立ち上がれなかったでしょう。

他の弟子たちは、『たぶんペテロは主を裏切ったから、もう我々の群れには縁のない者だ』と、ペテロを軽蔑していたでしょう。ペテロが主イエス様を否んだから、他の弟子たちはペテロを指導者として仰ぐことをやめたにちがいない。ペテロは結局、信頼を失っちゃった。ペテロが主イエス様を否んだから。他の弟子たちはペテロをもちろん、指導者として信頼することができなくなってしまったんです。このペテロに対する疑いを解くために、『弟子たちとペテロ』と、ペテロの名前を特にイエス様は、付け加えられたに違いない。

私たちはペテロと同じではないでしょうかね。ペテロは我々のあいだで、例外ではなく、当たり前のことのようになってはいないでしょうか。もし、私たちが、よみがえりの前の土台に立っているならば、何か大きな苦しみがあれば、もう大変です。

私たちは、偽りやすい自らを信頼することは絶対にできません。前に決心し、誓っても、イエス様への決心はいつしか崩れ、裏切るといった結果になってしまったのです。ペテロは指導者となるべく、主イエス様から召しを受けました。

けど、今、ペテロはイエス様を否み、イエス様の弟子であるかどうかさえ、疑われています。イエス様のよみがえりは、ペテロをどん底から救い出しました。ペテロは、元のペテロになったんです。他の仲間の目にも、ペテロは見事な立ち直りを見せたのです。

ペテロはイエス様を否むという悲しむべき出来事を通して、自らの真相を知ることができました。主を否んでから、イエス様がよみがえられるまでの3日間は、考えられないほど、ペテロにとって暗い日々でした。

このペテロにとっては、この3日間は確かに夜でした。けど、この真っ暗闇を通される必要があったんです。もし、ペテロに、よみがえりの主が現れてくださらなかったならば、ペテロは絶望に、立ち上がることができなかったでしょう。私たちも、イエス様に用いられるためには、ペテロと同じ体験をしなければならないのだと思います。

私たちは、自我に満ちた生活をやめ、主なる神に生きる、よみがえりの土台に立たせられることができたら、本当に幸いです。よみがえりの主はペテロに現れ、二人で何を話したのか、分かりません。けども、ペテロは変えられました。

ルカ
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。

この箇所を見ると、言えることはイエス様は、シモン・ペテロと親しくお話になったことだけは、よく分かる。イエス様とペテロは、何を話されたか、もちろん、知る必要はないし、知る由もありませんが、私たちはペテロと同じように、主に対して不真実であり、不信頼に満ちた心の持ち主であることを、教えていただかなければなりません。

それを教えられて初めて、後で見事に立ち直ったペテロと同じようになることができます。ペテロは火を通された後、自分にゆるがない、その名前のように岩のようなキリスト者になりました。ペテロは多くの人々の信頼を受けるにたる信者に変えられたのです。

よみがえりの主は、ペテロを新しくし、ペテロは主イエス様に対する新しい信頼を持ち、また、多くの人々に信頼される人へと造り変えられました。我々が差し迫って必要なのは主に対する、新しい『より頼み』ではないでしょうか。『何があっても主に任せます。』私のために、信頼するイエス様に任すともう、楽になる。

復活なすった主に出会ったトマスについて、ちょっと考えましょうか。トマスと言う男は、新しい信仰を与えられました。彼は、もともと、疑問に満ちた疑い深い性質の持ち主だった。一箇所見てみます。

ヨハネ
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

他の弟子たちは、よみがえりをの主を知って、喜び、これを仲間のトマスに言いました。彼は頑として信じようとしなかった。個人的な疑いは、イエス様に親しくお目にかかるまで、たしかに解けません。聖書を読んでいきますと、よみがえりの主は、疑い深いトマスのために、わざわざ、もう一度、現れてくださったことが分かる。何という恵み深い主でありましょうか。

『自分のこの指をイエス様の手と足とわき腹の傷にさしてみないうちは、イエス様のよみがえりを信じることができなかった』と、言っていたトマスは、目の前に現れたイエス様の御姿を拝した時、指を傷にあてるどころか、ただ、その場にひれ伏して、イエス様を拝したと聖書は告げています。

疑い深いトマスがこんなに、変えられたのは、驚くべきことです。彼は、まことの礼拝者に変えられました。彼は疑惑に満ちた者でしたが、『新しい光が与えられたら、この疑惑は解けるのだが・・・・』と、絶えず光を求めていました。けど、イエス様は、なぜもっと早くトマスに現れなかったでしょうか?

それは主のせいではなくて、トマスのせいでした。他の弟子たちと一緒にいなかったからです。もし、トマスが兄弟たちのところに帰ってこないで、そのまま自分の道を歩んでいたならば、イエス様に会うことができなかったばかりか、想像できない悲しい結果になったでしょう。

イエス様は救われた者の一人ひとりの頭であるばかりでなく、信じる者の群れ、すなわち、ご自分のからだなる教会の頭です。ですからイエス様は、兄弟姉妹が、共に集まり、御名を賛美しているところに、ご自分を現される場合が多いのです。疑いは、そんなにひどく悪いことではない。トマスは疑った。けど、正直な男でした。彼はイエス様のよみがえりを信じることができなかったから、自分を偽らず、はっきり、自分は信じられないと告白しました。

多くの人々は、信じられないのに、あたかも信じたかのように自分を偽って進みます。トマスは、これらの人たちより、も、ましだったんじゃないでしょうか。私たちは、それぞれが問題を持っています。また、これは、今からも持つでしょう。その中には、よみがえりのイエス様が現れてくだされなければ、どうしても解決できない問題にぶつかることが必ずあると思います。

そのような時は、トマスのように、心から新しい光を求めましょう。そうすれば、必ずよみがえりの主が問題を解決してくださいます。トマスは、新しい光を求めて、それを受ける備えをもっていました。彼は、イエス様を信じる仲間に入って、いっしょに先へ進むことを拒まなかった。

彼は疑いながらも、交わりに加わっていました。そして、イエス様がトマスに現れた時、トマスはイエス様の前にひざまずきました。我々の過去を振り返ってみると、本当にイエス様に対する不信仰者であり、主を悲しませた者であることが分かる。私たちが、一番必要としているもののひとつは、よみがえりの主、復活なさったイエス様にお会いして、新しい信仰をいただくことではないでしょうか。

今度は、ちょっと、ヤコブについて、考えてみたいと思います。コリント第一の手紙15章7節、『その後、ヤコブに現われた』と、書いてあります。このヤコブは、肉体的にイエス様の弟でした。

後に、このヤコブは、『義人ヤコブ』と言われるようになり、エルサレムの教会の監督のひとりとなったのです。彼の書いたヤコブ書を読むと、彼は、正しさ、義を強く、強調した男だったのであります。このヤコブが長い間、心に持っていた悩みは、まことの義を自分は持っていないで、自分の持っている義は、おきての義、自分の義だけだということでした。彼は生まれ落ちるなり、神の御子であるイエス様を兄として、いっしょに暮らしていながら、イエス様を批判し、最後にはイエス様を拒んだのです。

たぶん彼は、イエス様がどうしようもない罪人といっしょに食事をし、人間によって作られた掟を守らなかった。安息日を守らなかったし、聖書学者たちと同じように、主を拒んだにちがいない。

ヨハネ
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

ヤコブは、イエス様の生きている間にイエス様を信じませんでした。このイエス様を受け入れなかったヤコブは、ついにイエス様を受け入れる時がやってきた。イエス様は、今、十字架の上で苦しんでおられます。苦しみの中からイエス様は、弟子ヨハネに向かって、『ヨハネよ。見よ、これはあなたの母である』と言って、ご自分の肉体の母マリヤを弟子のヨハネに託されました。続いて、お母さんのマリヤに向かい、『女よ。これは汝の子だ。』と言ってヨハネに生涯の面倒をみてもらうように、話されたのです。

イエス様はなぜ、ご自分の母を、実の弟であるヤコブに託さないで、ヨハネに託したのでしょうか。たぶん、ヤコブは、始めからイエス様を信じていた母親のマリヤと仲が合わず、離れていたからでしょう。自分を産んでくれた実の母を、自分に任せられず、他人の手に委ねなければならないとは、なんというひどい、悲しいことでしょう。これは、己を正しいとする罪の結果です。

自分を義とする結果は、いつも悲劇的そのものです。当たり前のこの世の人々でさえ、信仰のゆえに自分の母を見捨てるなどということはしないでしょう。けど、自分を義としたヤコブは、母を見捨てました。ヤコブはこのように、己を正しいとする人間だったのです。

パウロは、コリント第一の手紙15章に、よみがえりのイエス様が、誰と誰と誰に現れたか、順序を追って書いていますけど、ヤコブの名前は後のほうに書かれています。イエス様は、己を正しいとするヤコブより、先にどうしようもない罪人や収税人に現れたのです。けど、ヤコブの身についに奇跡が起こった。ヤコブは、自分が正しいとすることは、何の役にも立たない、むしろ、妨げになることを悟り、イエス様の前に砕かれて、新しい義をいただきました。多くの人々は、己を義とし、めくらになり、かつてのヤコブのように、悲惨な状態に陥っています。

よみがえりのイエス様だけが、自分を義とするところから、ヤコブを解放することができたのです。私たちも、よみがえりの主であるイエス様に新しくお会いすることによってのみ、ヤコブと同じような新しい義を受けることになり、義人と呼ばれるようになります。

最後にパウロは、イエス様が自分に現れてくださったことを記しています。

第一コリント
15:8そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

パウロはよみがえりの主イエス様を愛した。新しい愛、新しい信仰、新しい義を受けました。私たちもパウロのように、『そして最後に、復活なさったイエス様は私に現れたのです』と、喜びをもって言えるようになったら、本当に幸いです。よみがえりの主イエス様にお会いしたら、私たちの生活は、根底から変えられるようになります。イエス様は我々に、よみがえりのいのち、よみがえりの力を与えるために、死より、よみがえってくださいました。

主イエス様が与えてくださるよみがえりの力を受ける時、そこから新しい愛と信仰と信頼が湧き出てくるのです。私たちは、コリントの兄弟たちがそうであったように、理論ではなく、実際に、主イエス様の御前にひざまずき、砕かれ、主の備えられたよみがえりの力を受け取りたいものなのではないでしょうか。イエス様が、もし実際によみがえったのなら、イエス様のよみがえりのいのち、また、イエス様のよみがえりの力は、我々に、我々のために備えられ、隠されています。

このよみがえりのいのちは、我々の生まれながらのいのちと全く性質の違うものです。このいのちは、ペテロ、トマス、ヤコブ、また、パウロの内に宿ったいのちであるばかりでなく、我々の内にも宿っておられる主イエス様のよみがえりのいのちです。復活なさった主イエス様に出会うことこそが、考えられないほど大切です。

ペテロにとって、何を意味していたかと言いますと、彼は新しい信頼を受けたのであり、トマスは新しい信仰を与えられるようになり、そして、今話したように、ヤコブに新しい義を授けられた。私たちが心からパウロのように、いうことができれば本当にありがたいと思います。パウロは何と言ったかと言いますと、『よみがえりの主は、最後にこの私に現れた』と言うことができたのです。私たちも同じように言うことができれば、本当に感謝だと思います。

おわり

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