2012年1月1日日曜日

貧しいやもめのレプタ銅貨

貧しいやもめのレプタ銅貨
2012年1月1日、御代田喜びの集い
ゴットホルド・ベック

マルコ
12:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
12:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
12:44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

吉祥寺の一人の姉妹、イサコ姉妹からハガキをもらったことがあるんです。内容は、『イエス様ありがとう。イエス様、大好きです。イエス様と出会ってよかった。感謝します。』今、読んでもらいましたあの女性も、そういう気持ちを持っていたのではないかと思います。

『イエスは見ておられた』と書いてあります。もちろん、当時だけではなくて、今日もイエス様は、一人一人の心の奥底を知っておられるのです。

『この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れた』とあります。どうしてであるかと言いますと彼女は、感謝と喜びでいっぱいになったからです。旧約聖書の中で何回も、新約聖書の中でも何回も、一つの提案ではなくて、命令がなされています。すなわち、主を愛せよ。

『主の存在を求めなさい』ではない。『主を信じなさい』ではない。主を愛せよ。イエス様は三回も、三年半、親しい交わりを持っていたペテロに聞いたんです。わたしを愛するの?どうして三回、きいたか分からないけど、もしかすると、ペテロが三回もイエス様を否んでしまったからです。

『主を愛せよ』という言葉はよく出てきます。

マタイ
22:32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

アブラハムも、イサクも、ヤコブも生きているものだとイエス様は、はっきり言われました。

マタイ
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

ちょっと残念です。悔い改めたとは書いてない。

22:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家(・・・・法律家、弁護士でしょうね・・・・)が、イエスをためそうとして、尋ねた。

ずるいね。私は救われるためにどうしたらいいの?教えて。そういう気持ちは全然、なかったのです。「先生・・・・。」偽善的な態度だよ。先生、教えてください。導いてください。どうしたらいいか分からない・・・・そういう気持ちは全然、なかったのです。

22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。・・・・

これも恵みです。普通の人間だったら、彼を無視したはずなんです。けど、イエス様は、ちゃんと答えました。

22:37 ・・・・「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

イエス様は、すべてを見ておられただけではなくて、今日も全部を見ておられるのです。

福音書の中心はもちろん、イエス様です。『おいで。私のところに来なさい。休ませてあげます』という呼びかけは、もちろん、時代遅れになっていません。四つの福音書では、イエス様との出会いが不可欠なものであると、強調されています。そして、イエス様に来た人々は、ほとんどすべて、何かの問題を持っていた人々です。例えば、病気、悪徳、絶望などのために、苦しんでいる人々が、やはり、イエス様のところへ行ったのです。そして、イエス様との出会いによって、癒し、解放、助け、健康、喜びと真の幸福をその人たちはいただいたのです。

イエス様は一回も、『半年前に来たならば良かった。もう手遅れです』と、もちろん、言ったことがない。『わたしは失われた人を探して救うために来た』とイエス様は、何回も何回も言われました。けれども、イエス様のみもとに来て、何かを得ようと考えている人々は、たくさんいました。数えられないほどいました。けど、イエス様に何かをあげたい、イエス様に何かを捧げようと願った人は、あまりいなかった。

けれども、このマルコ伝12章、41から42節にでてくるやもめの女性は、その少ない人々の中のひとりでした。このやもめの行いを通して、本当の愛、全てを捧げ尽くす愛を見ることができるのではないでしょうか?

ちょっと三つの問いについて考えたいと思います。第一番目、このやもめの行いの原動力はいったい何だったでしょうか?二番目、この行いは、イエス様と他の人たちによって、いかに評価されたのでしょうか?そして、第三番目、いかなる理由で、人々はそれぞれ異なった態度を、主イエス様に対して取るのでしょうか?

聖書はこのやもめについて、あまり多くを語ってはいません。私たちはそのやもめがどんな人であったかをはっきりと知ることができません。はっきり知ることができるのは、彼女はエルサレムに住んでいました。それから、やもめだったから、彼女のご主人はすでに死んでしまったということです。

第三者にとっては、彼女がやもめであるということは、単なる事実にすぎなかったのです。けど、このやもめの苦しさを、本当に理解する人は少ないです。こういう場合には、どんな人も、やもめを慰めることはできません。仕方がないのではないか。やはり、あきらめなくてはいけないのではないか。そういうことしか、なかったでしょう。彼女にとって、やもめになるということは、孤独になることを意味していたのです。これからの生活が不安定になるし、また、守りのない境遇を意味するのです。このやもめにとって、自分自身で生計を立てるということは、そんなに簡単ではなかったでしょう。

彼女は、このショックによって、この悲しみ、苦しみによって、あきらめてしまったのではない。とげとげしい人になったのでもない。かえって、そのことによって、救い主に頼るようになりました。結局、主にすがるようになりました。彼女は主によってすべてをゆだねる恵みを与えられました。このやもめは、主が自分のことを心配し、自分を助けようと望んでおられるし、自分の持っているものはわずかであっても、主が祝福してくだされば、それで十分だと、彼女は、思ったでしょう。

彼女の最高の喜びとは何だったでしょうか?おそらく、安息日に、宮にいって、主のみ言葉を聞くことでした。言うまでもなく、当時、印刷された本はなかった。自分で聖書を持っていた人――当時の旧約聖書を持っていた人――は、一人もいなかった。ですから、、みことばを聴こう、みことばを知りたいと思うならば、やはり、安息日に宮に行くことしかなかったのです。もしかすると、彼女は安息日に宮に行って、詩篇の148篇のみ言葉を聞いたのかもしれません。

詩篇
146:1 ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。
146:2 私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。

146:7 しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。主は捕われ人を解放される。

146:9 主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。

彼女は、この言葉を聞いた時、嬉しくなったでしょう。主は、やもめをささえられる。やもめはただ、主のみ言葉を聞くだけではなく、それに、頼ったのです。彼女は、主は真実であられるということを確信したのであります。

第二列王記
12:9 祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴をあけ、それを祭壇のわき、主の宮の入口の右側に置いた。入口を守る祭司たちは、主の宮に収められる金をみな、そこに置いた。

今、読んだ箇所を見ると、賽銭箱は、祭壇の片側に置かれたと分かります。すなわち、はじめに祭壇があり、その次に賽銭箱が置かれていたということです。祭壇のあるところには、供え物があります。旧約時代の犠牲は、すべてイエス様の十字架で受ける犠牲のひな型のようなものです。ほふられた動物の血潮によって民の罪が赦され、債務が支払われたことに対する感謝の心で、人々が主に捧げものをするために、そこに賽銭箱が置かれたと言うことであります。

民が賽銭箱に投げ入れる供え物は、律法の要求ではなかったのです。何も言わなくてもいい。もちろん、主は強制なさいません。神の救いの御業に対する感謝のしるしだったのです。このやもめの行いは、それと同じく、強制されたものではなかったのです。感謝の心で、愛をもって、なされたものでした。このやもめの行いの原動力は、いったい何だったでしょうか?その答えは、今、話したように、得た恵みに対する感謝のしるしでした。

二番目の問いは、前に話したように、この行いは、主イエス様とほかの人々によって、いかに評価されたのでしょうか?やもめのこの行いは、イエス様を非常によろこばせました。このやもめは、だいたい十円を捧げたのです。主は、この金額の大きさを見られたのではなく、彼女の心を見たのです。

捧げものは、その動機によって価値が決まるのでしょう。多くの捧げものは、価値のないものです。なぜならば、それらは、主に捧げられのではなく、自分が人に良く思われるために捧げられているからです。ここで、『多くの捧げものがあった』と書かれてますね。すなわち、当時の生活水準は、決して低いものではなかったのです。大部分の人々は豊かであり、満足した生活をしていたでしょう。けど、このやもめは、なぜ、自分だけ、こういう悲しい、苦しい境遇にあるのかと言って、とげとげしい、人にはならなかったのです。その可能性は、もちろん、十分ありました。彼女は、他人と比較したり、自分で自分自身に同情したりすることからは、何も良きものは生まれてこないということを、知っていました。

捧げ物の価値は、当然の話ですけれども、後に残ったものの大きさによって決まるものではないでしょうか?多くを持っている人は、多くを捧げてもも、まだ多く残ってるから、捧げ物の価値は決して、大きくない。このやもめの場合には、持ち物、全部を捧げたから、捧げ物の価値は大きいものでした。

やもめは、明日のことを思いわずらいませんでしたから、持ち物の99パーセントだけではなくて、全部、捧げる勇気を持っていたのです。これこそ、本当の信頼であり、主はこれをご覧になった時、喜んでいたんです。しかしながら、他の人々は、このやもめをいかに評価したのでしょうか?私たちは、このやもめに対して、どう思うのでしょうか?

多くの人々は、このやもめを見下すでしょう。彼女の行いを理解する人は、少ないでしょう。また、彼女と同じこと、同じ行為をする人も、さらに少ないのではないかと思います。私たちはあまりにも、合理的で計算高い者ではないでしょうか?このやもめは、私たちに次のことを教えています。すなわち、主に対する愛は、人間的に考えたり、計算したりするのではなく、すべてを捧げざるを得ないものであると。このやもめの行いを通して、すべてを捧げ尽くす愛を見ることができるなのではないでしょうか?

このやもめの行いの原動力は、いったい何だったでしょうか?今、話したように、与えられた恵みに対する感謝のしるしでした。この行いは、イエス様と他の人々によって、いかに評価されたのでしょうか?イエス様は彼女の態度、彼女の行動を見たとき、大いによろこばれたのです。けど、他の人々は、彼女を理解することができませんでした。

三番目の問いとして、いかなる理由で、人々は、それぞれ異なった態度を、主に対して取るのでしょうか?

生まれつきの人は自己中心的であり、主に対して不従順です。それですから、人は愛を持って、心から全てのものを捧げることはできません。人の心の奥底は、自己中心によって毒されています。主は、人の心が徹底的に悪に染まっているものであると言われました。

マルコ
7:21 内側から、すなわち、人(・・・・人の代わりに人間、すべての人間、全人類、未信者だけではない、あらゆる人・・・・)の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

外側からではない。環境のせいではない。主は、このような人間から、絶対的な愛、絶対的なきよさと絶対的な真実を要求しておられます。主は、人間が自分の力でこの要求を満たすことができないということを、もちろん、知っておられました。それでは、なぜ主は、そのようなことを、人間に対して、要求されるのでしょうか?

ご自身の神聖さと、人間の罪と、また、無力さを示すためなのではないでしょうか。私たちは、どんな尺度で測るかということが決定的なのではないでしょうか。一般的な尺度で測れば、警察に捕まったり、刑務所に入れられたりしなければ、私たちはいい人と判断するかもしれない。私たちが、他の人と比べるという尺度で自分を測れば、まあまあであるということになるのでないでしょうか?

主の間違いのないみことばの尺度で計れば、私たちは、失われている、汚れているものであり、罪にまみれているものである、まったく無力であるということを知るようになります。そのように、聖書は生まれつきの人間について言っているのです。けど、このマルコ伝に出てくるやもめは、全く違った種類の人でした。彼女は、主を知っていたから、自分自身のことを忘れ、主に全てを捧げたいと言うただ、一つの願いでいっぱいでした。

本当の愛、真の愛とは、全てを捧げ尽くす愛であります。主を知っているということが、主を愛することの前提条件です。自分自身の状態を分かるということが、主を知ることの第一歩なのではないでしょうか?

主を知っており、主と交わりを持っている人は、主を愛さざるをえません。それは強制ではなく、自発的なものです。人間的に見れば、彼女の行いは、ちょっとばからしいことでした。彼女が捧げた十円は、それで宮を修理したりするためには、もちろん、全く役に立たないものでした。しかし、彼女にとっては、その十円は価値あるものでした。彼女は、それで明日のパンを買うことができたでしょう。けど、彼女は、明日のパンのことを思い煩いませんでした。

やもめは、宮で主の御言葉を聞いたので、よろこびと感謝でいっぱいだったからです。愛と感謝の思いは、彼女が自分の全ての財産の捧げるようにさせたのです。よく聖書に出てくる言葉の一つは、人はうわべを見るが、主は心を見る。主は我々の心の状態がどんなものかを見通されます。

信じる者は次の問いについて考えるべきなのではないでしょうか?すなわち、私は、イエス様に対して本当の愛を持っているのでしょうか?私は、主と交わりを持とうとして、主のみもとに近づきたいと、願っているのでしょうか?私の考えや、感情の中心は、本当に主なのでしょうか?私は義務感で主に仕えるのか、それとも、愛によって、主に従うのでしょうか?祈りは、私にとってなくてはならないもの、あるいは、心から願っているものなのでしょうか?

私たちがこれらの質問に対して、『はい』と正直に答えることができれば、私たちは、次のことをしているでしょう。すなわち、あなたの神を愛せよという主の命令を、自分の努力で守るのではなく、主を知っているから、愛さざるを得ないのです。

確かに主は、あなたの神、主を愛せよと言われるのですが、それは、私たちが自分の無力さ、自分の汚れや罪にまみれた状態を知るためでした。そして、自分の本当の状態を知った人は、自分がどうしても主を愛することができない、自分の自己中心的な考え方から離れられないと告白し、主に助け求めるようになります。その時、主はご自身の愛を示され、それを与えてくださるのです。有名なローマ書5章を見ると、この事実について、次のように書かれています。

ローマ
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

主なる神は、変わることのない絶え間なく与え続ける愛です。私たちが主から日々、新しく、主の愛を受け入れるかどうかが、もっとも大切な問題です。多くの信者は、勇んで出発しますけど、そのうち、萎縮してしまいます。

はじめは、信者は、主のあがないの愛を知って、よろこびでいっぱいです。しかし、私たちは日々、主の変わることのない、絶え間なく与え続く愛を味わい、知らなければなりません。そのときはじめて、私たちは、自分自身のことを忘れ、やもめのようにすべてを捧げ尽くすことができるのです。すなわち、私たちの本質が、変えられなければならないということです。

そのことは、自分の努力によってではなく、主の愛を受け入れられることによってのみ可能です。私たちが、上の質問に、『はい』と答えることができなければ、革命的な御霊の働きが必要です。私たちは、主よ、あなたの光によって、自分の本当の姿を明らかにしてください。すべての汚れをあらわにして、それを取り去ってくださいという態度が、どうしても必要なのではないでしょうか?

おそらく、いちばん、頭の優れていた王様とは、世界一の金持ちであったのは、間違いなくソロモンでした。主のソロモンに対する判断とはどういうものであるかと言いますと、聖書は一文章で言ってます。すなわち、『ソロモンは主を愛した。』大切なのはそれだけなのではないでしょうか?

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