2010年2月8日月曜日

キリスト者の使命(五)実を結ぶ人生

キリスト者の使命(五)実を結ぶ人生
暦年テープ、DVD1-CD19[新番号255]
ゴットホルド・ベック

キリスト者の使命について、今まで四回にわたって、次の四点について、ご一緒に学んで来ました。先ず、主に対する礼拝、それから、人に仕える奉仕、それから、悪の霊に対する戦い、そして、先週は、教会、すなわち、兄弟姉妹の交わりについて考えました。今日は、「実を結ぶ人生」について、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。

救われた人々は、救われるためだけに救われたのでなく、キリスト者の人生は、実を結ぶ人生であるべきです。

ちょっと、三つの点に分けたいと思うんですね。この世に対してのキリスト者のあり方はどういうものであるかと言いますと、内面的な相違こそが、ひとつの大切な面だと思うんです。そして、二番目は、主にだけよりかかることも、非常に大切なことであり、それから、自己否定、自分により頼まないことも、非常に大切であります。


この世に対してのキリスト者のあり方について考えると、ピリピ書、三章の八節がその答えになるのではないかと、思うんですね。今、お読みになりました箇所をもう一回、お読みいたします。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

こういうふうに、パウロは証しするようになったのです。パウロは、このことばのうちに主を知ることのいかにすぐれているか、また、いかに価値あることであるか、それから、主を知るためにはいかに多くの価いを払わなければいけないかを述べています。

パウロはここで、これらのものを『あくた』の如く思うと言っていますが、パウロがちりあくたと言ったこれらのものは、決して決して、小さなものではなかったんです。それは、パウロの立場、パウロの能力、その時に、もうすでにパウロが得ていた地位や名誉や目的を意味していました。知恵や名誉や学識は問題ではなくなり、イエス様を知ること、イエス様をより良く知ることが、パウロのすべてとなったのです。

多面、主を知るためにパウロは、多くの価いを払わなければいかなかったんです。パウロは多くの人に、かつては、ほめそやされ、敬われていたんですけど、いったん、イエス様の証し人となるや、それらの人々は、パウロから離れてしまったばかりではなく、パウロを迫害さえするようにさえなったのです。価が払われなければいけなかったんです。

パウロは、主と、他の自ら身につけたものとをよく比較して、そして、検討した結果、主の方を選び取りました。パウロは心の中で、自ら、自分は他の者と違うことを確信していました。世人と全く異種の者であることを、自覚してたのです。ヨハネ伝の中でイエス様は言われたのです。

ヨハネ
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

イエス様を受け入れた人々は全く世の人と違った、異種の者であるべきです。

一昨日の前夜祈祷式、また、夕べの前夜祈祷式も、そうはっきり感じました。やはり、主を信ずる者と、そうでない者とは、やはり全く違うということなんです。もちろん、私たちは未信者と一緒に生活しなければなりません。けれども、イエス様によって救われていない人々と、同じではありません。もし、私たちがこの世の人々を主に導く者となりたければ、自分はこの世とは全く違った者であることを、いつも自覚しなければいけません。もし、少しでもこの世と妥協するところがあるなら、主なる神はその人を用いることができません。

イエス様は、この世に生きておられたとき、他の人間には見られない友情とあわれみに富んだお方だったのであります。けども、他の人間と本質的に、イエス様は違ったお方でした。「わたしは世のものではない」と、イエス様は何回も何回も言われたのです。イエス様は、自分は彼らと違う・・・・いつもこの自覚を持っておられました。これは、イエス様のご奉仕の力の源でもあったのです。この内面的な相違こそ、キリスト者の生涯の力の秘訣です。もし、私たちが、この世の人々と、自分が本質的に違うということを深く知るならば、何とかして、この人々を主の国に導きたいという深い願いを持つようになります。

もし、私たちが主に喜ばれるしもべとして生きたいと思うなら、はっきりした態度を取る必要があります。私たちが、心の中に正しい態度を持つということは、決して、簡単なことではありません。けども、今日、神はこの地上に、はっきりとした態度を取る人を探し求めておられます。はっきりとした態度を取ることは、もちろん、千九百年前にも同じく、簡単ではありませんでした。

イエス様の弟子たちについて、次のこと言えます。たとえばペテロが殺される時、自分はイエス様と同じ死に方はしたくない、イエス様よりも、悪い死に方であるべきと言って、逆さはりつけになったと言われています。ヤコブは、ヘロデ王によって首を切られて死んだと伝えられています。ヨハネは、パトモス島に島流しになり、最後を遂げたそうです。アンデレは、十字架にかかり、最後を遂げたと伝えられています。ピリポも火あぶりになって殺され、バルトロマイは打ち殺され、トマスは、また刺しで殺されたと伝えられています。マタイは、エチオピアで殺され、他のヤコブは、エジプトで十字架につけられ、ユダの一人は、ペルシヤで殺されました。シモンは、これまた、十字架で最後を遂げたと言われています。

この主の弟子たちは、主と他のもの、この世に属するものを、よく比較検討した結果、皆、主を選び取ったのです。もちろん、パウロも同じ態度を取ったのですね。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

我々の目ざすところは、いったいどこにあるのでありましょうか。有名になることでしょうか。世に知られることでしょうか。ほめられることでしょうか。あるいは、主のしもべとして用いられたい、主だけが、中心になってもらいたいという願いを持っているのでありましょうか。内面的な相違こそが、生き生きとした証しであります。

次に、主にだけよりかかることも、非常に大切でありますが、先週、ちょっと、ヨハネ伝、十五章から読んだんですけど、もう一回、ちょっと、一節からお読み致します。良く知られている箇所ですけど、単なるたとえ話というよりも、キリストの使命とはどういうものであるか、実を結ぶ秘訣とはどういうものであるかと、この箇所をとおして、はっきり知ることができると思います。

ヨハネ
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

この箇所を見ると、実を結ぶ秘訣とはどういうものであるかと、はっきり知ることができるのです。

五節は、非常に大切なことです。『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』という箇所です。どんな宗教でも、何かをしようとしています。どんな宗教もそれぞれに教理を持っています。そして、それぞれの信者たちは、その教理を我がものにしようと努力するでしょう。けど、キリスト教をこれらの宗教に比べると、キリスト教の場合は、ただ教理ばかりではなく、生きておられるイエス様ご自身を知ることが大切であります。ヘブル書の中で、「主イエスは、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方である」と書いてあります。このいつまでも変わらないお方、ご自身を知ることこそが大切です。

もし、私たちがある教え、ある教理を実行しようと努力するなら、それは、いわゆるキリスト教の出発でなくて、人々がイエス様のもとへ来ることが出発である。ですから、イエス様は、決して、本物を得るために、わたしの教えを研究せよ、理解せよと言ったことがありません。いつもただ、ありのままの状態で主のところに来なさい。イエス様のところに行った人々は皆、イエス様御自身を知るようになり、すなわち、イエス様によって受け入れられ、癒され、回復されたのです。

まず、誰でもイエス様のところに来なければならないから、彼から離れては真のクリスチャンであることはできません。この十五章の姿をご覧いただきますと、イエス様ご自身が真のぶどうの木で、そして、あなたがたは、すなわち、信ずる者はその枝である、と言われています。これは、有機体を意味するんですね。組織的な関係じゃないんですね。イエス様は木であり、信ずる者はその枝である。木の幹が、その枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができるのです。ぶどうの幹に、力といのちが満ちているのであります。

パウロは、私たちの主と、私たちとの関係をコロサイ書、二章でもって、次のようなことばで表現していますね。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そして、あなたがたは――結局、キリストと結びついている者であるから――満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです、と。

ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

これは、努力の結果ではなく、つながっている結果です。当然です。

主の中に、力といのちが満ち満ちています。主は、私たちの内に生きておられ、そして、私たちをとおして、実を結ぼうと望んでおられます。私たちは、その満ちたるものを受けるために、生きたつながりを保っていなければならない。だから、この五節の後半に、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないから」と、書いてあります。主から離れては、私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると、『少しも』できません。イエス様は、何事でも大仰に言われなかったのです。

私たちのうち、もっとも足りないことは、いったい何でしょうか。それは、私たちが自分で何かを試みようとし、イエス様のために何か計画をしようとする独立の精神だけがあって、イエス様によりかかる心がないことではないでしょうか。

イエス様が、ペテロに次のように言われたことがありますけども、ヨハネ伝の二十一章、良く知られていることばです。ペテロはその時、もちろんこのことばの意味を理解することができなかったと思います。

ヨハネ
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。

このことばは、私たちも、必ずいつか体験しなければならないのでありましょう。全く主によりかかるということが、実を結ぶことと、力を持つことの秘訣であります。

主によりかかることが、まことの自由です。私たちは、果たして自ら貧しいことを、知っているのでありましょうか。私たちは、何事もできない者です。けれども、主イエス様は私たちのうちにあって行動者となり、愛する者となり、祈祷者とならんことを、切に望んでおられるのであります。この無限の富を前にして、私たちは乞食のようではないでしょうか。主によりかかることは、泉につながっていることを意味しています。そして、イエス様こそが、泉そのものです。我々の慰めの泉であると、聖書は言っています。マタイ伝、十一章の中で、イエス様は、『重荷を負って苦労している者は、いろいろなことで悩んでいる者は、わたしのところに来なさい。わたしは休ませてあげます。わたしこそがまことの慰めの泉である』と。

この悩める世には、無数の人が慰めを求めています。けど、誰も、また、何にも、これに答えるものはありません。しかし、イエス様は呼びかけておられます。『わたしのもとに来なさい。わたしは休ませてあげます。まことの慰めを与えます』と。

また、イエス様は力の源であります。力の泉です。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

私たちは、能力と権力を必要とします。主は、これらのものの所有者であり、イエス様こそが力の泉、そのものであられます。もちろん、イエス様は、罪の赦しの源であり、泉であられます。イエス様だけが、神の権威を持って、「あなたの罪は赦されたのだ」と言えるかたであります。

罪の赦しを欲しいと思う人は、まず、自ら、罪人であると知らなければなりません。もちろん、自分は罪人だ、過ちを犯した者だと認めることだけでは、十分ではありません。イエス様は、あなたにどんな罪を犯したか・・・・とお訊ねになります。自分は、かつて、聖い主なる神と、あなたとのあいだに、いかに大きな隔たりがあることを感じられたことがあるのでしょうか。自分の過ちを告白したことがあるのでしょうか。隠す者は成功しない。言い表わすと、恵みを受けると聖書全体は約束しています。もし、私たちが、自分の罪を言い表わすと神はその罪を赦してくださり、受け入れてくださる、と書き記されています。ですから、言いあらわした後で、神は赦してくださったと、素直に信ずることができる。どうしてであるかと言いますと、聖書がそう言っているからであります。神は嘘を知らない方であるからです。

また、イエス様は平和の泉そのものであります。現代の世界の国々は、皆、平和、平和と宣伝します。平和会議を招集します。けども、そういう人々は、イエス様だけが平和の源、そのものであることを忘れているのです。パウロは、「キリストこそ私たちの平和です」と、確信をもって、経験者として、言うことができたのです。イエス様によりかかるということが、慰め、力、罪の赦しと平和の源に連結していると言う事実を覚えましょう。

イエス様により頼む秘訣とは、いったい何なのでありましょうか。ヘブル書の十二章に次のように書いてあります。良く知られていることばです。

ヘブル
12;2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエスから目を離さないことです。これこそが、もっとも大切であり、主により頼む秘訣です。

主によりかかるというのは、すなわち、イエス様だけを仰ぎ見ることです。イエス様が私たちのために十字架につけられただけでなく、イエス様は、ほんとうに復活なさったのです。イエス様は、死を克服してくださったお方です。そして、イエス様は、神の御座の右に座しておられる方です・・・・と。その御座とは、栄光の場所であります。イエス様は、いつも、主なる神の御心にかなうお方でありました。十字架をさえ忍ばれたので、天にお帰りになったとき、父なる神は、イエス様に、そのいちばん高い栄光の場所を与えられたのであります。ピリピ書によると、「神は彼を高く引き上げて、すべての名にまさる名を主イエス様に賜わった」と書いてあります。また、イエス様は、「罪の聖めのわざをなし終えてから、いと高きところにいます大能者の右の座に着かれた」と書いてあります。

この御座とは、ほんとうに栄光の場であり、畏敬の場であり、力の場であります。イエス様は、この世におられたとき、次のように言うことができたのです。「わたしは天においても地においてもいっさいの権威を授けられた」と。

我々の主が、栄光の場、畏敬の場、力の場に座しておられるお方です。その主によりかかる人が、あえて不思議とするところでない、次のように宣言することができます。ピリピ書四章、「私を強くしてくださる方によって、何事でもすることができる。」「私はすべてのものを受けて有り余るほどである」と、パウロは言うことができたのです。「私は神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加えてくださる(第二コリント二・十四)」とあります。そのように宣言することができる秘訣は、主によりかかることです。こうしてより頼むことは、信ずる者の幸せです。イエス様から離れては何一つできないのである。けど、イエス様と共なれば、何事もできるということです。ヘブル書に次のようなことばが書かれています。イエス様を見上げる必要性についての箇所です。

ヘブル
2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

イエスのことは見ている。大切なのはそれなんです。詩篇の三十四篇の五節には、『彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。』

前に、何回も何回も言いましたように、大切なのは、本当に主を仰ぎ見ることだけではないでしょうか。私たち自身を見ることは、要りません。私たちは、長いあいだ、自分自身を見て来ましたが、そのことの結果は、どうだったのでありましょうか。私たちは、傲慢になったり、または、劣等感に陥ります。誰でも自分自身を見ると、自分自身に頼る。それは、哀れな状態です。

どうして、私たちは、イエス様だけを見ないのでしょうか。私たちは、みことばを信じていないからです。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」と、イエスは言われたのです。もし、私たちがこのみことばを信ずるならば、私たちは何事においても、自分自身を当てにしないでしょう。そして、私たちは失望させられない。イエス様だけを見ましょう。私たちは、自分自身を見る価値のない者です。

また、私たちは、他人を見ることは要りません。これも長いあいだ、私たちのなしたことではないでしょうか。その結果は、人の顔を見ることに陥り、または、人の機嫌を取ることに心を奪われてしまいます。それは、不幸への道です。

おそらく、イエス様を信ずる者は皆、ペテロの経験をするでしょう。ペテロはイエス様を見ながら、「あなたこそ生けるまことの神、キリストです」と言いましたけど、まもなく、イエス様は、同じペテロに言われたのです。「サタンよ、引き下がれ。私のじゃまをする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」人を見ることは、すなわち、人により頼むことです。すなわち、主に頼ることができません。人を見る目から離れて、イエス様だけを見上げなさい。

また、私たちは、境遇を見る必要はありません。もし、私たちが、境遇を見、境遇の面倒なことを見ると、それに支配されてしまいます。「わたしから離れては、あなたがたは何一つ出来ないからである」と、イエス様は、言われたのです。このみことばを、信ずべきではないでしょうか。イエス様は、ここで何もできない。『多くのことをできない』とは言われなかったんですね。『何もできない。』説教することができても、証しをすることができても、いろいろな奉仕をすることができても、けど、その実は永久に残りません。イエス様の判断によると、「少しも」残らない、わたしから離れては、あなたがたは何一つできない。

私たちは、自分自身を見ることは要りません。他人を見ることは要りません。境遇を見る必要はありません。

罪とは、いったい何なのでありましょうか。罪というギリシヤ語の意味の一つは、「矢が的を外れる」という意味です。同じように、イエス様を見ないことは、的を外れることです。すなわち、罪です。

ひとつの実例を申し上げましょうか。それは、ずっと昔、前の前の話です。一九四二年、ソ連のスターリングラードであったことなんですけども、ドイツの軍隊、三十三万人はスターリングラードの町の中で、敵の軍隊によって、包囲されていました。数週間後、軍隊、兵隊たちは、もはや弾薬も食料もなくなったんです。馬も全部、食べ尽くされました。最初は、まだ、病人と負傷者は、飛行機で連れ出すことができたんです。もちろん、その情勢は見込みがなかったんです。多くの兵士たちは、故郷の家族を思い、絶望しました。その中に、イエス様を信ずる者も、もちろん、いましたし、これらの信者たちは、敵や絶望的な状態を見ることなく、ただイエス様だけを見たのです。私の友だちの友人もそこにいまして、この方は、このような状態の中では、何にもできないということを知って、これは、「イエス様なしでは何もできない」ということばを良く知っていましたので、彼は、また、このことばの現実性を知っていたから、すなわち、「私を強くしてくださる方によって何事でもできる」と、確信したのです。だから、彼はこのような絶望的な状態の中でさえ、次のような詩をつくることができたのです。


主イエスと共にあれば、毎日毎日が麗しくなるそれを私は体験し、経験する将来、何が起ころうとも、主イエスに忠誠を尽くしたい

このような詩をつくったんです。彼は、もちろん、すぐ後で、殺されてしまったんです。けども、主に頼ることこそが力の源です。

最後に、ちょっとだけ、自己否定の大切さについて、すなわち、自分により頼まないことについて、考えて終わりたいと思います。自己否定は、自分の権利を捧げることです。自分により頼まないことです。「私の心ではなく、あなたの御心をなしてください。」これこそが、イエス様の全生涯の変わらなかった態度だったんです。だから、イエス様から恵みの流れ、いのちの泉が、人々に分け与えられていたのです。私たちの考え、私たちの感情、私たちの意志、すべてが主のご支配のもとに置かれるとき、私たちの内から、いのちの泉が湧き出てくるはずです。我々の生まれながらの考え、感情、意志は、決して、霊的ではありません。これを御霊の支配にゆだねるとき、初めて、それは、御心にかなうものとなります。それらを、主にささげることにより、霊的なものになります。自分、自らの考え、感情、意志を、自分から、主に決心して捧げるのでなければ、私たちの内から、主のいのちは流れ出ません。

大ぜいの人が一緒にする決心ではなく、一人ひとりが、決心しなければならないことです。これは、祈りによっては、解決できないことでしょう。実際に、行わなければならないことです。「主よ、私は自らに絶望しています。自ら、何もすることができません。どうか私を通して、ご自身の御心をなさしめてください」と、言いたいものです。

創世記の中で、アブラハムについて、多くのことが書かかれていますけども、彼は、イサクをささげる前に、そのイシュマエルと言う子どもをささげなければならなかったんです。多くの信ずる者は、反対のことをしているのではないかと思うんですね。イシュマエルをささげようとせず、イサクだけをささげようと思っているのです。すなわち、自らの自分の力で、肉の力で主に仕えようとします。

いわゆる聖めは、罪からの解放より、もっと深く大きいものです。それは、自分の意志を主にささげ、自分の支配を主にゆだねることです。アブラハムは、勇気を奮い起こして、自ら出たイシュマエルを荒野に捨てました。その後で、アブラハムにもたらされた祝福は、どんなに大きかったことでしょう。彼の勝利の生活を、私たちも送るためには、何をやったら良いのでありましょう。アブラハムと同じように、自分のもっとも愛するものを主にささぐることによって、勝利の生活を送ることができます。

ドイツに、ある一人のキリスト者がいますけど、この方は、自分の生まれながらの性質を、非常に苦にしていました。いつも、悪魔に試みられ、おまえは繰り返し、繰り返し同じ失敗をしている、おまえは、もうダメな人間だと言って来ます。けど、ある日、その人は自分の古き人が十字架につけられた夢を見ました。それから、また、悪魔が攻めて来ましたが、この時、十字架につけられた自らを指し示したところ、悪魔は逃げて行ってしまったということです。

十字架を見ると、そこには、イエス様だけでなく、我々の古き人も、そこについていると、ローマ書、六章六節ですか、「私たちの古き人はキリストと共に十字架につけられた」と書いてあります。どんなに悪魔が攻めてきても、私たちはこのみことばをもって、立ち向かうことができます。イエス様の勝利は、完全な勝利です。イエス様は、私たちの古き人とともに十字架につけられて、亡くなってくださったのです。パウロは、ガラテヤ書、二章二十節に、「生きているのは私ではなく、キリストが私の内に住んでおられる」と、言うことができたのです。悪魔は我々に対して何の権利もない。「悪魔よ、退け」と言うことができます。

あなたの持てる問題が何であろうと、イエス様のご臨在を深く心に覚えるまで、主の御前に静まり、主の臨在を確信したならば、みことばを開いて、主の声を聞きましょう。そうして行くと、日々、新たなる力を上からいただく、勝利の生活を送ることができるようになります。

最後に、ひとつのパンフレットに書いたことを、ちょっとお読み致します。その題名は、「満たされた生活」なんです。我々、キリスト者の使命は、もちろん、満たされた生活を送ることではないでしょうか。「我々は皆、満たされた生活に満たされている」と、聖書は、はっきり言っているのです。パンフレットの内容は次の内容です。


『中国の福建省の丘には、所有者の名前が刻み込まれた特殊な美しい、価値ある竹の幹が見られます。必要な水を村へ引くには、このような長い竹筒の樋を用なければならないことが、しばしばあります。竹の直径は大体、十センチから十二センチです。
一本のたぐい稀な美しい竹が、他の竹に混じって、ある丘の側に立っていました。その幹は、黒くつやつや光っており、やさしい羽根のような枝は、涼しい夕暮に揺り動いていました。私が、その竹の前に立ち、そのすばらしい美しさに驚嘆していますと、この木は、私に何かささやき始めました。
「あなたは、私の強い幹と力強い枝に驚いておられる。しかし、あなたの見ておられるものは、皆、私自身の力でできたものは、ひとつもないのです。私の持っているものは全部、私のご主人の愛情深い世話でできたものです。彼は、私をこの豊かな丘に植え、私の根が隠された泉にとどくことができるようにして、この泉から、私は絶えずいのちの水を飲み、栄養を取り、美しさや力を得ているのです。よその木を見てごらんなさい。何とやせ細っていることでしょう。あの木々の根は、生きた泉に届いていないのです。それに引き換え、私は隠れた水を見つけているから、欠乏することを知りません。私の幹に彫ってある文字を読んでごらんなさい。近くへ来て、見てごらんなさい。この文字は、彫り込まれているのです。この仕事は、苦痛に満ちたものでした。仕事の終わるまで、耐え忍びました。しかし、小刀を振るったのは、私の主人の手だったのです。この仕事が終わった後、私は、いい知れない喜びを覚えました。このとき以来、私は、『彼は、私を愛しており、私が彼の所有物であるということを、私に知らせようと思っている』という確信を持ちました。実に、このような主人を持つということは私の名誉です。」
竹が、私にこれらをみな語っているあいだに、私はあたりを見回しました。すると、この主人が立っていました。彼は、愛情を込めて自分の木を眺めていました。手には、一振りの鋭い斧を持っていました。「わたしは、おまえが必要なのだ。おまえは、わたしの役に立ってくれるかい」と、彼は言いました。「ご主人さま、私の持っているものは、みなあなたのものです。しかし、私はあなたにとって、何のために役に立つのでしょうか」と、この竹は答えました。「わたしは、わたしの生きるための水を、乾いて痩せた水のない土地へ持っていくために、おまえが必要なんだよ」と、主人は答えました。「しかし、ご主人さま、どうして私は、それに役立つことができるのでしょう。生きた泉のあるここでは、私は必要に応じて、水を得ることができ、私の枝は空に張り出し、降って来るにわか雨で元気づけられるのです。私は、強く美しくなることができ、力と美しさが、天から与えられるのがうれしいのです。私は、通り行く人すべてに、あなたは私にとって実に良い主人だということができます。どうしたら、私は他の人々に、いのちの水を、さらに与えることができるのでしょうか。」
主人のこれに答える声は、非常に弱くなって、「もし、おまえがおとなしくしていたら、わたしはおまえを使うことができるのだ。しかし、そのためには、わたしはおまえを切り倒して、お前の枝を全部、取り、おまえを裸にせねばならないのだ。それから、わたしはお前を、ここから遠くの山の青草と雑草と刺のある、雑木しか生えていない寂しい場所へ持って行き、そこでさえ、わたしは、痛い小刀を使わなければならないのだよ。なぜなら、わたしのいのちの水が通り抜けることができるように、お前の幹の中の邪魔物を取り除かなければならないからだ。お前は今、自分が死ぬだろうということを考えているね。そう、お前は死ぬでしょう。しかし、それから、わたしのいのちの水は、お前の中を通って、妨げられずに流れることができるのだ。確かにお前は自分の美しさを捨てなければならない。お前を讃美し、お前のみずみずしさや力強さをほめたたえる者は、誰もなくなるだろう。しかし、多くの人々が、かがんで、お前を通って流れるいのちの流れを飲むのだよ。確かに、彼らはお前を見ないであろう。しかし、お前を通して生きるための水を与えた、お前の主人をほめたたえるだろう。お前は、この報酬を、快く受け入れて死ぬことができるか。」
私は、この竹の答えを聞こうとして、息を殺して、「ご主人さま、私、および、私の持っているものは、全部あなたのおかげです。もし、あなたがほんとうに私を用い、私の献身によって、他の人々に、生きるための水を運ぶことができるのでしたら、私は喜んであなたに身をささげます。ご主人よ、私をあなたの思うままに、切り取ってお使いください。」主人の眼差しは、よりやさしくなりました。それから、彼は鋭い斧を手に取り、一撃のもとに切り倒しました。竹は、少しも反抗せず、彼は手を緩めなかった。竹は囁いた。「ご主人さま、あなたの思うようにしてください。」斧は、休みなく働く。そして、この木の素すばしさ、その王冠は幹から切り離され、永遠に失われたのです。今や彼は、ほんとうに裸になりました。
主人は、尽きることなく、優しさを持って、この幹を肩に担ぎ、山を越えて、遠くの方へ運んで行きました。彼は、ある寂しい場所に立ちどまり、もう一度、恐ろしそうに見える鋭く研がれた刃物を手にしました。彼は、その刃物を幹の中心に直接、突き刺し、抉り出しました。彼は、幹の中に水路をつくり、この管によって、水のない土地に水を流そうとしたのです。幹は逆らわず、ただ、「ご主人さま、あなたの思うことが実現しますように」と、ささやくのでした。彼は、節に全部、穴を開け、幹の端から端まで、穴が空くまで、同情を込めて、この仕事をやりました。それから、彼は幹を起こし、用心深く、水晶のように澄んでいるいのちの水が、ほとばしり出ているところに運びました。そこで、幹を横にし、一方の端を水がほとばしり出るところに送りました。水は、幹を通って流れました。非常な苦痛のもとにできた、軌道に沿って流れました。流れのように水は流れました。音もなく、絶え間なく、無尽蔵に。そして、主人は喜び、また、満足もしました。そして、主人は、他の木を探すために、また、出かけました。彼の選んだ二三本の木は、驚いて尻込みしました。その報酬を恐れたのです。しかし、他の木は、「ご主人さま、私たちは、あなたを信頼しています。あなたの思うようにしてください」と、言いながら彼に身をゆだねました。
このような苦難の道を経た後、彼は、木を順々に例の場所に運び、端と端を結んで、下に置きました。幹が全部、位置につくと、彼は泉から直接、新鮮な澄んだいのちの水を注ぎ込みました。幹によって橋渡しされた距離は長いあいだ、思い焦がれていた喉の渇いた人々は、男も女も子どももみなこの水を飲むことができました。それから、彼らは、「水が来たぞ!長いあいだの苦しみは終わった。来て飲みなさい」と言いながら、他の人たちは来て、水を飲み元気づけられました。
主人は、この様を見、彼の心は幸福になった。彼は、自分の木のところへ引き返し、木に訊ねました。「おまえは相変わらず寂しいか?世界にいのちの水を与えるための報いは高過ぎたか。」それに続いて、木は答えました。「いいえ、ご主人さま。たとい、私が千のいのちを持っているとしても、私はあなたを喜ばせ、喉の渇いている人々を休め、役立つという幸福のために、あなたに身をゆだねたことでしょう。」』

最後に、最初に読んだ箇所をもう一回、読んで終わりたいと思います。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

私たちも、同じ態度を取ることができるならば、ほんとうに幸いと思います。

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