2016年1月1日、御代田よろこびの集い
ゴットホルド・ベック
まず詩篇から三箇所をお読みいたします。
詩篇
81:10 あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
16:11 あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
73:28 私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。
ヨハネ
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
私たちにとって大切なのは、新しく生かされることであり、また、主に対する愛によって動かされることなのではないでしょうか。
もう何十年も前に天に召された愛するリャオ・アキオ兄弟のように、心から叫ぶことができたらありがたい。兄弟は歌ったんですね。兄弟姉妹、喜びに満ちて。イエス様大好き。イエス様大好きよ!と歌ったのです。
聞いた人々は忘れられないだろうと思います。大切なのは私たちが、いろいろな信仰的な内容を信じているということではなくて、実際にイエス様との交わりを持っているかどうかだけです。
イエス様を信じ、知るようになり、イエス様を愛するようになった人に、主は、次のように当時、言わなければならなかったのです。
黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
何もわからないのは大変なことです。しかし、わからないことでさえも、わからなければ、悲劇的なのではないでしょうか。
ソロモンという大王様について、聖書はいろいろなことを言っているんですけども、もっとも大切な文章は、次の箇所でしょう。『ソロモンは、主を愛した』と、聖書は言っています。
そして、ペテロは、当時の信ずる者に、書くことができたのです。
ペテロ第一の手紙
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
主なる神は、愛そのものです。私たちはこの事実について考えると、確かに、礼拝せざるを得ません。この愛の証拠となるものは、この罪にまみれた世界に来られた、また、死に渡されたイエス様です。この愛を経験した人々は、確かに大いに喜ぶことができます。
今日、来られたお一人お一人についても、彼は、彼女は、イエス様を愛していると言えるかどうかが問題です。いちばん大切なのは、いったい何なのでしょうか。言うまでもなく、いちばん大切なことを知ること、また、いちばん大切なことをすることなのではないでしょうか。
イエス様の教えたことは、一つの教えではなく、一つの呼びかけです。皆さん、暗記している呼びかけです。マタイ伝11章28節、おいで。待ってるよ。イエス様のところに行くことと、愛されていることを知ることとは、解放されること、大いに喜ぶことを意味しています。
あなたの神である主を愛せよと、書かれています。これは、最大のいちばん大切な戒めです。主なる神は、私たちの二心(ふたごころ)のない愛を求めておられます。主は、真心からの愛を望んでおられます。真の愛は、もちろん、主からのものです。主なき真の愛は、存在しません。真の愛と、主なる神とは、不可分のものです。
ヨハネ第一の手紙
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。
主は私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。サウロという男は、長いあいだ、イエス様を憎み、信ずる者を迫害しました。いかなる人も、彼を間違った道から引き戻すことができなかったのです。納得させることも無理でした。彼は、いったいどのようにして、イエス様のいちばん熱心な証し人となったのでしょうか。
そのことを彼は、一文章で短く語っています。有名なガラテヤ2章20節ですね。私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子キリスト。
彼は、何を瞬間的にわかったかと言いますと、この愛は、パウロを圧倒しました。この愛は、パウロの人生を根底から変えました。この愛はパウロに迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を述べ伝えることを要求しました。
十字架は、いったい何を語っているのでしょうか。わたしはあなたの創造主であり、また、あなたの救い主でもある。愛そのものです。わたしは自分自身の犠牲にし、悲しみの人、悲しみの人となり、呪われ、罪とされ、救いの代価を支払ったと。
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。これが大切な第一の戒めであると。けど正直な人は、みんなわかるでしょう。すなわち、自分の力では、主の律法を守ることができない。主の戒めを守ろうと思っても、決して、うまくいかないと。
イエス様のみもとに近づき、言うべきです。私は、守りたい。けど、無理です。できません。私のうちには、何ひとつ、良いものがない。自分の力によっては、全く自己中心の生活を送ることしかできませんと。旧約聖書のイザヤ書の57章にすばらしい約束があります。
イサヤ
57:15 ・・・・わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
私たちは、初めの愛から離れているのではないでしょうか。
黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
初めの愛というのは、イエス様との交わりです。イエス様なしに、何ごとも欲せず、何ごともなし得ないということです。
もし、毎日毎日、聖書が我々の力の泉、また、慰めのもととなり、喜びの源となっているならば、そして、私たちの考えと行いの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそ、私たちの初めの愛が保たれていることの証拠です。
これが、燭台がその場に置かれていることの大切な条件です。初めの愛の特徴は何でしょうか。主の足元に沈まること、すべてを主に明け渡すこと、徹頭徹尾、主にだけより頼むこと、また、主の御心に従うこと、すべて、主と主との導きに信頼することです。
そういう心構えがあれば、主は間違いなく、今年も豊かに祝福して、用いてくださるに違いない。

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