2022年10月9日日曜日

すぐに起こるはずのこと【第2巻】まえがき

すぐに起こるはずのこと――ヨハネの黙示録
第2巻
ゴットホルド・ベック著

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったるのである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしるべヨハネにお告げになった。(ヨハネの黙示録1・1)

まえがき

ゴットホルド・ベック

聖書の中で、イエス様は二つのことを私たちに命じておられます。「わたしのもとに来なさい」というのが、その一つです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)

このイエス様の呼びかけは、「キリスト教に入りなさい」、という意味ではありません。イエス様は、ただ、「わたしのところに来なさい」、と言われたのです。

私たちは、人間がこしらえあげた「宗教」なるものによってだまされてはなりません。「宗教」に入ることこそ、まことの救いを得るための大きな妨げです。

最近私は、イエス様を信じて救われた、かつてお坊さんであり、仏教の研究者だった方の証しを聞きました。彼は、こう言ったのです。「イエス様ご自身を信じたとたん、私は宗教を卒業した。楽になった」と。その証しをご紹介しようと思います。ここで彼の証しをご紹介するのは、決して仏教を批判するためではありません。「宗教」と「信仰」の違いが、切実な体験として語られているからです。仏教が批判されるとすれば、同じように今日の組織されたキリスト「教」もまた批判されるべきです。

私は、かつてドイツの国教会に所属していましたが、そこから出ました。私はキリスト「教」を宣べ伝えることはできません。ただ、イエス・キリストご自身を紹介したいのです。なぜなら、イエス様だけが、人間の罪の問題を解決してくださったからです。あらゆる宗教は、罪ほろぼしのために何もできません。人間は人間を救えません。しかしイエス様は、主なる神のひとり子でありながら、私たちの罪を一身に負って十字架につき、その血によって私たちを罪から贖いだしてくださったのです。

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(レビ記17・11)

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1・9)

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(第一ヨハネ1・7)

以下は、仏教の研究者であった方が体験されたことの証しの要約です。

「私はお寺の生れです。長男なので、当然住職になることを期待され、何の疑問も抱かずに、高校を出ると東京の仏教関係の大学に進学しました。仏教のいくつかの宗派が合同で作っている大学です。そこの仏教学科で四年間勉強しました。大学では仏教青年会というサークルに入っていました。

卒業後、父やお寺の方々の勧めもあって、京都の、ある宗派の本山に二年間行きました。本山では事務的な仕事と坊さんのお勤めの両方をやりました。本山にも檀家があり、法事や葬式があります。お寺の坊さんは法事や葬式でお経を読むわけですが、それが何のお経であり、どういう意味なのか、ほとんどの坊さんは知っていないようです。ただ漢字の棒読みだけ、中にはお経の題名すら読めない坊さんがいる。それでも、宗派から書類をもらうと坊さんとして通る。そういうことを知るにつれて、これでいいんだろうか、と思ったんですね。

意味もわからないお経を読んでお布施をいただく。なぜそれがいただけるかを飛び越して、その金額の多少が話題になる。戒名というものも、金額によって差があって、ありがたみが違う。最近NHKでもとりあげていましたが、偉い坊さん方はそれがお寺の『経営」のために必要だ、と言っていました。仏教の教えをまじめに求めている人々のことはあまり考えられていない。経営なんです。

私はそういった実情を知るにつれて、これではいけない、何とかしなくては、特に教えの基本であるお経についてもっと深く究めなければ、と真剣に思いました。「それで私は、卒業した大学の、大学院修士課程に戻り、三年かけて勉強しました。学べば学ぶほどに仏教は難解で、三年では足りず、博士課程に進んで十年間勉強しました。そしてさらに、同じ東京にある宗派の研究所で数年間研究員をし、仏教の学会に研究発表の論文を書いて発表し続けました。

しかしやがて、勉強をすればするほど、お経を身を入れて読むことができなくなってきました。研究発表は不本意ですし、自分で何をやっているのか、その意義がよく分からない。仏教は二千五百年続き、大変な量のお経があるのに、世の中に生きて役立っているとは思えない。私が勉強しているお経は、いつ、どこで、どのように人の役に立つことができるのかと、いつも思っていました。その答えは、私が仏教の世界に身をおいている間にはついに出せませんでした。

そのころ、私はあるお寺の娘さんと結婚しました。そこの住職に、お寺の本来のありかたについて疑問をぶつけました。疑問はふくらむばかりでした。やがて、離婚しました。私はますます、『自分は自分で歩くしかない、暗闇の中を手さぐりで歩くしかない』と、思いこみました。

仏教の世界に幻滅していたので、こんどは儒教はどうだろう、コーランはどうだろう、聖書はどうだろう、と思い、かたっぱしから買ってきて読みました。でも、ちっともわからない。納得できない。心霊学、易教にまで手をだしました。自分は坊さんだったんだから、なにか世の役にたつことをやらなきゃいけないということで、易もやってみました。

「そんな時期に、今の家内と出会い、結婚しました。彼女は中学の時に洗礼を受けていました。私はお寺を出て、仏教の勉強しかしていないものですから、社会的には偏った人間です。就職もままなりません。お店を始めましたが、これもうまくいきません。私は自暴自棄になっていて、家内にもずいぶんひどいことをいいました。「お前といっしょになったからだ」と。

そんな頃、キリスト集会のあるご婦人がたが、「ベックさんに会ってみたら」と勧めてくださいました。私は『絶対に、いやだ」と思っていたのですが、その時突然『会ってみます」と口から出てきたんですね。聞いていた家内がびっくりしました。

ベックさんにお会いしたとき、こう言われました。「イエス様を知っていれば、必ず救ってくださいます」。私はその言葉が言えなくて、どれだけのたうちまわっていたことか。そして「いっしょに祈りましょう」と言われました。私は祈り方も何もわかりません。仏教では『祈る』のではなく、『拝む』ですから、拝むときの正しい作法があります。どこへいって、どうやるのかな、と思っていたら、そのまま、そこで祈ってくださって、最後にベックさんが『アーメン」と言われたとき、私も『アーメン』って言ってしまいました。その時、私の今までの二十五年のすべてが崩壊しました。

そして知りました。『宗教と信仰は違う」ということを。私は今まで『宗教』の中でもがいていた。『ああ、信仰ってこういうものなんだ」。初めてそのとき、「信仰」にみちびかれて、『宗教」の重荷から解放されました。

ほんとに体が軽くなりました。妻は見ていてそれがわかった、というんですね。私の中にあった、『世の中がこんなになっているのに、私がなんとかしなくてはいけないんじゃないか』とか、「これだけのお経があるんだから、もっと世の中に役立つはずだ」。というような考えが、その瞬間にどこかへ消し飛んでしまったのです。そしてさらに、「人間が世の中をよくできない」、「よくする必要もない」とお聞きして、もうぐしゃぐしゃになりました。一日でこんなに砕かれてしまうものなのか。ショックでしたが、でも、そのとき、信じられた喜びというか、何かいままで見たことも聞いたこともないものに触れた喜びというか、それを知ることができました。実際にこんなことがあるなんてこと、学問の世界では語りようがないです。二十五年勉強してきたことの中に、無かったです。

ということで、その日はほんとに喜んで帰ってきました。それで、家のなかに観音とか仏像とか置いてあったんですが全部片付てしまいました。何の未練もありませんでした。ああよかったと思いました。そして、聖書を信じたんだから、ただ聖書を読めばいいんだ、と思い、聖書を買いにいき、読み始めました。次から次へと、もう、今まで読んでた活字の聖書ではありません。聖書が生きていて、私の目に飛び込んできて、ほんとにみことばを食べるってこういうことなんですね。感動するばかりでした。

イエス様が私たちの罪のために、十字架について死んでくださったこと。その血によって、私たちひとりひとりを贖ってくださったこと。そして愛のゆえにこの私のような者の罪を洗い流してくださったということ。そして救ってくださったこと。それが身にしみました。

聖書の中で、私が強く主の存在を感じたのは、創世記1章2節の、「そのとき、神が、「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」というところです。頭をたたかれたようでした。

なぜなら、私がこれまで所属してきた宗派の本尊は大日如来といって、光の如来です。ところがその光すら、主なる神が創られたものではないか。私がいままで拝もうと努力し、信じようと努力し、信じたふりをしてきた本尊の如来っていったい何だったんだろう。すべては天地の創り主であるまことの神に帰するではないか。ほんとにそう思いました。創世記の一番初めですから、それまで何遍もここを読んでいたんですが、こんな受け取り方をしたのは初めてでした。

山ほどあった経典や仏教書も、東京の神田に持っていき、売り払ってしまいました。

私はそれまで、攻撃する対象としてしか聖替を読んでいませんでした。どこかに矛盾がないか。どこかにあらがないか。実際、揚げ足取りもしました。しかし、心の目を開いてただいた今は、肉の糧は食物でいただいているけれど、霊の糧は「聖書のみことばと祈りと賛美」でいただいています。

キリスト集会は、お寺とちがいます。坊さんはお経の意味もよく分からないでいる人が多いのに、集会に集う皆さんは、ひとりひとりがイエス様を心から愛し、聖書をほんとに真剣な目で読まれ、日々生きていく糧としておられる。そして主を礼拝し、賛美しておられる。主が生きて働いておられる。それを実感します。私たち夫婦も、やがて朝早く祈って一日を始め、夜も賛美し、祈るようになりました。

今、私はパウロの気持ちがよくわかります。なぜかれがダマスコに向かう道で目がみえなくなって、イエス様の声を聞いた瞬間に回心したのか。彼は肉の目も、霊の目も見えなくなりましたが、私の場合は肉の目はそのままに、霊の目を開いていただきました。パウロは言っています。

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ3・7~9)

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものが主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(第一コリント8・6)

私がそれまで研究してきたのは、『真理はどのような言葉で語りうるか、それはどこにあるか』ということでした。しかし、真理はここにありました。研究しなくとも、すでにそこにありました。しかも私は、その真理に瞬間的に目覚めさせられたのです。聖書を何年間、研究したかでなく、何十回、聖書を読んだかでなく、生まれて初めてイエス様に祈り、アーメンといった途端に、『宗教』がどっかへ飛んでいってしまったんです。今まで『宗教』をどれほど重荷だと思っていたことか。それが消えてしまったのです。

仏教の側の哲学者の方が書いておられます。『キリスト教はユダヤ教を母体とし、砂漠的な風土に成立した。その自然観は自然に対し敵対的であり、自然は征服されるべきものとして存在する。このキリスト教の自然観が、自然を量と要素へと還元する自然科学という鬼っ子を生みだすのであり、ヨーロッパのみならず、現代の自然科学を理解するためには、キリスト教の本質の理解が必須である』と。この方は、いわゆる宗教としてのキリスト教の一般概念で考えておられます。真の信仰とは、それとは全く別なものです。

キリスト集会の、ある医者の方は、次のように書いておられます。「科学は、神様が創造された被造物とその仕組みを調べることによって、いかに神様のみわざが偉大なものであるかを知って神様をおそれ、神様を賛美するために、神様が私たち人間に与えられたものです。その科学を、人間の側から神様を知る物差しとして使うのは、まったく見当ちがいであり、、神様をおそれない考え方です」。私は言葉を失いました。こんなに違って。いままで二十五年間、なにを研究し、もがいていたのか・・・・。

また、仏教では如来についての教えがあります。『人間の心は本来清らかな鏡のようなもので、それによそからきた埃がつく。それを一生懸命自分で磨いて、きれいにしなさい」というものです。しかし、聖書は次のように言っています。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7・21~23)

ですからイエス様は、ご自身で十字架についてくださったのです。本来、罪だらけの人間を、そのままで、ただイエス様を知ることによって、罪を全て、赦してくださる。救ってくださるのです。

聖歌を賛美していて思いました。ああ、ただ、イエス様のそばにいるだけでいいんだ、自分が努力して仏になる必要なんか全くないんだ、と。そしたら妻が、「それでいいじゃない、イエス様のそばで何が不足なのよ」と言いました。今までの仏教の価値観では、私は自分が修行して、成仏、つまり仏にならないといけないんだ、と思いこんでいたんですね。イエス様を信じてすべてをゆだねれば、イエス様は必ず救ってくださるし、私が今までおかしてきた罪も、すべて洗い流してくださる。このことがほんとに嬉しかったです。

そして、これから一生イエス様につき従っていくことを証しするため、洗礼を受けました。

主は、私を見捨てられなかった。そして私の罪を赦して洗い流してくださった。救ってくださった。しかもこの世を創られた主は、今も厳然と存在して、私のことを愛し、導いていてくださる。うれしくて、うれしくて、その喜びで毎日すごさせていただいています。私のような塵を、みもとに引き寄せてくださったことを、ほんとに感謝しています。かつて、自分ひとりで、暗やみを手探りして生きていかなきゃならないなんて考えていたなんて。

私の経験において、人間を救ってくださるのは、主イエス・キリストだけです。

人間が、人間を救えるわけはありません。人間を救えるのは、ただイエス様だけです。」

キリスト集会で、最も高齢な方は九十五歳の男性で、スイス、バンコク、ロサンゼルスなどで開かれるバイブル・キャンプ、「よろこびの集い」に元気に参加しておられます。彼は七十余年前にクリスチャンになり、長い間教会に通っていました。しかし、何年か前にこのキリスト集会に来て、ショックを受けたのです。なぜかというと、キリスト集会の人々は、祈りの中で、単に「神様・・・・」とか「イエス様・・・・」とは言わずに、「愛するイエス様・・・・」と祈っているからです。イエス様につながっているからです。イエス様を信じているだけでなく、心から愛している人々がいる。それで彼の考え方、人生観がいっぺんに変わってしまったのです。それから彼は、「イエス様、私はどうしたらいいんですか」といつも尋ねるようになり、「イエス様に喜んでいただけるにはどうすればいいか」を第一に考えるようになりました。そしてそれが彼の喜びとなったのです。

イエス・キリストについていろいろと調べ、知識をふやすことと、イエス様ご自身を知ることとは、考えられないほどの大きな違いです。「イエス様のところへ行く」とはどういうことでしょうか。それは本当の意味でイエス様の前に「降参」することです。

「私たちは、罪ほろぼしのために全く何もできないと知って、祈るようになります。「イエス様、私は罪人です。憐れんでください。私のわがままを赦してください」という、砕かれた心がなければ本物の救いは得られません。

イエス様がお命じになることの二番めは、「全世界に出ていきなさい」です。

「全世界」の中には、身近な家族、兄弟姉妹、親戚、知人も当然含まれます。まず、身近な人々に福音が宣べ伝えられなければなりません。そして、自分が住んでいるところだけでなく、あちらにもこちらにも福音を運ぶように導かれるようになります。ですから私たちは日本だけでなく、アメリカにも、カナダにも、バンコクにも行くようになったのです。

「多くの教会は、自分たちの教会のことしか考えていません。これは悲劇的なことです。そういう教会はせいぜいが「仲良しクラブ」になってしまい、主に用いられることがありません。救われていない人々に対する重荷を感じない人々は、イエス様とつながっていないと言えます。

イエス様は、全ての人々が真理を知ることを望んでおられます。

イエス様に対する愛は、妥協のない態度となって現われます。ギデオンは、自分の家族に対してはっきりした態度をとったから、主に用いられたのです。すこし長いですが、引用いたします。

その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。その頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラの像の木で全焼のいけにえをささげよ。」そこでギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。・・・・

町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられていた。そこで彼らは互いに言った。「だれがこういうことをしたのだろう。」それから、彼らは調べて、尋ね回り、「ヨアシュの子、ギデオンが、これをしたのだ。」と言った。ついで、町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、側にあったアシェラの像も切り倒したのだ。」

するとヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」

こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから、「バアルは自分で争えばよい。」という意味である。(士師記6・25~32)

イエス様を宣べ伝える妥協のない態度について、キリスト集会のあるご婦人が、次のような体験を証しされています。

「私は六十五歳を過ぎてからイエス様を知り、イエス様を私の主として受け入れ、その証しとして洗礼をうけました。しかし、長年の生活の中で染み付いた仏教の行事への妥協の心が私のどこかに残っていて、それに対してはっきりとした態度をとることができず、いつも言い訳を見つけては妥協の道ばかりを歩んでいました。しかし、主人の母の法事が近づくにつれ、だんだんと心が落ち着かなくなり、苦しくなって、どうしたらいいかわからなくなり、ただ祈っていました。

「そんな時に、別府のよろこびの集いで、集会の方々とお話しているうちに、そのことが明るみにだされました。私は、「これから生涯イエス様に従います』ということをおおやけにする洗礼まで受けていながら、イエス様よりも回りの人の目を恐れて、親戚はもちろん、実の弟や妹にさえも「イエス様を受け入れた』と話せないでいたのですが、その至らなさを主にはっきりと示されました。私はイエス様を信じていることを、親戚や近所の人々、友人に伝えることができないまま、この世を終わるだろう、と思っていました。しかし、イエス様はそのことを許されず、そのままにしてはおかれませんでした。生きているうちに、イエス様のことを伝え、証ししにいくように示されました。現実を見ればとても恐ろしく、私にはとてもできないと思われました。でも、イエス様はすべてのことを整えてくださり、一つ一つ、導いてくださいました。

先祖代々の納骨堂はお寺にありましたが、イエス様だけに従っていくためにも、この際お寺とはっきりと訣別し、新しく墓地を購入することにしました。そして法事ではなく、記念式と納骨式を、主の御名のもとに行うことを親戚に話しました。親戚は驚き、困惑したようです。『なんでいまさらイエス様を信じなければならないのか』と言いますが、この歳だからこそイエス様が必要なのです。残された人生は、ただイエス様の御手にすがって、イエス様だけを信じ、頼りにして生きていきたい、と思っています。親戚の中には反対する者もありますが、私の喜びを見て、すこしでもイエス様のことを知ってくれれば、と思います。私がいつも主にあって喜び続けていけますことを、心から祈っております。」

このような妥協のない態度を、また、身近な人々にイエス様のことを証ししようとする気持ちを、イエス様はどんなにお喜びになることでしょう。そして、イエス様だけを信じきり、頼りきり、いつもイエス様のことを宣べ伝えようとする方々を、主は大きく祝福してくださいます。

目次


すぐに起こるはずのこと――ヨハネの黙示録(第2巻)

まえがき ゴットホルド・ベック

第3部(黙示録対応章・節)
1.ヨハネの黙示録4章を学ぶ前に
2.宇宙の中心としての神の御座(4・1~11)
3.御座におられる神と小羊(5・1~14)
4.小羊をとおしての封印の開封(6・1~2)
5.白い馬に乗っている者とそれに続く者(6・3~8)
6.殉教者の数が満ちるまで(6・9~11)
7.世界全体が揺り動かされる(6・12~17)
8.大きな患難の始まりと終わりとにおける神の民(7・1~8)
9.苦難の後に御座に集う人々(7・9~17)

写真特集――ドイツでのよろこびの集い(カラーページ)
基礎的なみことば
「実を結ぶ命」「光よあれ」「神の愛」「絶えず祈れ」のおすすめ
キリスト集会、家庭集会のご案内

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