2026年1月24日土曜日

イエス様の再臨2(4回シリーズ)

イエス様の再臨2(4回シリーズ)
2016年1月24日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
2:1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではでありませんでした。
2:2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘のなかでも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
2:3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
2:5 ご存知のとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
2:6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。
2:7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。
2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
2:9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。
2:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。
2:11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、
2:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。
2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちからの神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
2:15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています、
2:16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。
2:17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、―なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。
2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

今、読んでもらいましたテサロニケの第1の手紙とは、実はパウロの初めて書いた手紙です。おそらく、50年だったのではないかと思われます。書いたところはコリントでした。テーマは今、読まれたようにイエス様の再臨です。3つの安息日で、パウロは福音を述べ伝え、すなわち、イエス様を紹介した結果、テサロニケの信者の群れができたのです。この主の恵みによって導かれ、救われた人々とは結局、パウロの感謝のもとになったのです。今、13節ですね。

第一テサロニケ
2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちからの神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

パウロはこう、心から書くことができたのです。このテサロニケ第一の手紙の第一章においては、生き生きとした教会について書き記されています。そして、生き生きとしたあかしをしているときに、その教会は本当の意味で生き生きとしていることがわかります。

二、三週間の間、十字架につけられ、復活なさったイエス様の福音によって、いろいろな人々が、開かれた心の真ん中をを持つようになり、救われたのです。彼らは、新しい人間になっただけではなく、お互いに結びついて、ひとつの群れに作り上げました。今までは全く無関係で、色々な意味において、バラバラであった見ず知らずの人々が心をひとつにして、ひとつになったのです。

ユダヤ人も異邦人も、内住の聖霊によってひとつのものになりました。生き生きとした教会は、まさに生ける神の奇蹟のみわざによって造られたものです。それから、このテサロニケにいる人々は内住の聖霊によって、ひとつになりました。

教会は共通の課題と共通の目標を持つようになりました。どのようにして、このような生き生きとした集会が発達したか、どのようにしてパウロが大いなる働きを成すことができたかという疑問に対して、今、読まれました2章がはっきりとした答えを与えています。

2章に対してはいかなる表題をつけることができるのでしょうか?『忠実なるしもべにとっては、主の再臨は力強い、本当の勇気を与える望みを意味している、』と言うことができるのではないか。もっと簡単に言うと、『パウロの祝福に満たされた奉仕、』と言うこともできた。さらに簡単に言うと、『むなしくなかった』とつけることができるのではないかと思います。

ひとりの人間の生涯について、『むなしくなかった』と言うことができれば、本当に幸いなのではないでしょうか。軽井沢にはいくつかの墓地がありますが、うちの召された子供のその墓地に葬られていますけれども、その墓地の中に次のような言葉が刻まれた墓があります。『われら夫婦はともに軽井沢を心から愛する』と、書かれているんです。結局、この言葉はまだ生きている人たちに対して言おうとしたものであります。したがって、これはまことにむなしかった人生なのではないでしょうか?

けども、パウロの奉仕の生涯について考えると、それは決してむなしくなかったと言えます。1節から12節の間に、パウロは自分の働きと同労者について述べています。ここでパウロは何回も、『私たち』ということばを使っています。13節から最後まで、20節までを見ると、パウロは働きの結果やテサロニケの集会、また、迫害する者について書かれています。そして、その場合に、『あなたがた』、『あなたがた』、あるいは、『彼ら』ということばを用いています。

次の質問は、パウロ、および、同労者の生涯の目標はいったい何だったのでしょうかということです。彼らの人生の特徴であり、もっとも大きな影響を及ぼしたものは、まさに福音であったのです。それですから、『福音』ということばは何回も、繰り返し出てきます。2節、4節、8節、9節に、『福音』ということばが出てきます。福音を通して救うことのできる神の力を体験した者は幸せ。彼らは福音をゆだねられているものです。これこそあらゆる信者に与えられた最高の使命です。

私たちは罪の世界に住んでいます。私たちの周囲は、荒れ果てたように見えます。私たちの周囲にいる多くの人たちは、荒野で水を求めている瀕死の人に似ているのではないでしょうか。私たちはどこに泉があり、どこに救いがあるかを知っています。それですから、私たちは水を求めている瀕死の重病人を、まことの泉のところに、導いて行く責任、また、義務とを持っているのです。

福音によって、パウロと同労者の信仰と確信は、弱り果てることなく、反対に力強く、水を求めて迷っている人たちにいのちの泉、すなわち、救いの井戸を力強く宣べ伝えたのです。彼らは自分自身の思いや自分自身の考えを宣べ伝えたのではない。ただ、主イエス様だけを宣べ伝えたのです。自分たちの誉れではなく、イエス様の誉れだけが、彼らにとってもっとも大切でした。

次の質問は、パウロと同労者がいかに働いたかということです。この2章においては、『何々ではなく、何々である』という表現が何回も何回も出てくることが、もちろん、わかります。たとえば、『むだではなかった、だましごとでもない。人間に喜ばれるためではない、へつらいのことばを用いたこともない、そうではなく、神に喜ばれるように福音を語るのである、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願った、』と8節に書いてあります。

パウロと同労者たちの奉仕がいかなる性質のものであったのでしょうか?この問いに対する答えは、読んでもらいました2章ではっきり与えられています。

1節を見ると、彼らの働きがむだではなく、実りのないものではなかったことがわかります。2節を見ると、激しい苦闘にもかかわらず、神に勇気を与えられて、力強く神の福音を、語ったことがわかります。3節を見ると、彼らの宣教が決してだましごとではなく、公明正大なものであったこともわかります。4節から6節を見ると、彼らの奉仕の目的が、ただ、主の栄光のためであったことがわかります。

自分のために、自分の力で、自分中心に働く者は本当にあわれむべき者であります。7節から9節までを見ると、彼らが優しくふるまい、また、慕わしく思っていたと記されています。

10節から12節までを見ると、彼らの生活が単なることばではなく、力強い証しであり、彼らの奉仕はこの聖なるきよい生活によって成されていたのです。そして、13節から18節までを見ると、彼らの奉仕の働きは、みことばを生きる神のみことばとして受け取ったゆえに、大成功を収めたことが、記されています。そして、19節と20節を見ると、彼らは奉仕をするときに、絶えず主に視線を合わせ、待ち望む信仰を堅くもっていたということです。

要するに、彼らはちょうど母がその子どもを育てるように、あるいは、父がその子に対してするように、信者ひとりひとりに対して、力の限り配慮していたと、7節と11節を見ると分かることができます。

今日、パウロと同じように、このようにして奉仕をする者は、当時と同じように豊かな実を結ぶことを体験することができ、そのような奉仕によって、はじめて生き生きとした教会が生まれます。また、パウロと同労者の働きによってわかることは、福音の宣教がいのちを懸けるに価するものであると、8節に書いてありますね。

また、12節を見ても、彼らの宣べ伝えた福音の本質は、神が御国とその栄光とに、我々人間ひとりひとりを召してくださったことであるということ、そのため、私たちはそれにふさわしく神のみこころにかなって歩くように導かれています。

パウロと同労者の特徴は何だったでしょうか?それは無私無欲の心と、喜んで苦しみを受ける覚悟と、愛に満たされた真心でした。

彼らは決して自分自身のことを大切に考えないで、絶えず主の体なる教会がきよめられ、成長することを願っていたのです。彼らはちょうど、親が子どもを育てるように、兄弟姉妹ひとりひとりのために配慮したのです。彼らがつまずかないように、また、いつも主のみそば近くにいるようにと心から願ったのです。

もうひとつの質問があります。彼らの奉仕の働きは、いかなる影響を及ぼしたでしょうか。福音はいつも周囲の者に対して二面的な効果をもたらすということ、すなわち、それを受け入れるか、拒むかのどちらかです。13節を見ると、テサロニケの兄弟姉妹は宣べ伝えられた福音を神のことばとして受け取ったことがわかります。そして、これこそパウロと同労者の心からなる感謝をささげた理由になったのです。

14節を見ると、テサロニケの信者たちは神のみことばを受け入れただけではなく、神の諸教会にならう者となり、苦しみや迫害をも喜んで受けたことが分かります。彼らは多くの使徒たちと同じように、イエス・キリストの弟子が誤解され、迫害されなければならないという事実を身を持って体験したのです。

20節を見ると、テサロニケの信者たちこそ、実にパウロと同労者たちの誉れであり、喜びであると記されています。これこそ、パウロと同労者たちの働きの結果でした。今日でも同じように、みことばに対して心を開き、それを受け入れて信ずる者には永遠のいのちが与えられます。

私たちは自分の罪が赦されており、主なる神との平和を持っているということを体験的に知っているのです。けれども、そのような信者であっても、あなたこそ実に私の誉れであり、いのちと言わうる人の数はそんなに多くないのではないでしょうか。テサロニケの信者たちはみことばを受け入れ、激しい苦闘を通して、神の諸教会にならう者となったのです。

彼らの信仰は、苦しみや悩みを通してダメになることなく、一層しっかりとしたものになったのです。彼らは意識的に見えるものではなく、見えないものを見ていたからです。彼らは日常生活においても、無私無欲の献身的な生活に忠実に従ったのです。このようなわけで彼らはパウロと同労者たちの誉れとなり、喜びとなったのです。そして、パウロと同労者たちの伝道活動、福音の宣教の土台を成しているものはまさに主のみことばだけであったことがわかります。

主のみことばを受け入れるところには、いのちがあり、それを拒むところには、憎しみと争いとがあります。テサロニケの信者たちは、みことばをむなしく聞くことはなかった。彼らはみことばを通して、主の声を聞きました。

彼らはみことばを受け入れて、信じ、イエス様との出会いを体験的に知るようになった人々です。彼らは、みことばを通して主なる神がひとりひとりに語りかけてくださることを確信していたゆえに、そのような信仰を持ち続けることができたのです。

けれども、このようなテサロニケの信者たちとは反対に、大部分のユダヤ人は、みことばをむなしく聞くにとどまってしまったのです。そのようなユダヤ人たちは多くの預言者を殺しただけではなく、イエスさまを十字架につけ、さらに、パウロをも迫害しました。みことばをむなしく聞くことは、まことに悲劇的そのものです。

私たちも多くのみことばを聞きましたが、それはむなしく終わってしまったでしょうか。それともむなしくはなかったのでしょうか?

第一テサロニケ
2:13 この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

すなわち、神のみことばは働くことを望んでおられ、実際に、働くことがおできになるのです。その生きた証拠は、取りも直さず、生き生きとしたテサロニケの兄弟姉妹でした。このように、みことばがわれわれの心の内に宿り、働くことがおできになるかどうかということは、非常に大切な問題です。もう一箇所、読んで終わります。

イザヤ
66:2 ―主の御告げ。―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

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