2011年2月27日、芦屋集会
ゴットホルド・ベック
ヨシュア
24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。
24:15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
24:24 民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」
過ぎ去った時、皆さんが私のことを覚えて祈ってくださったことを本当に感謝します。去年、入院するようになった時、決心したんです。病室の中にテレビもあったんです。けど、テレビを一秒も見ないようにと決心しました。テレビを見ると結局、この世のことを見るようになるし、あまり意味のないことじゃないかと思って、聖書だけ読もう!そして、ちょうど二十四日間で 聖書を全部、読みました。いや、よかった!
結局、多くの人々は、聖書を何節か読むか、ある人は何章か読むかもしれない。ちょっと珍しい人もいる。一つの本、マルコ伝を全部、今日、読もうと思う人もいる。結構ですけど、聖書全体を読むと、もうちょっと言葉がないよ。もうすごい書物です。
ある意味で当然です。天と地はいつか滅び去ります。わたしの言葉は永遠に残ると、イエス様は言われたから。ですがこの永遠に残る御言葉に頼らない人は、気の毒。喜びながら将来に向かうことが、できないのではないでしょうか。聖書は本当に人間に与えられている最高の宝物ではないかと思います。
みんな病気になってもらいたい、入院してもらいたいわけではないけど。けどもずっと御言葉にだけ頼れば、もうびっくりです。人間に与えられている最高の宝物なのではないかと思います。聖書を通して、もちろん、元気が出ます。悩みながら 苦しみながら、痛みを感じながらも、前向きな生活を送ることができるのは、本当に不思議なのではないでしょうか。
今、読んでもらいました箇所を見ると、ヨシュアの経験についていろいろなことが書かれています。
ヨシュア
24:23 「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」
24:24 民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」
『私たちは主の存在を信じる』ではない。私たちは主に聞き従います。結局、聞く耳を持っている。従いたいから。この御言葉を読むと、我々の目の前にイスラエル民族の歴史が浮かんでくるのではないかと思います。
今から約四千年前に、生きる真の主なる神は、アブラハムに現れました。使徒行伝7章2節に、 一文で書かれています。『栄光の神がアブラハムに現われた』とあります。このアブラハムは、この主なる神に従って、カナンの地、今のイスラエルへと導かれました。この地、イスラエルは、ユダヤ人に約束された地です。
今日、アラビア人たちが、この地全体を支配しようと思い、イスラエル人を絶滅させようとしておりますけど、主なる神のご約束によれば、ユダヤ人こそがこの地を所有することになります。アブラハムは、四千年前にすでに、この地に入っていたのでした。
しかし 彼の子孫たちは、その後、しばらくの間、この地を離れざるを得なくなってしまいました。まず、ご存知のように、ヨセフがエジプトへ送られました。続いて、彼の父、ヤコブも、彼の兄弟たちも、エジプトへ下ったのですけど、エジプトで、彼らはしばらくするうちに、奴隷の状態にせられてしまいました。けど、主は、モーセをお遣わしになり、イスラエルの人々を、この奴隷状態から救い出してくださいました。イスラエルのこの歴史において起こされたただ、一度だけの出来事なのではないかと思います。イスラエルの歴史は、奇蹟の歴史の連続です。
イスラエル民族は、生けるまことの神を知っている地上で ただ一つの民族でした。この生けるまことの神は、まずアブラハムに姿を現わしました。その後の子孫はというと、主以外の神々に仕える偶像崇拝者でした。イスラエルの人たちは、この生きるまことの神を体験的によく知りながらも、常にこの主に対して心が鈍くなり、また、無関心になる危険を持っていたのです。
ヨシュアはその時、百歳を超える老人でした。このヨシュアの心の中には、主なる神に対しての深い関心がありました。ヨシュアは自分の死を前にして、イスラエルの人たちに教訓を与え、この生きる唯一の主なる神の忠実さを褒めたたえたのです。
ヨシュア
24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。
また、次のように言いました。『あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。』素晴らしい告白なのではないでしょうか。
このヨシュアの言葉には、まず彼の体験、それから、彼の証し、もう一つ、彼の新たなる決意について書き記されているのではないかと思います。このヨシュアの体験は、主を知ることでした。だからこそ、彼は主を愛し、主のために生きたい、主に仕えたいと望み、そして 彼の切なる願いは、主ご自身をよりよく知りたいというものでした。ヨシュアの体験、ヨシュアの証し、ヨシュアの新たなる決意、この三つのことについて、簡単にご一緒に考えてみたいと思います。
まずヨシュアは、何を体験したのでしょうか。一言で言いますと、彼は主ご自身を知るようになりました。最も大切なのは、それなのではないでしょうか。主を知るようになった人々の証しは聖書の中でもよく出てきます。例えば、ヨブという男は考えられないほど悩みました。苦しみました。けれども、最後に彼は何と言ったかと言いますと、ヨブ記42章を見ると次のように書かれています。
ヨブ記
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。
パウロも結局、主を知るようになった結果として次のように証しました。
ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
ヨシュアは、ご存知のように、モーセとの親しい交わりを体験しておりました。このモーセは、神の人、神のしもべ、忠実なしもべと呼ばれていました。主は、モーセと顔を合わせて、『友がその友と語るように話された』と聖書は言っています。主がモーセに、シナイ山で四十日四十夜ともにいた後、律法をお授けになられた時に、ヨシュアもそこにいたのです。そのことは、ヨシュア自身も生ける神を親しく体験したことを意味しています。したがって、彼は自ら主の道具となり、若い時から主の敵に対して戦い、これを打ち負かしました。
ヨシュアは、何を体験したかと言いますと次のことでしょう。祈ると勝つ。祈ると輝く。祈ると用いられます。祈ると勇気が与えられます。祈ると人間を恐れなくなります。解放されます。出エジプト記にこのヨシュアの、アマレク人に対する戦いが詳しく記されています。彼は、また、カナンに遣わされた十二人の偵察隊の一人でもありました。その時、ヨシュアは、見えるものにではなく、見えない主の約束の方に信頼を置いたのです。このことのゆえに、イスラエルの人たちは、彼を殺そうと思った。彼に石を投げようとしたのです。
ヨシュアはまた、いかなる妥協もしなかった男でした。彼は、主から次のような命令を受けたのです。申命記の31章ですけど、非常に素晴らしい呼びかけであります。我々のためにも大切でしょう。
申命記
31:23 ・・・・「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」
この最後の約束がなければ、ちょっと大変です。『わたしが、あなたと共にいる。』ヨシュア記の1章9節、みんな、よく知っているところです。
ヨシュア記
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
このように、主の約束をすべて、ヨシュアは現実的に、体験しました。主の命令に従って、ヨシュアも、イスラエルの人たちも、ヨルダン川を渡るという、奇蹟を経験したのです。主の命令に従って、ヨシュアはエリコの要塞を落としたのです。ヨシュアは、何を体験したのでしょうか。彼は、生けるまことの神を体験した。主を知るようになったのです。主ご自身を知るようになることこそが、最も大切なのではないでしょうか。だからこそ、ヨシュアは、私と私の家とは主に仕えると言ったのです。これは彼の体験でした。
二番目、ヨシュアの証しについて、考えたいと思います。ヨシュア記の23章を見ると、次のように書かれていますね。
ヨシュア記
23:3 あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。
ヨシュアは、この言葉を通して、主は奇蹟を成されるお方であることを証ししたのです。
ヨシュア記
23:14 ・・・・あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。
ヨシュアは、決して自分の名誉を求めようとはせず、主の御名が、あがめられることを求めました。ヨシュアの願いは、イスラエルの人たちが偽りのない心で、主に仕えることでした。
ヨシュア記
22:5 ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」
23:11 あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。
『主の存在を認めよう』ではない。主を愛しなさい。ヨシュアは、何を証ししたのでしょうか。ヨシュアの証しの内容とは、結局、主だけでした。そのゆえに、ヨシュアは、『私と私の家とは主に仕える』と言いました。たとえ、イスラエルのすべての人々が主に背を向けたとしても、ヨシュアだけは、生きる真の神に従いたいと思われたのです。
もう一つ、ヨシュアの新たなる決意とは、何だったのでしょうか。新しい決意とは、彼が、何年も前になした決意、すなわち、私は主に仕えようという決意と同じものでした。ヨシュアの切なる願いは、主をよりよく知りたいというものでした。百歳を超えても、彼には、主の他に仕えるものは何にもなかったのです。彼は、右を見ることもなく、左を見ることもなく、彼の目は常に主に向けられたのです。
このヨシュアの態度は、イスラエルの人たちにどのような結果をもたらしたのでしょうか。イスラエルの人々は、ヨシュアのこの態度に深い感銘を受けました。イスラエルの人々は、ヨシュアの正しいことを知り、自分たちが力強い主なる神のものであることを知ったので、彼らは我々も主にお仕えしたいと告白しました。それは、単なる感情による決意ではなくして、自分たちの体験から出た決意でした。聖書は、このイスラエルの人々の決意が一時的なものでなかったことを記しております。
ヨシュア記
24:31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。
ここで、私たちがヨシュアについて考えることができるのは本当にすごいことです。私たちも、私たちの家も主に仕えると新しく決心すれば、すごいことなのではないでしょうか。この決意は、ヨシュアの目的、願いだったばかりではなくて、我々の決意でもあるべきなのではないでしょうか。確かに、私たちはみんな、イエス様を知る前は偶像に仕えるものでした。そして、我々の生活の中心には、イエス様はおいでになれなかったのです。パウロは、コリントにいるイエス様に出会った人々に書いたのです。
第一コリント
12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。
ガラテヤ書の中にも、似てる箇所があります。
ガラテヤ
4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
けども、私たちは、主の御言葉を通して、私たちの生活が目的もなく、望みもないものであることを知るようになりました。人生の敗北者として、また、どうしようもないものとして、私たちがイエス様のみもとに導かれた時、私たちは、イエス様が、罪を赦してくださるお方であり、本当の喜びを与えてくださるお方であり、真の心の平安を、また、恵みをくださるお方であることを知るようになりました。
そして、私たちはイエス様を知るようになった時から、私たちも主に仕えたいと証しするようになりました。また、自分のためではなく、イエス様のために生きたいと望むようになりました。なぜなら、自己中心的な生活には満足がないからです。けど、イエス様に捧げられた生活には、自由があり、真の幸せもそこにあります。
ヨシュアの告白の中には、私が主に仕えるというだけではなく、私の家も主に仕えると書いてあります。私たちの願いは、自分たちが主に仕えるだけではなく、家族のみんなも一緒に主を知り、主に仕えるようになってもらうことです。主に仕えるということは、主の要求であり、また、主の命令でもあります。
申命記
10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、
10:13 あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。
どのような人でも、その人生において一つの選択の前に立たされるのです。すなわち、まことの主なる神に仕えるかどうかということです。そして、私たちにとって、正しい選択をすることが、本当に大切です。主に仕えるかどうかということは、本人の自由な決断によることです。私たちは主に仕えるという決意をしているのでしょうか。
聖書には、これと同じ決意をした人々の実例が多く記されています。それは、ヨシュアと彼の家だけではなく、イスラエルの全家がこのような決意をしたということです。まず、モーセも、このような決断を成した男でした。ヘブル人への手紙、ここが一番まとめられている箇所であります。
ヘブル
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
人間的に言えばバカ!苦しむことを選ぶ人はおかしいよ。けども、モーセはこういう男でした。彼は、苦しむことを選び取りました。一体どうして?
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
もう一つの実例はルツ。ルツ記は短い本なんですけども、ルツという女性はイスラエルの民に属していなかったんです。外人だったし、異邦人でした。けども、このルツも同じ決意をした人でした。
ルツ記
1:15 ナオミ(・・・・彼女の義理のお母さんですね・・・・)は言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」
1:16 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
すごい会話ですね・・・・姑と嫁のあいだの。もう一つの実例は、ナアマンという男ではないでしょうか。結局、彼もイスラエルの民族に属していなかったのです。いわゆる異邦人でした。けども、彼も、同じ決意をなした男です。
第二列王記
5:17 ・・・・しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。
彼も異邦人でありながら主なる神の偉大さ、素晴らしさを、体験したから、こういう風に告白しました。詩篇の大部分はダビデによって書かれたものですけど、アサフによっても、多くの詩も書かれています。このアサフは、次のように言ったのです。すばらしい証しです。
詩篇
73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
主なる神を個人的に体験する人は、誰でも主に仕えたいという願いを持つものです。主を、個人的に体験したことのない人は、一時的に主に仕えたいと願っても、それを実行することはできません。聖書の中にある金持ちの青年について書いてあります。皆さんのよく知っているところです。
マルコ
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。(・・・・いつくしむこととは、心から心配する、愛することでしょう・・・・)「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
誰がもっとも悲しんだのか、ちょっと分からない。彼か、イエス様か。さらに、ヨハネ伝6章を見ると、イエス様に従っていた弟子の多くが、離れ去ってしまったことが記されています。イエス様は、その時、そばにいた弟子たちに、聞いちゃったんです。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」これに対して、ペトロは次のように答えました。
ヨハネ
6:68 ・・・・「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
確信している。もちろん、私たちは、いつも覚えるべきでしょう。毎日毎日が決断に対しての招きであろうということです。モーセは、すごい態度を取りました。
出エジプト記
32:26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。
旧約時代の、いちばん主だった預言者は、間違いなくエリアだったでしょう。エリアも、同じような言葉を言ったのです。このような決断への招きを与えたのです。
第一列王記
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」
ピラトという男も、またこのような決断への招きを与えました。
マタイ
27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
バラバか。イエスか。罪か。生か。死か。このような決断は、誰にでも迫られている決断ではないでしょうか?最後に、また、二つの箇所を読んで、終わりたいと思います。
申命記
30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
主は決して強制なさいません。だから選びなさい。いのちを選びなさい。
第一歴代誌
28:9 わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。
主を選ぶ人、主に頼る人は本当に幸せなのではないでしょうか。

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