暦年テープ、DVD1-CD19[新番号254]
ゴットホルド・ベック
詩篇
16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
16:2 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
16:3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
16:4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
16:5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
16:7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
このあいだ、キリスト者の使命について、三回に渡ってご一緒に学びました。すなわち、主に対する礼拝、人に仕える奉仕、そして、悪霊に対する戦い――この三つの点について、今まで学びましたが、今日は、「教会の交わり」という点について、少しだけ考えてみたいと思います。なぜなら、これもキリスト者に与えられている大切な使命であるからです。もちろん、教会の代わりに、兄弟姉妹と言った方が正しいでしょう。教会と言うと、ある人々は、建物を考えたりして、他の人々は一つの教団、教派を考えるようになるかも知れません。決してそうではありません。
聖書の中で、『教会』と言うことばが出て来ると――原語はいつも、『集会』になっていますけど――やはり、「からだなる教会」を意味しておるのです。決して、組織と関係のないことです。主イエス様のあわれみによって救われた信者たちの群れこそが、「からだなる教会」です。イエス様を受け入れた方々、聖霊の宮になった兄弟姉妹たちがまことの教会であります。
この教会の交わり、兄弟姉妹の交わりこそが、非常に大切なんです。もちろん、救われるためではなくて、これはもうすでにキリスト者になった人の使命であるからです。もしある人が、私は他の兄弟姉妹は必要ない、一人ぼっちで祈って、一人ぼっちで聖書を読めば、それで良いじゃないか・・・・と思えば、必ず壁にぶつかるようになります。皆、お互いの助けを必要としているのですから。
今、兄弟がお読みになった十六篇の三節には、「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」ダビデは、結局、主にある兄弟姉妹、聖徒たちとの交わりの大切さを知るようになったから、こういうふうに告白せざるを得なかったのではないかと思うんです。
昨日、この雑誌をもらったのです。外国にいるドイツ人のために出されているものです。いつも、ドイツ大使館の出しているものなんです。もちろん、直接ドイツから貰いますけれども、いちばん最後のページに、いつも、『Große Deutsch 』と書いてあります。偉いドイツ人ですか。今回、そのフリードリッヒ・フォン・ボーテンシュリングという人が紹介されているんですけれど、彼は、一八三一年に生まれ、一九一〇年に召されたんですけど、人間として非常に、経済的にも恵まれた人であって、最高の教育を受けた人だったんですけども、もちろん、イエス様の救いにあずかった者として、いわゆる恵まれていない人々のためにがんばらなくっちゃいけないという使命を受けたのです。ファート・デ・アルメと書いています。こういうふうに呼ばれています。ドイツにいるクリスチャンたちで彼の名前を知らない人は、一人もいないと思うんです。結局、貧乏人、あるいは、あわれなルンペンの父親と呼ばれている人なんですね。リーヴェフェルトの近くのベーテルという町があるんですけれども、結局、彼を通して作られた町なんですけど、現在も三千人以上の何ですかね・・・・カタワとして生まれた人々ですね、非常に、人間社会から追い出された人々が住んでいるところなんです。
そして、彼は召される前に、耳が聞こえなくなったんです。けども、必ず毎週、集会に行ったんです。ある人はおかしいんじゃないか。不思議じゃないかと・・・・思っていたんですね。そして、ちゃんとメモを書いて聞いたらしいんです。「どうして、何も聞こえないのに、どうして、毎週、毎週、熱心に出席するのか」と。その時、彼は何と言ったかと言いますと、「聖徒たちの交わりは、何物にもまさってすばらしいものだよ」と、言ったそうです。
ダビデの気持ちもそういうことだったんではないかと思うんですね。
詩篇
16:3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
パウロも似ていることばを書いたんですけど、テサロニケ第一の手紙をちょっと見てみましょうか。
第一テサロニケ
2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
ダビデの告白と、パウロの告白は、全く同じではないでしょうか。聖徒たちは、私たちの喜びです。私たちの喜びとは、あなたがたではないか。あなたがたこそ、私の喜びだとと、パウロは書き記したのであります。
主は、我々のあらゆる必要をご存知であり、そして、主は、その必要を、主の時に、豊かに満たしてくださるのです。おそらく、私たち皆、経験したことがあると思うんですけども、すなわち、主は兄弟姉妹をとおして、豊かに祝福してくださるということです。
たとえば、葬儀があったり、納骨式があったり、記念会があったり、また、修養会の時も皆、心をひとつにして、主だけが中心になってもらいたいという心構えを持つ兄弟姉妹を見ると嬉しくて嬉しくてしょうがない。自分が役割を演じたい、中心になりたいのではなく、イエス様が中心になってもらいたいと思うことは、決して、普通ではありません。主が生きておられる証拠、主のなしたもう奇跡ではないでしょうか。そして、救われていない人々がそれを見ると、これは、芝居ではない、ほんとうではないか・・・・と思うようになり、真理を見出そうと願うようになります。
主なる神の御霊は、「慰め人」と呼ばれています。この慰め人である聖霊は信者、一人一人の中に住んでいます。この内住の御霊によって、信者は、パウロが書いているように、私たちの喜びとなるのです。教会、すなわち、兄弟姉妹の交わりこそが、信仰の成長のために必要、非常に大切なのです。
もちろん、いちばん大切なのは、イエス様との交わりを持つことです。当然です。イエス様との交わりを持つために、イエス様を、もちろん、知る必要があります。誰も相手の人を知らなければ交わりを持つことができません。それは無理なんですね。知るようになってから、初めて交わりを持つことができる。聖書も、それを非常に強調しています。すなわち、イエス・キリストを知ることこそが大切です。イエス様についての知識を得ることでもない。単なる聖書知識を得ることでもない。イエス様ご自身を知ることこそが大切です。すなわち、イエス様を受け入れることによって知ることです。イエス様を受け入れた人は、すなわち、イエス様の前に頭を下げて、悪かった、ごめんなさい、赦してください、あわれんでください・・・・という態度を取った人は、イエス様は受け入れてくださったと素直に信ずることができる。理解できたからではありません。聖書は、そう約束されているからです。そして、神は嘘つきではないからです。
イエス様を、こういうふうに知ることこそが大切です。イエス様を知ることなしに、私たちには、神との交わりはあり得ませんし、また、成長も望めませんし、恵みもまことの奉仕もやってきませんし、できません。
これらすべてのことは、私たちがイエス様を知るか知らないかにかかっていることを、心に銘記したいと思います。けど、私たちが肉体のかたちを取っているこの地上では、イエス様を、もちろん、完全に知り尽くすことはできません。たとえ、非常に早く霊的に成長したとしても、イエス様を知り尽くすことは、全く不可能です。ですから、パウロはよく、手紙の中で、『私はイエス様をより良く知りたい』と何回も、何回も書き記したのであります。
彼は、もちろん、イエス様を普通の人には、ちょっと経験できないことを経験したのですね。イエス様を、この目で見たのです。イエス様の声をこの耳で聞くことができたのです。彼は、天に引き上げられたことも経験したのです。人間のことばで言い表わせないことばも聞いたのであると聖書は言っているのです。けれども、彼は全然、満足しなかったのです。私は、イエス様をよりよく知りたいという切なる願いを持っていたのです。
イエス様との交わりについて、キリスト者どおしの交わりについて考えると、いつもヨハネ伝、十五章を思い出します。イエス様は、『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。』これは決して、組織的な関係を意味するのではなく、ひとつの有機体だと、もちろん、わかります。ぶどうの木とその枝は同じ生命を持っています。イエス様との結びつきによって、イエス様と同じ永遠のいのちを持っている人たちは、聖書の中で、「教会」と呼ばれています。
聖書を見ると、ただひとつの交わりが書かれています。それは、父、ならびに、御子イエス・キリストとの交わりです。コリント第一の手紙に、パウロは次のように書き記したのであります。
第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
このコリントの教会は、決して、いい教会ではなかったのです。めちゃくちゃな教会だったんです。けども、それにしても、パウロは確信をもって、喜びをもって、こういうふうに書くことができたのですね。
第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
この御子イエス・キリストとの交わりこそ、キリスト者、兄弟姉妹の交わりの源です。私たちは、本当に父、ならびに、御子イエス様との交わりを知っているのでありましょうか。
この交わりは、もちろん、表面的な交わりでありません。議論によって生まれるものではありません。この交わりは、たとえば、同じ教理を持つことによって生まれるものではないし、会議をとおして決議された結果でもありません。この交わりは、いのちと霊の交わりです。この交わりのあいだには、少しの暗いところも影もあってはなりません。父、ならびに、御子イエス様との交わりは、完全な信頼に基づいた交わりです。
福音書を読むと、もちろん、はっきりわかります。父なる神は、御子なる神イエス様を、心から信頼され、ご自分の思っていること、計画していることを全部、イエス様に教えてくださっただけではなく、すべてをゆだねられたのです。
全部の計画を、少しの不安もなく、ゆだねることこそが全き信頼です。もちろん、逆のことも言えます。イエス様の父に対する態度は、全くそういうものだったのです。イエス様は、父なる神に完全により頼み、少しも疑わないで、父の御心を行われたのです。
あのように、驚くべき深い悩みの中にある時も、すなわち、十字架に向かって歩まれる時も、少しも疑わないで、全き信頼を、父なる神においておられたのです。イエス様と父なる神は、お互いにそんなに信頼しあっておられたので、その間には、いつも絶えざる平安と静けさがあったのです。このお互いの信頼こそが、聖書の中で「交わり」と呼ばれているのです。この父と御子イエス様のすばらしい交わりに、我々人間も加わることができることは、ほんとうに驚くべき事実です。そして、主なる神は、何ゆえに私たちのような者を、この交わりに召してくださったか、もちろん、いくら考えても知ることができません。ただ一つ、分かることは測り知れない主の愛のゆえであるということです。
そして、ヨハネ伝、十五章は、イエス様の弟子たちに話されたことについての箇所でありますが、イエス様は、いったいどうしていろんなことを話されたかと言いますと、彼らにいろんなことを教えるためではありません。彼らに一つの教えを与えるためではありませんでした。イエス様の願ったことは、弟子たちがこの交わりに入ることだったのです。
イエス様は、私たちのような者をどうして救ってくださったのか、もちろん、わかりません。そして、私たちは、救われるためにだけ、救われたのではないことも、もちろん、皆、分かっています。よく言われることは、用いられるためです。確かにそうなんですけど、用いられるために、もう一つの大切な面があるのではないかと思うのです。すなわち、この交わりにあずかるために、私たちは救われたのであり、召されたのであるということです。
私たちは、どうして救われたのでありましょうか。聖書は、色々なこと言っています。簡単にまとめてみますと、次のこと言えるでしょう。本当の自由を持つためです。聖い生活のためです。キリストご自身の平和が、我々の心を満たすためです。また、イエス様ご自身の持っておられる喜びが、我々の内に宿るためです。また、あふるるばかりの祝福を受け継ぐためである。ひとことで言いますと、主との交わりに入らせるために、私たちは救われたのだということです。
マルコ伝の中で、イエス様の弟子たちの召されたことについて、次のように書き記されています。
マルコ
3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
3:15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
遣わされるために、用いられるために、救われたのだ・・・・と良く強調されます。けども、その前に、イエス様のご目的は何であったかと言いますと、それは、彼らを身近に置くためであると書いてあります。すなわち、弟子たちは、まず第一にご自分のみもとに置くために召されたのである。その後で遣わすために召されたのです。
イエス様は、ご自分が永遠の初めから持っておられた父との交わりに、弟子たちも入ることを願われたのです。イエス様は、今日も全く当時と同じように、この交わりに、私たちがあずかることを願っておられます。父、ならびに、御子イエス様との交わりにあずかることができるとは、何という特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして、他のもので満足することがあっては本当に残念なんです。
多くの人は、奉仕こそが大切だ。主に仕えようと思えば、教会の中で奉仕しなくてはいけないと、多くの人々は考えているんです。決して、そうではありません。イエス様にとっては、先ずご自分との交わりを持つようにと、我々に求めておられます。人々は、熱心な働き人ならば、良い働き人だと言いますけど、主の考えは違います。主のために熱心にご奉仕をしますが、主との交わりを持っていない人々がたくさんいます。これこそあわれなことです。
私たちは、弟子たちと同じように、この世と罪から逃れるために選び出されましたが、それだけでなく、父、ならびに、御子イエス様との交わりにあずかるために召されたのです。ぶどうの木とその枝が結びついているように、私たちは、主との交わりを持っていなければならない。そうでなければ、何をやっても実が残りません。イエス様のからだの交わり、すなわち、兄弟姉妹の間の交わりも、霊の交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、互いがなく、全き信頼、ほんとうの愛がなければならないはずです。この交わりに、私たちは召されたのです。
けど問題は、どういうふうにこの交わりに、この全き信頼に入ることができるかということです。弟子たちも、最初は、イエス様との親しい交わりを、もちろん、持っていなかったのです。彼らは、間違いなくイエス様を百パーセント信じたのであり、イエス様を心から愛した人々だったんですけど、本当の意味での交わりを持っていなかったのです。ただイエス様と関わり合いがあると言った程度だったのではないでしょうか。
もちろん、イエス様は弟子たちを召し、彼らは、三年間、イエス様と一緒に生活したのです。夜昼、一緒だったんです。すばららしい特権だったと思います。三年間、イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちとの親しい交わりに入ろうとなさったんですけど、弟子たちはイエス様のことを全然、理解することができなかったのです。
イエス様は、彼らを父なる神との交わりに導こうとなさったんですけど、彼らは理解しなかったんです。主は、弟子たちと、少しの疑いもない全き信頼を置く交わりに入りたかったんですけど、いざイエス様がみこころを示そうとなさると、弟子たちはイエス様を誤解してしまったのです。ある時、ペテロは、悪魔の道具になってしまったんです。その時、イエス様は、「悪魔よ、下がれ」と、言わざるを得なかったのです。
もちろん、弟子たちはそれだけでなく、お互いの間にも本当の意味での交わりがなかったのです。ただ関わり合いがあると言った程度でした。彼らの間には、交わりがなかっただけではなくて、時々、けんかをし、言い争いもあり、イエス様はその仲裁をしなければならないと言った有様だったんですね。どなたがいちばん偉いかと言うことについて、議論してしまったんです。
けども、十二人の弟子は、ユダを除いて、イエス様を心から愛したのであります。そのために、全てを捨てて、イエス様に従ってきたのです。イエス様に従うことは、もちろん、そんなに簡単なことではなかったのです。彼らは、もちろん、月給をもらいませんでした。イエス様は、『わたしはふとん一枚でさえもない』と言われたのです。寝る所がない、家がない、屋根がない・・・・そういう乞食に従うのは、ちょっとおかしいのではないですか。けども、弟子たちはそうしたんです。やっぱり勘で分かったんです。この方こそが本物だ。この方に従うと、絶対に損しません。幸せになる・・・・と感じたんです。そして、彼らは、ほんとうにイエス様を心から愛したのであります。
それにもかかわらず、彼らは、イエス様との本当の意味での交わりを知らなかったですし、お互いの交わりも知らなかったのです。お互いに妬み、誤解し、争ったんです。本当の交わりは、いつから始まったかと言いますと、もちろん、使徒行伝、二章に書かれている五旬節の時です。彼らは聖霊によってひとつにされた時、すなわち、彼らは聖霊の宮になることによって、ほんとうの意味での交わりが始まったのです。
その時から弟子たちは、完全に変わったのです。五旬節から、弟子たちはほんとうの意味での交わりを持つようになったのです。たとえば、ペテロが立ち上がった時、他の十二人もともに立ち上がったと書いてあります。前に相談して、ああしよう、こうしようと賛成した結果ではなく、自発的にそうなったのです。彼らは一つになったんです。十二人は、十二人の別の人々ではなかったのです。皆一つだったんです。
結局、十二人の人たちは、もはや十二人、一人一人ではなく、十二人がひとつのからだを成したのです。五旬節の日の立役者は、ペテロだったんですけども、聖書を見ると、ペテロだけが目立った、中心だったとは、書いていません。人々は、皆を見て驚いたと書いていません。ペテロを見て大したもんだ・・・・と言うことでなく、皆を見て驚かれたとあります。ですから、五旬節は、いわゆる教会の誕生日です。まことの交わりの始まりであります。この時からは、信者はもはや、一人一人、ばらばらでなく、イエス様をかしらとする肢体に、つづり合わされたのです。ペテロと他の弟子たちは、ほんとうにひとつだったんです。彼らは霊の交わりを持っていたのです。使徒たちはお互いに全く信頼し、そこには、他の人たちを互いに警戒し、疑い、恐れるといったことは見受けられないのです。
この交わりはもちろん外から来るのでなく、内に住みたもう御霊のゆえに生まれた交わりだったんです。
交わりとは、すべてを共有にすることです。初代教会のクリスチャンたちは、ほんとうに一つだったのです。だから、彼らは生き生きとした証しだったのであり、だから、まわりの人々は、「兄弟たち、私はどうしたらいいのでしょうか」と叫ぶようになったのです。彼らは特別伝道集会を持とうとしなかったのです。福音を宣べ伝えようということよりも、彼らが先ずひとつになった結果、まわりの人々は、求めるようになったのです。「どうしたらいいの。教えてください。導いてください。」これは兄弟姉妹の霊の交わりの結果だったのです。
弟子たちは、イエス様とともに過ごした三年間、このまことの交わりを知らずに過ごしてきたのです。これは交わりに入る準備期間だったんです。
この三年間は、実りのない三年間のように見えるかも知れませんけど、この三年間の年月のあいだに、彼らの古い性質は少しずつ取り除かれたのです。もし弟子が、イエス様に従わず、自分の職業を持っていたならば、彼らは皆、やっぱり信心深い人々として、立派な人格者として尊敬されながら、生涯を終わったことでありましょう。けども、イエス様とともに歩んでいたから、彼らは、自分の姿を教えられ、イエス様のみもとで、本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ、彼らの心の暗いところは、段々、取り扱われ、明るみに出されました。彼らの心に隠された思いが現われてきました。もちろん、弟子たちは、他の人々よりも悪い人々ではなかったのですけど、主の光に照らされたとき、絶望的な自分の真相を教えられたのです。
イエス様が十字架におかかりになった時、彼らは、全く絶望してしまったのです。その時、彼らは皆、逃げてしまったと聖書は言っているのですね。一つの群れとして逃げたのではない、と思うんですね。皆、バラバラになって逃げてしまったと思います。けども、このいわゆる破産は、彼らにとって、どうしても必要だったのではないかと思います。用いられるために。霊的破産なくしては、誰も主との生きた交わりを持つことはできません。霊的破産してしまいますと、もうおしまいです、駄目です。主が助けてくださらなければ、終わりだと分かっている人こそが、ほんとうの意味で主に頼るようになります。すなわち、主との交わりの尊さを理解するようになるのです。
我々のすべきことは、本当に、あまり大切ではない。大切なのは主のなしたもうた救いの御業です。主は救いの代価を払ってくださったから、主は生きておられるから、主は必要な時、必要なものを提供していてくださるから、だから、安心して将来に向かうことができるのです。
破産すること、自分の惨めさを本当に知ることこそが、用いられるための秘訣です。多くの信ずる者は、自分で意識しないかも知れないけど、自分の力で、自分のためにいろんなことをやります。イエス様は、私たちの身代わりに死に、私たちのために復活なさり、そして、すべての背後に支配しておられる万物の支配者であられます。どうしてでありましょうか。それは、私たちを変えて、聖霊により、そして、主のために御霊を通して、すべてのことを行うようになるために、私たちが御霊によって歩むようになるためであります。
何か事が起こると、いつも主の御前に行き、私は何もできません、あなたは私の内にある柔和であり、謙遜であり、愛であり、すべてですから、どうか、あなたがこのことに 解決を与えて下さい・・・・というのが、御霊によって歩む人の特徴です。主との交わりを持っている人の特徴です。もし、私たちが無力になって、何もやらないと御霊が代わりになしていてくださるのです。
傲慢と、主に依存する気持ちのないことが、我々の信仰生活をいちばん大きく妨げています。あなたは、その自分の傲慢を認め、その傲慢は神の嫌われることであることを知り、また、主はあなたの傲慢のために十字架につけられたことを悟るならば、あなたは、主に感謝するはずです。主を真心から、礼拝せざるを得なくなるでしょう。
イエス様は、父なる神に完全に頼っていました。『子は父のなさることを見てする以外に自分からは何事もすることができない』と、イエス様は告白してくださったのです。私たちは、既に自分に頼る事をやめましたでしょうか。イエス様は、『わたしから離れてはあなたがたは何一つできない』と言われたのです。ヨハネ伝、十五章の五節です。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。結局、何をやっても永久的な実が残らない・・・・ということです。
イエス様がこれを言われたのですから、このことばは嘘ではなく、真理です。ですから、私たちは、他に何か試みる必要はありません。もし、私たちが試みるならばそれは罪です。
今日、学びました交わりの秘訣、秘密とは、いったいどういうものなのでありましょうか。聖書は次のように言っています。『彼が光でいますように、我々も光のうちを歩むならば、まことの交わりを持つ』と、書いてあります。すなわち、光のうちを歩むことこそが、交わりの秘密です。多くの信ずる者の悩みは、光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいることではないでしょうか。イエス様の光に照らされますと、私たちの生まれながらのものは、徹底的に駄目であり、役に立たない、汚れたものであることがわかるようになります。もし、イエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりも、もちろん、正しくなります。
この交わりとは、どういうものであるかと言いますと、ひとことで言いますと、光の交わりです。いのちの交わりです。愛の交わりです。イエス様から離れては、私たちは、まことの実を結ぶことができませんし、お互いに愛することもできませんし、また、世に対してはっきりとした態度をも取ることができません。
ひとつのことを覚えましょう。すなわち、私たちに必要なのはイエス様を知ることであり、主との交わりを持つことです。イエス様は、いのちであり、聖きであり、謙遜であり、愛であられます。
聖きとは何でしょうか。私たちは、段々、少しずつ聖くなることですか。決して、そうではありません。これは、聖きの実です。現れです。主とつながっていることの結果です。聖きは主イエス様ご自身です。コリント第一の手紙の中で、「キリストは神に立てられ、我々の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」と書いてあります。
私たちが忍耐を必要としているのでありましょうか。忍耐は、イエス様ご自身です。私たちに、聖きと愛が欠けているのでありましょうか。イエス様は、愛であり、聖きであられます。主にまかせることと、自分で試みることとの間には、本当に天国と地獄ほどの差があります。主に頼ること、すべてを主に明け渡すことこそが、まことの交わりの秘訣であります。
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