2010年3月24日水曜日

人間にとっていちばん大切なのは、イエス様をよりよく知ること(仮題)

人間にとっていちばん大切なのは、イエス様をよりよく知ること(仮題)
2010年3月24日、茅ヶ崎家庭集会
ゴットホルド・ベック

マルコ
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

人間にとってもっとも大切なのはイエス様を知ること、イエス様をよりよく知ることなのではないでしょうか。十字架に付けられたお方として、復活なさったお方として、全てを支配しておられるお方として、そして――前に歌いましたように――また、再臨なさるお方としてです。


福音書の中で、イエス様は必ずまた来る。頭を上にあげなさい。贖いが、すなわち、救い主が近づいたのです・・・・とあります。

ヘブル
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

イエス様は来られます。もうちょっと!と考えると、やはり、どういう問題、悩み、苦しみ、孤独があっても、大したものではない。今の悩みとか苦しむこととは、いつまでも続くものではない。どうして、いろいろなことで悩むかと言いますと、もちろん、必要だから。人間は誰でもが悩みたくないし、苦しみたくないし、孤独になりたくない。けど、必要。だからイエス様は、悲しむ者は幸いです。同情すべきなのではない。間違った同情を持っているのは、どうしようもない人間です。真の神は同情しません。愛してるからです。これは、全く違うのではないでしょうか。

けど、悩むことは確かにたいへんです。何年前だったか、ちょっと忘れましたけど、ある時、一人の方が重病人になってしまったのです。手足も使えませんし、話すこともできないし、たまに、いい天気のとき、指一本だけ動かすことができたんです。そして、コンピューターと繋がっていて、そうすると、彼女は、言いたいことを言うことができたんです。医者は、もちろん、お手上げでしたし、長く入院されたんですけど、全くもう意味のないことです。ですから、退院されて、そして、結婚した娘夫婦が面倒を見ていたんです。病院で使う機械も全部、買っちゃったし、けども、娘にとってもたいへんでした。長く離れられない。十五分、二十分、走りながら買い物して、そして、すぐに戻らなくてはいけない。お母さんはどういう状態になるのかわからないから。けども、そのお母さんは、イエス様を信じるようになっちゃったよ。

見舞いに行ったとき、彼女の喜びに輝いている眼を見たとき、いつも、嬉しかった。ある時、彼女は、次のような文章を書いたんです。『痛みの塊です。だから、いつも祈ってます。耳も聞こえないし、食べることもできず、ラッパの音を待つばかり。早く駆け足で迎えに来てください。再臨が近いものと、首を長くして待っております。』結局、彼女は、悩みながら、喜ぶことができたのです。けども、痛みの塊です。今、読みました箇所でしたね。

マルコ
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

ここでも、『ひどい痛み』という表現が出てきます。痛むと、『痛い、痛い!』ということになると、やはりたいへんです。もう三十何年前でしょうかね。私はちょっと、椎間板ヘルニアになってしまったんです。そして、朝四時ごろ、強い痛み止めを飲んで、そして、ベッドから降りるところまで、三時間かかった。汗びっしょり。痛くて痛くて仕方がない、結局、坐骨神経が骨と骨のあいだにおさまるようになったんです。ちょっとたいへんでした。

今、話した奥さんも痛みのかたまりです。だから、不平不満をいう権利があるのではない。『痛みのかたまりです。だから、いつも――たまにじゃないよ――いつも、祈っている。』そういう人々は幸せなのではないでしょうか。

昨日も集会の一人の兄弟のこと、イワシタ・ハジメ兄弟のことを話したんですけど、やはり、末期の癌で、ちょっとたいへんだそうです。近いうちに、あるホスピスに入院されるようになる。けど、ご存知でしょう。ホスピスと病院とは、ちょっと違う。入院されている人、病院で入院されている人は、やはり良くなるためのものでしょう。ホスピスの場合は、もうお手上げなんです。もう何もできない。あまり痛くならないように、やわらげるため場所だそうです。けども、今のこのマルコ伝の五章に出てくる人は、ひどい痛みを持っていた者でした。けども、元気になった。どうして?イエス様との出会いによって、元気になった。『安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』

この今、読んでもらいました箇所を見ると、主の力を自分で体験する必要性について書いてあります。そして、主の力を実際に体験した人間の例が、ここに挙げられています。この重病人は、イエス様との出会いによって元気になったよ。イエス様はすごい、イエス様がすばらしいと、心から言えるようになりました。

三つの点について考えましょうか。第一番目、彼女の状態はどういうものでしたでしょう。もちろん、慰めのないものでした。二番目、彼女の経験したのは主の力です。ひとつの教えというよりも、主の力を彼女は経験したのです。そして、第三番目、彼女は主の声を聞いたのです。結果、病(やまい)が完成に癒されたということです。

まず第一に、望みなく、慰めもない、彼女の状態について考えましょうか。おそらく、それまでの彼女の人生がどのようなものだったか、おおよそ、見当がつくのではないかなと思います。病気の苦しみ、失望と心の奥底にある悩みなどです。けど、彼女は、二、三週間、二、三年間だけではなくて、十二年間・・・・ちょっと考えられない。十二年間も、彼女は患っていたのです。いかなる医者も、どうすることもできませんでした。この十二年間は、彼女にとって、苦しみと悩みに満ちた日々の連続だったでしょう。医者もお金も、どうすることもできなかったため、彼女は、全く失望したでしょう。

むしろ、反対に、医者によって、かえってますます悪くなったかもしれん。その結果、彼女は単に失望しただけではなくて、貧乏になってしった。持っていたお金も、全部なくなってしまったのです。持ち物を全部、費やしてしまったのです。それで、病気が治れば別にかまわない。けど役に立たないものでした。全くみずぼらしい状態になり、人々から遠ざかっていたでしょう。結果として、孤独になっちゃった。

旧約聖書の律法によると、血の漏出のある女は汚れた不浄のものとされ、その女と交わることは禁じられていたのです。そうすると、もう寂しくて、寂しくて仕方がない。現代人の大部分も孤独病にかかっているのではないでしょうか。寂しい。もう少し、理解してもらいたい。愛されたい気持ちでいっぱいなのではないでしょうか。

普通の人は、彼女と交わろうとしなかった。イエス様だけ。イエス様は結局、近づいてくださったのです。彼女は、イエス様に近づくことができなかったから、イエス様が近づいてくださいました。おそらく、彼女は、その時までに、イエス様の力について、イエス様のなされた奇蹟についていろいろなことを聞いていたはずです。イエス様のことを知らなかった人は、当時、おそらくいないでしょう。なぜならば、イエス様の教えにピンと来なくても、理解できなくても、けど、イエス様のなされた奇蹟は、やはり、もうすごかったのです。おそらく、毎日、何十人もの人が運ばれて、イエス様によって癒され、健康人として帰るようになったのです。

彼女も、イエス様だったら、なんとかなるだけではなくて、イエス様だったら、私をも癒すことができると思うようになったに違いない。そして、彼女は、後ろから、イエス様の衣を触ったとありますね。御衣(みころも)だけさわれば、うまくいく、治していただけると、彼女は望んだだだけではなくて確信したんです。これは、信仰なんです。

彼女は、医者などと違って、イエス様は、必ず自分の病を癒すことができる・・・・ということに、何の疑いも持っていなかった。ただ、イエス様にさわりたい。そういう強い願いを持ってました。すなわち、彼女はイエス様にさわれば、主の力を体験することができると思ったのです。その時、イエス様の周囲には――いつもそうだったでしょうけど――多くの人々がいたんです。なかなか、近づくことは無理だったのです。もちろん、真っ正面から、前からは無理だったから、もしかすると、後ろからならなんとかなると思ったのでしょう。

大勢いたとしても、彼女にはもう関係ない。イエス様はできる。イエス様にはできるだけではなくて、癒そうと願っておられるとも思ったのです。そして、イエス様にさわった時、実際にイエス様の力を彼女は体験しました。彼女の血のもとがすぐに変わったんです。

決して、長い時間がかかって、少しずつゆっくりと癒されたのではなくて、一瞬にして癒されたんです。イエス様はすぐに、自分の力がなくなったのではなくて、自分の力が働いたことを感じられました。その時、彼女は、誰にも気がつかれないように、忍び足でその場を去ろうとしたんです。もう元気になったから、ありがたい。嬉しい。けど、そのままで帰ったとしたならば、彼女にとって損を意味していたのではないかなと思います。イエス様は、ただ単に、彼女が主の力を体験することを望んだだけではなく、本当に出会うことを望んでいたのです。贈り物よりも、それを贈った贈り主の方が、はるかに大切であったのです。

だから、イエス様は、もちろん、分かっていたのに訊いちゃったんです。誰?私の衣にさわったの?疑いもなく、そのとき、女はもうちょっと心配するようになったのではないでしょうか。恐れおののいたでしょう。どうしよう?彼女は、イエス様の力を信じていましたけど、今や、イエス様の人格を、イエス様ご自身を、体験的に知る必要がありました。彼女がイエス様に対して取った態度や行動を、初めから見てみると、始めと後とでは、著しい対照をなしていることがわかるのではないでしょうか。初めは、自分自身に言い聞かせていた女が、今や、イエス様に全て、ありのままを申し上げた。もう、これこそ全て。

イエス様にすべてありのままを申し上げると、元気になる。希望に満たされるようになる。はじめは、後ろから衣にさわった女が、今や、イエス様の御前にひれ伏しているのです。感謝に満ちて。本当の意味での礼拝者になったのではないでしょうか。初めは、恐れおののいていた彼女が、今や、イエス様の愛を全人格的に受け入れているのです。その時、イエス様は、彼女を叱ったり、厳しく戒めたり、非難したり、咎めたりすることなく、愛をもって、『娘よ』という表現を使ったのです。『娘よ。』

これは、全く個人的な、人格的な愛の表現です。いつ、イエス様はこのような御言葉を彼女に語ったのでしょうか。それは、彼女がイエス様に悩み、苦しみを告白し、全てありのままに申し上げた後でした。私たちも、イエス様から愛に満ちた御言葉、自由を得させる御言葉を聞きたいと思うならば、正直に、全てありのままを申し上げるべきなのではないでしょうか。多くの人々は言えない、隠そうと思っている。けど、聖書全体の言っていることは、隠すものは成功しない。いつか、明らかになる。遅くても死んでから。そうすると、もうたいへんな問題になるのではないでしょうか。

三千年前にダビデという王様は、とんでもない失敗してしまったのです。その時は、彼は王様として、戦争になるといつも先頭に立って、ライオンのように戦ったんですね。ゴリアテに対する勝利もすごかったんです。けど、あるとき、近づいて来る敵が大したものではなかったら、おそらく、将軍たちは、『王様、今回は大丈夫よ。あなた別に苦労しなくても、ゆっくりして。』ダビデは、主に尋ねないで、『ああ、そうか』と思ってしまった。そしたら、ご存知でしょう。それでやはり、結婚した女性と親しくなってしまったんです。子供ができた時、やっと思った。どうしよう?やはり、隠さないと。彼女の戦争に行っていた主人を呼んだんです。『実はあなたの奥さんと私はこう言うことをやってしまった・・・・』云々ではなくて、結局、彼は、この主人が戦争で殺されるように計画したのです。そして、死んでしまった。それを聞いたとき、ああ、よかった!もう誰も分からない・・・・と思ったんです。けども、『隠す者は成功しない』と、預言されているから、彼は悩むようになった。疲れた。彼は働かなくても疲れた。疲れることとは、健康の印(しるし)ではないかな?僕は医者じゃないけど。(医師である)兄弟はおそらく、賛成すると思う。疲れなければ大変だよ!けども、この王様は働かないのに疲れちゃったから、これは問題なんですね。 

詩篇
32:3 私は黙っていたときには(・・・意味は、うまく隠そうと思ったときには・・・・)、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

どうして?

詩篇
32:4 それは、御手が昼も夜も(・・・・いつも・・・・)私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。

最後には、結局、隠しても隠せない。主は知っている。だから、今、喜びもないし、平安もないし、希望もないし、もう惨めです。イスラエルの中でいちばん悩んだ男は、この王様だったに違いない。最後には、我慢しないで、決心したんです。皆に分かってもいい。

詩篇
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」・・・・

もちろん、彼はそうしたんです。皆が(ダビデの過ちを)分かるようになったんです。けども、彼の喜びのもととは何であったかと言いますと。

詩篇
32:5・・・・すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

そして、ご存知だと思いますけど、赦されれば主は忘れてくださるんです。人間は赦しても忘れない。また、思い出すんです。ずるいよ、人間は。主は赦すと忘れます、永久的に。考えられないけど、本当なんです。

イエス様に悩み、苦しみを打ち明け、罪を告白すると、今日も、主の御言葉を聞くことができるでしょう。

マルコ
5:34 イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」・・・・

原語を見ると、『直した』ではなくて、『救った』のです。肉体の癒しだけではなくて、やはり彼女は、今まで知らなかった平安と喜びと希望を持つようになったのです。

マルコ
5:34 ・・・・安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。

旧約聖書のイザヤ書の四十三章、皆さん、暗記していることば言葉ですけど、すばらしい告白です。二千六百年前にイザヤの書いた言葉です。

イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

こういう言葉を自分のものにすることができれば、価値観が変わる。人生観も変わる。

イザヤ
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

主は赦すと、もう思い出さない。

このマルコ伝に出てくる彼女は癒し、解放ですかね、健康、いわゆる、助けを求めたんです。それだけなんです、本当は。イエス様にさわることによって、彼女は完全に癒されると彼女は信じた。だから信じたとおりになったんです。もう別の医者に診てもらう必要がない。もう健康になった。今や、あらゆる失望、落胆から解放された。新しい力と喜びが彼女を満たすようになった。

彼女は、そのようにして、求めたことが満たされたわけですけど、イエス様は決して、満足しなかった。イエス様は、私たちが考えているよりも、はるかに多くのものを与えようとしておられます。イエス様は、ご自身を深く体験的に知ることを望んでおられるのです。そのことだけが、本当の幸せを意味しているのではないでしょうか。十二年間も長血を患っていた彼女にとって、病が癒されたということは、筆舌にし難い喜び、幸せでした。けど、イエス様は、それだけではなくて、それ以上のこと望んだのです。肉体の健康のみならず、心の平安と安全を、すなわち、心の病の癒しを与えたいのがイエス様の思いです。そして、心の平安と安全はイエス様との出会い、イエス様を体験的に知ることによってのみ、与えられるものです。私たちは、イエス様にすべてをありのままに申し上げ、罪が赦された時に初めて、真の心の平安を与えられるようになります。イエス様のことばは本当にすごいね。『安心してゆきなさい。』

彼女は、病気が癒されれば幸せだと思ったんですけど、現代人の多くもそう思っているかもしれない。健康になれば幸せ。でも、嘘です。健康人が皆、幸せではないよ。かえって、病気になったおかげで幸せになった!という人は、いっぱい、いるのではないでしょうか。

ある日、名古屋の病院だったんですけど、一人の死にそうな奥さんが、ご主人に言ったんです。『私が病気になったのは、ガンになったのは良かったね。』彼の答えは、『あなたのおかげです。』結局、彼女は、三十九歳で召されたのです。彼はその時、四十二歳だったんですけど、彼女は確かに悩んだでしょう。やはり、家族のためにがんばりたい。もう何もできません。自分のことだけだったら(いい)けど、家族を残さなくちゃ。けども、やはり生きる希望を持って死ぬことができた。死は終わりではないよ。死んでから始まる!と確信したからです。それから、彼はもう、命がけで本当に、イエス様のこと紹介するようになったのです。彼はそう、三年前でしょうかね、召された時に、葬儀はちょっと辺鄙(へんぴ)なところだったんですけど、七百人、集まったんです。結局ね、彼を通して、数えられないほど多くの人々が、イエス様のことを知るようになったからです。

けども、彼も必ず戦ったことでしょう。どうして?なぜ?誰も答えられなかった。けども、今は別に分からなくても、分かるときが必ず来ると、わかったのです。

このマルコ伝に出てくる彼女は、主の力を体験的に知るようになったのです。どうしてでしょうか?結局、彼女は、イエス様はできる!と確信しただけではなくて、イエス様は必ず恵んでくださる。求めれば、必ず与えられるようになる。私たちは、聖書の御言葉を確信し、例えば、まだ、救われていない家族の人々、あるいは、求道中の友だちの上に、既に勝利が与えられていることを確信し、喜びの賛美をあげているのでしょうか?結局、多くの人が、『いやもう、聞く耳がない』云々となるかもしれない。けど、主の目から見ると、ちょっと違うかもしれない。未信者の心のかたくなさではなくて、信じるものの不信仰のゆえに、主は働くことができないのではないでしょうか?

イエス様は、長血を患った女が、衣にさわったとき、自分の内から、力が出て行くことに気付かれました。我々も、この女のように主の力を受けることを、イエス様は望んでおられるに違いない。

けど、どういうふうに、この力を体験的に知ることができるのでしょうか?主の約束を信じることによってです。エレミヤという男は、ちょっとおもしろい表現を使いました。すなわち、『食べる』という表現です。この予言者は、人間的に考えたら、気の毒な男でした。主は、『あなたには私に仕えるものになってもらいたい。』彼は、断ったんです。主よ、無理。若過ぎる。何を喋ったらいいかわからない・・・・云々と。

最期には、彼は従ったんです、けども、主は初めから、何年間、何十年間、忠実に奉仕したとしても、見る結果がない。実にならない。彼はずっと、誤解され続けました。刑務所にも入っちゃったし、ですから、涙の預言者と呼ばれている男です。けど、エレミヤ記を読むと分かる。彼はやはり、悩みながら、喜んでいると。十五章の十六節ですね。この秘訣について書かれています。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。

食べることとは、自分のものにすることです。

今、集会の前にちょっとある人と電話で話したんですけど、英語の先生なんでけど、膠原病になって、けども、ずっとモルモン教の教えを勉強して、それから、エホバの証人のことを勉強して・・・・云々と。結局、何が正しくて、正しくないかと、迷うようになったんですけど――ちょっと話したんですけど――例えば、モルモン教の人々はコーヒーを飲んではいかん、お茶もいかんと。結局、ああしないと、こうしないとだめ。宗教とはそういうものなんです。残念ですけど、キリスト教もそう。聖書を勉強しないと、分からないとダメ・・・・云々と。違う!人間は、ひとつの教えを信じ込むことによっては救われないよ。へりくだればオ-ケー。分かるものではない。ですから、分からなくてもいいと分かれば正解です。

エレミヤは、御言葉を見つけ出し――勉強して分かったのではない――食べちゃった!その結果、『あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。』御言葉に頼ると、自分のものにすると、希望が湧いてきます。どうゆう状況に置かれていても。わたしの言葉は命である。わたしは命のパンである。わたしを食べるものは永遠に生きると、イエス様は言われたことがあります。

自分は、どうしてこんなに信仰がダメになってしまったのかと疑い、怪しむ人がいるけど、その理由は御言葉を食べてない、霊の糧を食べていないから・・・・これだけなんです。ただ聖書を読むと元気になる。『勉強すると分かる』のではない。けど、必要なのは、元気になることなのではないでしょうか。御言葉を食べないと祈りが止まり、主の御心を知ることができない。

御言葉は、力となるべきです。どういうふうになるかと言いますと、今、話したように、食べることによって、自分のものにすることによって、聖書はそう言っているから、この言葉は私のためにも書かれてるんだ・・・・という態度を取ると本当に変わります。

私たちのとるべき態度はどういうものでしょうか?御言葉を自分のものにすることによって元気になる。もう一つ、自分 の考え方、自分の意見を捨てることによってです。自分の考え、まだ外面を繕った意見のために、主がその働きを妨げられる場合があるのではないでしょうか。自分がこうだ!と思い込んで、その意見を離さないでいると、やはり問題です。

イエス様の弟子たちの場合はそうだったでしょう。結局、彼らは、分かった!と思い込んでしまったのです。もう一回、このマルコ伝の五章に戻ります。

マルコ
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「(・・・・群衆だよ!・・・・)群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」

結局、イエス様にはわからない。自分たちには分かる。弟子たちとは、そういう人でした。

5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

イエスは、誰かが信仰をもって、自分の衣に手をふれ、自分の体から力が出ていったのを、もちろん、感じました。けど、弟子たちは、イエス様に、『そんなことないよ』と言いました。自分の意見を言い張ったんです。これこそがもう、自分勝手でおかしい。もし、イエス様が、『信じなさい。全てを私に委ねなさい。あなたの家族も、知り合いの人々も、救われる。』あるいは、『わたしにくるものをわたしは決して捨てない。来るものは、その腹から生ける水が川となって流れる』と約束すると、私たちは、『ありがたい、約束されていうるから嬉しい』という態度を取るのでしょうか。あるいは、自らの経験で、そんなことはありえないと、自分の意見を言い張るのでしょうか。

御言葉はいかにして、我々の力となることができるか。今、二つのこと言いましたね。第一番目、御言葉を自分のものにすることによってです。食べることによってです。第二番目、自分の意見を捨てることによってです。もう一つ、信仰の決断によってです。

もう一度、長血を患った女を見ましょうか。あの女は、イエス様のことを聞いた時、心を動かされ、『イエス様のところへ行きたい、行きたい』と、何物かによって動かされて、イエス様のところにきました。

聖書を研究し、イエス様について知ることは、さほど、自らを益しません。イエス様ご自身から聞いた言葉こそ、我々の力となります。もし、私たちが、イエス様ご自身から、みことばを聴くと、あの女のように、信仰の決断をすることができます。

マルコ
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

これが本当の信仰なんです。

彼女は、思ったことをいたしました。その時、癒された。主の言葉を聞き、信仰の決断をするなら、昔のように今日でも、主の力は我々の命に現れます。その他の何物によっても、主の力を経験することはできません。できたとしても、せいぜい、『信心深い様子をしながら、その実を捨てる』といった状態にまでしか達することができない。

【参考】第二テモテ(口語訳)
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。

【参考】第二テモテ
3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

いかなる環境であの女は、主の声を聴くことができたのでしょうか。いかなる環境で、彼女は信仰の決断をしたのでしょうか。

マルコ
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

彼女は絶望的な状態になりました。十二年間も、病で倒れていました。しかも、この病は治らない病です。この病気にかかると、前に話したように、掟によって、他の人との交わりを立たれ、一人でいなければならないことになってしまったから、彼女は、本当に寂しかったでしょう。それに加えて、この女は、いろいろな医者にかかりましたけど騙された。持ち物までも売り払い、望みのない状態に追い込まれていたのです。

もし私たちが、生活の破綻をきたし、この女のように、どんなに努力しても、段々段々、悪くなるような状態だったら、ちょっと大変です。けど、それを心から喜ぶものなのではないでしょうか。この女は、ローマ書七章と比べるのにいい例ではないかな・・・・と思います。この書の中で、いちばん、よく出てくる言葉は、『私』という言葉です。私、私、私、私、私。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

この状態まで導かれているなら、次の段階として、今、読みましたマルコ伝、二十九節に女が経験したのと同じ経験をすることができるのです。

マルコ
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

パウロも同じことを経験しました。ローマ書の八章を見ると分かりますね。

ローマ
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

これは単なる理論ではなく、事実、起こったことです。イエス様の尊い血の力を体験した一人の人の証しです。この力は、我々、一人一人のために備えられています。私たちは、それを必要としている。女は、イエス様の力を身に受けた後、打ちのめされた者としてではなくて、癒されたものとして、主にひれ伏し、拝みました。彼女は、いちばん低いところに自分の身を置きました。御霊の目的は、私たちを塵の中にひれ伏すまでに砕くことです。悪魔はいつも、人を上に押し上げます。

マルコ
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

低くへりくだればへりくだるほど、私たちはありのままの姿になる。高いところについている人、高ぶる人は、自分自身を何も知っていません。したがって、イエス様にありのままを申し上げることもできない。弱い、悩んでいる、絶望している病気の女が、力に満ちた救い主にふれました。そのとたんに、病は癒されたのです。信仰をもって、イエス様を見た瞬間に救いと癒しと元気があったよ。

2 件のコメント:

  1. 5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「(・・・・群衆だよ!・・・・)

    思わず、フッと笑って仕舞いました。
    あらためて、目が開かれてないと
    コントみたいな事が繰り広げられるのですね

    私の日常も、外から観たら
    同じなんでしょうね〰

    敢えて、ベック兄の言いまつがいをそのまま書き起こして頂き
    ベックさんが目の前でメッセージして下さった情景が、そのまま蘇りますねぇ

    書き起こしのご奉仕、ありがとうございます。

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  2. 書き起こしに目尾を止めてくださってありがとうございます。10年前のメッセージですが、ベックさんの語り口のまま、今も心の中に残っています。

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