2016年3月27日、バンクーバーよろこびの集い
ゴットホルド・ベック
(日々の歌138番)
普通の教会では、洗礼を受けるように勧められます。会員を作るため・・・・会員になったら、毎日曜日、礼拝に出なくちゃならない。教会の中で、奉仕しなくちゃいけない。それから、献金しなくちゃいけない。結局、洗礼を受けることによって、束縛されます。不自由になります。間違った罪悪感を持つようになります。全部、おかしい。
それでは、どうして私たちは、洗礼式をやるのでしょうか?
救われるために、救われたのじゃないから。主に用いられるためにです。そして、今日のYのバプテスマも、ひとつの証しです。救われるためじゃない。もうすでに救われちゃったよ。
けども、イエス様は、救われた人々を用いようと望んでおられます。地獄へ行く人々の多くは、文句を言うと思うよ。生きているあいだに洗礼を受けたのに、地獄へ行ったのはけしからん。天国へ行く人の大部分は――皆さん、すごいじゃないの――洗礼を受けなかったのに、天国へ入っちゃった。
「洗礼」とは、「救い」と関係ないのです。イエス様をほめたたえるためのものです。
結局、愛するY姉妹も、『イエス様はすごい。イエス様のために生きたい』と思うようになったから、ありがたい。自分でできないのは決まりだよ。けども、イエス様は――お出で!わたしは導き手です――必要なものを必ず与える者です。ですから、洗礼を受ける愛するY姉妹は、ちょっと、一度だけ水の中にもぐります。このように、イエス様もわれわれのために死に行かれ、われわれの贖いのために、代価を払ってくださいました。また、洗礼を受ける愛するY姉妹は、水の中に沈められます。つまり、ちょっとだけ見えなくなる。このように、イエス様は葬られ、ちょっと見えなくなってしまったのです。また、洗礼を受ける愛するY姉妹は、水の中から上げられます。このように、イエス様は、死からよみがえられたお方です。死に打ち勝ったお方です。
イエス様は生きておられます。
イエス様を信ずる者とは、結局、イエス様が生きておられる証拠、そのものです。だれも、私は勉強したから、理解できたから救われたとは言えません――よほど、メクラにされていなければ――。どうして信ずるようになったのか、どうして救われたのか、結局、わからないよ。主が憐れんでくださったからです。
ですから、今日、洗礼を受ける愛するY姉妹は、『イエス様が自分のわがまま、自分の罪を取り除いてくださった。イエス様は、自分の罪の問題を解決してくださった。イエス様を信じたい』と、思うようになりました。
イエス様は、結局、自分の心の目を開いてくださった。したがって、誰も、どうして信ずるようになったか言えないよ。イエス様が、あわれんでくださったから。ほむべきなのはイエス様だけです。
結局、あらゆる人間は、わがままで、主なる神から引き離されたものです。そして、主なる神からの分離は、孤独、そして、喜びのない状態を意味します。けども、愛するY姉妹が、『イエス様は、私の心の目を開いたから、ありがたい。今から私は、自分のためじゃなくて、イエス様のために生きたい』と、望んでおられるから、本当にありがたい。
彼女がすごいんじゃないよ。イエス様がすばらしい!
このイエス様を紹介することが、今日のバプテスマの意味でもあります。
(日々の歌210番)
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