2016年4月12日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
マルコ
10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
今、読んでもらいました記事を通して、いかなる時にも、決して動揺なさらないイエス様と、それと本当に対照的に、恐れおののきやすい弟子たちの気持ちを知ることができるのではないかと思います。次の点について、考えたいと思います。
第一番目、堅く立って動かされないイエス様の態度についてです。イエス様は、まず、すべてをご存知であり、次に、動揺せず、恐れないお方であり、そして、三番目、へりくだって、人に仕えるお方でした。弟子たちについて、何を言えるかと言いますと、弟子たちとは、何も理解しない者であり、驚き恐れる者であり、また、高慢と支配欲に満ちた者でした。考えられないほどの差がありました。
マルコ
10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
イエス様は、もちろん、前もって全部、詳しく、ご存知でした。イエス様は、ご自分に定められた十字架への道を前進されようとしましたけど、その時、弟子たちは、恐れおののいたと、聖書に書いてあります。弟子たちは、何も理解できませんでしたし、恐れおののいておりましたし、また、一方、彼らの心には、傲慢と、自分が人よりも上に立ちたいという気持ちがありました。それに対して、イエス様はすべてをご存知であり、どのような場合にも、堅く立って恐れることのないお方であり、へりくだって、人々に仕えてくださるお方でした。
マルコ
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子(・・・・であるわたし・・・・)を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
私たちは、明日のことでさえも解らない者ですけども、イエス様はご自分の上に為されようとしている事柄を、ひとつひとつ全部、ご存知でした。イエス様は将来に起こる事柄を、何か漠然としたかたちで知っておられたのではない。ひとつひとつを、明確にご存知でした。ここで、ヨハネ伝から、二、三箇所を見てみましょうか。
ヨハネ
6:64 「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――
したがって、三年間、このような弟子たちと一緒に過ごすのは、考えられないほどの苦しみだったでしょう。
ヨハネ
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられた・・・・
19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
イエス様は、ご自分が苦しみを受け、十字架上で死ななければならないということを、つぶさに知っていました。けれども、イエス様が、そのことを口になさる時には、不思議にも、一度として、悲しみの口調では語られなかったのです。イエス様がこの世に来られたご目的は、多くの人々のための贖いの代価として、ご自分の命を与えるためだったのです。イエス様は、その御業を、半ば終えられて、今や、十字架にお架かりになるために、エルサレムへの途上にありました。
エルサレムとは、イエス様にとって、人々に退けられ、辱めを受け、苦しみを受け、十字架を担い、そこで死ななければならない土地であることを示しています。けれども、イエス様は、この途上において、弟子たちに対して、ご自分の決意を語られたのです。
ルカ
9:51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ(た。)
イエス様は、いかなる時にも、ヨブ記、11章15節に書かれているように、堅く立って恐れることがありませんでした。
【参考】ヨブ
11:15 そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。
イエス様は、ご自分の命を多くの人々のための贖いの代価として、捧げることをよくご存知であり、またそのことを心から望んでおられました。マルコ伝の中心なる言葉は、10章の45節なのではないかと思います。
マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
イエス様が、弟子たちの上に望んでおられたことは、弟子たちが人々をすなどる漁師にすることでした。そのためには、徹底的に自分自身を知ることが要求されます。イエス様は、弟子たちとは、全く違った御心をお持ちでした。また、イエス様の御目的と、弟子たちが心の中で願っていた目的とは、全く違ったものでした。それゆえ、まず、弟子たちは自分自身の心の状態に、目を開かなければならなかったのです。弟子たちの心の奥底に潜んでいるものが、明るみに出されなければなりませんでした。
申命記
8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
イエス様は、まことの意味で偉大であるということは、どういうことであるかということをお示しになりました。そして、人々の下に立ち、人々に仕えて、自分のいのちを人々のために捧げなければならないということを、お教えになりました。そして、その模範をご自分がお示しになったのです。イエス様は、しもべの形をとって、この地上を歩まれ、その成してくださった御業は、しもべの業、そのものでした。
マルコ
10:45 人の子(・・・・であるわたし・・・・)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
イエス様は、どういうふうに仕えたのか、どういう心構えを持っていたのか――ヨハネ伝13章を見ると、次のように書かれています。有名な箇所です。
ヨハネ
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
ピリピ人への手紙の中でも、その事実について、説明されています。
ピリピ
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
少しの躊躇も動揺もなく、イエス様は、エルサレムへの道を、まっすぐに歩み始められました。私たちもまた、ちょうどこの主イエス様のように、我々の人生の目的を、充分にわきまえて、歩みたいものなのではないでしょうか。
申命記
5:32 あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。
ヨシュア記の中に、同じような勧めの言葉が書き記されています。
ヨシュア
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
似ている箇所は、たくさんあります。
箴言
4:25 あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
4:26 あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。
4:27 右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。
エゼキエル
1:12 彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。
そして、イエス様は、当時の弟子たちに言われました。
ルカ
9:62 ・・・・「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
パウロも、いわゆるよみがえりの書の中で書き記したのです。
第一コリント
15:58 ・・・・私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
また、パウロも、コリント地方にいる方々を励ましたのであります。
ガラテヤ
5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
ペテロも、当時の信じる者を励ましたのです。
第一ペテロ
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。
それから、パウロはまた、ピリピにいる兄弟姉妹に書いたのです。
ピリピ
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
イエス様だけではなく、本当の意味で主に従う者も、同じ態度を取るべきなのではないでしょうか。すなわち、少しの躊躇も、また、動揺もなく、目標を目指して走るべきです。
弟子たちの態度とは、いったいどういう態度だったのでしょうか。前に言いましたように、恐れおののく態度でした。従うことを躊躇する弟子たちだったのです。弟子たちについて、何を言えたかと言いますと、弟子たちは、何にも理解しない者であり、驚き恐れる者であり、また、高慢と支配欲に満ちた人々でした。前に話したように、イエス様は、弟子たちの思いとは、全く違うものでした。イエス様のとられた思いと、いわゆる弟子たちの態度とは、全く対照的でした。弟子たちは、驚き、動揺し、イエス様の後について行くことを恐れたのです。イエス様は、弟子たちに先立って歩まれ、彼らの模範を示されました。けれども、弟子たちは、驚き、また、恐れました。もう心配で、いっぱいでした。
弟子たちは、イエス様に出会い、主イエス様が、神の一人子であるということを、もちろん、確信したのです。そして、すべてを捨てて、このイエス様に従うようになりました。彼らはイエス様と共にいて、実に、たくさんのことを経験しました。何千人とも知れない人々がイエス様のみことばを聞こうとして、御許(みもと)に集まってきました。そして、何千人とも知れない人々がイエス様によって、食事を与えられました。また、御許に運ばれてきた病人たちは、みな例外なく、完全に癒されました。当時のパリサイ人たちは、何とかしてイエス様を陥れようとしましたが、いつでも敗北せざるを得なかったのです。悪霊でさえも、イエス様を神の御子であると証しし、死人もよみがえらされました。
弟子たちは、イエス様を信頼しておりましたし、彼ら自身、多くのことを経験しました。多くの奇蹟をその場で見ました。弟子たちは、三年間、イエス様と行動を共にし、また、この方こそ、約束された救い主であるということを知るようになり、確信するようになりました。けれども、イエス様は、全く唐突に、ご自分の十字架について、お語りになりました。イエス様は、御顔をまっすぐにエルサレムに向けられました。それまでのイエス様は、弟子たちと親しい友だちのように交わりましたが、その時のイエス様は、今までと違って、全く別人のように見えました。弟子たちは、もはや、イエス様の御心をおしはかることができませんでした。それゆえ、彼らは驚き、恐れたと、聖書は言っています。けれども、イエス様は堅く立って、動かされることがなく、十字架への道を歩み出されました。それゆえ、イエス様は、弟子たちにとって、その時、見知らぬ他人のようになられました。
主イエス様の御心は、弟子たちの考えとは、全く違うもの、異なっていました。弟子たちは、彼らとイエス様とのあいだには、大きな隔たりがあるということに、気づかざるを得ませんでした。私たちは、ところで、このことをすでに体験しているのでしょうか。私たちが突然、イエス様について理解することができなくなり、導きの道が何であるか分からなくなり、私たちの心は、闇の中に閉ざされ、驚きと恐れに満たされるということが、往々にしてあります。
このような時、私たちは、預言者ミカがとった態度を取ることができれば、本当にありがたい、幸いなことです。
ミカ
7:7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。
7:8 私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。
すばらしいミカの告白です。もし、私たちが、この態度を取るならば、主に従うことは、大きなよろこびとなります。
イエス様は、本当の意味で偉大な者とは、どのような者であるかということを語り、それは、人々に仕える者であり、自分のいのちを捧げる者であると言われたのです。弟子たちが考えていた偉大さは、主の考えとは、全く違うものでした。つまり、それは、人々の上に立ち、権力を持ち、人々が自分に仕えるようになることだったのです。
イエス様がご自分を十字架についてお語りになる度に、弟子たちとイエス様との決定的な違いが、明らかになったのです。そして、弟子たちは、その度に、お互いの序列をめぐって、いさかいを引き起こしたのです。イエス様は、ご自分の益のためには、何ひとつなさらなかったお方です。けれども、弟子たちはいつも自分のことしか考えられなかったのです。
マルコ
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
「私たちの頼み事を叶えていただきたい、私たちを座らせてください、私たちはできます」と、自己中心の願いを語ったのですね。けれども、これらの言葉からわかることは、彼らは、自分自身に対しても、全くメクラでした。自分に対して目が開かれていない者は、他の人々に対して、妬みを持ったり、競争心を持ったりします。
マタイ
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
弟子たちの持っていた最大の問題は何だったでしょうか?自分自身について、何も知らなかったことです。その印は、第一にうぬぼれ、また、第ニに、自分の力に頼ることです。
マルコ
10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
このニ節を見れば、彼らは、自分たちが何か、偉い者であると考えていたことがわかる。彼らは、自分たちが、イエス様の右と左に座るにふさわしい者であると思い込んでしまったのです。彼らは、自分自身を信頼することが非常に強くありましたが、他の弟子たちも、同じ思いでした。
ヨハネ
13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
マルコ
14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。
ルカ
22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
このような自分自身により頼む気持ちは、いつでも敗北に終わります。主の約束は、うぬぼれの強い者に対しては、与えられていません。謙遜な者に対してだけ与えられます。聖書全体は、それをはっきり、何回も言っています。
詩篇
138:6 まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。
箴言
22:4 謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。
29:23 人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。
イザヤという預言者も、同じことを何回も強調して、書き記したのです。
イザヤ
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」
66:2 わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
もちろん、イエス様も、同じことを強調してくださいました。
マタイ
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
ルカ
9:48 だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。
14:11 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
ヤコブも結局、全部まとめて書いたのです。
ヤコブ
4:6 神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。
聖書の言わんとしていることは、それなのではないでしょうか。ペテロも、同じことを言ったのです。
第一ペテロ
5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
これらのみことばには、主の御心と、人間の思いとの隔たりが、はっきりと出ています。人間は、自分の思いで何かを得たいと思う時に、自分の力と自分の知恵を用いて努めます。また、往々にして、偽りや他の人々を圧迫するという手段も辞さないものです。けれども、何かを得るために、主なる神が、我々に勧めていることは、我々の持っているものを捨て、また、人々に与えることです。捨てることや与えることは、人間的には、損であるかのように思いますけど、主は、このことによって、人々にさらにすぐれた恵みをお与えになることができるのです。
イエス様は、ある青年に言われました。
マタイ
19:21 ・・・・「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
弟子たちに対しても、イエス様は、次のように言われました。
マタイ
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
マルコ
8:34 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
ヨハネ
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
パウロも彼自身、これを体験しました。
ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
すばらしい証しであり、告白です。
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