2012年1月31日火曜日

主イエス様の弟子となるための要素

主イエス様の弟子となるための要素
2012年1月31日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック


使徒行伝
9:36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。
9:37 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。
9:38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。
9:39 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
9:40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
9:41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
9:42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。

タビタという女性について、聖書の中で、たくさんは書いてないんですね。今、読んでもらった箇所しかない。ですから、彼女のことについて、多くのことは解かりません。住んでいたところはヨッパというところだったようです。ヨッパは、地中海の近くにある町です。ですから、彼女の生い立ちについて、また、何歳であったか、何もわからない。家族の状況も、何もわかりません。残念です。彼女の証しもないのです。そういうことがあれば、やっぱり、ありがたいけど、聖書は今の箇所しか言っていない。けれども、二つのことが解かることができるのです。


ひとつは、彼女は神の子供でした。救われたんです。もうひとつは、彼女は、弟子、主の弟子であったということです。このことは、もちろん、当時だけではなく、今日も、非常に大切です。すなわち、私たち一人ひとり、イエス様を体験的に知ることだけではなくて、従っていこうと切に望むことなのではないでしょうか。

ドイツに数年前、大きな会社の社長の息子がいました。後継ぎになるべきだったんですけれど、もう、本当に恵まれた人で、頭が良くて、欲しい物は全部、手に入れることができたんですけれど、彼は人生は、無意味であるという意味の遺書を残して、自殺してしまったのです。このように、イエス様が共にいなければ、人生は本当に、意味の無いものです。いったい、人間に欠けているものとは何でしょうか。何が人間を本当の意味で、満たすことができるのでしょうか。

それは、もちろん、皆さんご存知です。金でもないし、健康でもないし、立派な教養でもないし、名誉でもない、力でもない。そういうものは、せいぜい、生きているあいだ、わずかな期間だけ、必要かもしれません。けれど、実際は、永遠なるものが一番、大切なのではないでしょうか。ただイエス様だけが、我々の人生を意味あらしめ、価値あらしめるのです。これこそが、このタビタという女性の経験でした。

すべて、目に見える外面的なこの世のものは、決して、彼女の飢え渇きを満たさなかったのです。どういうわけか解からないけれど、彼女は、重荷を感じていました。心の平安が、彼女には欠けていたのです。けれど、ある時、ヨッパで、彼女は、今まで聞いたことのないことを聞いたのです。福音を聞いたのです。福音とは、ひとつの教えというよりも、イエス様ご自身です。おそらく、ペテロが、彼女に福音を述べ伝えたのではないでしょうか。その時、彼女は、初めて、生まれてから初めて、イエス様のことについて、すなわち、処女生誕、数え切れないほどの癒しの奇跡、罪なき者の苦しみと死、さらに、イエス様の復活と昇天のことについて、聞いたのです。

このイエス様に、タビタは、完全な真理をおいたのです。彼女は、イエス様こそ、この世の救い主であり、彼女の救い主であることを、素直に信じました。彼女は、このような霊的な体験をしたことのしるしとして、必ず、証しとして、洗礼を受けたでしょう。彼女は、その時、まちがいなく、告白しました。今まで、私の人生には、目的も望みも本当の喜びもなかった。けれど、イエス様は、私の債務を支払ってくださり、罪を赦してくださったために、全く新しいいのちが与えられました。

全く新しい喜びと平安とが彼女の心を満たし、彼女は、イエス様を心の底から敬愛したのです。イエス様を大好きになったのです。タビタと同じように、イエス様に対して、心の扉を開く者は幸いです。我々の人生にとって、いったい、何が必要なのでしょうか。一番、大切なことは、私たちも、タビタと同じように、神の子となることです。そのために、何が必要なのでしょうか。

まず、第一に、自分の救われなければならないという必要を感ずることです。第二に、人間的な努力は空しいということを知ることです。すなわち、自分も他人も、決して、自分自身を救うことができないということです。すべて人間的な努力は、見込みなく、望みなきものです。聖書が言っている救いとは、罪の問題の解決です。罪のゆえに、聖なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪が赦され、永遠のいのちを持つと、聖書は言っているのです。けれど、これは、人間や宗教によってではなく、イエス様によってのみ与えられます。

どうしてであるかと言いますと、イエス様は、罪に対する神の裁きの的(まと)になられ、ご自身の聖い尊い血によって債務を支払われ、罪を赦してくださるからです。この真理の事実を、心で受け入れ、信じる者は神ご自身の平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つことができる。これこそが、タビタの経験でした。

すべての人間は、自分の力で、罪の問題を解決することができません。どうしても、イエス様が必要であると告白する状態に至らなければならないのです。『主よ、私は今罪人としてあなたの御許にまいります。あなた様が、私を贖ってくださったことを、心から感謝いたします。』このようにイエス様に向かって言うことのできる人は、本当に幸いです。

タビタのように、神の子となるためには、今、話したように二つのことが必要です。第一に、主の言われることを認めることです。

二番目、イエス様を受け入れることです。けれど、主は何と言っておられるのでしょうか。主は、絶対に癒されない罪の病、それは、全く改善の望みがないと言っておられます。けれど、イエス様は、私たちの身代わりになってくださった。そして、イエス様が成してくださったことは、本当に充分です。

二番目、イエス様を受け入れることです。聖書の一番、最後のところですけれども、黙示録、二十二章の十七節をみると、次のように書かれています。『いのちの水がほしい者は、価なしに(・・・ただで・・・)それを受けるがよい(口語訳)。』いのちの水とは、もちろん、イエス様による救いというプレゼント、贈り物です。ここに、『ほしい者は受けるがよい』と記されていますが、本当に欲しがっているかどうかだけが、問題なんです。欲すれば、受けるようになるにちがいない。しかし、欲しくなければ、将来は、真っ暗闇です。

イエス様は、決して、強制するようなことをしない。受けるものは持つ。すなわち、その人は、神との平和を得、罪の赦しを受け、神の子とされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。タビタは、こういうふうに救われ、神の子となったのです。けれど、それだけではなく、前に話したように、彼女は、イエス様の弟子でした。彼女は、イエス様の弟子として、イエス様に忠実に従いました。

そこで、次のような問いが彼女にあったことを考えてみましょう。『イエス様、あなたは私のために死んでくださり、尊い代価を払って、私を買い取ってくださいました。そのようにして救われた私は、あなた様のために、いったい何をしたらよろしいの?』
彼女の目は、その時、突然、苦しんでいるやもめたちの姿を発見し、彼女たちにイエス様を述べ伝えることこそ、自分の使命であると気がついたのです。そして、タビタが、やもめたちのために、自分の財産を売って、いろいろな物を買い与え、布で服を縫ったりして、イエス様に仕えたのです。マタイ伝の25章40節に、説明として次のように書かれています。

マタイ(口語訳)
25:40 ・・・わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。

つまり、彼女の願いは、やもめたちから感謝されることではなく、イエス様に仕えることでした。イエス様のために生きたいと願うことは、彼女の人生の目的になりました。彼女は、数々の良い働きや施しをしていたと、聖書は言っています。タビタは、愛に満ち、他人のために、正しく言えば、イエス様のために、自分を無にした姉妹でした。

けれど、ある時、病気のため、死んだのです。集った人々は、彼女のために涙を流し、いつまでも泣いていました。それは、タビタが、物質的にいろいろと助けてくれたからではなくて、自分たちを一番、理解し、愛してくれたからです。誰でも、悩みや苦しみのある者は、タビタのところへ行って、すべてを打ち明けると、彼女は、それをよく理解してくれたのです。タビタは、心から人を愛し、いつも、彼らのために配慮したのです。疑いもなく、彼女は、彼らにイエス様のことを話し、それによって、多くの人々は導かれ、新しく造り変えられたのです。イエス様こそ、彼女の賛美に他ならなかったのです。

けれど、今や彼女は死んで、静かに横たわっているのです。そのため、人々は、気が転倒してしまい、どうしてよいか結局、解からなくなってしまったのです。どうして?なぜ?けれど、その時、突然、尊敬すべき男が現れました。それこそ、他ならぬペテロだったんです。やもめたちは皆、ペテロのそばに寄って来て、タビタが生前、作った物を泣きながら見せたのです。なぜ、タビタが死んだのか、彼女たちには、そのわけが解かりませんでした。ペテロは、皆の者に外に出てほしいと頼みました。彼の心は、非常に感動していたのです。彼は、主の御心は、いったい何でしょうかと思いました。おそらく、その時、イエス様と一緒に経験したこと、を思い出したのではないでしょうか。

おもに、三つのことを思い出したかもしれない。

ひとつは、カペナウムという町で起こったことでした。その時、十二歳の女の子が死んだんです。すべての者が、大声で泣き叫びました。その時、イエス様は、「泣かなくてもよい。彼女は眠っているだけだ」と、仰せになりました。そして、イエス様は彼女の手を取って抱き起こし、「娘よ、起きなさい」と、言われました。すると、少女は起き上がったのです。ペテロにとって、考えられない、忘れられない奇跡でした。

それから、また他のことも、ペテロは思い出したのではないでしょうか。それは、イエス様と一緒に、ナインにいた時のことでした。葬式の行列が通ると、イエス様は、死んだやもめの息子を蘇らせなさいました。

それから、最後に皆さん、ご存知ですけれど、ベタニヤのことも思い出したでしょう。その時、ラザロは、もうすでに死んで葬られてから、四日も経っていました。けれども、イエス様は、死んだラザロの屍(しかばね)に向かって、「ラザロよ、出てきなさい」と、言われました。すると、その通りラザロは出てきたのです。このような事実を思い出して、ペテロは、イエス様はここでも、奇跡を行なうことを望んでおられることを確信しました。そこで、ペテロは、ひざまずいて祈り、それから、死体の方を向いて、「タビタよ、起きなさい」と、言いました。すると、彼女は目を開けて、起き上がったと、聖書は言っています。

それから、ペテロは、聖徒たちを呼び入れました。驚きと崇拝と賛美と感謝が人々の心を捕らえました。そして、このことは、すぐ、ヨッパ中に知れ渡りました。多くの人々がタビタのところにやってきました。そして、皆、もちろん、思うようになったでしょう。すなわち、ペテロが述べ伝えたイエス、そして、タビタが信じたイエスが、本当に死人を蘇らせたお方であるならば、聖書に預言されたメサイヤ、救い主にちがいないと考え、多くの人々はイエス様を信じたとあります。

ここでひとつのことがはっきりしているのではないでしょうか。すなわち、タビタがただ単に救われ、ただ単に神の子であることに満足して、イエス様の忠実なしもべ、また、弟子でなかったならば、彼女に愛された多くの人々が、彼女のために泣き悲しんだり、ペテロを呼びに行ったりするようなことは決してなかったでしょう。もし彼女が、生きているあいだ、自分のことばかりを考え、お化粧することに夢中になったり、隣近所に出かけたり、人の悪口ばかり言ったりしたとすれば、彼女が死んだとき、多くの人々が彼女のために泣き悲しむようなことはなかったでしょう。簡単に葬り去られ、すぐに忘れられてしまったのではないでしょうか。

今日、多くの問題は、イエス様を信じる者は決して少なくはない。けれど、イエス様の弟子は少ないのではないでしょうか。多くの人は、イエス様を信じますけれど、その人々の信仰生活は、必ずしも、イエス様を証しすることではなくて、恥となるようなことが少なくないのではないでしょうか。イエス様の弟子とは、何を意味するのかについて、ちょっと考えましょうか。イエス様の望んでおられることを行なうことこそ、イエス様の弟子の特徴です。すなわち、徹頭徹尾、主に従うことです。イエス様は、マタイ伝七章、山上の垂訓(すいくん)の最後の方で、次のように言われました。

マタイ
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、(・・・預言をすることとは、みことばを述べ伝えることです・・・)あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

考えられないほど厳しいことばなのではないでしょうか。したがって、実際に主に従う者こそ、主の弟子です。イエス様に従うということは、イエス様の絶対的な支配を受けることです。したがって、主の弟子は絶えず、「主よ、あなたは何を望んでおられるか」と、イエス様に問うべきです。

新約聖書の中で、イエス様が、「わたしに従ってきなさい」と招かれた時、それは、結局、「わたしの弟子になりなさい」という呼びかけでした。福音書の中で、次のような箇所がよく出てきます。『わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。「わたしに従ってきなさい。」すると、彼は立ち上がって、イエスに従った。「わたしに従ってきなさい。」すると、彼は一切を捨てて立ち上がり、イエスに従ってきた。

外面的には、イエス様に従って行くことは、今まで、自分の生活の領域の中にあったものや人を捨てることを意味しました。だから、イエス様はよく、『あなたの持ち物を売り払って、わたしに従ってきなさい。』アンデレとペテロは、すぐ、網を捨ててイエスに従いました。ヤコブとヨハネは、主イエスが彼らをお招きになると、父を雇い人たちといっしょに船に置いて、イエスのあとについて来たとあります。レビという男は、一切を捨てて立ち上がり、イエスに従ってきたとあります。

今日の主イエス様の弟子も、当時と同じようにすべてを捨てて、イエス様に従う決意を常に持っていなければならないのではないでしょうか。少なくても、内面的には、そのような態度がどうしても必要です。未信者の家族、親戚は、私とは、別の世界に住んでいます。したがって、そこには、超えがたい断絶があります。したがって、御心ならば、全国をめぐり歩いて、あるいは、外国へまでも出かけて、イエス様を述べ伝えるように示される場合もあります。そのようなことが実際に示されるかどうかは別ですけれど、少なくても、そのような備えの心がまえが必要です。

イエス様の当時は、多くの人々がイエス様に従いました。たとえば、「おびただしい群衆が来て、イエスに従った」と、書いてあります。「おびただしい群衆がついて来た」とあります。「大勢の群衆もイエスに押し迫りながらついて来た」とあります。イエス様は、これらの群衆に対して、多くの御業と奇跡を行ないましたけれど、彼らは、本当にイエス様に従って行く心の備えが、まだ、充分には、できていなかったようです。

ルカ
9:57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
9:58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

イエス様は、本当の意味でのホームレスでした。

ルカ
9:59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
9:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

そして、ヨハネ伝、六章の六十節を見ると、たいへんなことが書いてあります。

ヨハネ
6:60 弟子たちのうちの多くの者が(・・・今まで、イエス様について来た人々の多くが・・・)、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

それ以来、多くの弟子たち、今まで従った人々は、去って行って、「もはやイエスと行動をともにしなかった」とあります。これらの人々は、聞くことだけで、行なうことをしなかった。従順ならざる弟子は、あり得ません。自分の思いを捨てて、主の御心だけを大切にすることが、どうしても必要です。

マタイ伝の二十六章、イエス様の心がまえについて書かれています。

マタイ
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

イエス様が、ご自分に従うことの重大さを、弟子たちに、繰り返して、言われたことはまちがいない。厳しいことばですけど、ルカ伝十四章を見ると、また、次のように書かれています。

ルカ
14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
14:32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

救われますけれど、わたしの弟子にはなれない。弟子として主に従うことは、徹底的な献身を意味し、あらゆる人間的な絆(きずな)からの分離を意味します。

マタイ
10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

似ている箇所は、いっぱいあります。もう一箇所、読みましょう。

マルコ
8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たい(・・・来たくなければけっこう・・・)と思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

イエス様に従うことは、毎日、自分の意思と自分の思いとを主に明け渡すことであります。イエス様の声に聞き従わない者は、イエス様の弟子ではない。イエス様の声に聞き従う者は、決して、道に迷うことはない。けれど、イエス様の声に聞き従わない者は、闇の中をさ迷うのです。そして、いつも、波のようにゆり動いて定まりがない。

今、イエス様に従う者は、生きているあいだだけではなく、死んでからも、豊かに報いを得ると、はっきり書かれています。後の世では永遠のいのちを得ると、イエス様は約束してくださいました。

今までのことを要約しましょうか。弟子とされることの必要不可欠な条件は、徹頭徹尾、主イエス様を信頼し、明け渡す献身です。

以前、一人の兄弟が、多分、正月だったんですけれど、言いました。『私の今年の切なる願いとは、もっともっと、イエス様に信頼したい。何でも知っておられ、何でもできるお方に心から信頼したい』と、証ししました。自分の親しい家族や友人よりも、誰よりもイエス様を愛し、イエス様のためにすべてを捨て、すべてを失う備えのできている者だけが、イエス様に従う者、すなわち、イエス様の弟子となることができるのです。『主よと呼ぶ者がイエス様の弟子なのではなく、ただ、主の御心を行なう者だけが、本当の意味の弟子である』とあります。

イエス様の弟子は、あれこれと思い煩う必要はない。どうしてかと言いますと、イエス様ご自身が、すべてを良いように配慮してくださるのです。有名な山上の垂訓の中から、もう一箇所、読みましょうか。

マタイ
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

イエス様の弟子は、祈りにおいて、自由と権威を持っていると言えます。ヨハネ伝の十四章十二節に、すばらしい約束があります。

ヨハネ
14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

すばらしい約束です。今日、この世が必要としているものは、イエス様に従って行く者、すなわち、弟子なのではないでしょうか。イエス様の弟子だけが、この世の光であり、地の塩です。イエス様の弟子とは、この堕落した時代にあって、みことばをしっかり受け止め、主の御声に聞き従う人間です。どうでしょうか。私たちは皆、神のこの特権にあずかったのでしょうか。もしそうでないならば、その機会が与えられています。受け入れなさい。信じなさい。また、イエス様の御業のために感謝してください。

それから、私たちは、救われた者としてイエス様に従っている者なのでしょうか。イエス様の弟子なのでしょうか。

自分の罪が赦され、神の子とされた後で、イエス様は、ご自分に従うこと、すなわち、弟子になることを望んでおられます。だから、何回も何回も書いておられます。「わたしについて来なさい。」私たちは、今までと同じように、自己決定と自己支配とを、これからも続けていきたいのか、それとも、献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。

すべては、私たちが新しい人生と証しとによって、他の人々が自由になり、本当に、イエス様を信じるようになることを望むか否かの決断にかかっています。タビタのように、多くの人々がイエス様を信じるようになり、救われたと聖書は言っています。いったいどうしてでしょうか?タビタが救われたからではない。タビタは、意識してイエス様を喜ばせようと思ったからです。

おわり

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