2010年2月4日木曜日

キリスト者の使命(一)礼拝

キリスト者の使命(一)礼拝
暦年テープ、DVD1-CD19[新番号251]
ゴットホルド・ベック

民数記
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。

8:24 これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

今日はちょっとだけ、『キリスト者の使命』という題について、ご一緒に考えてみたいと思います。

今、兄弟も言いましたように、何か形式的になれば、お終いだと言えるのではないかと思うんです。ああすべきである、こうすべきであると思うようになれば、危険ではないか思います。知らないうちに、形式的になり、律法的になるからです。


主なる神が考えておられることは、もちろん、一人でも多くの人々が救われることです。だから、多くの人々が本物を得るためにキリスト教に入らなければならない・・・・と思うようになってます。キリスト教の教えは、最高のものであるから、神の教えであるから、だから、キリスト教という宗教に入らないとダメだと思う人は、非常に多いんです。

私のように、いわゆるキリスト教の国で生まれ、大きくなった人々は、決してそうではないと、いつも言いたいんです。何があっても、キリスト教に入らないで。けども、イエス様を知ってもらいたいということなんです。キリスト教の国で生まれた人々は、まず、幼児洗礼を受けます。生まれてから一週間以内に、洗礼を受けます。それによって、クリスチャンになる。どうしてそのことやるのかと言いますと、結局、後で強制的に献金しなくてはいけない。

(税金とは)その会社の方から直接、国に渡されるものなんですね。人間がいくら反対しても通じません。このような、税金を払わなければ結局、刑務所です。(税金も)どうしても払いたくなければ、やはり、教会から離れなければならない。そのための勇気を持つ人はあんまりいないんです。そしたら、自分の葬式は誰がやるのか?そういう心配によって、みんな縛られてしまっているのです。非常に悲しいことなんです。

イエス・キリストを信ずることと、キリスト教に入ることは、全然違うものなんです。教会の会員になったから、洗礼を受けるようになったから、だからこそ、多くの人々は救われ得ない・・・・ということは、悲しい事実なんです。神の目的は、結局、人間がキリスト教という人間の作った宗教に入ることではなく、真理を知ることです。イエス様との出会いによって、罪の赦しを得ることです。自分は救われた、自分の過ちは赦されているのであり、私は永久的に生ける真の神によって受け入れられた。この確信を得ることこそが、神の切に望んでおられことです。けども、それだけではありません。救われた人々を通して、主は働こうと望んでおられます。

主のご臨在が外に表されていくことこそが、主の願い、求めておられることです。他の言葉で言いますならば、キリスト者のうちに宿りたもうイエス様、内住の主こそ、キリスト者の生まれ変わった証拠です。イエス様は、キリスト者のうちに住んでおられると、聖書全体は言っているのです。ですから、信じるものは、神の神殿とも、聖霊の宮とも呼ばれているのです。

人々は、私たちのうちにイエス様が住んでいることに気づくはずなんです。そのように身をもって、イエス様を証しして初めて、主の証し人と言えると思います。

今、黒田兄のお読みになりました民数記の箇所を見ると、いわゆるレビ人について、いろいろなことが書き記されていますけれども、会見の幕屋で働き、契約の箱を担う務めをしたレピ人について、書き記されていてあります。

民数記
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。

レビ人は、全く主なる神に捧げられていたものであり、ひとつ残らず、全てを神にお捧げしたのが、いわゆるレビ人たちだったんです。全てを主に捧げ尽くしたこのレピ人こそ、主のご栄光を現すことのできる模範の人たちでした。

この民数記を一度、暇があれば、近いうちに――今週中でも――読んでもいいと思うんですけど、非常に素晴らしい本なんです。レビ人たちは、イスラエルの民が荒野を通って旅をしたとき、神の臨在を表すいわゆる契約の箱を担って歩いていた人々が、このレビ人たちだったんですね。そして、イスラエル人たちは、臨在の雲の柱が上がったとき、今までとどまっていたところから出発し、雲に導かれ、雲が再びとどまったところで民たちも止まったんです。彼らは、神の臨在の雲が止まったところには素直に、そこに止まりました。

そこがどんなにいにくい場所であっても、また、見る目に良くない場所であっても、導きのままにとどまったんです。我々の場合はいったい、どうなのでしょうか。自分の考えの赴くままに良い環境を選んで、そこへ行くのでありましょうか。それとも、主の導きのままに、歩むのでありましょうか?

実際のところ、私たちが生きているこの世は、どこ行っても荒野のようなものです。見た目に居心地のよさそうなところでも、実際に住んでみれば、しばらく経つとそこも荒野であったことが、もちろん、わかります。

私たちは、レビ人と同じように、主の御手のあるところ、主の臨在が現れていくのですから、導きのままに歩みたいもんです。レビ人について、いろいろなことが言えると思うんですけども、今朝はひとつのことだけ触れたいと思うんですね。彼らは、真の神に対して礼拝する人々だったんです。礼拝することとは非常に大切なんです。

礼拝する形式的なことも、もちろん、いろいろあるかもしれませんし、習慣的になれば、もちろん、形式的になれば、おしまいなんです。ヨハネ伝の四章の中で、主なる神は真の礼拝者を探しておられると書き記されています。よく読む箇所です。

ヨハネ
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

礼拝とはいったい、どういうことでしょうか。一ことばで言いますと、父、ならびに、御子イエス様のすばらしさ、偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを心から言い表すのが礼拝です。心の目で、自らの神から離れ去って役に立たなくなっており、罪深いダメな状態を見、それとともに、哀れみ深い主イエス様の救いを心の目で見るとき、礼拝をせざるを得なくなります。

神の愛を、神の偉大さを知りながら、礼拝をしないこととは、もちろん、罪であります。神の愛を、もちろん、神の偉大さを知らない人々、キリストに属さない人々は、本当の意味で、礼拝することができません。また、イエス様を信じていない人々だけではなく、もうすでに救いに与かっている信者も、主の価値を完全に知ることはできません。主の偉大さを全く知ることには永遠のときを必要とするのではないでしょうか。

もっともっと、心の目が開かれ、主がどんなにすばらしく偉大なお方であるか、見させていただきたいものです。主の偉大さに心の目が開かれることは、礼拝にとって、もっとも必要なことです。言えることは、主の偉大さが分かればわかるほど、真の礼拝があり、礼拝すればするほど、主の偉大さが見えてくるということです。

礼拝する人は、主なる神の隠れた、新しいことを教えられます。主を見た人は、主の御前にひれ伏し、拝まざるを得ません。高き天に上げられ、全ての上に支配したもう、主を見ることこそが大切です。そうすると私たちは、心からなる礼拝をささげざるを得なくなるのです。

我々の場合、現実にどうなのでしょうか。私たちの生活は真ん中に、主に対する真の礼拝がなされているのでありましょうか。もちろん、はっきり言えるのは、ただ日曜日の午前中だけ礼拝する人々は本物ではない。我々の人生その者が、礼拝そのものとならなければならないのです。

礼拝が、第一の場所を占めているのでありましょうか。ときどき、仕事が第一の場所を占め、その他の色々なことが、礼拝に代わる時間を取り、礼拝はどこへか、影を潜めてしまう・・・・というのが現実ではないでしょうか。私たちは、なるほど、憐れみによって救われたキリスト者として、この世に生活していますけど、礼拝する者として、毎日毎日を生きているのでありましょうか。

列王記、下の中で、神は、あまねく全地を見渡し、心を全うして、主を第一にする、礼拝する人々を探し求めておられると、書き記されているのであります、神に対する礼拝が我々の生活の第一の場所を占めて、礼拝が我々の全生活を支配していなければなりません。本当に私たちはただ、救われるために救われたのではありません。我々によって、主なる神が、礼拝の中心になるように。これこそが我々の生活の使命です。

礼拝は、主が、あなたにあって全てとなられるということです。他の言葉で言いますならば、礼拝とはいったい何なのでありましょうか。すべてのことを、主の御心のままにおゆだねすることです。主の道におのれをゆだねることです。主のなしたもうこと、主の導きは、主の導きです。主はご自身のなしたもうこと、また、ご自身の導き、経験によって、私たちが主に目を開き、そして、その結果、私たちが自発的に、心から主を礼拝せざるを得なくなるように、主は、導いてくださるのです。

主の道を知り、主の道を喜ぶ。それが、いちばん大切な私たちの課題ではないでしょうか。そうなったら私たちは、なぜか、どうしてかと、主に言うことができなくなります。『なぜでしょう』という人は、主を見上げない人であり、したがって、まことの礼拝をなさない人、また、主の道を歩みえない人と言わなければならないのです。我々はよく、『主よ、御心をこのようにしてください』、『主よ、この重荷を私から取り去ってください』、『主よ、この環境を変えてください』と祈ります。これは、もちろん、祈りであり、礼拝ではありません。祈りは、我々の願いの言い表しであり、礼拝とは、おのれの全てを、何もかも、主におゆだねすることです。

ダビデという人は、よく聖書の中で御心にかなう人と呼ばれています。どうしてでしょうか?彼は、完全に礼拝するものであったことをよく知ることができます。彼はもっとも深いどん底の苦しみにあっても、また、非常な絶望に陥っている時も、逃れ道がなく、前途が真っ暗な時も、ひたすらに神を礼拝する礼拝者だったんです。

もちろん、彼も経験したんです。すなわち、神の道は、いつも我々の願いと同じとは限らないということだったんです。彼は、神の御心に適った人だったんですけども、神に何と言われたかと言いますと、『あなたの子供は死ぬ、必ず死ぬ』と書いてあります。もちろん、彼は、自分の子供を愛したでしょう。だから、祈るようになったんです。彼は断食するようになり、本当に真心から、ひたすらに、祈りました。けど、彼の子供は、神の言われた通りに死にました。

多くの人は、このようなことを経験すると、どうしてでしょうか、なぜかと言うのではないかと思うんですけども、ダビデについて、聖書は何て言ってるかと言いますと、彼は衣を変えて、主の家に入って礼拝したと書いてあります。これだけを見てもわかりますね。礼拝は、主の道に全く心からなる賛意を表することです。おのがすべてを主の御心にゆだねることです。

彼は主の導きを、もちろん、全然、理解することができなかったんですけども、礼拝することによって、解放されたのです。

旧約聖書の中で、一人のおもだった人間は、ヨブではないかと思うんですね。ちょっと読んでみましょうか。このヨブという人は、主の目から見ると当時のいちばん優れた人格者でした。神によって大いに愛された人だったんです。けども、彼は非常に苦しむようになったのです。すなわち――二、三週間以内だったでしょう――それまで持っていた財産の全部が、取り去られてしまったのです。自分の九人の子供も全部、死にました。いわゆる友だちも、結局、彼の敵になってしまったんです。彼を訴えるものとなりました。彼は重病人となり、彼の助け手であるべき奥さんは、神を呪いなさい、死ね、結局、自殺しなさい・・・・と。

私たちは、彼の苦しみ、悩みを理解することができないと思います。けども、その時、彼はどういう態度を取ったのでありましょうか?一章の二十節からお読みしたいと思います。『このとき・・・・』結局、このような考えられないほど苦しいことを経験した時・・・・。

ヨブ
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝した。

つぶやいたのではありません。あきらめてではありません。彼は、礼拝し・・・・

1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』こういうふうに、ヨブは主を礼拝したのです。私たちは、主の道に従うことを、確かに学ばなければなりません。けども、これはただ、礼拝によってのみできうることがらです。

ダビデは、主を礼拝する者だったのです。ヨブもそうだったんです。もちろん、二人は同じ者ではなかったんですね。ダビデは、ひどい罪を犯してしまったんです、けども、ヨブは主の前にまったき人だったと書いてありますね。もちろん、主の恵みによってそうなったんですね。自分の努力の結果ではありませんでした。

けども、はっきり二人とも、礼拝したのです。どうしてであるかといいますと、おのれを捨てて、主の御心にゆだねたからです。なぜだろう、どうしてだろうと尋ねられても、答えられることがない。なぜか全然、理解できなくても、ただただ、心からを主をほめたたえ、礼拝することです。主よ、あなたは完全です。まったきことをなさるお方です。私は、あなたを心から崇めたてまつる。この態度をとる人は、主の望んでおられる真の礼拝者です。

礼拝とは何でしょうか?今、学びましたように全ての事を主の御心のままにをおゆだねすることです。主の道に、おのれをゆだねることです。

第二番目は、礼拝とは、主のみもとにひれ伏すことです。ヨシュア記の五章に、次のように書き記されています。

ヨシュア
5:13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
5:14 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」

この箇所を見ると礼拝とは、主のみもとにひれ伏すことであるとわかることができるのです。この時、ヨシュアは神の民、イスラエルを約束の地、カナンに導き入れるという大きな使命を持っていたんです。

このことは、モーセが長年かかっても成しとげることのできなかったわざでした。だから、若いヨシュアにとっては、非常に困難な出来事、非常に重い重荷だったに違いない。これから、攻めようとするカナンには恐るべき強敵であるカナン人が待ちかまえています。また、率いているイスラエルの人たちは、始末に負えない、不平ばかり言っている人たちだったんです。ヨシュアにとっては、まさに、外患内憂といった苦しい立場だった。けど、そのとき、主が現れたのです。

この主の軍の将とは、間違いなく、主イエス様だったんです。神が自分自身を明らかにするときは、いつもイエス様を通してです。主が、自分自身を明らかにしてくださったとき、ヨシュアは地にひれ伏して拝した、礼拝したと書いてあります。たとえ、私たちの周りに、強敵がひしめき、私たちには耐え得ない苦しみが襲いかかり、また、苦しみがやってきたとしても、そのときは、これがために、主に助けを叫び求めることは、大切ではありません。そのとき、必要なのこと、なさねばならない唯一のことは、主のみもとにひれ伏し、主を礼拝することです。もし、私たちが主のみもとにひれ伏し、礼拝するなら、私たちの問題は解決されます。主が面倒を見ていてくださるからです。

礼拝とは、主のみもとにひれ伏すことです。礼拝者は重荷から解放されます。よろこびに満たされます。

最後に、三番目に、礼拝とはいったい、何なのでありましょうか?礼拝とは、おのれのもっとも愛するものを捧げることです。

サムエル記、上の中で、サムエルの母、ハンナについて、いろいろなことが書いてありますけれども、彼女はひとつの願いを持っていたのです。『主よ、子供を与えてください!』と、彼女は祈り続けたんです。そして、主は彼女の祈りを聞き届けてくださったのです。サムエルが与えられるようになったのです。

(サムエルが乳離れすると、ハンナは、)その子を主にお返しいたしました。かかる人は、主を真に礼拝する礼拝者と言わなければなりません。主に、よりよきものを捧げることを知らない人は、まことの礼拝を知らない人ではないでしょうか。これは彼女にとって、決して、簡単ではなかったのです。自分自身を否定することだったのでありましょう。けども、彼女は、主の偉大さ、主のすばらしさを知るようになったから、全てを捧げることは当然だ、当たり前だ、もっともすばらしい特権だと、彼女には分かったから、この態度をとったのです。

我々もハンナのように、サムエルを、自分のもっとも大切にしているものを、主に捧げるのでありましょうか。もし、捧げることができるなら、礼拝とは何かというその意味を知るようになるのであります。

信仰の父と呼ばれ、あるいは、『神の友』と呼ばれたアブラハムについても、同じことが言えるのです。彼は、真の礼拝者でした。彼は、いろいろな犠牲を払うようになったのです。三つのことが言えるかもしれません。彼は、肉的には、ハガルとイシュマエルから分かれなければならなかったのです。これも、おもしろくない経験だったでありましょう。第二番目は、彼は、魂では、ソドムより、ロトと分離しなければならなかったのです。これもつらい経験だったでありましょう。そして、霊的には、彼は愛するひとり子、イサクに別れなければいけなかったのです。

創世記
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

イサクをわたしにささげなさい。あなたの愛しているひとり子を、わたしに捧げなさい。

創世記
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。

アブラハムは、神の言葉を聞いたときは、びっくりしたのではないかと思うんですね。あなたの子、あなたの愛してるひとり子、イサクをわたしに捧げなさい。この言葉に対して、アブラハムは、『神よ、どうして、なぜイサクを殺さなくてはならないのか。もし、イサクが死んだらあなたの約束は反故になり、何の価値も無くなるのではないか』といってつぶやくことを、断じてしなかったのです。どうしてでしょうか?彼は、神の道におのれの全てを捧げることによってのみ、真の神を礼拝することができるのだと知っていたからです。だから、彼らはその若者たちに、『礼拝』ということばを使ったんですね。『ここに残りなさい。私と子供とはあそこに行き、礼拝をしてあなたがのところに戻ってくる』と言ったんです。

彼は、『私はモリヤの山に我が愛するイサクを連れて行き、そこで彼をいけにえに捧げるために殺す』とは、言わなかったのです。『礼拝する』と言ったのです。なぜかと言えば、捧げること、もっとも愛する者を捧げることが、とりもなおさず、礼拝を意味しているからです。全てを主に捧げることが真の礼拝です。

犠牲のあるところには、必ず、祭壇が築かれます。祭壇の築かれているところには、必ず、礼拝があります。このことを静かに思い巡らすならば、我々にとって、イエス様の十字架が、日々毎日、どれだけ大切なものであるかが、深く知らされるのではないでしょうか。

本当に礼拝の問題は、毎日毎日の生活のさなかに起こるのです。もし、私は、これを今やると、主が満足しておられるのでありましょうか。あるいは、悪魔が喜ぶなのでしょうか。もし、私がこの問題を解決しなければ、神に栄光があるのでしょうか。それとも、悪魔が勝利を得るのでしょうか。

もし、信者が一致しなければどうでしょうか。悪魔が、それによって勝利を得るのでしょうか。もちろん、そうです。あなたは、例えば、一致しない信者は一致するようにと、努力しなければいけません。そして、このふたりがひとつになると、これこそが礼拝なんです。そうしたら初めて、生ける真の神が、全てのものにあって、全てとなるのであります。

礼拝は主なる神が、あなたにあって全てとなられることなんです。ですから、毎日の生活のいわゆる小さなことがらが全部、いちばん大切なことがらに、すなわち、神に対する礼拝にかかってます。あなたの礼拝の中心は、生ける真の神なのでしょうか。

全体の要点は、真に主の足元にひれ伏した生涯にあります。主が、私たちの心の内にどれほどの余地を持っているかが問題です。主は、私たちのためにいかほどの価値があるのでありましょうか?主が私たちにとって、真に尊いお方であれば、あまりに良いというものはひとつもない。あまりに高いというものもひとつもありません。私たちのあらゆるものは、それが、もっとも深く、もっともすばららしくあっても、主に対して捧げます。

イエス様はかつて、ペテロにあなたは私を愛するかと、訊いたのであります。もし、私たちが、このイエス様の質問に対して、『はい、あなたを愛します』と真心から言うことができれば、本当に素晴らしいと思うんです。

ひとつの実例は、ベタニヤに住んでたマリヤではないかと思うんです。

マリヤという人は、本当に真心から、イエス様を愛した人だったんです。だから、彼女は真の礼拝者でした。彼女は、非常に値の高いナルドの匂い油を主に降り注ぐことにより、実に高い、また、聖い主に対する愛を示してくださったんです。彼女の取る態度によって、ベタニアというところは、主に対する愛が満ち溢れたところになったのです。そして、福音書にナルドの匂い油の匂いが、家全体に満ちたと書いてありますが、それと同じように、愛の雰囲気がこのベタニアの家を包んでいたのです。結果として、多くの人々は、その後で、やはりイエス様のみもとに導かれるようになり、救われたのです。その時、非常に大切だったのは、マリヤがあの態度を取ることによって、主は大いに喜んだのです。満足してくださったのです。

主に対するこのようなマリアの愛は、主が何にも増して求めておられるところのものです。イエス様は、私たちが心からすべてを捧げ、主を愛しているかどうかを見ておられます。本当に、私たちは主だけを見て愛してるのでありましょうか。あるいは、世の物も目に入り、主に全てを捧げることをしないでいるのでありましょうか。

マリアは、イエス様を分裂のない真実の愛を持って愛しました。だから、彼女も御心にかなう礼拝者となったのであります。我々の人生の特徴が礼拝そのものであるならば、本当にさいわいと思います。それによって、周りの人々も飢え渇きを持つようになり、導かれるようになり、そして、主こそが、すべての栄光と誉れを受けるようになるからです。

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