2012年1月17日火曜日

光に照らされる大切さ

光に照らされる大切さ
2012年1月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
26:1 すると、アグリッパがパウロに、「あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい。」と言った。そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた。
26:2 「アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。
26:3 特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします。
26:4 では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。
26:5 彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。
26:6 そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。
26:7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。
26:8 神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。
26:9 以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
26:11 また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
26:12 このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、
26:13 その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
26:15 私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、
26:20 ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。

今朝の題名は、『光に照らされる大切さ』について、一緒に考えてもらいたいと思います。ヘブル書10章32節に、「あなたがたは、光に照らされた」という表現が出てきます。

【参考】ヘブル
10:32 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

どうして、光に照らされることとは、そんなに大切なのでしょうか。光に照らされた人は、救われ、新しく生まれ変わっているからです。今、読んでもらいました箇所の中で書かれていますね。

使徒行伝
26:13 その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
26:15 私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

この一文章によって、彼は、ペチャンコになっただけではなくて、想像できないほどのショックを受けたのです。ご存知のように彼は、信じる者の大迫害者でした。けれども、彼は光に照らされて、天からの声を聞いて、本当にびっくりしました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いて、「あなたはどなたですか」と尋ねました。そして、その答えは、「わたしは、イエスである。」パウロは、これは予想できなかったでしょう。何ですか。イエスは、まだ生きているの?イエスは、十字架の上で死んでしまったのではないか?このイエスに対する思い出を殺すために、私は夜昼、信じる者を迫害しているではないか。イエスは生きているの?

パウロにとって、想像できないショックでした。けども、彼は、光に照らされた瞬間から、イエス様によって捕らえられたのです。イエス様によって、閉じ込められ、監禁されてしまったのです。光に照らされたことによって、パウロは、自分自身の本当の心の立場、心の状態を見たわけです。それだけではなくて、イエス様の価値、イエス様の偉大さ、すばらしさを知るようになりました。後で、彼は、ガラテヤにいる兄弟姉妹に、この体験について、次のように言ったのです。よく知られている箇所です。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

人間に教えられた、納得させられたのではない。上からの光によって照らされた。イエス・キリストの啓示によって、彼は、奇跡的に導かれ、救われました。後で、彼は、ピリピにいる兄弟姉妹に、この考えられない変化について書いたのです。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

すばらしい証しです。イエス様によって捕らえられたパウロの使命は、何だったでしょうか。前に読んでもらいました箇所の中で出てきました。

使徒行伝
26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

光に照らされたサウロという男は、パウロになったのです。イエス様の一人の弟子、ヨハネは、また、次のように言ったのであります。

第一ヨハネ
1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

主なる神は、ご自身を『光の父』と呼んでおられます。すなわち、主なる神は、近づきがたい光に住んでいます。悪魔の罪の結果は、荒廃と闇夜でした。主なる神は、身を引かれました。だから、地は闇となったのです。けども、神のことばによって、光ができました。

創世記
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

主が命令すると、命令どうりになる。詩篇の作者は、言ったのです。

詩篇
33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

光のない世界は、どんなでしょう。考えることができませんが、けれども、喜びのない世界であることは確かです。光は、主なる神から出るいのちの力です。光はいのちであり、闇は死です。神は、『光あれ』と言われた。すると、光があった。何と簡単なことでしょう。何という主の御業(みわざ)でしょう。信じる者とは、結局、それを経験したのではないかと思います。だから、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのであります。

第二コリント
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

私たちは、すでにこれを経験されたのでしょうか。主なる神は、私たちの生活に、また、私たちの暗きうちに、すでに、語りかけたのでしょうか。光、あれ。人間の生活にも、回復の奇蹟が行なわれます。それは、十字架への道です。もし聖霊が、我々の心の奥底を照らすならば、その時、私たちの心の目は開き、罪人であることを悟り、イエス様なしには、永遠に滅びることを知ります。

いくら顔がきたなく、汚れていても、夜では見ることができません。そんな時、明かりがついたら、汚さに驚いてしまいます。上からの神の示しがない限り、光に照らされることがない限り、誰も、自分の心の汚さを認めることはできません。私たちの不幸な暗い心の内に、「光あれ」という主の御声がかかる時に、私たちは新しく創られます。もし主が、今日、我々の暗い心に、「光あれ」と言われれば、私たちの心に、光が差し込みます。イエス様は、約束しておられました。わたしは、世の光そのものです。『わたしに従ってくる者は、闇の内を歩まず、いのちの光を持つ』と、言われたのであります。

私たちは皆、もうすでにいのちの光をお持ちでしょうか。もしも、イエス様に従わなければ、その光を持つことができません。選ぶことが必要です。私たちは、イエス様の光を持っているのでしょうか、あるいは、自分の闇なのでしょうか。意味は、イエス様を光として受け入れるか、拒むかのどちらかです。「光、あれ。」すると光があったと経験する人は本当に幸いです。

光に照らされることとは何でしょうか。今、話したように新しく生まれ変わることです。イエス様は、ある宗教家、聖書学者であるニコデモに言いました。

ヨハネ
3:5 ・・・・「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」

宗教を持つことは、大切なのではない。神の光に照らされることが、もっとも大切です。ニコデモは、当時の宗教家、パリサイ人であって、ユダヤ人の指導者でした。彼は、非常に良くできた立派な人格者であったことは明らかです。イエス様でさえも、彼に、「あなたはイスラエルの教師である」と言われました。

彼も、他のパリサイ人と同じように、必ず毎日、祈り、祈るために宮にのぼりました。また、彼は確かに、一週に二度、断食して、全収入の十分の一を捧げました。けれども、彼は神の国を見ることができなかったのです。なぜならば、彼はまだ、神の光に照らされていなかったからです。彼は、初めから、イエス様を先生として認めました。けど、彼は、後で光に照らされて、主を信じたに違いない。次の二箇所を見ると解かりますね。

ヨハネ
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

はっきり、結局、イエス様の側に立てたのです。

ヨハネ
19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。

ニコデモとは、どうして、こういうふうになったかと言いますと、もちろん、光に照らされたからです。光に照らされることは、救いを経験することです。だから、パウロは、エペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。

エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

だだで与えられるプレゼントです。多くの人は、働きによって、行ないによって救われると、思い込んでしまっています。救いを、働いて自分のものにしたいと思っていますけど、神の光に照らされた人は、そう思っていない。救いは完全に、ただで与えられると確信する人々です。

イエス様のなされた救いは、お金なしに、値段なしに受け取ることができるのです。もし、私たちが、イエス様のところへ行くなら、そして、私たちをイエス様が十字架で完成された働きにまかせるなら、そして、また、私たちが、この瞬間にイエス様に頼るなら、私たちは救われます。

光に照らされることは、イエス様を受け入れることを意味します。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ひとつの人格、すなわち、主イエス様を受け入れることが大切です。だから、聖書は、はっきり言っています。すなわち、どうか福音を信じ、イエス様のためにあなたの心の扉を開き、イエス様を心に入れてください。イエス様は、入ることを待っておられます。入ることを願っています。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

すばらしい約束であり、主の御心を表すことばです。私たちは、イエス様が扉をたたいているのを聞いても、扉を開けないままでいるのでしょうか。言うまでもなくイエス様は、強制しません。鍵は、ただ内側に、人間の側にあるということを、絶えず考えるべきです。人間が、その扉を開かなければならない。扉を開いた瞬間に、イエス様は入ってこられます。『わたしは入りたい!』と、主は言われます。どうでしょうか。イエス様を受けさせるのでしょうか。この恵みの提供を受け取らないと、いつか後悔するでしょう。近い内に、遅くなるかもしれない。

大切なのは、今、何回も言いましたように、光に照らされることです。どうしてであるかと言いますと、光に照らされると、新しく生まれ変わるからです。また、光に照らされることとは、救いを自分のものにすることです。

三番目、光に照らされることとは、主に立ち返ることを意味します。パウロは、テサロニケにいる人々に書いたのです。

第一テサロニケ
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようにな(る。)

光に照らされた人は、生けるまことの神を礼拝することだけが本当の礼拝であり、他のもの全部が偶像礼拝であると、知っている人です。私たちは、いったいどうして、イエス様を信じるようになったのでしょうか。わかったから、理解できたから、勉強したからではない。パウロは、どうしてこういうふうに変えられたのか、簡単に説明したんです。彼は、いつも、啓示という言葉を使ったのです。『上からの光によって』という意味です。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、・・・・

啓示こそが、パウロを変えたのです。主なる神の御子、主イエス様を、私たちの内に啓示してくださること――大切なのは、それだけなのです。これこそが、我々の生活の根本とならなければならない。使徒行伝の中にも、同じようなことが書かれています。

使徒行伝
14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」

光に照らされることは、今、話したように、新しく生まれ変わることです。二番目、救いを自分のものにすることです。三番目、主に立ち返ることです。そして、四番目、悔い改めることです。

ルカ
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

悔い改めること――悔い改めとは、罪を認め、告白し、捨て、憎み、善くすることです。自分の罪を認めることは、主なる神から与えられる大きな贈り物です。誠実な告白をするということは、もっともっと大きな贈り物です。けれども、その罪人が、自分の罪を憎み、捨てるならば、そして、元通りに善くするならば、それは、主なる神の目的を達したことになります。悔い改めることは、百八十度転換することです。

光に照らされた人は、罪を犯したくないと思っています。もちろん、日々、罪の試みと力を感じます。また、自分の弱さを知っています。けれども、罪を犯したくない。光に照らされた人は、自分の力で自分を救うことは絶対にできないと悟った人です。光に照らされた人は、自分で自分を救う努力が、無駄(むだ)であることを教えられた人です。光に照らされることこそが大切です。

光に照らされることとは、今、話したように、新しく生まれ変わることです。救いを自分のものにすることです。主に立ち返ることです。また、悔い改めることです。それだけではなく、赦しが提供されていることを意味しているのであります。

エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

ローマ
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

私たちは、イエス様の働きによって、イエス様の血によって、義とされます。ですから、私たちは、主の働きによってのみ、義とされるのであり、私たち自身の行ないや手柄によっては、義とされません。私たちが義とされる根拠は、ただひとつです。それは、何でしょう。イエス様のしみのない義、すなわち、汚れたところのない正しさ、私たちが当然、受けるべき刑罰を、イエス様が支払ってくださったこと、ここに、私たちが義とされるただひとつの根拠があります。

私たちは、免れがたいただひとつの選択を迫られています。私たちは、自分の罪を欲しますか?それとも、十字架にかかったイエス様を欲しますか?私たちは、罪過の罪を受けたといえるでしょうか。その咎が赦され、その罪が消される者は幸いであると、ダビデは、もうすでに、三千年前に証しすることができたのです。自分がまだ救われていないことを知っているかもしれない。そして、それを他の時にのばすかもしれない。主はこのような遅い適当な時期をご存知ない。主は、こう言われます、『見よ。今は恵みの時、見よ。今は救いの日である』と。

今、何回も言いましたように、大切なのは光に照らされることです。なぜならば、新しく生まれ変わることを意味しているから。救いを自分のものにすることを意味しているから。また、主に立ち返ること、悔い改めることを意味しているからです。また、赦しが提供されていることも意味しています。また、決定せざるを得ないのであります。有名な山上の垂訓の最後のマタイ伝の七章を見ると、次のように書いてあります。

マタイ
7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

イエス様は、たとえをもって、救いの道を私たちに教えておられます。この世には二つの門がある。ひとつの門は広く、ひとつの門は狭い。また、この世には、二つの道がある。ひとつの道は広く、ひとつの道は狭い。また、この世には、二つの群れがある。ひとつの群れにはたくさんの人がおり、もうひとつの群れは少しの人しかいない。また、この世には、二つの目標がある。ひとつは永遠の滅びであり、ひとつは永遠のいのちです。

このようにイエス様は、全世界の人々を二つに分けておられます。イエス様は、我々の心の深みまでご存知です。主が私たちを見られるのと同じ目を持って、私たちも、自分自身を見ることができたら幸いです。私たちの心の目を開いて、自らを省みる時、主の御前(みまえ)に、自分は恐るべき罪人であることが解かるはずです。自分が罪人であることを教えられると、罪の告白もせずにはおれないようになるでしょう。

光に照らされた人は、狭い門から入った人です。それだけだけなくて、イエス様のところへ行った人であるということです。イエス様を知る道は、イエス様に来ることです。イエス様に話すことです。イエス様は、必ず約束します。子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は、赦されている。イエス様のすばらしい約束は、ヨハネ伝六章にあります。

ヨハネ
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

わたしは決して捨てない。また、マタイ伝の十一章二十八節は皆、暗記しているでしょう。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

光に照らされることこそが大切です。どうしてであるかと言いますと――もう一回、繰り返して言いましょう――新しく生まれ変わることです。救いを自分のものにすることです。主に立ち返ることです。悔い改めることです。また、赦しが提供されていることであり、また、決定せざるを得ないのであり、主イエスのところに行った人です。結局、光に照らされると、人々は信じるようになり、救われます。

聖書の中でいちばんよく知られている箇所とは、ヨハネ伝三章の十六節ですね。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を(・・・・人間一人一人を・・・・)愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

信仰とは、望みを持って、ゆるぐことなく、恵みの神を信頼することです。信仰は、差し出されているイエス様の手を掴むことです。

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