2012年1月24日火曜日

主の願い(2012年)

主の願い
2012年1月24日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第二ペテロ
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

マルコ
1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

主の願いとは、もちろん、考えられないほど大切です。人間は何を考えているか、思っているか、感じているかは、全然、大切ではない。主は何を願っているか。、御心とは何であるか。大切なのは。それだけなのではないでしょうか。今、読んできてくださった三箇所を通して、もちろん、解かります。


主の願いは、すべての人が、悔い改めに進むことを望んでおられます。結局、正直になれば、へりくだれれば、『ごめんなさい、』そういう気持ちがあればオーケー。主は何を欲しておられるか、何を望んでおられるか、主の願いはいったい何なのでしょうか。この箇所によると、イエス様は、一人も滅びることがないように、願っておられます。それから、イエス様は、もちろん、父の願いと、自分の願いとは、全く同じです。

『わたしの父のみこころは、わたしを見て(・・・主イエス様、十字架につけられた主イエス様を見て・・・)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。』永遠のいのちとはどういうものか、ちょっと、ピンとこない。普通の人は、やっぱり、永遠に続くものだと思っているのですけれど、それだけではない。初めての人間であるアダムでさえも、永遠のいのちを持っていなかったのです。造られたいのちしかなかったのです。

けれども、主なる神は、やっぱり、初めての人間には、エデンの園の真ん中にあるいのちの木の実を取ってもらいたかった。そうすると、永遠のいのちを持ったということです。神の願いは、人間が救われることです。主は、人間を救うために、ご自分の最も愛する者、すなわち、イエス様をお与えになりました。

我々の心の願いは、やはり、人を救うことなのでしょうか。もし、この目標を頭に入れていない者は、怠け者です。それから、イエス様はまた願ったのです。『おいで。わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』自分でできないのは決まり。でも、ついて来ると成りますよと。

当時の弟子たちは、『もうちょっと、明後日まで考えさせて』とは言わなかったのです。すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。大切にした物、必要な道具を捨てて、イエス様に従った。『毎月、おいくらもらえますか』とは訊かなかった。『何日間、休んでもいいの』と、彼らは言わなかった。このイエス様に従えば後悔しないと、彼らは確信したんです。

イエス様は真理です。イエス様は、シモンをご覧になった。シモンは、名前を二つ持っていました。そのうちのシモンは、人間の弱さを表しています。イエス様がシモンを始めてご覧になった時、イエス様は、シモンを特別に良い人間とは思わなかったのです。事実、シモンペテロは、十字架にかかるイエス様を、鶏が鳴く前に三度も否定することを知っていました。

けれども、イエス様は、結局、目の前のものよりも、長い目で見ておられたのです。そうすると、やっぱり違います。ペテロは、イエス様について行ったのです。後悔しなかったのです。彼も、イエス様と同じように十字架につけられるべきだったのです。けれど、彼は、『ごめんなさい。私の主と同じように十字架につけられるのはもったいない。逆さまにして。』そういうふうになったそうです。

ペテロが、五旬節の時、イエス様を紹介しました。すばらしい説教をすることを、イエス様はもちろん、初めから解かりました。イエス様は、人間だけを見るのではなく、主の恵みによって、その人間がいかに変わるかも、もちろん、見ておられます。イエス様は、シモンをご覧になった。このイエス様は、我々をもご覧になってます。私たちが、良い人であろうが悪い人であろうが、また、私たちが、適当な人であろうが、不適当であろうがかまわない。とにかく、私たちをご覧になって、私たちを呼んでおられるイエス様のことばを聞きましょう。イエス様は、今日も、「わたしについてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」イエス様に従っている者は、それは、とりもなおさずイエス様から、人を漁る(すなどる)人として召された人を意味しているのです。

私たちは、この大切な事実を確信し、自覚するでしょうか。けれど、どうしたら、イエス様のために魂を獲得することができるのでしょうか。この問題は、私たちが生きる瞬間、瞬間に、もっとも大切な、差し迫った問いです。

悪魔は、一日中、どうしたら人間を滅ぼすことができるか、どうしたら人の目を見えなくできるか、そればかりを考えています。その反面、イエス様は、すべての人のために、十字架で完全な救いを備えられました。罪人として、イエス様のところに来て、イエス様の成した救いを感謝したら、その人は救われます。イエス様は、この福音を、他の人に伝える人を探しておられます。『わたしは誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろう』と、主は昔、二千六百年前に、イザヤに言っただけではない。今日も、同じように用いられる器を探し求めておられます。

私たちは、イザヤのように、『ここにいる私を遣わしてください』と、応えることができればありがたいのです。私たちは、まだ救われていない人々の真ん中で生活しています。私たちは、毎日、間違った望みをいだいている人々に会います。イエス様は、「あなたがたは世の光である」と、言われます。私たちは、そのような人々を、イエス様のところに導くべきですけれど、そのような人を、いかにして取り扱うのでしょうか。

救われるための必要条件とは、いったい、何なのでしょうか。いかにして、イエス様を知ることができるのでしょうか。救いを自分のものにするために、主なる神は何をなされたのでしょうか。三つのことが言えます。

第一番目、イエス様は、神の御子として、約束された救い主として、この世に来てくださった。このイエス様は、いろいろな名前を持っていたのです。一つのすばらしい名前は、「罪人の友」でした。

二番目、救われるために、私たちはこのイエス様に会わなければならない。神と人とのあいだの仲介者は、イエス様です。したがって、もっとも大切なのは、このイエス様に会うことです。

第1テモテ
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

神としてのキリストではない。使徒行伝の四章一二節、よく知られている大切な言葉です。

使徒行伝
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

三番目、神の御霊、聖霊は、すべての人にそそがれたのです。

ゼカリヤ(口語訳)
4:6 すると彼はわたしに言った、「・・・これは権勢によらず、能力によらず(・・・聖書の知識、祈りによらず・・・)、わたしの霊によるのである。」

聖霊のみが、人の魂を解放することができます。聖霊は、それをしたいのです。聖霊の働きなしに、誰も自分の罪を認めることはできません。また、悔い改めることも、信じることもできません。これは、神の側から成した事柄ですけれど、罪人は、何をしたら、救われるのでしょうか。

一番、大切なのは、悔い改めること、信じることではありません。また、『イエス様は、自分の罪のために死なれた』という知識も一番、大切なのではありません。一番、大切なのは、正直な心を持って、真心で、イエス様のところへ行くことです。結局、イエス様に祈ることであります。

『罪人の友』であるイエス様に、助けを求めることです。イエス様の時は、いつもイエス様を罪人の仲間だと呼びました。何と言う真理でしょう。イエス様は罪人の友です。イエス様は、この地上におられた時、初めは、人々の友として歩んだのです。後で、イエス様は彼らの救い主になられたのです。今日(こんにち)でも、同じではないでしょうか。主イエス様は、我々の救い主になるために、主は、初めに我々の友となってくださいます。私たちは、イエス様を自分の救い主として迎える、受け入れる時期が来る前に、罪人の友としてのイエス様は、私たちを迎えてくださいます。

ある日、一人の若い女の人が、信じる者のところに行って、「私は救いを欲しくない」と言ったのです。彼女は、ミッション・スクールを卒業したのですけど、確かに聖書の知識はありました。けど、彼女は、自分勝手な道に行こうと決心したのです。イエス様を信じる人は、何と答えたかと言いますと、「そしたら、まず、ちょっと一緒に祈ろうよ」と言って、相手はびっくりして、「私は、何を祈ったらいいの」と尋ねました。「いや、それは私の責任ではない。初めに私が祈り、その後で、あなたも祈ってくださいよ。今、私に言ったことを全部、イエス様に言ったらいいんじゃないの。」

「いや、そんなことはできない」と、もちろん言われたのです。「どうして、できないの。イエス様は、罪人の友であることを知らないの?」と、信じる者は、質問したのです。イエス様は、罪人の友という事実によって、彼女の心は動かされて、この『罪人の友』に祈って、数日、後(あと)に彼女は救われました。

聖書は、はっきり言っています。すなわち、罪人がイエス様のところへ行くことができるように、イエス様は、罪人の友として、この地上に来られたのです。イエス様は、世が造られる前に、万物よりも先に、父なる神の御そばで栄光をお持ちになったと、聖書は、はっきり言っています。いっさいのものは、イエス様によって造られ、イエス様のために造られたと、書いてあります。何というすばらしい主でありましょうか。そして、聖書の中のもっともすばらしいことばの一つは、使徒行伝十六章三十一節ですね。

使徒行伝
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

毎日、覚えるべき約束です。いくら不可能に見えても、家族は約束されている。約束を与えた方は、何でもできる。主にとって、不可能なことはない。もし、誰かが、「私は信じることができない」と、言ったらどうでしょうか。一人の非常に困った人がいました。その人は、『私は、いくら努力しても信じることができない。信じたいけれどできない。家の人々は、あなたは信じなくてはならないと言いますが、どうしてもできません。』信じる者の一人は、「それは、別にどうでもいいよ。かまわない。けれど、あなたは、『イエス様、私は信じることができませんから、信仰を与えてください』と、祈ることができるでしょう。イエス様は罪人の友として、喜んで、必要な信仰をまちがいなく、与えてくださるお方です」と。

聖書は、悔い改めの大切さについて、はっきりと言っています。けれど、多くの人々は、悔い改めたくないのではないでしょうか。その人々をいかに取り扱ったらいいのでしょうか。ある時、大学生が、「私は若いから、この世の喜びを味わいたい。だから、今、救われたくない。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗は、この世の喜びを味わったでしょ。そして、彼は救われたのではないか。彼のために、すぐ悔い改める必要はないのでした。けれど、私は若い。もう四十年間、楽しく生活したい。その後で、悔い改めますから」と、言ったのです。

相手の信じる者は、「そうか。けれど祈りましょう」と、言ったのです。「私は祈りません」と、学生は答えました。「そうではない。あなたはできる。私に言ったことを全部、イエス様に言ってくださいよ。イエス様は、悔い改めたくない人々の友です」と、学生は、「いや、そんなこと言えないよ」と。しかし、最後に、彼は祈りました。

「イエス様、私は今、悔い改めたくない。あなたの救いを欲しくない」と、祈ったのです。主は、この若者の心にお働きになってくださいました。その人は、同じ日にすばらしく救われたのです。

結局、正直になることこそが、考えられないほど大切です。百年以上前に、イギリスにある女がいました。その女は、クリスチャンの両親を持っていました。そして、自分もどうしても、イエス様の救いを自分のものにしたかったんです。多くの教会を訪ねましたし、立派な説教も聞きましたし、けれども、救われなかったのです。

ある日、彼女は、あきらめようというような気持ちを持って、ある小さな教会に行きました。牧師は説教の途中で、女に向かって、『あなたも今日、イエス様の救いを自分のものにすることができる。自分で何もしなくてもいい』と、言いました。その瞬間に、女は救われたのです。家に帰って、次の歌を作りました。

ほふられたまいし神の小羊よ。
御声に従い、我行くただちに。
ありのまま行く身などて、言い訳せん。
頼むは清むなが血をあるのみ。
疑いは内に、戦いは絶えず、
恐れは終え、我行くただちに。
心よく向かえ、ことごとく清い者となしたまわん。
我行くただちに。

神のみことばである聖書は、強調しています。すなわち、罪人のできないことを、罪人の友であるイエス様はおできになるのです。ですから、救われるために待たなくてもいい。ただちに、罪人の友であるイエス様のところへ行くことができるのです。心の状態はどうであっても、どんな問題を持っていても、そのままで、イエス様のところへ行くべきです。そして、イエス様に話せば、必ず応えられます。

救いとは、いったい何でしょうか。多くの人は、救われるために、私たちが、『イエス様が自分のために死んでくださった』ことを信じることが一番、大切だと思っていますけれど、聖書はそのようなことを言っていない。イエス様は、自分の罪のために死んだことを信じることによって救われると、聖書はべつに言っていない。何と書いてありますか。「イエス様を信じなさい。理解しなさい」なのではない。イエス様を信じなさい。そうすれば救われます」と、約束されています。そして、御子を信じる者は永遠のいのちを持っている。

ヨハネ(口語訳)
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。

『けっこうです。』悔い改めようとしなかったのです。ヨハネは、福音書を書いたのです。どうしてでしょうか。福音書を書いた目的とは、ヨハネ伝二十章の三十一節に、書かれています。

ヨハネ
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

これは、福音書の書かれた目的でした。人々はどうして、イエス様を受け入れなかったのでしょうか。ご自分の成し遂げられた救いを、信じなかったためでしょうか。そうではありません。イエス様はまだ、その時、十字架につけられなかったのです。彼らは、イエス様ご自身を受け入れようとしなかったのです。一番、大切なのは、イエス様の成し遂げられた救いの御業ではなく、イエス様は、神の御子キリストであることを、約束された救い主であることを信じることです。だから、聖書の中のもっとも大切な箇所のひとつは、有名なヨハネ伝三章の十六節でしょう。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

『御子が、自分のために、十字架の上で死んでくださったことを信じる者は、永遠のいのちを持っている』と書いてありません。『御子を持つ者は永遠のいのちを持っている』と。もちろん、私たちは、決して、イエス様の救いの御業を小さくしたくない。けれど、救われるために大切なのは、いわゆる頭の知識ではありません。イエス様に会うことです。イエス様との出会いです。

ヨハネ
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

新約聖書から、ちょっとだけ三つの例を見てみましょうか。

ルカ
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

このイエス様によって救われた強盗は、もちろん、罪人でした。そして、彼の受けた罰も正しかったんです。どうして彼は、救われたのでしょうか。強盗は、イエス様に何を言ったのでしょう。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』

そして、イエス様は何と答えたのでしょうか。『あなたは実に悪い生活をした。罪を犯した魂は死ななければならない。しかし、安心しなさい。わたしは今、あなたの罪のために死にます。』あるいは、『救われる可能性がある』などとは、イエス様は言いませんでした。どうしてイエス様は、救いのご計画について話されなかったのでしょうか。エス様は、『よく言っておくがあなたは今日、わたしといっしょにパラダイスにいる』と。どうして、イエス様はこういうふうに言われたのでしょうか。なぜならば、あの強盗は、イエス様が神の御子であることを、イエス様ご自身を、信じましたからです。これは充分です。

二番目の実例は、マルコ伝の五章から読みます。

マルコ
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

これですね、大切なのは。『イエス様に真実を余すところなく打ち明ける』ことです。

マルコ
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

二十四節に、『大勢の群衆も、イエスに押し迫りながらついて来た』とあります。ですから、多くの人々が、イエス様の着物にさわったことでしょう。けれど、一人だけ癒されました。彼女の場合も、解かると思います。知識の問題ではありません。イエス様ご自身に会うこと、イエス様に意識してさわることが大切です。弱い病気の女が、力(ちから)に満ちた罪人の友に触れました。そのとたんに、病は癒されたのです。33節の後半、御前にひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。そして、罪人の友は、群衆の中から女を引き上げ、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。

三番目の実例は、ルカ伝十八章です。みな、何回もお読みになった箇所です。

ルカ
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は(・・・当時の宗教家、聖書学者は・・・)、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

イエス様の判断はすごい!

ルカ
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

意味は、救われ、永遠の幸せを自分のものにすることができるのです。ここで、パリサイ人と取税人の祈りについて書いてありますね。パリサイ人は、生贄(いけにえ)や捧げ物について全部、知っていました。けれど、彼は、生ける真の神ご自身を慕う気持ちが、ぜんぜんなかったのです。

取税人は、「神様、罪人の私をお赦しになってください」と、心から思ったのです。はっきりしているでしょう。一番、大切なのは、すなわち、正直な心を持って、真心で主のところに行くことです。主に祈ることです。ローマ書によって、私たちはイエス様の救いの偉大さを解かります。罪の恐ろしさ、また、いかにして、救いを自分のものにするかなどについて、たくさん書いてありますけど、このローマ書は、もうすでに救われた人々のために書かれた書物です。これに対して、ヨハネ伝は、おもに未信者のために書かれた書物です。救いのご計画について、あまりたくさん書いてありません。これは、不思議ではないでしょうか。

もう一箇所読みます。これは、ペテロの勧めのことばですね。

使徒行伝
2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

ペテロは救いのご計画について、ぜんぜん、話ませんでした。どうしてペテロは、流された血潮の力について話さなかったのでしょうか。どうして彼は、イザヤ書五十三章を開いて、主イエス様の犠牲の死について説教しなかったのでしょうか。どうして彼は、贖(あがな)いの業(わざ)について説明しなかったのでしょうか。彼は、イエス様ご自身についてだけ、話したのです。イエス様のなされた救いの御業(みわざ)について、あまり話しませんでした。

使徒行伝
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

ペテロは、『救い主』という名前さえも使いませんでした。それにもかかわらず、この説教の結果は、何であったかと言いますと、三千人以上の人々が、「救われるために何をすべきでしょうか」と、叫ぶようになりました。後で、ペテロは、コルネリオという異邦人のところへ行って、同じようにイエス様の犠牲の意味、また、贖いの価値について話さなかったのです。

彼らは異邦人でした。神の民に属していなかった人々でした。ですけど、ペテロは、イエス様ご自身についてばかり話したのです。そして、聞いていた皆の人々に悔い改めて、信じて、聖霊が下ったと、書いてあります。救いは知識の問題ではありません。救いを自分のものとするためには、イエス様に触ることが一番、大切です。

私たちは、救いのご計画をわからなくてもいいのです。罪の結果などはわからなくてもいい。イエス様を見なければいけないのです。多くの人々は、救いについて全部、知っています。けれど、いろいろな問題が起こると、彼らはすぐダメになります。なぜなら、彼らは、イエス様ご自身との交わりを知らなかったからです。我々の救い主は生きておられます。イエス様は、十字架につけられた救い主だけではありません。

イエス様は、高く引き上げられた主の主として、父の右に座しておられるのです。すべての力がわたしに与えられていると、イエス様は言うことができたのです。したがって、救われるために、私たちは、十字架のところに行かなくてもいい。恵みの御座におられる主に近づきましょう。彼を信じる者が、永遠のいのちがあるとあります。

普通、私たちは、福音を述べ伝えるとき、『悔い改めて信ぜよ』と述べ伝えますけれど、多くの人々は、このようなメッセージを聞いても救われません。例えば、私は、罪の恐ろしさ、また、罪の報いについて話します。けれど、ある人は、『このような話は何回も聞いた。もう解かっているよ。しかし、私は、罪を犯したい。罪は大好き。』このような場合は、罪人の友だけが、助けることができるのではないでしょうか。

自分の無力さをもちろん、感じます。また、他の人は、私たちの話を聞いて、救われたいという願いがある。けれど、そのような人は別に頭のいい人ではないから、次の日、私たちのところに来て、『すみませんけれど、私はね、この間の話の第三番目の点を忘れましたが、どうか、もう一回教えて』と、尋ねます。

救われるために、私たちは、このような説教のポイントを忘れてもかまいません。救われるのは、意思の問題ではなく、理解力の問題でもない。救われるために大事なのは、聖書の知識でもない。もちろん、理解力の問題でもない。イエス様に会うことが大切です。

ルカ
8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

この箇所を見てもわかります。主イエス様の御心は、正しい、良い心の持ち主です。しかし、正しい、良い心とは何でしょうか。正直な心、真心(まごころ)です。エレミヤは、次のように言ったのです。二千六百年前でしょうか。

エレミヤ
17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

もちろん、私たちは、主の御心にかなった心を持っていません。けれど、偽りに満ちた悪に染まっている心の持ち主が、正直に、イエス様に、罪人の友であるイエス様に、話すことができるのです。ある(前に読みました)婦人のように、御前にひれ伏して、すべて、ありのままを申し上げることができるから、本当に幸いです。偽りに満ちた心の持ち主が、イエス様に向かって、『神様、罪人の私をお赦しになってください』と、言うことができるのです。もう一箇所、旧約聖書の歴代誌、下の十六章九節を読みます。よく引用される箇所です。

第2歴代誌
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

主は、正直な心、真心の持ち主を、探しておられます。救われるために信仰ではなく、悔い改めではなく、このような正直な心が必要です。強盗は、『主よ、私を覚えてください』と願った時、この正直な心を持っていました。取税人は、『神様、罪人の私を赦してください』と祈った時、この正直な心を持っていたのです。

サウロは、イエス様による救いをぜんぜん求めていませんでした。かえって、彼は、イエス様を信じる者を迫害した男でした。けれど、彼は、『主よ、私は何をしたらいいのでしょうか』と、尋ねたのです。すなわち、彼も、この正直な心を持っていました。イエス様は、罪人の友です。イエス様は、どのような罪人でも、御許に来る人を拒まないで受け入れてくださるのです。ひざまずいて、イエス様に、罪人の友に、自分の考えていること全部、言うべきです。正直な心の叫びを、主は聞きたまいます。

イギリスで起こった出来事です。ある婦人は、大きな富によって有名になりました。彼女は、とてもよい教育を受けて、音楽家であり、また、若くて、そして、非常に美しかったのです。けれども、彼女は、ぜんぜん満足していませんでした。ある夜、彼女は、『神様、私は全部、持っています。若さ、健康、富、美しさ、名誉、あらゆる荘厳、あらゆる栄光、享楽を持っています。けれど、幸福ではありません。しかし、神様、私は、あなたの救いを欲しくない。私は、あなたが大嫌い。あなたの提供している喜びと平安も嫌い。けれど神様、私の欲しくないものを与えてください。私は、幸福になりたいのです。』この婦人は、その瞬間に救われて、そして、イエス様に、本当によく用いられる人になりました。

一番、大切なのは、正直な心を持って、真心でイエス様のところへ行くことです。罪人の友は、どのようにして、真心の人を受け入れるのでしょうか。言うまでもなく、イエス様は喜びをもって、罪人を赦し、受け入れてくださいます。罪人の友は、いつ、罪人を受け入れてくださるのでしょうか。聖書の答えは今です。『今は恵みの時、今は救いの日です。』御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得る。御子、主イエス様を信じる者は、永遠のいのちを持つ。私たちの父の御心は、子を見て信じる者が、ことごとく、永遠のいのちを得ることで。イエス様の名を呼び求めるならば、皆、救われます。どうか、正直な心を持って、真心で罪人の友のところへ行きましょう。その時から、御霊は、初めて、信仰と悔い改めに導いてくださいます。

ある日、一人の人が伝道者のところへ行って、いろいろなことについて話ました。伝道者は、この人の罪について、また、罪の罰について、熱心に話しました。もちろん、伝道者は、イエス様の救いの御業について、説明しました。けれど、相手は、『あなたは罪を犯すことを、罪を犯すことの楽しみを味わっていないから、そのようなことを言っている。私は罪を犯すことが大好き。これなしに、もう生活したくない』と、言ったのであります。伝道者は、「一緒に祈ろうよ」と答えました。その人は、もちろん、びっくりして、「わたしは、罪に満ちた者として、祈りをすることができません。悔い改めたくないからです」と。最後に、このように祈りました。「神様、私は罪が大好きですから、悔い改めたくないけれど、私を救ってください。」その人は、まもなく導かれ、救われたのです。

私たちは、いろいろな人について考えました。すなわち、悔い改めたくない人、救いを欲しくない人、信じられない人、あまりに大きな罪を犯したから、もう希望がないと思っている人、救いを理解することのできない人、また、救いの計画をわかってはいるけど、イエス様を拒む人について、ちょと、考えました。このような人々は皆、救いを自分のものにすることができます。もし、彼らが正直な心を持って、すべて、ありのままを罪人の友であるイエス様に話すならば、主が働いてくださるのです。もう一箇所、読みます。

マルコ
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

結局、イエス様について行ったから、イエス様の弟子になりました。「何が欲しいのか。」「先生。見えるようになることです。」一番、必要なこと、一番、欲しいものをはっきりして、ひたすらに、求めることは大切です。私たちは、純粋に求める心を持っているのでしょうか。

バルテマイは、「先生、私の目を開けてください」と求めたのです。どうか素直に、『わたしは罪人です。罪を赦してください。私は恐ろしいのです。平和を与えてください。私は
愛することができない冷たい人間です。愛をください。私は、本当のいのちを持っていません。私にいのちをください。私は、なぜ生きなくてはならないのか、それもわからない。教えてください。私は、盲人なのです。どうか、私の目を開けてください。』そう言って、私たちを愛し、私たちを赦し、私たちに永遠のいのちを与えてくださる唯一の方、神の救い主であるイエス様の前に、信仰の手を差し伸べてくださいませんか。

イエス様は、あなたが空の手で御許に来るのを待っておられるのです。空っぽの手を、イエス様の御許に差し出そうではありませんか。

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