2012年1月10日火曜日

証しする大切さ

証しする大切さ
2012年1月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
1:35その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
1:37ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
1:40ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。
1:42彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。

1:44ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

今日は、『主に証しする大切さ』について、一緒に考えてみたいと思います。

今、読んだ箇所の中で、『アンデレは、シモンをイエスのもとに連れてきた』とあります。彼がイエス様を紹介した結果として、ペテロは導かれ救われたのです。アンデレはどうして生まれたか、救われたか、おそらく、そのためだけなのではないでしょうか。イエス様を紹介することこそが、考えられないほど大切です。証しすることとは、結局、イエス様を紹介することです。証しするために救われたと言ってもいいのではないでしょうか。

昨日、読んだところなんですけど、彼も、おそらく、皆に言ったほうがいいのではないかということです。昔のことなんですけども、戦争中、怪我をして入院されたある若いフランス人は、ベッドの上に小さなパンフレットを見て、読んだところ、信じ、救われたんです。彼は、他ならぬ有名な将軍、(ガスパール・)コリニーでした。彼は、後でフランスの宗教改革者になったのです。けど、それだけではなく、この将軍、コリニーの看護婦さんが、病院の婦長さんに同じトラクトを見せた結果、彼女もイエス様を信じ、救われたのです。当時、イエス様だけを信じることによって救われるということを、カトリック教会は絶対に受け入れなかったんです。そういう人々は、迫害され殺されてしまったんです。だから、彼女はフランスから逃げて、ドイツまで来たんです。そしてドイツで彼女は、オランダ人であるウイルヘルム第三世に出会い、結婚するようになりました。彼は、オランダの宗教改革者となったのです。

聖書こそが、考えられない力を持つものです。そして、主は、結局、証しする人々を捜し求めておられるのではないかと思います。

ちょうど、昨日、昔の一人のおばあちゃんの証しを、ちょっとまた、読んでいたのです。あんまり良かったから。覚えている人はあまりいないと思うんですね。コジマ・ツチエおばあちゃんだったんですね。娘は、クボ・キョウコ姉妹だったんですけど、彼女も、ご主人を亡くしてしまったし、子供二人も亡くしてしまったし、いろいろなことで苦労したおばあちゃんだったんです。彼女の証しを紹介します。

『本日は、ご多忙の中、また、こんな辺鄙(へんぴ)な山奥までおいでいただきまして、ありがとうございました。親戚の者は、さぞ驚いて、困惑していると思います。私は、この歳でイエス様を知ったこと、また、生きていてイエス様を証しする幸いに恵まれましたことに感謝します。私は、本当は、イエス様を信じ、受け入れたことを、生涯、言うことができないまま、この世を終わるだろうと思っていました。

ですけど、イエス様はそのことをお許しにならず、今日、このように皆様の前で、お証しすることになりました。生まれて、これまで、仏教しか知らなかった私ではありましたけど、夫を二十三年前に亡くし、二人の娘たちも嫁ぎ、残された母も九十六歳で六年前に亡くし、一人ぼっちになって、言い知れぬ孤独になりました。すでに信仰を持っていた下の娘から、イエス様の話はイヤというほど聞かされておりました。けど、全然、聞く耳を持たず、むしろ、反発さえ感じておりました。

ある日、イエス様が直接、私に語られて、イエス様が私の心の中にすーと入って来られました。今まで経験したことのないような喜びと平安に満たされ、嬉しく、たまらない毎日でした。そして、五年前に受洗しました。受洗する時に、上の娘から、「おばあちゃんたち、何で話すの」と言われました。人の目を恐れる私にはできないと、解かっていたのでしょう。結局、イエス様を信じたということを、実の兄弟にさえも、親戚の者にも言うことができず、隠れキリシタンのようでした。だんだん、心が落ち着かなくなり、たびたび、行なわれる法事などの時、どのようにしたらよいか解からなくなってしまいました。主人の母、スエの法事が近づき、ますます、心が落ち着かなくなり、喜びもなくなってしまいました。

別府での喜びの集いの中で、姉妹たちとの交わりの中で、主は、私の長年の悩みを光の中に出されました。主から、今まで、親戚の者たちに黙っていたことを示され、この際、信じたことを明らかにしていこうと決心しました。でも、現実を見れば、とても恐ろしくなりましたけど、すべてのことを主がなさってくださり、一人ひとりにイエス様を信じたことを話に行くように導かれました。また、先祖代々の納骨堂は、お寺の境内の中にあり、この際、イエス様だけを信じて行くために、お寺とはっきり決別をして、お墓を購入することになりました。

親戚の者たちの多くは、何でいまさら、この歳になって、イエス様を信じなくてはいけないのかと申しますけど、この歳だからこそ、イエス様が必要になりました。イエス様は生きておられ、私に、いつも語って、導いてくださいます。「あなたは変になった」と言う人もありますけど、この喜びには変えられません。

これからどのようなことが私に起こるか、想像もできませんけど、イエス様の御手にすがって、イエス様だけを信じて行きたい、生きて行きたいと思っています。残された人生、自分の信じたとおりに生きたいと思います。いつも励ましになった聖書のみことばは、マタイ伝の11章28節、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」そして、テサロニケ第15章16節から18節まで、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」この2つのみことばです。

今日はありがとうございました。』

このようなすばらしい証しだったのであります。『証しするために救われた』と、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。我々の周りにいる人々は、みんな悩んでいます。もちろん、うまく隠しているのですけど、悩んでいない人はいない。そういう人々にとって大切なのは、イエス様を紹介する人々なのではないでしょうか。それから、初めて、不安から心配から解放されます。

前にドイツの高速道路の道路標識のところに、ひとつの言葉が書かれてあったのです。ドイツ語ではなくて、英語だったんです。『Safety First』、安全第一。もちろん、ドイツにいるイギリス人、アメリカ人のためではなくて、やっぱり、すべての人のために必要なのは、いわゆる安全なのではないかということです。人間は安全を求めます。けど、絶対の安全というものは、ないのではないでしょうか。

逆説的に聞こえるかもしれないけど、人間の死ほど、確実なものはないのではないでしょうか。どれほど生活が保障されていても、遅かれ早かれ、誰でも、死を迎えなければならない。人間は安全を求め、人間は安全を必要としますけど、現代の特徴とは、不確実性なのではないでしょうか。そして、不確実性は、結局、不安定と心配をもたらします。私たちの問題や苦しみなどに対する本当の答えは、いったい、どこに見いだすことができるのでしょうか。ただ、今話したように、みことば聖書だけです。

昔のことだったんですけども、スペインの沖で、一隻のドイツの商船が沈没してしまったのです。誰も助かりませんでした。たくさんの水夫の衣服が見つかり、それとともに一冊の新約聖書が見つかったのです。最初のページには、次のように書かれていました。名前はマルクス・ゴットマン、1864年生まれ。『私はこの聖書を、まず、最初に私の姉、ロッテの願いのために読みました。しかし、第二回目には、私は、私の魂が滅びることを恐れて、その不安のために読みました。しかしながら、第三回目からは、毎回、いつも私の救い主である主イエス様に対する愛によって、私はこの聖書を読みました』と、聖書の最初の一ページに書きしるされておりました。

どういう理由からでもけっこうですけど、やはり、聖書を読んでもらいたい。みことばに頼ってもらいたいという気持ちでいっぱいです。そうすると、おのずから救われたいという願いが出てまいります。それから、さらに読み続けるということによって、救われた喜びでイエス様を、聖書を読まざるを得なくなります。詩篇の作者であるダビデは、そういう気持ちでした。有名な119編の105節を見ると次のように書かれています。

詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

119:160 みことばのすべてはまことです。

119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

ダビデは、この態度を取ったから祝福され、用いられたのです。

私たちの人生は、聖書に対して、私たちがどのような態度をとるかによって、決まるのではないでしょうか。聖書を拒む者は、神ご自身を拒むのです。主のみことばとしての聖書を拒む者は、結局、救いを拒むことです。私は、まったく、確信を持って、聖書こそ、最も信頼すべきものであるということができます。聖書が本当に信頼できるものであるということは、すべてに証明済みです。確かに聖書は、非常に古い書物であり、一番、古いものはおそらく、今から三千五百年前に書かれ、一番、新しいものは、今からだいたい千九百年前に書かれました。この聖書は全部で六十六巻からできており、四十種類の作者によって書かれました。このように書いた人は、四十人もおりますが、しかし、それらに共通して一つの中心となっておられたお方とは、救い主なる主イエス様であり、その意味では、聖書の作者は、主なる神ご自身であるから、聖書は主なる神のことばであると言えます。

今日、聖書は千何百以上の各国語に翻訳されています。聖書の大部分は、将来に対する預言によって示されていますけれども、旧約聖書の預言は、今までに成就されたのでしょうか。この問いに対して、私たちは、はっきり、「その通りです」と、答えることができます。例えば、エジプトやバビロン、あるいは、イスラエルに関する預言は、まさに、聖書に書かれている通り実現されました。それは、歴史書を紐解けば、すぐに明らかになります。ですから、私たちは、聖書に対して、全き信頼をおくことができるのです。

一人ひとりの人間の将来に対して、聖書は何と言っているかといいますと、ヘブル人への手紙の九章の二十七節です。一文章だけです。

ヘブル
9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。

死後に裁きが来ることを、誰でもが、知らなければなりません。人間は、この地上における安全を第一と考えますが、死後の安全に対しては、全く注意を払いません。これはひとつの悲劇であると、言わざるを得ません。なぜならば、まさに死後にこそ、裁きがやってくるとともに、永遠なるものが始まるわけですから、このことを真剣に考えない者には、主なる神の裁きが下らざるを得ないのです。

この裁きに関しては、次のことに注意する必要があります。すなわち、罪とは、主なる神に対する債務です。債務は、どのようなものであっても、支払わなければなりません。主なる神が裁きをなさるに違いない。主なる神が裁かなければならないのです。主なる神は、義なる、正しいお方ですから、やがて、すべての者が明らかにされるのです。正しくない、恥ずべき行ないは、すべて、裁かれるようになります。

戦争、強制収用所、搾取、詐欺、偽り、これらはすべて裁かれるようになります。多くの人は、この地上には義はないと考え、絶望してしまいますが、このような迫害されたり、苦しめられたりした人々に、主なる神は、主の義が明らかになるためにも、迫害したり、苦しめたりした人々に、主の裁きが下るのです。これが真理であるために、何と多くの人々が、破局に向かうことでしょうか。しかし、多くの人々は、このことを真剣に考えようとはせず、いったい、どこに神はいるのかと言います。けど、聖書は、主なる神の愛を我々に示されています。すなわち、主なる神は、全き罪の赦しをすべての人に提供しておられます。

神の御子であられる主イエス様が、すべての罪を贖(あがな)ってくださったのです。自分の罪を告白し、悔い改め、イエス様を自分の救い主として信じ、受け入れる者は、神の裁きにあうことはありません。その裁き、それ自体は恐ろしいものですけど、御子である主イエス様を救い主として信じる者は、この裁きから免れます。主なる神のみことばである聖書の上に立ち、主イエス様を信仰の目的として選ぶ者は、絶対に揺るぐことのない土台を持っています。

主なる神の約束はその通りである。これは真理です。主イエス様に対する信仰によって、私たちは喜び、平安、力など、今まで及びもしなかった大いなるものをいただくことができるのです。自分は、死罪に値する者であり、滅ぶべき者であるということを認め、イエス様に対して、自分のわがままを告白し、救いの御業のために感謝し、自分自身をイエス様に明け渡す者は、永遠に安全とされるのです。イエス様は、そのような人を、誰も御手から奪い取ることができないと言っておられます。主なる神の御手に守られているという、このことこそ真(まこと)の安全であり、また、幸せです。

ヨハネ
3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

私たちは、永遠のいのちを持つか、さもなければ、神の怒りのもとにおかれるかの、どちらかです。本当に、今日も来られたお一人お一人が、イエス様を信じ、知ることによって、永遠のいのちをお持ちになることこそ、私の切なる願い、また、祈りです。

証しについて考えると、私は、最後にちょっと紹介しますけども、ある小学二年生の子供の証しを思い出します。担任の先生に書かれた手紙なんです。

『昨日、ジーザスという映画を見に行った。映画は、救い主イエス・キリストの映画だ。先生、イエス様を知ってる?イエス様を信じたら、皆、天国に行けるんだよ。私はクリスチャン。クリスチャンって知ってる?イエス様を信じた人だよ。イエス様は本当の神様だよ。イエス様は、皆の罪を背負って十字架にかかったんだよ。私の家族、いとこは皆、信じてるんだよ。イエス様を信じたらお祈りをする。怖い時、いやな時、必要のあることだったら、イエス様は助けてくれるよ。でも、イエス様の十字架を信じないとダメだよ。信じた人は、他の神様を拝んではいけないんだ。皆、信じれば、皆、きれいな暖かい心になるんだよ。

日曜日、私の家においでよ。イエス様のお話を聞くんだよ。先生の知らない人もいるけど、おいでよ。お話を聞いたら、信じると思うよ。十一月十一日、一時三十分から。学校があるけど、私の家においでよ。イエス様は、本当の神様だ。イエス様はやさしいんだ。十字架にかかって、三日目に復活したんだよ。でも、私たちにずっとそばについてくれているんだよ。さあ、おいでよ。日曜日の集会に。』

先生は、その下に、次の文章を書いたのです。『イエス様を信じて、暖かい心を持つ人になることはすばらしいね。』

証しするとは、我々に与えられている使命であり、また、特権です。

おわり

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