ベック兄暦年テープから、DVD1-CD10-0130
ゴットホルド・ベック
少しだけ聖書からご一緒に学んでみたいと思います。主題は、『宗教の空しさ』という題で、少しばかり聖書から学んでみたいと思います。
主なる神の目から見ると、この世には二種類の人間、すなわち、失われた人間と、救われた人間がいます。人間がどのような宗教を持つかということは問題ではありません。それは、どうでもいい問題なんです。なぜなら、救いはいかなる宗教によっても実現されないからです。
あらゆる宗教は人間がつくった産物です。宗教は、次のような事柄にたとえて考えられます。すなわち、初めての人間であるアダムとエバが、主なる神の命令に背いて罪を犯した時、自分たちが裸でいることがわかり、その裸を隠すために、木の葉を用いました。この裸を隠す木の葉のようなものが宗教である・・・・と言ったらば、恐らく、お分かりいただけるのでないかと思います。けども、それに対して、主なる神は罪のない動物を殺し、その毛皮から、人間のために着物をつくってくださったと、聖書は言っています。まことの救いとは、言わば、主なる神がつくってくださった、毛皮のようなものであります。宗教とは、人間が作り出した木の葉を綴り合わせたものにたとえられるでしょう。
主なる神によって最初に造られた人間は、罪を犯して、失われた者となりました。そして、そのすべての子孫たちも、この最初の人間から堕落した人間性、すなわち、罪の性質を受け継ぎました。その結果、私たちも、また、失われた者となったのです。私たちが罪人であるのは、私たちが罪を犯したからではなく、最初に罪を犯した人間の子孫だから、罪人なんです。すべての失われた魂は、悪魔の子であり、すべての救われた魂は、新生の経験による神の子なのであります。
どうか、生けるまことの神の前に、正直であってください。あなたはいったい、失われているのでしょうか。救われているのか、どちらなのでしょうか。あなたは神の子ですか。悪魔の子なのでしょうか。ヨハネ第一の手紙に両方のことばが出てきます。
第一ヨハネ
3:10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
もう一度、お訊ねしますが、あなたは神の子なのでしょうか。それとも、悪魔の子なのでしょうか。恐らくあなたは、このように直接、きかれる、単刀直入の質問を好まないことでしょう。そして、今まで誰も、あなたに対して、そのような質問をしなかったことでしょう。たとえ、あなたが今までに、教会に行ったことがあったとしても、そのような質問はされたことは、なかったかも知れません。恐らく、もしそうだったら、その教会の牧師さんと言えども、救われていなかったことでしょう。もし救われていなかったならば、その人が、このような質問をするはずがありません。その牧師が救われていないのであるなら、確実に地獄に行くでしょうが、あなたもまだ、救われていないのなら、地獄に行かなければならないと、聖書は言っています。
多くの人は、あなたをもふくめて、自分は今まで、地獄へ行くような悪いことをしたことがないので、絶対に地獄に行くことはないと考えています。あなたは、規則正しく、教会に行き、非常に規則正しく、聖書を読み、教会生活では、積極的な役割を活動に参加し、日曜学校の先生も努め、聖餐式にあずかり、個人でも家族全体でも規則正しく祈り、貧しい人に施しをし、できる限り最善を尽くしたと、言うかも知れません。けども、これらのすべての働きについて、主なる神のみことばが何と言っているか、あなたはご存知でしょうか。イザヤ書に主は、人間の働きについて、次のように言っています。
イザヤ
64:6 私たちはみな(・・・・例外なく・・・・)、汚れた者のようになり、私たちの義はみな(・・・・例外なく・・・・)、不潔な着物のようです。
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようですと書いてあります。あなたのあらゆる宗教的な行ないは、聖なる神の前では、不潔な着物のようです。ハバクク書に書いてありますように、主なる神はきよくて、悪を見ず、不潔な着物と同じような宗教的な行ないをご覧にならないとあります。『あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう』とあります。
【参考】ハバクク
1:13 あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。
罪の中に生まれた人間の希望とは、いったいどのようなものでありましょうか。ダビデというイスラエルの王様は詩篇に書いています。
詩篇
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
私たちは、咎ある者、罪ある者として生まれましたから、思い、ことば、行ないにおいて、罪を犯す者です。いかなる宗教も、あなたを救うことはできません。そして、もし、あなたが自分を救ってくれると思い込んでいるあなたの宗教に信頼しているならば、あなたは永遠に失われた者となります。
実際、そうなんです。あなたが宗教的であるということは、救いのために、何の役にも立ちません。なぜなら、あなたは失われているからです。けども、主なる神は、あなたを罪から救うために、救い主をお与えになるというすばらしいご配慮をしてくださいました。けども、その救い主を受け入れる代わりに、大部分の人々は、自分の宗教のために一生懸命に働いて、自分自身を救おうと試みています。
昔、ニコデモ――ヨハネ伝、第三章に出て来る人です――彼は、非常に宗教的な人でした。イスラエル民族における指導者、聖書学者でした。このニコデモは、主なる神の律法をよく守り、神学に非常によく精通していましたが、失われた人間でした。ですから、イエス様は彼に向かって、「あなたは新しく生まれなければ、決して、天国に入ることは出来ません」と、はっきりおっしゃったのです。
使徒パウロもまた、非常に宗教的な人だったのです。けども、彼も失われていました。しかし、このパウロは、主イエス様との出会いを通して、自分の罪の状態に心の目が開かれ、それと同時に、主なる神の偉大さ、救いのすばらしさも知ることができたのです。パウロは次のように告白しています。
ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
人間から受けなかったし、教えられもしなかった。イエス・キリストの啓示によって、自分のものにしたのです・・・・と彼は、証ししています。すなわち、パウロは、イエス・キリストを知ることによって、失われた者から救われた者に変えられたのです。彼はテモテ第一の手紙に証ししています。
第一テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
ここでイエス様は、道徳や宗教を与えるためではなく、罪人を救うために、この世に来たとおっしゃっています。そのように宗教的だった人は、しかしながら、失われていた人――罪人として主イエス様のみもとに来て救われたというような人――は、何百何千万というような数にのぼります。たとえ非常に宗教的なお坊さん、教会の牧師、あるいは、哲学者、あるいは、博士、あるいは、技師、法律家、あるいは、その他、どのような職業であろうとも、あなたは、失われた罪人として、救いの恵みを受けるために、主なる神の前に行かなければなりません。あなたは、そのままの状態で、すなわち、乏しく、失われている、そのありのままの状態で、主イエス様のみもとに行ってください。そうすれば、イエス様はあなたを受け入れ救って下さいます。
ヨハネ伝、一章の十二節には、しかし、この方を・・・・『キリスト教の教えを』とは書いていないんです。
ヨハネ
1:12 この方を(・・・・すなわち、イエス・キリスト御自身を・・・・)受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
イエス様のみもとに来るすべての人を、イエス様は確実に救って、受け入れてくださいます。『わたしのもとに来る者をわたしは、決して捨てません』とイエス様は、約束してくださったからです。教会、お寺、その他あらゆる種類の集会所は、宗教的ではあるけど、失われた人々でいっぱいではないでしょうか。
パウロは、コリント第二の手紙、四章に、悪魔の働きについて次のように書き記したのです。
第二コリント
4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4:4 そのばあい、この世の神(・・・・すなわち、悪魔・・・・)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
何年か前のことですが、臨終の床におかれている若いカトリック信者がいました。彼は、自分は失われていること、そして、恐ろしい状態に置かれていることを知っていました。死は、恐ろしい現実であり、今まで、一度も味わったことのないような不安を人々に与えます。神父が来るようにと、呼ばれました。かけつけてきた神父は、一冊の本から、いくつかの祈りを朗読し、あわれな死につつある若者に秘蹟をし、また、「何も恐れるものはありません」と告げます。その神父が立ち去ると、すぐに一人の友だちが、若者に言いました。「あなたは、今や幸せで、平安に死んで行けると思いますか」と、たずねたんです。「絶対、そんなことはありません」と、若者は答えました。「私は全然、しあわせではありません。私は平安を持っていません。私は、平安がなければ死ねません。どうしたらいいのでしょうか?」と、叫んだんです。
あらゆる儀式や形式をともなう宗教と言えども、キリストなしには、死の床にあるたましいに、平安を与えることは、絶対にできません。しばらくすると、別の友だちが、彼を見にやって来ました。そして、次のような美しい賛美歌を彼に向かって、読み始めました。
主イエスよ、私は今、
ありのままの状態で、罪人として、
あなたのみもとに参ります。
私は、滅ぶべき者ですが、
私は、滅ぶべき者ですが、
主の流された血潮によって、
私の罪も罰せられたことを感謝します。
私は自分の力では何もできませんが、
神の小羊であるイエス様が、
救いの御手を差し伸べてくださっていることを感謝します。
あなたを受け入れ信じます。
この最初の一節が読まれるのを聞くやいなや、死につつある若者は、心の奥底から、真剣に、どうかもう一度、読んでくださいと言いました。この賛美歌は、何度も繰り返し、読まれました。すると、その若者は、あたかも彼のいのちが、すべてそれにかかっているかのように耳を澄ませ、ことばのひとつひとつを噛みしめました。その節が終わると、すぐ彼は言いました。『ああ、これで安心しました。今、私は平安のうちに死ぬことができます。』この若者はその時、その場所で、主イエス様のところに行きました。彼は、どうすることもできなかったにもかかわらず、ありのままの状態で、主のみもとに行き、主はこの人を救って下さいました。
あなたもまた、同じように主のみもとに行ってください。そうすれば、主は、必ずあなたを救って下さいます。イエス様は、あなたをご自身のみもとに招いておられます。「わたしのところに来なさい」と、主は言っておられます。「教会に行きなさい」とか「お寺に行きなさい」とか、「宗教的でありなさい」とかということは、一言も言っておられません。ただ、「わたしのところに来なさい」と、主はおっしゃるのです。すなわち、聖なるお方、造り主、祝福された神の御子、カルバリの十字架で死んでくださったお方のところに行ってください。そうすれば、あなたはとこしえに、主とともに永遠の栄光のうちにいることができるのです。
あなたのすべての宗教的な習慣は、宗教による奴隷状態以外の何物でもありません。それは、悪魔の偽りと欺きです。そして、あなたの罪は、大変な重荷です。そのとき、どうかイエス様のみもとに行って下さい。そうすれば、主はあなたを休ませてくださいます。イエス様は、あなたをも完全に救うことがおできになります。なぜなら、イエス様は、あなたのために尊い血潮を流すことによって、あなたのために救いの御業を完成して下さったからです。
十字架の上での主のことば、すなわち、「完了した」ということばは、本当にすばらしい福音であります。完了した。そうです。罪の問題は解決しました。そして、イエス様は、栄光に満ちて、御国へ上られました。これこそ、すべてがなされたことの証明です。あなたは、そのままの状態で、主のみもとに行ってください。あなたがどこにいようと、誰でいようと、主の声を聞き、それに従ってください。いわゆるキリスト教を学ぶことではなく、キリストのみもとに行くことこそ大切です。それ以外の場合、あなたは永遠に失われるでしょう。
ルカ
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
前に言いましたように、サウロと言う、あとのパウロは、宗教を持っていましたが、彼は失われていたんです。けども、神の恵みによって、彼は空しい宗教から救い主を見出す者になり、次のように証しています。ピリピ書から読んで終わりたいと思います。
ピリピ
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
このように、真心から言える人は本当に幸いと思います。
この最初の一節が読まれるのを聞くやいなや、死につつある若者は、心の奥底から、真剣に、どうかもう一度、読んでくださいと言いました。この賛美歌は、何度も繰り返し、読まれました。すると、その若者は、あたかも彼のいのちが、すべてそれにかかっているかのように耳を澄ませ、ことばのひとつひとつを噛みしめました。その節が終わると、すぐ彼は言いました。『ああ、これで安心しました。今、私は平安のうちに死ぬことができます。』この若者はその時、その場所で、主イエス様のところに行きました。彼は、どうすることもできなかったにもかかわらず、ありのままの状態で、主のみもとに行き、主はこの人を救って下さいました。
あなたもまた、同じように主のみもとに行ってください。そうすれば、主は、必ずあなたを救って下さいます。イエス様は、あなたをご自身のみもとに招いておられます。「わたしのところに来なさい」と、主は言っておられます。「教会に行きなさい」とか「お寺に行きなさい」とか、「宗教的でありなさい」とかということは、一言も言っておられません。ただ、「わたしのところに来なさい」と、主はおっしゃるのです。すなわち、聖なるお方、造り主、祝福された神の御子、カルバリの十字架で死んでくださったお方のところに行ってください。そうすれば、あなたはとこしえに、主とともに永遠の栄光のうちにいることができるのです。
あなたのすべての宗教的な習慣は、宗教による奴隷状態以外の何物でもありません。それは、悪魔の偽りと欺きです。そして、あなたの罪は、大変な重荷です。そのとき、どうかイエス様のみもとに行って下さい。そうすれば、主はあなたを休ませてくださいます。イエス様は、あなたをも完全に救うことがおできになります。なぜなら、イエス様は、あなたのために尊い血潮を流すことによって、あなたのために救いの御業を完成して下さったからです。
十字架の上での主のことば、すなわち、「完了した」ということばは、本当にすばらしい福音であります。完了した。そうです。罪の問題は解決しました。そして、イエス様は、栄光に満ちて、御国へ上られました。これこそ、すべてがなされたことの証明です。あなたは、そのままの状態で、主のみもとに行ってください。あなたがどこにいようと、誰でいようと、主の声を聞き、それに従ってください。いわゆるキリスト教を学ぶことではなく、キリストのみもとに行くことこそ大切です。それ以外の場合、あなたは永遠に失われるでしょう。
ルカ
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
前に言いましたように、サウロと言う、あとのパウロは、宗教を持っていましたが、彼は失われていたんです。けども、神の恵みによって、彼は空しい宗教から救い主を見出す者になり、次のように証しています。ピリピ書から読んで終わりたいと思います。
ピリピ
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
このように、真心から言える人は本当に幸いと思います。
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