試練すなわち愛の証拠
ろばのこ暦年ファイル、DVD2-CD27-380
ゴットホルド・ベック
黙示録
3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
3:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」
3:13 「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
いま、愛する兄弟は、三つのことを言われたんですけど、すなわち、主は偉大である。第二番目に、我々はいろいろな試練を通らなければならない。三番目は、試練を通らなければ主に頼ろうとしない。この三つの点について、少し一緒に考えたいと思います。
何週間か前だったんですが、サクラモト・トモエ姉妹と共に沖縄まで行ったんです。羽田で雨が降ったんですけど、それから、十分、十五分して急に良い天気になったのです。その時、そのトモエさんが、「雲の上は、いつも良い天気ですね」と、言われたのです。たいした発見です。雲の上は、いつも良い天気なんですけど、結局、見方によって、考え方はやはり変わりますね。下から雲を見ると、あんまり良い気持ちは持てないし、試練を通る時は、決して、おもしろくない。けれども、後で振り返って見ると、すべてを上から見るようになると、やはりぜんぜん違う。主を誉め称えるようになります。
今朝はヘブル書から三箇所を読みました。主の偉大さを現す言葉です。
ヘブル
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
一節だけですけど、私たちはこの内容を、もちろん、いくら考えても掴めません。ピンと来ない。お手上げです。
ヘブル
8:1 以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であ(る。)
この偉大なるイエス様は、私たちの大祭司であられます。大祭司の主な勤めとは、心配すること、面倒を見ること、とりなすことであります。
このあいだも、戸塚の集会の後で、ひとりの坊やが、私の所に来て、「イエス様は、今日、いま、何をしているの?」ときかれたのです。私たちはよく、イエス様の過去に行われた救いの御業について考えます。感謝します。礼拝せざるを得ないのであります。けれども、この坊やの質問は、非常に大切な質問だったのです。いま、イエス様は、何をしているの?もちろん、答えられる分かった返事は、ひとつしかない。ヘブル書に書かれている返事です。すなわち、イエス様はいつも生きていて、あなたのことを思って心配して祈っているよ。これも、考えられないほど、すばらしい事実ではないでしょうか。
ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
この考えられない偉大なる主は、高きに上げられたお方として、この地上にいる信者の群れに、今の言葉を言われたのであります。
黙示録の中に、全部で七つの手紙が書かれていますけど、必ずすべての手紙は、イエス様の自己紹介をもって、始まっております。イエス様の自己紹介とは、もちろん、いつもイエス様の啓示、そのものです。信者の群れ、そのものよりも大切なのは、もちろん、イエス様ご自身です。イエス様が信者の群れに語ることができ、信者の群れがイエス様の語ることを聴くことができ、信者の群れがイエス様に従うことができ、そして、信者の群れがイエス様の道具として用いられることができるために、イエス様がご自身を啓示してくださったのです。
信者の群れが、もはや、証しの場とならない時には、イエス様は、その信者の群れを、口から外へと吐き出してしまわれると、この黙示録三章にも書き記されています。高く引き上げられた主イエス様は、自分自身を啓示してくださったのです。どう言うふうに自分自身を明らかにしてくださったかと言いますと、一つは、力あるお方として、そして、第二番目は、真実なるお方、忠実なるお方として。そして、第三番目に聖なるお方として、イエス様は、自分自身を明らかにしてくださったのです。
[一]力あるお方
イエス様は、力あるお方です。イエス様は、真実で忠実なるお方です。イエス様は清いお方であられます。
ここに出てくる、神と言う言葉は、結局、力を現す言葉です。黙示録によると、イエス様は、死のかぎを持つお方として描かれているのです。
【参考】黙示録
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
それは、イエス様が死に打ち勝たれたために、死に勝る力を持っておられることを意味しているのです。けれども、三章七節においては、イエス様は、死のかぎを持つだけではなく、天国のかぎをも持っておられるお方です。
【参考】黙示録
3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
イエス様は、天においても、地においても、すべての力を持っておられる方です。そして、このイエス様において、我々にはすべてのものが与えられていると、聖書は言っています。
ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
私たちの必要は、イエス様を通して満たされます。私たちにとって、大切なのはイエス様に頼ることだけです。イエス様と結びついている者は、絶えざる喜びを持っているし、毎日、平安をもって、確信をもって過ごすことができるのです。イエス様を通して、すべてが与えられています。
この主イエス様は、完全な力を持っておられ、完全さを持っておられるのです。イエス様は、弱い者や貧しい者たちを、拒むことをされないのであります。イエス様の愛は、小さな力しか持っていなかったフィラデルフィアと言うキリスト者の群れに、向けられていたのです。力があり、そして、強いお方としてイエス様は、弱く貧しい人々のところに来られて、そして、恵みを通して、それらの人々を強めてくださるのです。イエス様は、力に満ちておられる方です。
[二]真実なるお方
第二番目は、イエス様は真実なるお方です。忠実なるお方です。この事実は、聖書を通して、明らかにされています。よく知られているヨハネの手紙の中のこの箇所も、この事実を明らかにしています。
第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
聖書全体の言わんとしていることはこれなんですね。この一箇所で、十分です。もう一回、読みましょう。
第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
神は、真実で忠実なるお方です。これこそ救いなんです。神は、人間ではないからです。人間は、みんな偽善者です。みんな、うそつきです。頼れないのです。頼ることができません。けれども、主は忠実そのものです。偽善を知らないお方です。うそを知らないお方です。自分の約束を必ず、守るお方です。
イエス様は、この世が造られる前から、救いの御業をもたらす方として示されていたのであると、聖書ははっきり言っているのです。そして、イエス様の忠実さが、イエス様をこの世に来るようにさせ、イエス様を十字架につけるようにさせ、我々のわがままを背負うようにされたのです。イエス様の忠実さが、私たちの最高の慰めではないでしょうか。パウロは、ひとつの教えとしてではなく、体験として、次のように書いたのです。
第二テモテ
2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。
すばらしい証しです。イエス様は、忠実であられ、信じる者を決して、決して、見捨てることをなさらないお方です。
ヘブル
13:5 ・・・・主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決して(・・・・『決して』は『決して』です・・・・)あなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
13:6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。・・・・
思い込んでしまったからではない。納得させられたからではない。どうして、『確信』があるかと言いますと、主が約束してくださったからです。『確信』の土台となるものは、人間の経験ではないし、得られた知識でもありません。主の約束だけです。主が約束してくださったからっこそ、『私たちは確信に満ちて』こう言えるのです。
13:6 ・・・・「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
主は、忠実なる、真実なるお方です。真実なる、忠実なるお方として、イエス様は、あらゆる偽りと、あらゆる不真実とを憎まれます。けど、イエス様は、偽りと、そして、不真実とを非常に憎まれるために、かえって、偽り者や偽善者や不忠実な者や、そして、不真実な者に近づかれ、それらの人々の中に住もうと切に望んでおられるのです。
[三]聖なる方
イエス様は、力強いお方であり、イエス様は真実で忠実なお方です。三番目は、イエス様は聖なる方と呼ばれています。イエス様のうちには、罪がありません。イエス様は、父なる神と全く同じように聖なるお方です。聖なるお方としてイエス様は、すべての汚れた者に対して、反対をいたしますけど、決して、汚れた人から身を避けることはなさいません。イエス様は、非常に汚れを忌み嫌われるために、かえって、汚れた者を清めようとして、汚れた者に近づいて来てくださるお方です。
イエス様が、汚れたらい病人に手を触れてその人を清めてくださったように、今日でもなお、汚れた人は、聖なるお方としてのイエス様との出会いを通して、清められるのです。
イエス様は、自分自身を、どうしてこういうふうに明らかにして下さったのでありましょうか?人間を解放するためです。人間を新しくするためです。人間が、生き生きとした希望を持つことができるためです。強いお方として、イエス様は、貧しい者や弱い者を愛し、それらの人々を英雄とされようとしているであると、聖書ははっきり言っているのです。
それから、不真実なる、そして、不忠実なる者に対して、イエス様は真実なるお方として、そう言う人々を愛し、それらの人々の中に住もうと、望んでおられるのです。そして、汚れて、汚い人に対して、イエス様は、聖なるお方として、これらの人々を愛し、こう言う人々を聖なる者にしたいと望んでおられます。
このフィラデルフィアと言う町に住んでいる主を信じる者たちは、本当に主を第一に人々だったのです。フィラデルフィアと言う名前は、兄弟愛を意味しているのです。このフィラデルフィアの教会の信者の群れの特徴は、もちろん、人間的な兄弟愛があったと言うことだけではありません。御霊による愛があったと言うことです。御霊による愛は、イエス様に対する愛です。もし、私たちが毎日、真心から、「主よ、あなたの慕います。あなたを愛している」と言うことができれば、本当に幸いと思います。
この黙示録三章を見ると、この御心にかなうフィラデルフィアのクリスチャンたちは、試練を知るようになったのです。彼らは、確かに、主によって、大いに愛されたのです。
主に愛されると、すべてがうまくいくと考える人もいますけど、決して、そうではありません。愛されればこそ、試練を通らなければならないと、聖書ははっきり言っているのです。ですから、信じる者も、失望落胆して、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。なぜ主は、力に満ちた主は、信じる者が厳しい試練に遭うことを許すのでしょうか?それは、もちろん、信じる者の教育のためであり、信じる者の清めのためであり、信じる者が主の御姿に変えられるためと、聖書ははっきり言っているのです。よく知られているローマ書の八章の中で、パウロは、今度はローマに住んでる信者たちに、次のように書いたのであります。
【参考】ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
すべてが――二十八節、二十九節を見ると――結局、すべてが益となる。主を愛する者にとって、すべてが益となると、書き記されています。結局、私たちの人生の途上に横たわっているものすべて、我々の人生の中に入り込んでくるものすべては、主によって用いられており、したがって、無価値なもの、無目的なものは、何ひとつありません。
私たちは、確かに横道だったではないかと考えます。主の目から見るとおそらく横道はないのではないでしょうか。全部、まっすぐなのです。私たちは、それを見られないから、だから、大いに、悩みます。我々の人生の中に、偶然と言うものは、ひとつもありません。すべての背後に、主が立っておられ、主が、それぞれの場合に応じて、適切な導きをなしておられます。
ここでパウロは、確信を持って、『すべてが益となる』と書いたのです。我々も、このことを常に覚えるべきではないでしょうか。
造りかえられること、主の手によって練られることは、確かに痛みを伴うでしょう。すなわち、それは、自らが砕かれることなしにはあり得ないことです。人はその時、失望します。落胆します。力を失います。自暴自棄に陥りがちです。けれども、このようなことは、自分の思い通りにならない時に、目先のことしか考えない時に、起こることなんです。
主の導きの目的は、二十九節に書かれているように、御子の姿に似た者となることです。主が目指しておられる目的は、考えられないほどすばらしい目的です。私たちは、聖書を通して、主の偉大さを少し知ることができるのでありましょう。けれども、私たちのような者が、この偉大な主の姿に似た者になることだって、考えられないことです。もし、約束されていなければ、絶対に信じられません。この目的から常に目を離さないことは、主の要求であります。
ヘブル書の十二章の中で、今のローマ書と全く同じような箇所が、書き記されています。
ヘブル
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
こう言うふうにヘブル書の著者は、試練の目的について書いたのです。目的とは、十節ですね、「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」主は、ご自身に属している者を、限りなく愛していてくださいますから、だからこそ、そのために懲らしめ、教育なさるのです。主の教育は、我々が主の清さに預かるように、ご自身の御許に引き寄せたく思っておられるからです。
我々の主は、間違いない完全であります。したがって、主の導きも、完全です。おそらく、私たちは、すべてを理解することができず、挫折してしまう危険に直面し、また、自分自身に同調してしまうと言うような場合も多くあることでしょう。どうして、このことを経験しなければならないのでしょうか。なぜ、次から次へとこんなことが、私に起こるのでしょうか。どうして、困難や理解できないことを経験しなければならないのでしょうか。
十一節に大切なのは、その時は、一時的に悲しく思われるものですが、しかし、後になると、それが結果的に幸いになると言うことです。私たちは、長い目で見ることができないから悩むのです。
人間は、決して、主のための実験用のモルモットのような者ではありません。主が常に、最善のみを考えておられる最愛の子であることを、絶えず覚えるべきではないでしょうか。たとえ実際に、すべてが失敗したとしても、私たちは主によって愛されていると言うことを覚えるべきです。
まさに、主の試練や懲らしめこそ、主の愛の証拠です。フィラデルフィアの兄弟姉妹たちは、主を愛したのです。けれども、いろいろな試練を通るようになったのです。フィラデルフィアの信者の群れは、本当に試されたのです。そして、悪魔からの攻撃に対して、彼らは戦ったのです。その試みの目的は、信じる者、ひとりひとりの心の思いが、外に現れ出てくるためだったのです。それは、御霊の愛、、すなわち、イエス様に対する愛が本当にあるかどうかということが、試されるためでした。
黙示録に戻りまして、私たちは、このフィラデルフィア宛ての手紙を読むと、イエス様の喜びを感じることができるのではないでしょうか。イエス様は、いかなる非難の声も出されていません。他の手紙を見ると、いろいろなことが書いてあるのですね。たとえば、『あなたがたは初めの愛から落ちてしまった』、あるいは、『わたしはあなたがたに反対する』と書いてあります。けれども、フィラデルフィアには、そう言う言葉がぜんぜん出て来ません。すなわち、イエス様は、このフィラデルフィアに居る信者を喜ぶことができたのです。どうしてであるかと言いますと、彼らは、イエス様を愛したからです。愛された者こそが試されるようになります。
『あなたがたは、小さな力しか持っていない』とあります。
【参考】黙示録
3:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
原語を見ると、『力』を現す言葉はいくつかあるのですけど、ここで使われているのは、『ダイナミス』と言う言葉なのです。これは、もちろん、肉体的な力、人間的な力を現す言葉ではなくて、霊的な力を現す言葉です。と言ううのは、フィラデルフィアの信者の群れは、霊的な力を持っていたと言うことです。霊的な力と言うのは、ただ人間的な力が用いられていない場合のみに働くのです。確かに人間的に考えれば、フィラデルフィアの信者の群れとは、弱いものだったのでありましょう。彼らは、影響を他に及ぼすことが、少なかったのでありましょう。
今日においても、多くの似かよったことが経験されているのではないでしょうか。たとえば、学校や会社において、あなたは人が救われるようにと努力するでしょうけど、その結果は、なかなか人々は心を開こうとしない。家庭において、自分たちの子供、また、主人たちを導こうと努力しても、誰も心を開こうとしない。皆が無関心な態度をとり続けるかもしれない。
このような場合に、あなたの力は弱いと言うでしょう。このようなときに、あなたは、自分には影響力がないと言って、嘆くかもしれない。フィラデルフィアの教会も、『我々は力が弱く何をやっても無駄だ。我々には望みがない』と言うことができたかもしれないけれど、決して、そうは言いませんでした。
今日も、フィラデルフィアの信者の群れと同じように、攻撃のための戦いがなく、守りのための戦いがなく、ただ、包囲されて、追い込まれた戦いだけがなされているのです。悪魔に取り囲まれて、信じる者は、その上に、不信仰と無関心の壁の前に立たせられているのです。フィラデルフィアにいる信じる者の群れは、敵の圧倒的な力の前に、影響力を及ぼすことができなかったのです。全く、無力でした。けれども、彼らは祈るようになったのです。だからこそ、祈るようになったのです。このいわゆる弱い教会は、祈る教会だったのです。そのゆえに、彼らの問題は解決されました。
イエス様は、この教会を喜ばれたのです。我々にとっても、いちばん大切なことは、イエス様に喜ばれることではないでしょうか。この信者の群れの人たちは、道徳的な力によって、イエス様に喜んでいただこうとする努力も失敗に終わり、信仰的な努力も失敗に終わり、そして、自信もなくなってしまい、すなわち、自分自身がすっかりだめになってしまっていたのです。けれども、彼らは祈るようになったのです。そして、そのことを通して、ダビデの神を持ち、すなわち、力ある方との交わりを得るようになったのです。この信者の群れには、誇りとできるようなものは、ひとつもなかったのです。ダイナミスと言う力は、人間の中にある力ではありません。主の力です。この力を、人は祈りによって得るのです。味わい知るようになります。
あなたもまた、『私は弱い、影響力を持ってない』と、言うかもしれない。パウロ自身も、そのような時を経験したからこそ、神の力を知るようになりました。テモテ第二の手紙で、次のように書かれています。
第二テモテ
4:16 私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな(・・・・周りの信者たちのことなんです・・・・)私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。
4:17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。
みなから捨てられてしまったけど、私は決して、一人ぼっちではなかったのです。主は、私とともに立ち、私にダイナミスを、結局、主の力を与えてくださった。
コリント第二の手紙の中で、パウロはまた、次のように告白しています。これはよく、知られている箇所です。パウロは、自分が弱い、みじめで病気でみじめであるから、強くなりたい。癒やされたいと思って願ったのですけど、主は、彼の思うように答えようとはされなかったのです。
第二コリント
12:7 ・・・・私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました(・・・・ひとつの病気です・・・・)。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
サタンの使いは、主の道具として用いられたのです。
第二コリント
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は(・・・・わたしのダイナミスは・・・・)、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
ひとりぼっちでがんばれば、なんにもなりません。主に頼ると、パウロのように、「主は私と共に立ち、私に力を与えるお方である」と、知るようになります。
小さな力しか持っていなかったフィラデルフィアの教会は、祈りによって、必要な力を得られるようになったのです。フィラデルフィアの信者の群れは、イエス様に近づき、そして、イエス様から必要な助けを与えられたのです。
本当の祈りは、弱さとイエス様へのより頼みの現れです。祈りとは、自分のみじめさ、自分の弱さの告白です。そうでない祈りとは、もちろん、本物ではない。たとえば、上手なお祈りとか、下手なお祈りはあり得ません。本当の祈りと、そうでない祈りしかないのです。本当の祈りは、弱さ、イエス様へのより頼みの現れ、そのものです。
フィラデルフィアの集会は祈る群れでした。彼らは、祈らざるを得なくなったのです。溺れる者が藁をも掴むように、彼らは祈りつつ、御言葉にすがりついたのです。ダビデも同じことを経験したことがあります。詩篇に、非常に素晴らしい告白でもあります。
詩篇
119:92 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
御言葉に頼らなければおしまいです。
フィラデルフィアの信者の群れ、それ自身が無となり、破産した者となったのです。だからこそ、彼らは祈るようになったのです。祈りがなされるところにおいて、主はご自身を明らかにしてくださるのです。それによって、失望や弱さは、消えてなくなります。
包囲された戦いにおいて、軍隊は食糧や弾薬を空から飛行機によって運んでもらわなかればなりません。フィラデルフィアの信じる群れは、いわゆる信心深いユダヤ教徒やこの世の人々や悪霊によって、取り囲まれていたのです。けれども、彼らの上には、開かれた扉があったのです。これは信者たちにとって、最高の慰めです。悪魔にとっては、危険であります。全能なるお方が、『わたしは、再び閉じることのない扉をあなたがたの前に開いておいた』と約束しておられるのであります。
祈るようにと言う呼びかけは、聖書の中にいっぱいありますけれども、二、三箇所、お読みします。
マタイ
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
ヨハネ
6:37 ・・・・わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
申命記
4:29 あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。
第二歴代誌
7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
エレミヤ
33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
マタイ
21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。
ヨハネ
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
ヨハネ
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
ヨハネ
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヤコブ
1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
こう言う約束は、いっぱい我々のためにも、与えられているのです。多くの人は、「私には力がないから何もすることができない。自分はだめだ」と言います。そして、あきらめて失望してしまいます。これは、もちろん、間違っています。私たちが、どのように感じ、どのように考えるかと言うことは大切ではありません。イエス様は、無限の力を持っておられるからです。祈りがなされるところにおいて、イエス様は、自分自身を現してくださるのです。
イエス様を信頼する者は、決して、決して、失望させられません。私たちが主に信頼し、悪魔に立ち向かって行こうとするならば、どのような奇蹟が起こることでありましょうか。フィラデルフィアの信者の群れの特徴とは、彼らが、主の偉大さを知るようになった結果として、主を愛するようになり、そして、この主の愛のひとつの現れとは、試練に遭うことだったのです。そのとき、彼らは、自分の力の無さ、自分の罪深さを知るようになったから、祈らざるを得なかったのです。
祈りのあるところでは、常に悪魔の攻撃が起こるのです。けれども、祈る教会だけが、イエス様の承認を得ることができるのです。祈る信者の群れに対してのみ、イエス様はご自身を現されるのです。そして、信じる者の祈りを通して、イエス様は、栄光をお受けになります。祈る教会のみをイエス様は、用いることがおできになります。
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