2016年1月19日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
第一テサロニケ
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
前回、私たちは、テサロニケ第一の手紙を、全般的に概観しましたが、今日は、第一章を、もう少し、立ち入ってみたいと思います。ご存知のように、この手紙は、パウロの手紙で、彼が初めて書いた手紙です。おそらく五十年に書かれた手紙で、書いたところはコリントだったのです。テーマは、ご存知ですけど、主イエス様の再臨です。イエス様が来ただけではなく、イエス様はまた来るよ・・・・ということを、ここで書きました。
パウロは、三つの安息日で福音を宣べ伝えたのです。福音とは、もちろん、ひとつの教えではなく、イエス様ご自身です。彼は、三回、イエス様を紹介した。結果は、非常にすばらしいものでした。テサロニケで、いろいろな人々が悔い改めて、素直に信じるようになりました。彼らの心からの信仰と、彼らの真の愛こそが、パウロの感謝のもとでした。
一章の題としては、「生きている教会」と付けることができるのではないかと思います。もちろん、別の題をつけることもできるでしょう。例えば、前回やったように、「神に立ち返ることに対して、再臨がいかなる影響を及ぼすか」という問いに対して、『生き生きとした望みを与える』という答えをすることもできるわけです。
その教会は、ただ出来て、存在したということだけではない。しっかりと荷を下ろし、信じる者は成長して、妥協せず、いつもはっきりとした態度を取ることができたのです。この教会の特長は、非常に早く成長したということであります。一章には、選ばれていること(1章4節)であるとか、再臨(1章10節)、そして、聖化、聖めということばは、4章1節から三節に出てきますし、もちろん、聖霊についても書かれています。1章5、6節、4章8節、5章19節であります。
【参考】第一テサロニケ
4:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け(ることです。)
4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。
5:19 御霊を消してはなりません。
テサロニケの教会は、生まれたばかりの状態に留まらなかったのです。成長したのです。結局、立派な教会に成長したことがわかります。第1章は、要するに、テサロニケの兄弟姉妹が、主に立ち返ったことに対するパウロの感謝の祈りで満たされています。そこで、次に、六つの質問について、簡単に考えてみたいと思います。
第一の質問は、この教会の特長は、いったい、いかなるものであったかということです。それは、生き生きとした健全な教会、したがって、正常な教会だったことがわかります。この教会の秘訣は、主のみことばの上に立ち、主のみことばを第一にしたということにあります。
1章の5節、6節、8節と、三回も、『みことば』という表現が出てきています。この教会は、パウロにとってのみならず、イエス様にとっても、大きなよろこびでした。まさに、模範的な教会だったのです。
残念ながら、我々の教会は、決して、模範的な教会ではないのではないでしょうか。なぜならば、兄弟姉妹すべてが、みことばの上に立つことをしないで、みことばに満たされていないからなのではないでしょうか。何としばしば、私たちは、自分の心や、他人の言うことや、悪魔の囁きの方を、みことばよりも大切にするのではないでしょうか。それらのものに耳を傾けず、ただ、主のみことばだけを大切にする者は、豊かに祝福されます。
第ニの質問は、みことばがこの教会に対して、いかなる影響を及ぼすことができたかということです。1章5節によると、主のみことばは、テサロニケの教会で、力ある働きを成すことができました。聖霊の力によって、パウロは、福音を宣べ伝えました。
1章6節を見ると、彼らが、みことばを受け入れたこともわかります。したがって、ただ単に、みことばを聞いただけではなく、それを受け入れた、自分のものにしたことがわかります。みことばを受け入れて、自分のものにしなければ、みことばの力を体験することができません。
1章8節を見ると、主のみことばが彼らから出て、響き渡ったと記されています。ここで、みことばが広められたことがわかります。これは本来、健全な教会が成長していく過程を表わしています。すなわち、まず、力をもって福音が宣べ伝えられ、そのみことばが受け入れられ、さらに広められるということこそ、生き生きとした教会の特長です。
もちろん、みことばは、単なる普通の言葉やひとつの教えではなく、イエス様ご自身を表わしているのです。みことばは、イエス様です。ヨハネ伝は、この真理をはっきりと示しています。よく知られている言葉です。
ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
ここまで読むと、ちょっと、ピンとこない。『ことば』は、いったい、どういうこと?けれども、続いて読むとわかります。
ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
したがって、ここでも同じように、みことばの代わりに、主イエスを置き換えてみて、イエス様が力強く宣べ伝えられ、主イエス様が受け入れられ、イエス様が広められた・・・・と表現すれば、意味もはっきりします。本当の宣べ伝えは、その内容の中心は、もちろん、イエス様ご自身です。いわゆるよみがえりの書であるコリント第1の手紙、15章を見ると、次のように書かれています。
第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと(です。)
三番目の質問は、いか何にして、みことばがテサロニケで宣べ伝えられたかということです。5節を見ると、力と聖霊と強い確信とによって、福音が宣べ伝えられたことがわかります。ここで明らかなことは、聖霊とパウロとが、ひとつになって働いたということです。これこそ、祝福の秘訣です。パウロはいつも、聖霊に聞き従いたいという飢え渇きを持っていたから、聖霊がのぞんで、働いてくださったのです。聖霊は、忠実に従う者にのみ、のぞんで、働くことができます。
使徒行伝
5:30 私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。
5:31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。
5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。
『神がご自身に従うものに賜った聖霊』とありますね。聖霊の働きは、教会の成長にとって、どうしても必要です。聖霊が共に働くことができれば、今日でも、テサロニケに見られたと同じようなことが実現されます。
第四番目の質問とは、みことばを受け入れることについて、パウロは、いったい何と言っているでしょうか。5、6節を見ると、聖霊によってみことばを宣べ伝えただけでなく、みことばを受け入れたことがわかる。聖霊によるよろこびをもって、みことばを受け入れたと記されています。
聖霊は、みことばを宣べ伝える時にのみならず、受け入れる時も、積極的に働くと言っています。そして、みことばを受け入れることは、イエス様を受け入れることであり、イエス様を受け入れることこそ、本当の信仰です。みことばは、理解するものではなく、受け入れるものです。みことばは、読むべきものではなくて、食べるものであると、有名な哲学者、ヒルティという男は言ったのです。ヒルティは、「読んだことは忘れ易いのに対して、食べたものは力となる」と、言ったのです。
私たちがみことばを読むだけに留まるか、それとも、本当に食べて、消化するかということは、我々の人生にとって非常に大きな結果をもたらすことです。ただ単に、みことばを読むに留まった者は、やがて、失われてしまいますが、本当に食べて、充分にみことばを味わい、消化した者は、永遠に救われているのです。
結婚も、二つのものが一つになるという意味において、非常に重大な結果をもたらしますが、イエス様を受け入れるか否かという問題は、さらにさらに、重大な結果をもたらすものです。受け入れることは、意思の行為です。
ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この12節によると、信じることは、すなわち、受け入れることです。それですから、信仰とは、その人の意思の問題です。信仰とは、知らないうちに心の中に入り込んでくる感情、あるいは、漠然となっている気持ちではない。まさに、一人ひとりが決断しなければならない、意思の問題です。したがって、順番としては、まず、決心して、それから、行うことになります。放蕩息子は、豚といっしょになるほど打ち砕かれた時、いい気持になることを待つことはしませんでした。彼は、父の御許に帰ることを、決心したのです。
彼は、父の御許に帰ることを、決心しました。信仰とは、自分自身のみじめな状態を、罪の苦しみを素直に認め、主が提供された贈り物を素直に受け入れることを決心する、決断に他なりません。主のみことばは、今日も、力強く生きております。
へブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
みことばは、力強く、生きているものであるがゆえに、それを受け入れた者には、大きな影響を及ぼすのです。テサロニケにいる兄弟姉妹は、みことばを受け入れたことによって、新しく生まれ変わることができたのです。このようにして、受け入れられたみことばは、新しく生まれ変わるための種であり、決して、感情や気分や人間の理解力によるものではありません。
新しく生まれ変わることは、次のようして、実現されます。すなわち、まず第一に、8節、神に対する信仰、次に、9節、神に立ち返ることと偶像を捨てること、4章8節、聖霊を受け入れることです。みことばを受け入れる者は、主を信じることができるようになり、その結果、偶像を捨てて、神に立ち返り、聖霊を受け入れるようになるわけです。
第五番目の質問として、テサロニケにおいて、いかなるいのちの表れが見られたかということですね。みことばによって、テサロニケの集会が、新しいいのちを持っていたことがわかります。そして1章3節に、この新しいいのちのことについて記されていますね。三つの事柄が書き記されています。第一番目、信仰の働き。ニ番目、愛の労苦。三番目、望みの忍耐について、書かれています。
まず、信仰の働きと記されていますが、本当の信仰は、自ずから、その結果として、豊かな実を結ぶようになるのです。信仰とは、新しい生涯を送るための力です。したがって、テサロニケの信者たちは、ただ単に信じただけではなくて、その信仰が、行動のかたちで、行いとして現れてきました。実際には、偶像から離れて、まことの神に仕えるようになったのです。
次に、愛の労苦という表現について、考えましょうか。信仰が新しい生涯の力であるとするならば、愛は、新しい生涯のための温かさを意味します。彼らは、神を愛したのみならず、主を愛するゆえに、主のために苦しんだとあります。実際には、生けるまことの神に仕えるというかたちで現れたのです。
それから、三番目ですね、望みの忍耐と書かれています。信仰が新しい生涯のための力であり、愛が新しい生涯のための温かさであるとするならば、望みは、新しい生涯のための光であるということができるのではないでしょうか。彼らは、ただ単に、望んだだけでなく、その望みのために、勇敢にも迫害に甘んじたとあります。
彼らは、偶像から離れて、生けるまことの神に仕えたのみならず、心から、イエス様を待ち望むようになりました。テサロニケにおける信者の特長は、試された信仰、偽らざる愛、そして、生き生きとした望みでした。あらゆる信者の生涯は、これと同じように、救われて、まことの神に仕え、主を待ち望む心構えであるべきです。
私たちは、ただ単に、救われるために救われたのではない。まことの主に仕えるため、心から主を待ち望むために救われたということを、テサロニケの信者たちは、よくわかったのです。このような理由から、テサロニケの教会は、隠れている状態に留まることはできませんでした。光は輝かなければならない。まことのいのちは成長し、広く大きくなっていかなければならない。
テサロニケの教会は、模範的な生涯を送ったために、その周囲の証しとなりました。新しく生まれ変わる新生の実は、信仰と愛と希望でした。新しく生まれ変わった新生の特長は、まことの神に立ち返り、忠実に仕え、主を待ち望むことでした。けれども、このことは、彼らの人間的な力によったのではなく、主によって選ばれ、聖霊の働きを妨げなかったからです。
多くの信者が、「私は、イエス様を信じている」と言いながら、実際生活の中で、実を結ばない。未信者とほとんど変わらず、悲しむべき状態にあります。試された信仰、偽りのない愛、生き生きとした望みが少しも得られない場合には、その人は、本当にイエス様と結びついている、交わりを持っているかどうか、疑わしいものなのではないでしょうか。
最後に結論として、テサロニケの教会が、どれほど広がる力を持っていたかということについて考えて終わります。7節を見ると、テサロニケの信者がその地方全体の模範になったことがわかります。
彼らは、人間として立派だったのではない。イエス様が彼らの中に大きな位置を占め、充分に働いてくださったがゆえに、模範となったのです。8節を見るとわかります。主のことばが、テサロニケの教会から出て、その地方全体に響き渡ったとあります。
イエス様についてのよろこばしい訪れそのものが、この教会を通して、広く告げ知らされたのです。そのために、マケドニアとアカヤの人々も、イエス様のことを知るようになりました。
みことばを受け入れることと、それを広めることとは、お互いに一つの関連性を持っています。心の中に深く入れば入るほど、外に広まる力が大きくなります。生き生きとした教会とは、絶えず、主を宣べ伝えている教会です。私たちがみことばを受け入れ、それに従う程度に応じて、多くの人々が、イエス様を通して導かれ、救われることができればありがたい。
私たちは、証し人であるべきだというみことばは、イエス様の願っておられることです。生き生きとした証しをしない教会は、もはや、教会としての権威を持っていません。主がテサロニケの教会をご覧になったとき、心からよろこぶことができたのです。けど、主はエペソの教会を見たとき、よろこぶことができませんでした。主は、次のように言っておられます。
黙示録(口語訳)
2:3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
燭台を取り除けるとは、証しがなくなることであり、やがては、その教会がダメになることを意味しています。
エペソの教会は、その時、悔い改めることをしなかったために、とうとう教会として存在することができなくなってしまったのです。私たちの集会も、悔い改めなければ、同じようにダメになってしまうことは明らかです。それですから、私たちは主の御声に耳を傾け、それに従わなければならないのではないでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿