2016年1月31日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック
第1テサロニケ
4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
前に茨城県の那珂湊で、『新しい挨拶をしましょうよ、』と話し合ったんです。『こんにちわ』とか、『さようなら』じゃなくて、『主は来たりたもう』という挨拶だったんです。
今、読んでいただきましたのは、テサロニケ第1の手紙の中の一箇所です。いつ書いたのかと言うとだいたい、(西暦)50年なのではないかと思います。書いたところはコリントだったんです。テーマはもちろん、誰でもすぐ分かる。イエス様の再臨です。イエス様は近いうちに来る。パウロのこのテサロニケで、長くいなかったようです。聖書は3つの安息日という表現を使っているんです。だいたい、3週間だったのではないかと思います。結果は、いろいろな人々が素直になり、イエス様を信じるようになり、再臨を待つものとなったのです。彼らの心からの信仰、彼らのまことに愛こそが、パウロの感謝の元になったのです。
そして、今読んでいただきました箇所は、非常によく知られている箇所です。テサロニケ第1の手紙の中で一番、知られている箇所なのではないか。すなわち、この4章にはやがて起こるべき、大きな出来事について、書き記されています。イエス様が、再び来られるときのことです。
私たちは、主の再臨がいつ成されるのか、もちろん分かりません。いわゆる教会の歴史を見ると、何回も何回も人々は宣告したんです。何年何月に来る。信じた人々はだいたい騙されたんです。イエス様が来れば、銀行にある金は必要ないでしょう、早くおろして配ったらいいじゃないかと、多くの人々は騙されてしまったんです。
いつになるか、もちろん、私たちは分かりません。イエス様の再臨がいかなるものであり、いかなる形で行なわれるかについては、もちろん無知であってはならない。知るべきです。この4章をより良く知るために、聖書における時代区分を考えた方がいいのではないかと思います。聖書によると、主なる神がとくに強く働かれた場として、おもに3つに分けて考えることができるのではないかと思います。その第1は諸国民であり、第2はイスラエルであり、そして、第3はイエス様の教会、イエス様のからだなる教会です。
第1の場面は、アダムからアブラハムに至る全人類であります。そのことについては、創世記1章から11章までに細かく記されています。そして、5章と10章の系図によって、その時代がおおよそ2000年間であったことが解かります。
第2の場面は、イスラエルの民であります。それはイエス様がアブラハムを召された時から始まったのです。アブラハムの召しについては、創世記12章に記されています。主は、絶えずイスラエルの民に、ご自身を現そうとなさいました。けども、彼らは主に背き続け、最後に、彼らの王であるイエス様を、十字架につけて殺してしまったのです。アブラハムの召しからイエス様の十字架までも、おおよそ2000年間でした。
第3の場面は、いわゆる教会であり、イエス様のからだの教会です。そして、教会の誕生は五旬節に求められると聖書は言っています。まことの教会は、新しく生まれ変わることによって、ユダヤ人にも異邦人にも該当するようになりました。
主の目的は、決して諸国民やユダヤ人にあるのではなく、まさしく教会、イエス様のからだなる教会を建てることであり、それによって、多くの信者が集り、一定の数に達すると、そこで初めて、イエス様の再臨が成就されるのです。
さらに、信者の数のみでなく、信者の成長をも、主は望んでおられることは言うまでもありません。初めから計画されていた信者の数が満たされると、主が天から下って、教会と空中で出会い、ひとつになってくださるのです。その時、すでに召された信者も、生きながらえている者と共に、引き上げられ、花婿であるイエス様と共に、婚姻の時を持つことができるようになります。
このようにして、教会が引き上げられた後、悪魔は非キリストと偽預言者とを通して、この世を支配するようになります。天上では、イエス様と信者との大いなる婚姻が成されているのに対して、この地上では、大きな患難と苦しみが支配するようになります。
しかし、このような悪魔の支配も、ハルマゲドンの戦いによって、終止符を打たれるのです。その時、地上では諸国民の大軍がイスラエルに攻め上ると聖書は言っています。まさに、この時にイエス様が公に再臨なさいます。始めは教会を迎えに、花婿として空中まで下って来られるイエス様は、公に再臨なさる時には、信者たちとともに、イスラエルの王として、また、諸国民の裁判官として来られます。
その時、イスラエルに対して戦いを挑んだ諸国民の大群は、完全に撃ち滅ぼされ、イスラエルはイエス様を、自分たちの王として迎え入れるようになります。イエス様が、あらかじめ約束されていたダビデの座につくことによって、いわゆる千年王国が始まるのです。けども、千年経った後で、悪魔はもう一度、力を盛り返し、しばらくの間だけ大軍を引き連れて、イスラエルに対して最後の戦いを試みるのです。
しかし、その時、天から火が下って、彼らはすべて焼き滅ぼされてしまうのです。その後で、大いなる厳かな裁きが行なわれ、未信者は、悔い改めたくない人々は、大いなる裁判官の前に出なければなりません。また、すべて裁かれなければならないのです。大きな反逆を通して、新しい天と新しい地が出現します。
アダムからアブラハムまでが2000年、アブラハムからイエス様までが2000年、それから、イエス様から今日までが約2000年であり、本当のことはもちろん分かりません。我々は今が2016年と言っています。それは間違っているかもしれない。1998年かもしれない。昔の人々はカレンダーを持っていなかったんです。ですから、我々は正しいことをいくら考えても分かりません。
イエス様が体なる教会を迎えに、天から下って来られる日が、遠くないと思います。非常に近いのではないでしょうか?イエス様が、再び来られるということは、将来における非常に大きな出来事を意味するわけです。イエス様との出会いによって、すなわち、新しく生まれ変わることによって、人間は新しい目的を持つようになります。
パウロの場合には、次のような言葉、すなわち、『主よ。私は何をしたらよいのでしょうか。』『生きているのは、もはや私ではなく主イエス様である。』このような言葉によって、パウロが、全く新しく生まれ変わったことが解かります。パウロは、後ろのものを忘れ、ただ前のものを目指して、力を尽くしたのであります。
私たちの目的は、イエス様ご自身、すなわち、十字架につけられ、よみがえられ、再び来られるイエス様に他なりません。信じる者の目的は、地上の生活をはるかに越えた所にあるのです。しかもイエス様は、将来すべてを支配してくださるのです。イエス様はまもなく来ると約束してくださいました。ヨハネ伝14章3節にそう書いてあります。
(参考)ヨハネ14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
この主の再臨の時こそ、信じる者、ひとりひとりが心から切に望んでいるものです。イエス様の再臨こそ、信じる者にとって生き生きとした希望であり、信仰の光であり、イエス様に対する愛の原動力なのです。
3つの質問について考えましょうか。第1番目、このテサロニケ第1の手紙4章の主な内容は、いったい何なのでしょうか。4章は2つに分けて考えることができます。前半は1節から12節まで、信じる者の清めであり、後半は、信者の希望であります。13節から18節ですね。もちろん、清めと望みとは、密接に結びついているため、切り離すことはできません。『彼についてこの望みをいだいている者は、彼が清くあられるように、自らを清くする、』とあります。
(参考)第1ヨハネ3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
第2番目、この章に対しては、いかなる表題をつけることがふさわしいのでしょうか?『生き生きとした望み、』あるいは、『道と目標、』さらには、『多分、今日なった』という題をつけることができます。
けども、ここではまず目標について考え、それから、道について考えるべきではないでしょうか。絶えず目標を目指している者にとっては、途中の苦しみや悩みは、それほど大きなものにならなくなります。
イエス様の再臨は2つのこと、すなわち、第1に、体なる教会のためにイエス様が天から下って来られ、空中まで迎えに来てくださることと、第2に、体なる教会と共に地上まで下って来てくださるということを含んでいます。
この4章では、最初の事柄、すなわち、主が教会のために下って来られる事だけが記されています。そのことについて、考えると本当にもう、感謝せざるを得なくなります。すなわち、第1番目の場合、イエス様は大きな患難の前に教会のため、空中まで下って来られます。それを見る者は非常に少ない。それから教会は、天に引き上げられるのです。
それに対して第2番目の場合には、主が大きな患難の後に、イスラエルと諸国民のため、からだなる教会と共にこの地上まで来られ、その時にはすべての者が、はっきりと見ることができ、エルサレムのオリーブ山に下られるのです。
3番目、主が来られる時に起こる出来事は、どのような順序で成されるのでしょうか。まず第1に、主がご自身が天から下って来られるのです。第2に、イエス様にあって眠っている人々が、初めによみがえります。第3に、生きながらえている信者は、引き上げられて空中で主に会います。この3つの出来事について、考えると、やはり、見方、価値観が変わるのではないでしょうか?
まず、イエス様ご自身が来られることは明らかです。イエス様ご自身とは、もちろん、全宇宙を創造され、旧約聖書で預言された救い主であり、ベツレヘムでお生まれになって、最後に十字架につけられ、よみがえられたお方です。そして、まさにそのお方が、再び来られます。
パウロに現れてくださったイエス様は、取りも直さず、十字架で死んでくださったイエス様に他ならなかったのです。聖書ははっきりとイエス様ご自身は、やがて再臨され、しかも、そのイエスが十字架の上で亡くなられたイエス様であると言っているのです。パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹について、喜ばしい知らせを聞くことができました。テモテが信者について、良い知らせを報告したからです。しかしながら、そのようなテサロニケの教会にも、死んだ人が何人かいました。これは本当に悲しい知らせだったのです。そのためにテサロニケの信者は悩み、かつ苦しみました。
異邦人が悲しむというのであれば、それは当然のことです。なぜなら異邦人には、本当の希望がないからです。しかしパウロは、次のような手紙を書き送りました。この4章の13節から18節は、一番、大切なところでしょう。すなわち、最も良いものは、死んでからやって来る。神の恵みは決して死に終わることがない、とパウロは確信を持って書き記したのです。
パウロは、まず第1に主が再臨され、次に、イエス様にあって眠っている人々が復活することを強調しています。すなわち、キリストにあって眠った人々は、信者だけであり、死んだ人すべてがそうであるというのではありません。『キリストにあって』ということは、イエス様の血を体験的に知ったことを意味しています。
教会に属しているのか、洗礼を受けたのかいうことが大切なのではない。イエス様を体験的に知っているかどうかが問題です。『キリストにあって』とは、イエス様の霊によって新しく生まれ変わったことを意味しています。いわゆるよみがえりの書があります。コリント第1の手紙15章でしょう。この51節から53節までを見ると、そのとき、ラッパが響き渡ると記されています。
(参考)第1コリント15:51~53 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
有名な作曲家ヘンデルは、よく知られているメサイヤという曲の中で、この時の喜びと賛美とを声高らかに歌いあげているのです。
パウロも、イエス様と共にいること、すなわち、死んでイエス様を見ることは、この地上に漫然と生きているよりは、はるかに良いと言っています。そこで死んだ人は、どのようにして復活するかという疑問は生じてきます。答えは、今、話したよみがえりの書、コリント第1の手紙に書いてあります。次のものです。コリント第1の手紙15章。35節から37節まで、また、42節から44節までを見ると書いてあります。
(参考)第1コリント15:35~37 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのよなからだで来るのか。」愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。
(参考)第1コリント15:42~44 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
その時、信者は新しい栄光のからだを持って、よみがえると聖書は言っています。人が死ぬと体と霊とが分かれます。信者の霊は、イエス様の御許に帰っていきます。
体は眠ると聖書は言っています。肉体は栄光の体が出てくる芽のようなものです。死んだ体と復活する体との間には、ひとつの関係があります。それはちょうど、種とつぼみのような関係にあります。イエス様がよみがえりの体を持って死の墓からよみがえられたと同じように、信じる者もよみがえりの体を持って、よみがえるわけですが、その瞬間、まさに決定的な瞬間です。我々の体は、イエス様と同じようによみがえりの体になります。
第3番目の問いは、その時、生きながらえている人々に、何が起こるかということです。聖書は、彼らが雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会うようになると答えています。主に前に読んでもらいましたテサロニケ第1の手紙4章、16節、17節、あるいは、よみがえりの書であるコリント第1の手紙15章51節から53節までを読むとはっきり分かります。
(参考)第テサロニケ14:16~17 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
(参考)第1コリント15:51~53 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
すなわち、彼らは、昔々のエノクが経験したように、急に引き上げられ、見えなくなるのです。エノクとは、死を見ないでそのままで天国に行くことが許されたのです。
(参考)創世記5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
しかも一瞬のうちに、そのように変えられる。この世の肉の体から栄光の体に変わるためには、一秒もかからないでしょう。その時には、もはや重力の法則が支配しないため、新しい体は引き上げられて、空中に登っていくのです。そして、空中で主に会えるのです。それは、まことに恐るべき出来事であると言えましょう。
その時、地上にいる信者たちは、一瞬にして見えなくなってしまいます。信じる者の父、母、子、従業員、運転手などは、いずれも瞬間にして見えなくなってしまうのです。このようにして、何千何万という信者が、急に見えなくなる事は、未信者にとってまことに驚嘆すべき事であります。この時こそ、イエス様にとって、かねてから願っておられた事が成就する時、すなわち、小羊の婚姻の時であるのです。
その時、かしらなるイエス様は、からだなる教会と一つになれるのです。そして、イエス様は彼らをご自分と共にいるように、彼らを御許に引き寄せてくださるのです。『わたしのいる所にいるようになる。』
このような出来事は、現在苦しみの世界に、将来、新しい光を与えていただく、まことの希望と望みです。この将来における事実が、信じる者の信仰生活の中に正しく受け入れられる時、それは信者にとってまことの力となります。
したがって、私たちは望みのない人のように悲しむ必要はない。私たちには、そのようなことをする権利がない。私たちは、みことばによって、慰めと希望とを与えられているからです。
パウロは15節に、『主のことばによって』と言っているんです。したがってそれは、決してパウロ自身の人間的な思いではありません。また、それはイエス様のよみがえりから、パウロが自分で考えて作り上げた結論でもありせん。
パウロは、主のことばによって啓示を受け、その啓示によって奥義を明らかにすることができたのです。パウロの喜びの源は、みことばでしたが、我々の場合もそうでなければなりません。パウロが考えていたことは、決して現在の悩みや苦しみの事ではなく、イエス様と共にいてご臨在を覚えることに他ならなかったのです。
パウロは、『みことばを持って互いに慰め合いなさい』と言っているのです。有名な音楽家、ヨハン・セバスチャン・バッハは、死ぬことについて作曲した時、それらはすべて賛美と感謝に満たされていました。彼は、死の谷を見ただけでなく、死んでから永遠に主イエス様と共にいることを確信していたからです。もしも私たちが、一時間のうちに死ぬということが解かったならば、どうでしょうか?不安と心配でおののくでしょうか?それとも、賛美と歓呼に満たされるのでしょうか?
私たちはお互いに会ったりすると、今から、どういうふうに挨拶したらいいかね?もうちょっと。
ヘブル
10:37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
ヘブルの10章37節に書かれています。その前の9章28節、
ヘブル
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
もうちょっと。イエス様を知るようになった人々は輝く素晴らしい勝利を持つ者です。イエス様は彼らにとって、道であり、真理であり、また、いのちであるからです。イエス様なしの生涯は確かに真っ暗闇です。イエス様を知るようになったものは喜ぶことができます。どうしてであるかと言いますと、なぜなら彼らは知って、確信しているから。すなわち、もうちょっとでイエス様はおいでになります。そして、今日かもしれないと考えると、嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望をもって将来に向かうことができます。

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