2022年10月2日日曜日

あなたは救われていますか

あなたは救われていますか

2022年10月2日、町田福音集会
重田 定義兄

詩篇
13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。
13:6 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

実は今、読んでいただいた『あなたは救われていますか』というこのテーマ、この問いかけは、実は私がですね、四十数年前に私自身に、その問いかけがされたものなんですね。それは、私がそれまで集っておりました日本基督教団の教会から吉祥寺キリスト教会に移ってから間もなく、軽井沢のバイブルハウスで開かれました集会のキャンプに参加した時のことでありました。

集会に古くから作っておられたある兄弟が、私に突然、『あなたは救われていますか?』と話しかけてこられたのであります。その質問は、私が最近、他の教会から移ってきた信者であることを承知の上でされたということがすぐ分かったんですけれども、それだけに私は一瞬、なんと答えたらよいか、戸惑ってしまいました。その様子を見た兄弟は、すぐに話題を変えて、私は答えないままに終わってしまったのであります。

けれども、私は『あなたは救われていますか?』という問いが長い間、心から離れませんでした。

当時、私は、喜びのないまま教会の礼拝に出席し、教会の役員として、礼拝の司会をしたり、時には牧師に代わってメッセージを取り次ぐというような信仰生活を送っておりました。その私に、『あなたは救われていますか?』と言う問いかけをされた時、私は、主が私の喜びのない霊的状態を鋭く指摘されたような気がしたのです。

では、あなたは救われていますかという問いに対して、即座に『はい』と答えられる信者とは、いったいどのような信者なのでありましょうか?それは、主に愛され、救われたことを心から喜び、感謝し、イエス様に委ねている信者ではないでしょうか?

ダビデが賛美した、いちばん最初に読んでいただいた御言葉をもう一度、お読みいたします。

詩篇
13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。
13:6 私は主に(・・・・賛美の・・・・)歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

また、詩篇92篇の作者は、次のように主を賛美しております。

詩篇
92:4 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
92:5 主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。

このような信者こそが、救われている信者ではないでしょうか?では、そのような信仰持つためには何が、いったい必要なのでありましょうか?

まず、救われるにあたって、自分に強い罪の意識があったかどうか、これがたいへん重要なことになります。強い罪の意識がなければ、悔い改めの思いも起こらず、したがってイエス様の十字架の贖いのみわざが、自分自身のためであると受け入れることができないからであります。

神様に背いた罪の大きさ、恐ろしさの意識というのは、霊の目が開かれなければ起こりません。私たち人間は、生まれつき、自分の考えを中心に生きているものであります。そのような、私たちですから、自分の知恵や努力では、神様に対する罪を意識することはできないのです。

神様の御愛によって、霊の眼を閉ざされているこの自分の自我が砕かれ、霊の目が開かれた時に始めて、神様に背いた罪の恐ろしさを知ることができ、神様の御前に心からの罪の告白、悔い改めができるのであります。

ダビデ王もその一人でした。彼は王の権力によって自分の妻を奪い、部下を死に追いやるという十戒のうちの殺人、姦淫、むさぼりという三つの戒めを破りながら、それを王として当然のこととして、罪の意識を全く持っていませんでした。しかし、預言者ナタンによって、自分のしたことが神から与えられた戒めである律法を破るという、死罪に値する大きな罪を犯したことを知りました。彼は神様を恐れて御前に罪を告白し、心から悔い改め、罪の赦しを願いました。ダビデは、次のように祈りました。

詩篇
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。

51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。

霊の目が開かれて、自分が神様に背いた罪がどんなに恐ろしいものであるかを知れば、誰でもダビデのように神様の御前に罪を悔い改めて、心から赦しを願わざるを得なくなります。心砕かれて、神様に罪の赦しを求める者に対して、神様は預言者イザヤの口を通して、次のように約束してくださいます。

イザヤ
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

では、神様はこの約束をどのようにして私たちに与えてくださるのでありましょうか?それは、私たちの罪を赦すために、私たちと同じ血と肉を持った人のかたちを取って、遣わされた神の一人子、イエス様の十字架による罪の贖いの御業によってであります。パウロはこれについて、次のように言っております。

ローマ
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

パウロのように、イエス・キリストを信じるものが、罪に定められることは決してないという救いの確信は、神の御子イエス様の尊い死が他ならぬ自分の罪をあがなうためであったと、心から信じて受け入れた者だけが覚えるものなのであります。

けれども、この確信はいったいどこから得られるのでありましょうか?私たちの知恵によって理解したからでないことは、これまでお話したとおりであります。また、人間の感情とか、直感で確かめられるものでもありません。

感情は動揺するものであり、時事刻々変わるものであります。そのような、不安定な感情によって、救いの確信があるかないかを確かめようとしても、感情が高揚している時には救われていると思っても、感情が沈めば、とたんに救われていないと落ち込んでしまうことになるからであります。従って、感情によっては、揺るがぬ救いの確信は得られません。私たちに与えられる救いの確信は次のものによるのであります。

まず第一は、私たちを罪からあがない出すために、十字架にかかってくださった神の御子イエス様ご自身の約束であります。一番目は、イエス様のご自身の約束であります。イエス様は、次のように約束してくださっておられます。

ヨハネ
6:37 父が(・・・・父なる神が・・・・)わたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

10:27 わたしの羊は(・・・・すなわちイエス様を信じたものは・・・・)わたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

11:25 ・・・・「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。・・・・」

これらのイエス様の約束こそが、救いの確信を私たちに与えてくださるのであります。

二番目は、イエス様の御愛が、私たちの霊に救いの確信を与えてくださいます。イエス様の御愛が救いの確信を私たちに与えてくださいます。パウロは、ローマ書の中で次のように言っております。

ローマ
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私たちキリスト者は、この世にあっては、多くの誘惑や艱難にあいます。しかし、私たちは自分の罪を身代わりによって死んでくださるほどに愛してくださったイエス様の大きな御愛に守られ、支えられて、それらの誘惑や艱難に打ち勝つことができます。そして、その体験を通して、私たちは救われているという確信を持つことができるのであります。

三番目は、イエス様のとりなしであります。

先ほども申しましたけれども、イエス様は父なる神様と私たち信者との間に立つ唯一のとりなし手として、仲介者として、いつもとりなしていてくださっておられます。これについてパウロが、次のように言っております。

ローマ
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

私たちは、救われてはいても、肉の衣を着ているがゆえに、しばしば、主の御心を悲しませるようなことをしてしまうような弱い愚かなものであります。そして、サタンはそのことを取り上げて、私たち信者を罪に定めようと、攻撃してまいります。しかし、イエス様は、私たちの信仰が弱いことをよく知っておられ、仲介者として、いつも父なる神様にとりなしてくださっておられます。私たちは、このイエス様のとりなしによって救われているという確信を持つことができるのであります。

四番目は、聖霊による保証であります。聖霊による保証であります。パウロは、次のように言っております。

エペソ
1:13 あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

イエス様は、信じる私たちに、主の御霊を助け主として遣わすと約束してくださいました。

ヨハネ
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

信者の中に住んでくださる御霊による保証が、救われていることの確信を、私たちの霊に与えてくださるのであります。

以上、申しましたように、主は信者が救われていることを、ご自分の約束によって、ご自分の愛によって、ご自分の取りなしによって、そしてまた、内に住んでくださるご自身の御霊によって、私たちに保証してくださいます。

けれども、このことを確信をもって受け入れるには、前にも申しましたように、私たちの頑なな自我が砕かれて、霊の目が開かれることが必要になのであります。従いまして、もし、自分に救いの確信がないと思ったならば、主に自我を砕いて、霊の目を開いていただくように、一生懸命に祈ることが、ぜひとも必要になってまいります。

では、救われたという確信を与えられた信者の信仰の態度は、それ以前と、どのように変わるのでありましょうか?いくつかあると思いますけれども、ここでは、二つだけ取り上げたいと思います。

私自身のことなんですが、まず、礼拝に対する態度が変わります。集会の兄弟姉妹には考えられないことでしょうけれども、教会に行っていた頃の私は、礼拝を守ることを、信者の義務としか考えておりませんでした。喜びどころか、毎週、礼拝に行くことを、重荷とさえ思うこともありました。けれども、救いの確信が与えられてからは、礼拝が主なる神様とイエス様に対する心からの喜びと感謝の場へと変えられたのであります。

また、救われている確信を持つ信者は、自分がいかに愚かであり、いかに無力であるかを思い知ります。そして、そのような自分により頼むのではなくて、自分を愛してくださるイエス様にのみ、主にのみ、より頼み、イエス様の御心に従う歩みこそが喜びであり、幸せであると知って、主の御心を求め、御言葉にますます飢え渇くようになります。

詩篇
119:129 あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。
119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
119:131 私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。

119:133 あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。

このように、自分を愛してくださる主に、自分を明け渡し、主に固く信頼して歩む信者を主はお用いになって、ご自身のご栄光を現されるのであります。

主のご再臨の間近い時に、私たちは救いの確信をもって信者として整えられ、御霊に満たされ、導かれて、主が迎えに来てくださるまでの日々を、主に感謝し、喜び、賛美しながら、信仰の歩みを進めていくことができますように、心から祈りたいと、切に願う次第であります。

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