1.ヨハネの黙示録4章を学ぶ前に
1.地上の教会とイスラエル民族(黙示録2・3章)
[1]エペソの教会―エジプトから救われた民—婚約時代
[2]スミルナの教会―患難の民—殉教の時代
[3]ペルガモの教会―王を欲した民―妥協の時代
[4]テアテラの教会―イゼベルに殺された民—暗黒の時代
[6]フィラデルフィヤの教会―連れ戻された民—覚醒の時代
[7]ラオデキヤの教会―拒絶された民—終わりの時代
2.天の教会―主のみもとに引き上げられた教会
[1]教会の携挙
[2]裁きの御座の前にある教会
[3]勝利を得る者の報い
さて、いよいよヨハネの黙示録の第4章に入ります。これから学ぶのは、黙示録全体のうちの第3部にあたるところです。この第1部、第2部、第3部の分け方については、すでに黙示録1章19節で学びましたが、ここでもう一度、整理しておきましょう。
つまり、第1部(黙示録1章)の内容は、ヨハネが見た、イエス様の「裁き主としての現われ」でした。第2部(黙示録2、3章)の内容は、ヨハネが見た、イエス様からの「七つの教会にあてられた手紙」でした。この第2部では、五旬節での教会の誕生から、携挙の日までの「教会の歴史」の概略を見ることができました。
そして、今から学ぶ第3部、黙示録の4章以下には、「後に起こること」が記されています。つまりイエス様の花嫁である「真の教会が天にあげられてからのこと」が書かれているのです。
ここで、第3部の学びに入る前の準備として、今一度、黙示録2、3章で見てきたことを振り返って、そこに書かれてあることと、実際の教会の歴史、イスラエル民族の歴史を比較してみます。
1.地上の教会とイスラエル民族
[1]エペソの教会―エジプトから救われた民—婚約時代
まず、エペソの教会は、ヨハネの時代の教会を現わしています。この教会は、規律を熱心に守り、間違った教えをはっきりと拒絶していました。しかし残念なことに、イエス様に対する「初めの愛」が失われてしまったのです。また、兄弟姉妹の間にあるはずの「心からの愛」もなくなっていました。そこでイエス様は、彼らに対して「初めの愛に立ち返りなさい」と呼びかけられたのです。
このことはまた、エジプトから救い出された後のイスラエル民族の姿を象徴しています。紅海を渡ることができ、エジプトの支配から完全に自由になったとき、イスラエル民族は主に対する愛と感謝に満たされていました。
「わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。」(エレミヤ2・2、3)
「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19・6)
しかし、このような主に対する「婚約時代の愛」は長続きせず、まもなく消えうせてしまいました。エペソの教会の場合も同じです。
イザヤ書3章1節には「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあります。私たちにも、イエス様が「あなたはわたしのもの。」と言ってくださり、私たちもイエス様に全ての愛を捧げたときがありました。しかし今日、私たちのイエス様に対する愛はどうでしょうか。私たちは心をいつも主に向けているでしょうか。
[2]スミルナの教会―患難の民—殉教の時代
次に、スミルナの教会は迫害と殉教の時代の教会を示しています。この教会に対してイエス様は「迫害を恐れてはならない」と呼びかけておられます。
イスラエル民族は、約束の地カナンに入る時に、そしてカナンの地に入ってから後も、絶えず闘いを経験しなければなりませんでした。闘いの中で彼らが妥協せず主の側に立ったとき、彼らは勝利を与えられましたが、主の側に立とうとしなかったときには、敗北してしまいました。
[3]ペルガモの教会―王を欲した民—妥協の時代
「ペルガモの教会は、キリスト教がローマ帝国の国教となってからの国教会の歴史を示しています。この時代の教会は、この世と妥協することによって名声と誉れを受けましたが、内面的には霊的な力と主の証しを失ってしまいました。
これはちょうど、イスラエル民族が他の諸民族にならって、人間の「王」をもちたいと願った旧約の時代に似ています。彼らは、神だけに支配されることを望まないで、他の諸国民と同じように自分たちの「王」が欲しいと願ったのです。彼らの願いによって最初の王サウルが与えられました。しかしこの王サウルは他のイスラエル人より人間的にははるかに優れた人であったにもかかわらず、彼自身は悲劇的な最期をとげることになってしまったのです。
[4]テアテラの教会―イゼベルに殺された民―暗黒の時代
テアテラの教会は、中世の教会を示しています。この時代にローマ・カソリック教会は何千人もの真の信者たちを殺害しました。これは、アハブ王の妻、イゼベルがイスラエル民族に偶像礼拝を強制した時代に似ています。イゼベルと同じようにローマ・カソリック教会も悪魔の道具にされたのです。これに対するイエス様のみことばは「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。(第一ヨハネ4・1)」という)のでした。
[5]サルデスの教会―敵の手に落ちた民—捕囚の時代
そしてサルデスの教会は、宗教改革後のプロテスタント教会を示しています。この時代の教会は、霊的には死んでいました。名前だけが生きていて、実際には死んでいたのです。
イスラエル民族もまた立派な名前をもっています。例えば「ベニヤミン」は「神の愛する者」、「イスラエル」は「神の戦士」、そして「ユダ」は「神の誉れ」という意味です。しかしそれらは、名前だけのことであり、実際には名前にふさわしくない者が大ぜいいたのです。確かに「モルデカイ」や「エステル」、また「ダニエル」と三人の友だちのように勝利を得た人々も少しはいましたが、イスラエル全体では神の民としての証しにはなっていませんでした。イスラエル民族は敵の手に陥り、神のご栄光は消え失せてしまっていました。これが捕囚時代のイスラエルの姿です。
[6]フィラデルフィヤの教会―連れ戻された民―覚醒の時代
フィラデルフィヤの教会は、覚醒の時代を示しています。捕囚時代に主はイスラエル民族の中の少数の人々に覚醒を与えて、彼らを敵の地から奪い返し、イスラエルの地へ連れ戻されました。フィラデルフィヤの教会へのイエス様のみことばは「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(黙示3・1)」)であり、それに対するこの教会の応えは「アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示22・20)」でした。これらの人たちは、残された少数の人たち(エレミヤ31・7)であり、小羊の婚姻に招かれている賢い娘たち(マタイ25・4)でした。
[7]ラオデキヤの教会―拒絶された民―終わりの時代
最後にラオデキヤの教会は、終わりの時代を示しています。宗教化してしまったキリスト教は、イエス様の再臨を待ち望むことをしないで、イエス様に対してなまぬるく無関心になってしまったのです。この教会は閉ざされた戸の前にむなしく立っている娘のようなものでした。イスラエルの人々も同じようにイエス様によって拒絶され、ただその中の少数のものだけがイエス様との交わりをもち、イエス様と共に支配することになるのです。
2.天の教会―主のみもとに引き上げられた教会
黙示録の4章1節で、ヨハネは天から「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と命じられています。このとき、ヨハネのおかれている状況が一変したのでした。2節には「たちまち私は御霊に感じた」とあります。それは、ヨハネが御霊に満たされたということではなく、彼が「天に引き上げられた」ことを意味しているのです。なぜならヨハネはすでに御霊に満たされた人だったからです。ヨハネは恐らくその時「霊のからだ」をもつようになったのです。ヨハネはイエス様に出会って、栄光のからだに変えられました。そして、ヨハネはイエス様を見ることができたのです。
パウロも同じようなことを語っています。
私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(第二コリント12・2~4)
私たちも将来、同じように「霊のからだ」、「栄光のからだ」をもつようになるでしょう。私たちは今の「肉のからだ」をもっている間は、イエス様を見ることができません。私たちは今は地上にあって、土の器の中に宝をもっている状態にすぎないのです。宝とは神の霊、私たちの内におられるキリストです。土の器とはこの死ぬべきからだのことです。
また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33・20)
さて、黙示録1章12節では、ヨハネがイエス様を見るためには振り向くこと、つまり視点を変えることが必要だったことがわかります。しかし黙示録4章1節では、ヨハネは主に会うために場所を移しかえられる必要があったのです。場所の転換とは「携挙」、つまり天に引き上げられることを意味しています。
黙示録4章では、イエス様はもはや七つの燭台の間を歩かれるのではなく、御座についておられます。そして教会はそのまわりにいるのです。つまり、教会はイエス様のみもとに引き上げられているのです。
ここで、「携挙」、つまりまことの教会が天に引き上げられるということを学んでみましょう。黙示録では、「携挙」はただ暗示されているだけですが、聖書の他の箇所では、詳しく書かれています。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・16、17)
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第一コリント15・51、52)
黙示録の4章から先、ヨハネはすべてのものを天から見るようになっています。これ以後19章7節まで、「教会」という言葉は出てきません。そしてそこでは教会は「花嫁」として記されています。
「教会の携挙」は黙示録の3章と4章の間に起こっています。ヨハネが天に引き上げられたことは、教会の携挙の象徴です。4節に出てくる二十四人の長老たちは、旧約時代の神の民と新約時代の神の民との両方を現わしています。また「長老」という言葉は、教会では特別な意味をもっています。
また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。(黙示4・4)
よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。(第一テモテ5・17)
私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。(テトス1・5)
二十四人の長老たちは冠を与えられ、栄光を与えられ、御座の回りにすわっていると書かれています。長老たちは神の裁きの座におられるイエス様に固く結びつき、その回りにすわっているのです。長老たちがかぶっている「冠」は、聖書の中でただ忠実な者だけに与えられる報いです。
ここで、私たちは、封印された「裁きの書」がまだそのままであることに注目しなければなりません。それが開かれるのは黙示録6章になってからです。そして予告されていた「最後の裁き」は黙示録6章から18章に出てきます。ですから、4章で天に引き上げられた教会は、最後の裁きに会うことはないのです。
また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった・・・・。(第一テサロニケ1・10)
兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(第一テサロニケ5・1~11)
「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」(黙示3・10)
[1]教会の携挙
まず、みことばから学んでみましょう。
「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言った。しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25・1~13)
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。(黙示4・1~3)
教会の携挙は、これから世界に起ころうとしていることの中で、最も大きな歴史的なできごとです。イエス様の再臨は疑う余地のないことです。
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(ヘブル9・28)
イエス様はかつて、罪を取り除くためにこの世に来てくださいました。この次には教会を引き上げるために来てくださいます。イエス様はそれをはっきりと約束しておられます。
「わたしの父の家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14・2、3)
テサロニケ第一の手紙の中に、イエス様の再臨についてたくさんのことが書かれています。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。(第一テサロニケ2・19)
また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。(第一テサロニケ3・13)
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。(第一テサロニケ4・15)
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(第一テサロニケ5・23)
私たちイエス様を信じる者の生活の中には、イエス様が再び来られるという望みが生き生きと流れていなければなりません。イエス様は空中の雲のところまで来られ、そこで教会を引き上げられます。この世の人々は、それを見ることはできませんが、その時には真の信者たちが地上から突然消えてしまうことに気がつくでしょう。
この時、教会の携挙を経験する信者は誰でしょうか。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(第一テサロニケ4・14)
イエス様が罪のために死なれ復活されたことを信じる人々だけが、つまり、真に新しく生まれ変わった信者だけが、引き上げられるのです。
携挙は「イエス様の救いの成果」であって、決して信者の成功の程度によって与えられるものではありません。パウロは全ての信者が変えられると言っています。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。(第一コリント15・51)
つまり、かならずしも模範的と言えなかったコリントの信者たちも、この中に含まれているのです。そして、聖霊の宮になっている人々だけが、この携挙にあずかることができるのです。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ローマ8・11)
では、どのようにして携挙は行なわれるのでしょうか。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第一コリント15・52)
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・16、17)
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」(黙示4・1)
神の声がラッパのように響くときに、死んでいた信者は全て目を覚まし、栄光のからだに変えられるのです。またそのとき、地上に生きている信者たちも一瞬にして栄光のからだに変えられます。このようにして、よみがえらされた信者たちも、造り変えられた信者たちも、いっしょに天に引き上げられるのです。コリント人への手紙第一の15章52節の「一瞬のうち」とは、「まばたきする間」ほどの非常に短い時間を指しています。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3・21)
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3・2、3)
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3・4)
よみがえった信者と、天の幕屋を着せられた信者とが、雲の中でイエス様と出会うのは、何とすばらしい光景でしょうか。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。(第二コリント5・4)
イエス様が雲に乗って天にあげられたように、私たちも雲に乗って天に引き上げられるのです。
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(使徒1・9)
私たちの携挙も、イエス様の昇天と同じように一瞬のうちに起こります。私たちがイエス様と顔と顔を合わせてお会いできるとは、何とすばらしいことでしょうか。このことは空中において起こります。しかし、空中にはまた、悪霊も存在しています。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。(エペソ6・12~15)
イエス様は悪霊が存在しているそのまっただ中において、完全な勝利を与えてくださるのです。
すべての生まれ変わった人々がそこにいます。イエス様は信仰の弱い者をも引き上げてくださるのです。ちょうど、イスラエル民族がエジプトを脱出する時に、残される者が一人もなく全員エジプトを脱出できたのと同じように。
「私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えなければならないかわからないのです。(出エジプト10・25)
つまり、イエス様を信じ、従う者であるなら、すべての人が引き上げられるのです。この約束をいただいているのですから、私たちはお互いに慰め励ましあいましょう。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(第一テサロニケ4・18)
このことをはっきりわきまえて、動かされることなく、共に主に仕えようではありませんか。
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15・58)
さらに、主に忠実な者に対しては報いが与えられます。これについて、考えてみましょう。
[2]裁きの御座の前にある教会
携挙のあとで、教会は主の裁きの御座の前におかれます。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(第二コリント5・10)
なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(ローマ14・10)
良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。(エペソ6・8)
このとき問題となるのは、「滅び」か「永遠のいのち」かということではありません。信者はすでに朽ちないいのちをもっているからです。
また、「大きな白い御座」(黙示録20・11)の前における「最後の審判」とも関わりがありません。最後の審判においては、救われている人々が対象ではないからです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)
そしてもちろん「過去の罪」が問題となるのでもありません。過去の罪はすでに赦され、イエス様が私たちと父なる神とを和解させてくださいました。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。(ヨハネ3・17、18)
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6・37)
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5・1)
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)
私たちは自分の罪が完全に取り除かれたことを知っています。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2・13、14)
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1・6、7)
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル10・14)
私たちは、父なる神がイエス様を愛されたのと同じように、私たちのことをも愛しておられるのを知っています。
「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17・23)
ですから、ここでは私たちがイエス様から離れていたときの生活が問題となるのではなく、私たちが信仰を与えられてから後の生活が裁かれるのです。黙示録は「裁きの書」です。神の裁きは神の家から始まります。
なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。(第一ペテロ4・17)
携挙のあとに、まず信者にたいする裁きが行われます。これは信者の働きにたいする報いのための裁きです。主の光の下に、すべてのものが明らかにされます。
私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3・9~15)
多くの人々が、裁きの火によって木や葉のように焼きつくされてしまいます。ここで、私たちが神のみことばに忠実であったかどうかが明らかになるでしょう。たとえば私たちには、次のようなみことばが与えられています。
望みを抱いて喜び、思難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。(ローマ12・12)
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4・6)
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(第一テモテ2・1)
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(第一ペテロ4・8)
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(第二コリント9・7)
その日には、私たちが許さなかったこと、愛さなかったこと、批判したことなどの全てが明るみに出されます。
信者は生まれ変わりを通して、神の家の生きている石となるだけでなく、神の家を共に建て上げる者、神の同労者とされます。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(第一ペテロ2・5)
私たちは自己中心の生活をしていないでしょうか。集会の兄弟姉妹たちを心にかけているでしょうか。主の裁きの御座の前におかれた時、これらのことが明らかにされます。ですから私たちは報いの日を目指して、モーセが歩いたように歩まなければなりません。
彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル11・26)
[3]勝利を得る者の報い
それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。(第一コリント3・8)
神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(ヘブル6・10)
すべての信者は、いろいろなやり方でイエス様に仕えています。イエス様に仕えることをまったくしなかった信者というのはありえません。
すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25・40)
聖書には報酬として「冠」が与えられると書かれていますが、これから六つの「冠」について簡単に見てみましょう。
・朽ちない冠
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(第一コリント9・24~27)
信者の生活は、競技場でゴールを目指して全力疾走しているようなものです。その結果、主から「朽ちない冠」をうけることができるのです。パウロは、賞を得るために自分の体をうちたたいた人でした。
モーセもまた私たちの模範となります。
彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル11・26)
・いのちの冠
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1・12)
「いのちの冠」は試練を通って勝利を得た者に与えられます。ダニエルは主を否定して生きるよりも、獅子の穴に投げ込まれる方を選びました。彼の三人の友も神に対する忠実さを捨てるくらいなら、自分の体が焼かれる方を選びました。アブラハムは自分の一人息子を犠牲の供え物として捧げようとしました。悪魔のあらゆる攻撃にもかかわらず、ヨブは主への信仰を堅く守りました。これらの人々はすべて「いのちの冠」を得たのです。悩んでいる信者にとって、これらのことは大きな励ましです。
・義の冠
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(第二テモテ4・8)
「義の冠」を受けるには、日常生活の中で主に忠実であることと、主の再臨を待ち望む信仰がなければなりません。主の再臨を待ち望んでいる人は自分自身をきよめることに熱心になります。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3・3)
私たちは日々「主よ、来てください」と祈りましょう。
・誇りの冠
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。(第一テサロニケ2・19)
そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。(ピリピ4・1)
「誇りの冠」は、他の人々を主のみもとに導いた者に与えられる報酬です。人々を導くためにイエス様は来られたのであり、今も働いておられます。
人を導くことは、パウロの望みでもありました。(ルカ19・10)
また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。(ローマ15・19)
ダニエルは、人を導く者のことを次のように預言しています。
思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(ダニエル12・3)
・栄光の冠
そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。(第一ペテロ5・4)
「栄光の冠」は、教会をよく牧した牧者に与えられる報酬です。自分のことを考えないでイエス様のことだけを考え、群の模範となった人に与えられるものです。パウロもこのような奉仕をした人でした。
私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。(使徒20・19~21)
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20・24)
あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。(使徒20・28)
・金の冠
また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。(黙示4・4)
「金の冠」は、地上にあってイエス様に仕えた長老たちが報酬として受けるものです。
その日には、私たちが利己的な動機によって行なったことと、イエス様に対する愛から行なったことが明るみに出されます。
その日には、私たちが自分自身の力により頼んでやったことと、聖霊が私たちを通してなされたことが明るみに出されます。
その日には、救われた者すべてが裁きを受け、冠を受ける者と受けない者に分けられます。
ですから私たちは、日々、自分自身を主の光の前に差し出して、主が私たちの心の内側を明らかにしてくださるようにしましょう。
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139・23、24)
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