2016年5月1日、御代田福音集会
ゴットホルド・ベック
ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
今、読まれましたザアカイの話、もちろんみんな、何回も、読んだり、聞いたりしたのではないかと思います。『救いが来た。』意味は、救い主がこの家の主人になった。このザアカイは、賢い人だったらしいけど、馬鹿でした。金があれば幸せになる。現代人の多くもそう思っているんじゃないの?金によって、財産によっては、誰も幸せにはならない。
彼は一度、成功して、大金持ちになって、うらやまれたかもしれない。『あいつは幸せ。』彼は幸せではなかったのです。けど、イエス様との出会いによって変わった。その変わり方はちょっと、言葉で言い表せないほど。『半分をすぐに、悩んでいる人たちにあげます。間違ったやり方で取ったもの・・・大部分だったでしょう・・・を返します。』そしたら、何も残っていないよ。こういうふうに計算する人は頭のいい人々でしょう。けども、この家には救いが入った。意味は、この家の支配者になったのは主イエス様です。
彼は死ぬまで思ったでしょう。イエス様を迎えに来たのは良かった。こういうふうになるとは、夢にも思わなかった。けども、イエス様のところに行く人々は同じようなことを経験するのではないでしょうか。悩んでいて、イエス様のところに行って、ああ、もうがっかり、無駄だったと言える人は一人もいなかった。行ったのは良かった。
福音書では、イエス様を知ること、イエス様との出会いが不可欠なものであると、もちろん、よく言われています。そして、イエス様に来た人々はどういう人々だったかな。問題を持っていた人々ばかりじゃないでしょうか?
例えば、病気。最もひどい病気は孤独です。それから、絶望などのために苦しんでいた人々が、イエス様のところに行ったのです。それで、イエス様との出会いによって変わったよ。彼らは元気になって、病人は癒されるようになった。『やっぱり、イエス様の身元に行ったのは助かった』と、みんな、例外なく告白するようになったのです。けれども、言えることとは、彼らはイエス様から、何かをもらうために行っただけなんです。
イエス様はどういうふうに一日を過ごしたのか、ちょっと想像できない。なぜならば、イエス様のところに行った人々とは、みな、癒されたのです。病人はいっぱい、いました。あのナザレのイエスのところに行けば癒されます。タダです。そうすれば、もうあちこちから飛んで行ったに違いない。イエス様は忙しかった。
福音書を見ると書いてあるんです。食べる暇さえもなかった。大変だった。ですから、昼間、イエス様のところへ行って、個人的に話そうと思っても全く無理でした。ある男はそれを分かっていて、夜中、イエス様のところに行ったんです。ニコデモと言う男です。彼は成功していました。立派な人格者、聖書学者、みんなから尊敬された人格者でした。彼は夜中、イエス様のところに行って、そして、完全に変えられたものになったんです。イエス様しかない、と彼は確信を持つようになったのです。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』この昔の呼びかけはもちろん、時代遅れではない。イエス様の呼びかけは、今日も同じです。疲れていなければ、問題を持っていなければ、いいよ。イエス様だって必要ないよ。自分でがんばれば、いいじゃないの。けども、皆さんは分かるでしょう。いくらがんばっても、疲れます。まったく、意味のないことです。
かしこい人は、がんばることをやめて、降参して、何でもできるイエス様に委ねるのではないでしょうか。簡単ですし、楽ですし、絶対に後悔しません。イエス様は、『私は失われた人を救うために来た。医者を必要とするのは病人です』って。悩んでいる人だけが、私を必要とすると、イエス様はよく言われました。
イエス様の身元に来た人々とは、だいたい、99パーセントが、何かを欲しかったから。何かを得ようと持った人ばかりだったんです。イエス様に何かを捧げようと思った人は、あまりいなかったんです。けど、一人いました。
マルコ
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
ちょっと、気の毒だったね。きびしく責められた。すると、弁護士が中に入っちゃったね。
14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
イエス様に最高に褒められたのは彼女なんです。『わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。』
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。
最高の褒め方です。
14:8 ・・・埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
今日は彼女の記念会だね。彼女のやったことを考えると、ちょっと、寂しくなる、悲しくなるのではないでしょうか?
14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。
いったいどうしてイエス様を知る人々の間に、成長の違いがあるのでしょうか。イエス様を知るようになった人々は確かに、イエス様の愛を体験しました。けど、真実の深い愛をイエス様に捧げる者はそんなに多くないのではないでしょうか。私たちはしばしば、自分がイエス様に対して、どのような関係にあるかという事よりも、自分が何を成すべきかという事を大切にするかもしれない。私たちが、通り良き管になるために、主イエス様との密接な関係がなければ、交わりがなければ大変です。
イエス様との愛の交わりがなくなれば、使命感が薄れ、祈りが少なくなり、祈りをしたくなくなり、余裕を失い、神経質になります。今、読みましたマリアという女性は、高価なナルドの香油をイエス様に注ぎ出しました。この行ないは、彼女の心からの愛の表れでした。そして、イエス様に捧げたいというのが、彼女の心からの願いでした。彼女ほど、イエス様に褒められた人は他にない。
『この女は、できる限りのことをしたのだ。』これは、イエス様の判断でした。この言葉は、イエス様が全く満足されたことを表してるのではないでしょうか。彼女は、ただイエス様だけが真の幸福と本当の平安を与えられるということを経験しました。ですから彼女は、心からの愛のしるしとして、この高価なナルドの香油を捧げたのです。マリアの心は、感謝と愛でいっぱいだったのです。
聖書の中心は、皆さん、ご存知のように十字架につけられたイエス様であり、我々の罪滅ぼしのために、犠牲として屠られた子羊なるイエス様です。この十字架につけられたイエス様について、聖書はなんと言っているでしょうか。
イザヤ
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
まことの喜びの根拠、また、源は、今読みました箇所です。聖なる神は、我々のすべての咎を十字架につけられたイエス様に負わせた。罪滅ぼしのために、主イエス様は代わりに罰せられ、呪われ、捨てられたのです。ひどいとしか言えない。もっとひどい事はないのではないでしょうか。
馬鹿らしいと考えてもいいでしょう。なぜならば、イエス様の流された血潮は、イエス様の命そのものだったからです。私たちのようなつまらない、どうしようもない者のために、このような代価を払うのは、ちょっと考えられないことではないでしょうか。
例えば、キャラメル一箱のために10万円を払うのはおかしい。必要ない。けれども、イエス様のいのちは、創造主なる、父なる神にとって、この大宇宙よりも尊いものだったのです。
けれども、我々の大部分は、イエスさまに出会った人々ですから言えます、『ありがたい。』イエス様が代わりに罰せられたから、私たちは裁きに会うことがなく、死からすでにいのちに移されていると確信できるのです。
十字架につけられたイエス様から、目を離してはいけない。これは、聖書の中の最も大切な命令のひとつではないかな。すなわち、失望から、また、孤独からの解放は、イエス様を仰ぎ見ることです。もう一箇所、読みましょうか。よく引用される箇所です。すばらしい箇所です。
ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
走ることとは何?答えは2節です。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のこと(・・・イエス様のこと・・・)を考えなさい。(・・・どうして?・・・)それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
もう一回、ちょっと、ルカ伝に戻りましょうか。
ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子(・・・である私・・・)について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子(・・・である私・・・)は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
イエス様は将来のことを全部、分かったんです。
18:33 彼らは人の子(・・・である私・・・)をむちで打ってから殺します。しかし、人の子(・・・である私・・・)は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。
一度、聞いたんです。訊く耳を持っていたかどうかは分からないけど。ダメでした。
けれども、このイエス様の弟子たちとまったく違いまして、前に読みましたマリア、べタニアのマリアは、イエス様の埋葬の用意にと、イエス様の身体に、前もって油を塗ってくれたのです。どうして、そんなことをしたのかな?彼女の心は感謝と愛でいっぱいでした。彼女は、ただ一つの考え、すなわち、『いかにして、イエス様に対する愛を表したらよいかな、いかにして、自分のイエス様に対する感謝を表すことができるのでしょうか』と、思ったに違いない。
その時、彼女はナルドの香油のことを思い出した。ナルドの香油は、非常に高い、高価なもので、一人の人が一年間、働いて得る所得に等しく、ほかの言葉で言いますと、7500人分のパンを買うことができたほど高い、高価なものでした。それですから彼女は、自分のためにですら、それを使うことができなかった。自分のために使うのはもったいないと思ったに違いない。まして、他の人のためにそれを使うことなど、もちろんできなかったんです。
けれども、突然、彼女は、イエス様ならば、その香油はちょうどふさわしいものと思い、それによって自分の愛を表すことができると思ったのでしょう。そして、イエス様は、このマリアの行ないを非常に喜ばれたのです。全き愛だけが主イエス様を充分に喜ばせることができます。けど、他の人々の反応はどうだったでしょうか。
マルコ
14:1 祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。
一体、どうしてこういうふうになったのでしょうかね?隠された妬みは、憎しみに変わり、イエス様を殺そうという決心になったのです。一方の人々は、いかにしてイエス様を殺そうかと考えており、マリアと言う女性は、いかにしてイエス様に対する自分の愛を示すべきかと真剣に考えたのです。彼女は、自分のすべてを捧げざるを得なくなったのです。ここに一人の弟子、イエス様の弟子であるユダと言う男は、もちろん、黙ることができなかったんです。文句を言ったのです。
マリアの行ないは馬鹿らしいことであり、無駄な事だと非難しました。もっとうまい使い道があるのではないか。もし7500人の貧しい人々に食事をさせるほうがよいのではないか。けど、例えばユダは、貧乏人に対する同情や思いやりの心でそう言ったのではない。貪欲な守銭奴だったからです。いかなる理由で人々は、それぞれ異なった態度をイエス様に対して取るのでしょうか。
当時の宗教家、律法学者たちは、彼ら自身の名誉を求めただけなんです。彼らは、自分たちが尊敬されなくなるのではないかという恐れでいっぱいでした。妬みは憎しみに変わり、イエス様を殺すという事に至ったのです。ユダと言う男は金だけを欲しがり、もっともっと、多く欲しいと思っていました。彼は、盗みをし、それから、偽善的な態度を取り、そして、裏切りをして、最後に自殺をしてしまったのです。
けど、マリアはいかにして自分の愛をイエス様に示すことができるのかと、真剣に考えたのです。イエス様を愛することができるのは、どういう人々でしょうかね。すなわち、イエス様に罪を赦された者だけです。罪を赦された者は、自分の罪を認め、告白して、それを捨てる者だけです。このような態度を取らない者は、自分中心的な生き方をするのであり、自分のことばかりを考えるのです。
自分が充分に考慮されない、あるいは、ちやほやされなければ、すぐに自分の殻に引きこもる人々、あるいは、離れる人も、もちろん、います。私たちは、次の問いについて考えるべきなのではないでしょうか。私はイエス様に対して、本当の愛を持っているでしょうかね。信じるかどうかではない。イエス様に対する愛があるかどうか。あるいは、私の考え、感情の中心は、本当にイエス様でしょうか。
私は、義務感でイエス様に仕えるのか、あるいは、愛によってイエス様に従うのか。私にとって、祈りはなくてはならないもの、あるいは、心から願っているものでしょうか。
マリアは、心からの愛をイエス様に捧げたから、イエス様は、彼女を非常に喜ばれました。けど、私たちはいかにして主を喜ばせることができるのでしょうか。マリアは、イエス様の足もとに座って、主のみことばを聞きました。それだけではなく、聞くことだけではなく、みことばに服従する心がまえで聞いたのです。彼女は、時間がなかったと思うけど、主のみことばを聞く時間を作り出したのです。現代人は多くが忙しい、暇がない。全部、うそです。時間を作ろうと思えば、誰でも作れます。
私たちは、聖書を読むだけではなく、聖書に聞かなければなりません。聖書に聞く時間を作らない人は、気の毒。イエス様を愛していない人です。イエス様はみことばに対して開かれている耳を期待されます。イエス様を愛することの第一歩は、イエス様のみことばを聞くことであり、祈りながら主に近づくことです。すべてその他の事は、枝葉の問題です。
マリアは、単にイエス様の御言葉を聞いただけではなく、主に話しかけました。彼女は、イエス様の所に行ってみことばを聞き、イエス様に話しかけることだけが、彼女の願いだったのです。我々の場合には、我々の祈りの中心は、私たち自身の考えや、計画が問題ではないでしょうか。
私たちは、主ご自身よりも、イエス様が我々に与える祝福の方を好むのではないでしょうか?そういうのは、決してマリアの持っていたような愛ではない。マリアは、今、話したように、まず初めに主のみことばだけを聞きたいと願い、次にイエス様だけに語りたいと願い、そして最後に、イエス様にすべてを与えたいと願ったのです。
彼女は、イエス様の足もとに座って、みことばに耳を貸したのです。マリアがしたように、主の足もとに座り続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。彼女は、主イエス様が自分を全く欠けたところなく愛しておられることをよく知っていたから、マリアもイエス様を、少しも裏切るところなく愛したのです。彼女は、今、話したように非常に値の高いナルドの匂い油を、主の頭に惜しげもなく降り注いだのです。
すなわち、ためらうことなく、余すところなく、匂い油を、主イエス様に降り注ぐことによって、イエス様に対する愛を明らかにしたのであります。ナルドの匂い油の匂いそのものが家全体に満ちたと聖書は言っています。
それと同じように、愛の雰囲気がわれわれの心、家、また、各集会を包んでいるのでしょうか?聖書の中で、非常に悲しい言葉のひとつは黙示録の2章4節なのではないでしょうか。エペソという町に集まった兄弟姉妹、あの信じる者の群れは模範的で主の喜びでした。非常に祝福され、用いられたのです。けれども、急にダメになった。
黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
初めの愛というのは、イエス様との交わりのことです。イエス様なしに何事も欲せず、何事も成し得ないということです。もし、日々、主のみことばである聖書が、我々の泉となり、我々の慰めとなり、我々の力となり、我々の知恵となっているならば、そして、私たちの考えと行ないの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそが、私たちの初めの愛が保たれていることの証拠です。
当時のエペソの兄弟姉妹の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中になかったのです。イエス様の足もとに静まる事を忘れてしまったのです。その結果は、イエス様は、『もはや、私はあなたと共にいるということができない、わたしは、あなたに対して対立する』と、言わざるを得なくなったのです。
初めの愛とはなんでしょうか。今、話したように、二心の無いイエス様への愛であり、真の謙遜であり、直ちに従うことであり、主の再臨を心から待ち望むことであり、そして、兄弟姉妹に対して真心からの愛を持つことです。

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