2011年3月1日火曜日

みからだなる教会(三)

みからだなる教会(三)
2011年3月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一ペテロ
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

今、シゲタ兄が読んでもらった手紙を聞くと、ある人は、『大変だ』と、心配するようになるかもしれない。聖書の中で、『主は笑っている』という箇所があるんです。結局、関係ない。こういう手紙を出す人々は、名前を書かないでしょう。そうすれば、初めからもう、無視したらいい。自分の名前を書こうとしなければ、隠さなくてはいけない。そして、隠す者は、成功しないのではないでしょうか。結局、イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる。」これを本当の意味で信じれば、たとえば、兄弟姉妹に対する批判ですか、悪口は言えなくなる。


兄弟姉妹に対する批判とは、イエス様に対する批判です。全く、同じです。そうするとやっぱり、大変な問題ではないですか。我々の戦いは、血肉、人間に対する戦いじゃない。悪魔に対する戦いです。そして、前に何回も言いましたように、私のひとつの悩みの種は、イエス様にとって、からだなる教会は何を意味しているか、全く解かっていない人もいる。集会に来ても。

イエス様は、「わたしは建てる。」人間は、どうせダメなんですから。「わたしは、わたしの教会を建てる」と、約束してくださいました。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信じる者がこのからだなる教会の大切さを知らないように、昼、夜、攻撃し、メクラにしようと思っています。そして、ある程度まで成功したように見えるんです。けれども、それは偽物です。前によくこの集会に来た兄弟が我々について何と言っているかと言いますと、『麻原彰晃(あさはらしょうこう)、カルトでしょう』と、言っています。泣くべきか、笑うべきか、ちょっと解からないけど。もちろん、全部、悪魔の業(わざ)です。私たちは、そういう人々のために、本当に、心から祈るべきです。「あなたがたを呪う者を祝福しなさい」と、あるとおり。結局、悪魔です。

「あなたがたは、キリストのからだであって、一人ひとりは、各器官なのである」と、パウロは、めちゃくちゃな教会、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を知るようになれば、やっぱり見方が変わります。

今日のテーマは、前に続いて、いつも、同じテーマなんですけど、「聖なる神の宮である教会」について考えたい。けれども、私は、これを最近、準備したメッセージではない。いつ準備したかと言いますと、五十五年前です。準備したけれども、使わなかったんです。その時はまだ、茨城県の那珂湊に住んでいる時です。ですから、五十五年前に準備したものが、今日と全く同じです。聖なる神の宮である教会こそが、イエス様にとって、すべてのすべてです。

この教会は、イエス様のからだ、神の霊的な宮は、いろいろな面を持っています。そして、私たちは今まで、四つの違った面を、ちょっと観察してまいりました。一番、大切な面とは、昇天された、高く引き上げられたイエス様。二番目の面は、父なる神に、教会により、また、イエス様によって、栄光が世々かぎりなくあるようにということ。三番目の面とは、世界の選ばれた者の解放、結局、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕なのです。私たちは、とりなし人になりましょう。四番目の面とは、教会は、どこにおいても、主の代理であるべきです。

そして、私たちは今日、この四つの違った面を持って、一つの質問を設けたいと思います。すなわち、主なる神の霊的な家を支配している掟(おきて)は、いったい何かという点について、ちょっとだけ、一緒に考えたいと思います。主なる神の家を支配している掟は、いのちと霊性なのです。今、読んでもらいました箇所をもう一回、読みましょうか。

第一ペテロ
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

霊性とは、いったい何でしょうか。霊性とは、聖霊の支配を意味しています。聖霊の支配は、私たちが、聖霊の標準や、聖霊の方法と一致すること、ひとつになることを意味しています。私たちは、聖霊の支配のもとにいると、生まれつきの裁きと決定、生まれつきの教養などは使わないで、聖霊とひとつになることは、聖霊の判断、聖霊の効用、聖霊の標準を持っているわけです。

もし、私たちが本当の意味で、救われているならば、私たちは神の家なのです。この神の家の掟は、いのちと霊性です。これを考えながら、もう一度、前に学んだ四つの面と特徴を観察してみましょう。

第一番目。昇天された、高く引き上げられたイエス様です。父なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜ったと、聖書は言っています。父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座に着かれたのです。イエス様は、実に、最高の権威と栄光を持っていらっしゃいます。そして、イエス様のからだなる教会は、偉大なる任命を持っています。すなわち、このイエス様の最高の権威と栄光を現すことです。もし、私たちが神の家であるならば、私たちはこの任命を持っています。

けど、イエス様の高く引き上げられたことは、ただの真理、単なる教理ではありません。父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座に着かれたというのは、単なる使徒信条ではないのです。天において、現実となったイエス様の支配は、我々の生活においても、現実とならなければなりません。イエス様が、十字架にかかった時、聖霊がそこにおり、イエス様がよみがえられた時、そこに聖霊がおり、また、父なる神の右の座に着かれた時も聖霊がいました。

だから、聖霊の働きによってだけ、天において現実となったイエス様の支配は、我々の実際の生活においても、現実となることができるのです。五旬節の日に、聖霊が下り、聖霊の証しによって、天において現実となったイエス様の支配は、弟子たちの生活においても、現実となりました。弟子たちの生活と奉仕によって現れた、高く引き上げられたイエス様のいのちと力は、この霊的は現実の証明でした。同じように私たちの内に、何か、起こらなければならない。私たちは、イエス様の高く引き上げられたことや、イエス様の支配や権威と等しくならなければならない。私たちの内に現実とならなければなりません。

初代教会のあらゆることの始まりは、高められたイエス様でした。したがって、初代教会は、イエス様の栄光を現して、周りの人々に、悪人にさえも、非常に深い印象を与えたのです。けれども、単なる教えや教理ではなく、この霊的な事実が、人々に、強い影響を及ぼしたのです。神の家を支配している掟(おきて)は、単なる教えや教理だけではなく、いのちと霊性なのです。

エペソ(口語訳)
6:12 わたしたちの戦いは、血肉(・・・すなわち、目に見えるもの、人間・・・)に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

この悪魔の憎しみを感じられない信者は、おそらく、救われていないのではないでしょうか。少なくとも、イエス様だけを大切にしない証拠なのではないでしょうか。

我々の戦いは、悪の霊に対する戦いですと、パウロは、エペソにいる兄弟姉妹を励ますために書いたのではないかと思います。我々の戦いは、人間に対するものではない。もろもろの支配と権威と闇の世の主権者に対する戦いです。悪の霊、また、悪魔の力を滅ぼすことが、滅ぼされることが問題です。パロたち、または、他の独裁者たち、また、両親や親戚、あるいは、友だちの問題のみならず、問題なのは、悪魔の霊の力、悪魔の力なんです。私たちの戦いは、結局、悪魔の軍勢に対する戦いです。

今日の世界の国々の出来事を見ても解かる。すなわち、悪魔は何と大きな力を持っていると、認めざるをえません。人間の後ろに、環境の後ろに、悪魔の力が働いています。イエス様の高く引き上げられることは、初めに、この悪の霊に影響を及ぼさなければなりません。これこそが、霊性なのです。からだなる教会の戦いは、悪魔に対する戦いです。そして、教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすことです。もし、私たちが、この悪の霊に対する戦いのために、肉のものを使ったら、災いです。パウロはコリント第二の手紙、十章四節に、当時の兄弟姉妹に書いたのです。

第二コリント(口語訳)
10:4 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。

これは、いったい、何を意味しているのでしょうか。我々の戦いの武器は、どうしても霊的なものでなければなりません。パウロは、コリントに住んでいる兄弟姉妹に、この警告をしたのです。この兄弟姉妹は、この世の知恵、この世の力を求めたのです。

コリントの信者は、この世に影響を及ぼすために、この世の知恵や力を欲しかったんです。この人々は、肉に属している者でした。なぜなら、彼らは、この世に対する印象を与えるために、戦いの武器として、肉のものを使おうとしたからです。だからパウロは力を入れて、このコリントの兄弟姉妹に、この世の知恵と力の愚かさについて書いたのです。この世に打ち勝つために、この世の知恵と力に勝る知恵、勝る力が、絶対に必要であると書いたのです。肉に属している者に打ち勝つために、戦いの武器として、肉のものに勝る武器が必要だからです。

『我々の戦いの武器は、肉の物ではなく、神のために、要塞をも破壊するほどの力あるものである』と、パウロは書いたのです。他のことばを使うと、我々の戦いの武器は、肉の物ではなく、霊のものである。我々の戦いは、この世の知恵や力に対する戦いではなく、また、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と権威と闇の世の主権者、また、天上にいる悪の霊に対する戦いであると、パウロは、エペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。だから、我々の戦いの武器は、どうしても、徹頭徹尾、霊のものであるべきです。すなわち、私たちは、この悪の霊、また、悪魔の軍勢に対する優越を持っているべきという事実が明らかになります。

我々の優越とは、いったい何でしょうか。私たちのこの世に勝る力とは何でしょうか。というのは、イエス様が、すべての支配、権威、権力、権勢の上に、高く引き上げられたことなのです。これこそが、我々の唯一です。これは、霊のものです。神の家は、霊的な家です。この神の宮である教会の霊的な目的は、悪の霊に、イエス様がすべての支配、権威、権力、権勢の上に高く引き上げられたことを明らかにすることです。

もし、私たちがこの悪の霊に対して、霊的な方法を使わなければ、必ず、失敗します。我々の戦いは、直接にあるものに対する戦いではなく、このものの後ろに隠れている、この目で見ることのできない、悪の霊に対する戦いです。これは、本当に覚えるべき事実です。我々の戦いは、世界的な帝国の後ろに働いている、悪の霊の力に対する戦いです。私たちは、この悪の霊を妨げることができるのです。

イエス様のすべての支配、権威、権力、権勢の上に、高く引き上げらるたことから、悪の霊を、我々を通して、投獄しなければなりません。これこそが、からだなる教会の霊的な目的です。この世の主権者の後ろに、悪の霊や悪魔の軍勢が働いていますけど、私たちの主イエス様は、すべての支配、権威、権力、権勢の上に、高く引き上げられました。そして、私たちは、祈りや証しや霊的ないのちによって、この隠れた悪の霊の力に、イエス様の優越を示さなければいけません。

これは、言葉の問題、あるいは、教えや教理の問題ではなく、いのちの問題です。実に、神の家を支配している掟は、いのちと霊性なのです。主なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名をイエス様に賜った。これは動くことのできない事実です。父なる神が、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座に着かれたのです。これも動くことのできない事実です。

けど、天において、現実となったイエス様の支配は、我々の生活においても、現実とならなければなりません。そうしたら、初めて、この悪の霊に対して、私たちによって、イエス様の最高の権威と栄光を現すことができるのです。

主の平安とイエス様にある満足に対する確信とは、霊なる神の住まいの第二番目の面なのではないでしょうか。霊なる神の住まいの目的は、エペソ書一章十二節にあるように、神の栄光を褒め称えるようになるためである。すなわち、私たちが、主のいこいの場所、安息の場所、神の愛された者、神の心にかなう者でなければいけません。初代教会のあらゆることの始まりは、高められたイエス様でした。彼らは、この事実を確信し、大喜びで証ししました。したがって、高められた主のご栄光を、そんなに現したから、悪霊にさえ、非常に深い印象を与えたのです。

主なる神が、イエス様によって、絶対的に満足されました。主イエス様は、神の安息なのです。同じように、私たちも霊の家として、主なる神のご満足のために生きなければならないのではないでしょうか。主は、いのちと霊性によってだけ、満足されるのです。

我々の際立った特徴は、いったい何でしょうか。いのちの霊性でしょうか。そうしたら、初めて、『父なる神に、教会によって、栄光が世々限りなくあるように』となります。主の栄光が問題なんです。聖書を読むと、この事実が解かるはずです。たとえば、ラザロのよみがえりもそうでした。ヨハネ伝十一章四節に、『この病気は死ぬほどのものではない。それは、神の栄光のためのものなのである』とあります。けど、疑問と不信仰によって、イエス様が長い間、妨げられました。最後に、イエス様は、大声で叫んだんですね。『ラザロよ、出てきなさい』と、呼ばわりました。すると、死人は、手足を布で巻かれ、顔も、顔おおいで包まれたままで、出てきたとあります。これは、霊的は戦いでした。

イエス様の内にあったいのちは、死より勝る力でした。これは、神の栄光のためでした。主は、いつも、死より強い力によって、栄光をお受けになるのです。

聖書は、アブラハムの召されたことについて、次のように言っています。使徒行伝7章2節、一文章だけです。大切な文章です、「栄光の神が彼に現われた。」もし、私たちが、この召されたことについて考えると、次のことが解かるはずです。すなわち、神は、アブラハムに、「わたしは、あなたを召した。しかし、あなたの満足のためではない。わたしの栄光と満足のためである」と、主は言われました。そして、アブラハムの生活に対する主の取り扱いは、いつも、『主に、死とよみがえりによって、栄光が世々限りなくあるように』となったんです。アブラハムは、主の導きによって、自分の関係、望みと希望、財産と目に見えること、全部を捨てなければならなかったんです。これは、死でした。しかし、その後で、主は、新しい啓示を与えられ、新しい契約を結ばれたのです。アブラハムの生涯の終わりに、主は言われました。

創世記(口語訳)
22:2 あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい。

これは何を意味しているのでしょう。もし、アブラハムが主に従えば、主から与えられた約束と望みを、捨てることではないか。もし、イサクが死んだら、神の忠実、主の約束と契約などは、全部、だめになってしまいませんか。

ヘブル(口語訳)
11:19 彼(アブラハム)は、神が死人の中から(人を)よみがえらせる力がある、と信じていたのである。

アブラハムは、この堅い確信を持っていたのです。そして、アブラハムは、イサクの出来事によって、よみがえりを経験しました。よみがえりによって、主は、いつも、栄光をお受けになります。しかし、『死』なしに、よみがえりはあり得ないことです。だから、アブラハムは何回も何回も死、苦しみ、困難を経験しなければならなかったのです。

いかにして、主なる神は、栄光をお受けになるでしょう。いかにして、主なる神は、満足されるのでしょう。よみがえりのいのちを現す兄弟姉妹によってだけ、主は栄光をお受けになるのです。しかし、『死』なしに、よみがえりは、馬鹿げたことです。だから、死の様(さま)と等しくなることによってのみ、これは可能です。すなわち、十字架につけられている者によってのみ、主は栄光をお受けになります。イエス様の場合も同じでした。

イエス様の死とよみがえりによって、父なる神が満足されました。栄光をお受けになりました。イエス様が、死に、完全に打ち勝ったことの証明は、高く引き上げられたことです。イエス様のからだなる教会の歴史を見ても、連続的な死と、よみがえりだけだったんです。そして、各々(おのおの)のよみがえりによって、主なる神に栄光が世々限りなくありましたことは明らかです。

どうでしょうかね。私たちは、一度、主なる神の御前に、自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志すこと、自分の目的などは、全部、ダメだということを、はっきりと知りましたでしょうか。そして、本当は、暗闇に入って、苦しんだのでしょうか。けれども、それは、もちろん、終わりではない。よみがえりが付いてきました。主が新しい啓示を与えたのです。こういうふうに、主なる神は、栄光をお受けになりました。

神の家を支配している掟は、前に言いましたように、いのちと霊性なのです。けれども、死なしに十字架なしに、いのちと霊性はありえないことです。いのち、すなわち、よみがえりと霊性によって、主なる神は、栄光をお受けになるのです。これが、我々の生活の目的であるべきではないでしょうか。

私たちは、よみがえりのいのちと霊性を自分のものとすることができるために、何回も何回も、死を経験しなければいけません。けれども、死は、決して、終わりではなく、終わりは、よみがえりと主のご栄光なんです。最後の敵である死とは、教会の内に、また、教会によって、イエス様のからだによって、滅ぼされると聖書は、はっきり言っているのです。しかし、どうして、教会の内に、また、教会によって、滅ぼされるでしょう。なぜなら、イエス様は、すでに、死に対する勝利を得たからです。そして、この勝利を得た主は、今日(こんにt)、ご自分の教会の内に住んでいらっしゃいますから、勝利を得たかしらであるイエス様は、ご自分のからだなる教会によって、すなわち、教会によって、最後の敵を滅ぼすということは、聖書にはっきりと記されています。

こういうふうに父なる神に、教会により、また、主イエス様によって、栄光が世々限りなくあるようにとなります。私たちは、神の家なのである。この霊なる家の目的は、神の栄光をほめたたえるためです。私たちは、霊なる家として、主のご満足のために、生きなければなりません。

さて、私たちは、霊的な死を経験すると確信しながら、『これは終わりではない、これこそが、主の栄光のためである』と、考えるべきです。これは決して、簡単なことではない。けれども、こういうふうに父なる神は、栄光をお受けになります。もう一度、いかにして、主なる神は、栄光をお受けになるのでしょうか。よみがえりのいのちを現す兄弟姉妹によってだけ、これは可能です。『よみがえりなし』に、霊性はありえないことです。だから、絶対に必要なことは、『死』なんです。十字架につけられている者によってのみ、主は満足され、栄光をお受けになります。

聖なる神の宮である、からだなる教会の第三の面は、世界の選ばれた者の解放と、すべての聖徒たちに対する奉仕なのです。

悪魔は、ただ一つの目的を持っています。霊なる神の住まいにいる、イエス様のいのちを滅ぼそうという目的を持っています。この悪魔の攻撃によって、何と多くの信者が、霊的な暗闇に落ちたでしょう。よみがえりのいのちと霊性は、悪魔の攻撃の目標です。ひとつの厳しい質問があるのです。私たちは、この恐るべき戦いの内に、世界の選ばれた者の解放のために、努めているのでしょうか。私たち一人ひとりが、すべての聖徒たちに対する奉仕をするのでしょうか。

からだなる教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすだけではなく、世界の選ばれた者の解放と、すべての聖徒たちに対する奉仕なんです。私たち皆が、この真理を信じるでしょう。けど、これは問題ではなく、大切なのは、この事実が、我々の内に、現実となっているかどうかが問題です。私たちは、すべての聖徒のために、祈らなくてはいけません。『とりなし人』になるためではなく、私たちは、とりなし人だから祈らなければなりません。なぜなら、私たちは主のものとなった者として、霊なる神の家に属していますから。

私たちは、主イエス様のからだのひとつの肢体なのです。私たちは、とりなしの奉仕が、好きかどうかは問題ではなく、霊なる神の住まいの際立った特徴は、とりなしの奉仕です。神の子の性質は、としなしの奉仕によって、現れます。とりなしの奉仕は、自発的なはずです。

多くの人々は、次のように言うのです。「私たちは、主のからだのイエス様のからだの肢体です。そして、イエス様のからだの使命は、とりなしの奉仕です。だから、私たちは、賛成します。」私たちは、この真理を信じ、宣べ伝えますけど、この教会に対する真理と、信じる者は、分けることができないのです。大祭司であるイエス様に属している肢体は、皆、『とりなし人』だから祈ります。もし、祈らなければ、何かが、根本的に間違っています。

どうでしょうかね。私たちの生活の目的は、何でしょうか。世界の選ばれた者の解放と、すべての聖徒たちに対する奉仕なのでしょうか。私たちが、これを好きかどうかは問題ではなく、霊なる神の住まいは、そのために、存在しているからです。我々の生活の目的は、いったい何でしょう。すべての主にある者たちの解放、また、すべての聖徒たちの祈り、いのちに対する奉仕なのでしょうか。

私たちは、集会に来て、他の信者に会うと、私たちの臨在は、すべての聖徒たちのいのちに対する奉仕なのでしょうか、それとも、選ばれた者は、我々によって、責められているのでしょうか。私たちは、兄弟姉妹の交わりの大切さを解かったでしょう。私たちは、お客様として来、また、私たちは、中途半端な立場をとることができません。私たちは、集会に来ると、すべての聖徒たちに奉仕している者として、あるいは、邪魔する者として、来るのではないでしょうか。集会に出席したくない兄弟姉妹は、すべての聖徒たちに対する邪魔者です。聖徒たちとの交わりを欲しくない兄弟姉妹は、憐れむべき存在です。これを考えると、兄弟姉妹に対する無関心は、恥ずかしくないでしょうか。真理や教えや教理は問題ではなく、これは、いのちと霊性の問題です。

主なる神の家が支配している掟は、いのちと霊性なんです。そして、「あなたがたは神の家である」と、パウロは書いたのです。これは、聖霊の言われていることです。「あなたがたは神の家なのです。」私たちの存在は、他の聖徒たちのために、いのちを意味しているのでしょうか。私たちは、主から備えられた器として、すべての聖徒たちのいのちに対する奉仕なのでしょうか。よみがえりのいのちと霊性によってのみ、わたしたちは、すべての選ばれた者の解放と、すべての聖徒の生活に対する奉仕のために、役に立つことができるのです。

主のからだなる教会は、イエス様の代理、代表であるべきです。教会とは、イエス様ご自身です。しかし、イエス様だけではなく、我々の内に住んでいるイエス様です。どこの場所でも、信じる者は、イエス様を共同的に現すべきです。教会全体が、主イエス様を現さなければならないのではないでしょうか。

どこにおいても、教会は、イエス様の代理、叙述であるべきなのです。教会は、ひとつのからだですから、少なくても二人の信者が必要なんです。教会は、共同的なものですから、教会の目的は、イエス様を共同的に現すことです。これは、決して、組織的な、形式的なものではない。なぜなら、教会は、霊的なものだからです。教会は、聖霊の支配のもとにいるのです。教会の指導者は、決して、人間ではなく、聖霊なのです。教会は、ひたすらな祈りによって、聖霊の導きを求めなければなりません。教会は、全部を聖霊の導きに委ねることによって、霊的になったのです。だから教会の事業は、徹頭徹尾、霊的なのです。

教会と形式的な事業とは、正反対です。もし、教会の内に問題が起こると、どういうふうに解決したらいいのでしょうか。誰かが提案をし、そして、霊的な人は、すぐ解かるはずです。すなわち、これは死を意味します。もし、私たちが、この提案に従うと恐るべき結果になるに違いない。私たちは、この提案に従う自由を持っていません。霊的な人の内に、支配している聖霊が、『これは、わたしの道ではない。この提案に従うと、敗北に終わるのです。これは、主の道ではない』と、聖霊が言われるのです。それとも、「はい、これは主の道です」と言うのです。これは、教会の生活の根本です。こういうふうに、教会はどこにおいても、イエス様を現しています。主の御心の表現なのです。

実に、神の家を支配している掟は、いのちと霊性なのです。このいのちは、共同的な生活です。共同的な生活は、霊的であり、本当のいのちです。私たちとイエス様との交わりは、いのちの交わりです。

第一ペテロ(口語訳)
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ(た。)

イエス様のものになった兄弟姉妹は、イエス様と同じ『いのち』を持っています。イエス様は、尊い生ける石であり、私たちも、それぞれ、生ける石となって、霊の家に築き上げられたのです。この関係は、霊的な関係です。同じいのちによって、共同的な表現があるのです。この共同的な表現の根本は、いのちなんです。

いろいろな組合や社会やクラブがあるのです。そして、私たちは、組合やクラブの目的に賛成して、ひとつの会員になることができるのですけど、会員になることによって、同じいのちをもらうわけではないと言うことは明らかです。しかし、からだなる教会の場合、そうなんです。

イエス様に属する人々は、皆、同じく、永遠のいのちを持っており、そして、かしらであるイエス様との生き生きとした結びつきがあるのです。この同じいのちによって結びついた兄弟姉妹は、どこにおいても、イエス様の代理であり、イエス様の表現なのであります。というのは、ただイエス様について、真理を宣べ伝えるのではなく、イエス様ご自身が、からだなる教会の中心に立ちたもうことは、偉大なる事実です。「二人、三人、わが名によって集まるところには、我もその内にあるなり」と、イエス様は約束されました。二人、また、三人の本当の信者が集まるところに、イエス様ご自身が、そこにいるということは、実に偉大なる事実です。これは、単なる請求権ではないのです。

たとえば、カソリック教会は、『教会があるところには、キリストがおり』と宣言します。けど、これはもちろん、大間違いです。なぜなら、生き生きとした意思、霊的な意思が必要ですから。すなわち、本当に聖霊とみことばによって、新しく生まれ変わった人々が必要です。その人たちだけが、イエス様のからだである教会なんです。そして、このような主に出会った人々が集まると、全然、知らない人々が入る時、その人は、『実に、神ご自身があなたがたの内にいる』と、認めざるを得ないのです。

どうでしょうかね。もし、未信者が我々の集会に参りますと、その人は、顔を伏せ、主を拝み、『まことに主なる神が、あながたの内にいる』と、認めざるを得ないのでしょうか。初代教会の場合は、そうでした。ちょっと見てみましょうか。

第一コリント
14:24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

これは、我々の願いではないでしょうか。もちろん、人々が、顔を伏せるかどうか、問題ではない。けれども、この人たちは、自分の持っていた先入観や、疑いや、不安や、隠し事などを捨てるかどうかは問題です。未信者は、『まことに、神があなたがたの内にいる』という強い印象を受けなければなりません。けど、もし、イエス様が、我々の生涯の支配を持っていなければ、これは不可能です。

主なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名をイエス様に賜ったんです。この動くことのできない事実が、からだなる教会の内に、現実とならなければなりません。自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志すこと、自分の目的などを、捨てることなしには、イエス様は、我々の生活の支配を持つことができず、また、からだなる教会は、どこにおいても、イエス様の代理となることができません。

静かにして、主の御前(みまえ)に出て、そして、自分の生活は、イエス様の最高の権威を現し、また、主の栄光を褒め称えるようになり、そして、自分の生活は、すべての救われた者の解放と、すべての兄弟姉妹に対する奉仕となるように、また、イエス様を現すことができるように、祈るべきではないでしょうか。


おわり

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