第2部
天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば
7.勝利を得る者の誉れフィラデルフィヤの教会
黙示録3章7節から13節まで
1.イエス様ご自身の現われ
[1]力ある方
[2]真実な方
[3]聖なる方
2.真の試練―――称賛のみことば
[1]小さな力―祈りへの開かれた扉
[2]イエス様の名を否まない―証しへの開かれた扉
[3]イエス様のみことばを守る―天国への開かれた扉
3.勝利を得る者の誉れ
[2]新しい名前を与えられる
[3]冠を与えられる
1.イエス様ご自身の現われ
私たちが学んできたとおり、イエス様は七つの手紙を小アジアの七つの教会に与えられましたが、これらの手紙はいわば「鏡」のようなものです。私たちもこの鏡に照らして、私たちの時代がどのようなものかを真剣に考えてみる必要があります。これらの手紙は、手紙が与えられた当時から終わりの日までの教会の発展の姿を象徴的に明らかにするものです。くどいようですが、もう一度各々の教会の姿を振り返ってみましょう。
エペソの教会で私たちは、教会の堕落の始まりを見ることができます。「あなたには非難すべきことがある」、なぜなら「あなたは初めの愛から離れてしまった」からであるとイエス様は2章4節で言っておられます。
スミルナの教会で私たちは、迫害に直面した教会の姿を見ることができます。この暗い時代の教会はしかし、内面的には豊かな救いを経験していました。なぜならイエス様は「私は、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。しかしあなたは実際は富んでいる」と言われ、この教会に対する非難はしておられないからです。
ペルガモの教会で私たちは、サタンが働いた結果として、教会がこの世と妥協していく姿を見ることができます。この世との妥協によって、この教会は世俗化してしまいました。
テアテラの教会では、この世との妥協によって教会が堕落し、階級制度、つまり、イゼベルの支配体制が作り出されたのを見ることができます。
サルデスの教会では、神のみことばに帰ろうとする宗教改革の運動にもかかわらず、教会が見せかけのいのちしか持っていなかったことを見ることができます。そのために「あなたは死んでいる」と3章1節後半で言われたのです。
さて、フィラデルフィヤの教会においては、私たちは末の世の信者の姿を見ることができます。教会史的に見ると、この時代は敬虔主義の、また、霊的覚醒の、いわゆるリバイバルの時代でした。とくに、チンツェンドルフ、ウェスレー、ムーディ、フィニーという人たちが知られています。この教会もまた、ある特定の時代に限定されずに、終わりの日に至るまで継続し続けてゆく教会の一つの姿を現わしています。
(7)また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
(8)「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(9)見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。(10)あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
(11)わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(12)勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。(13)耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』(黙示3・7~13)
この箇所のテーマは、「リバイバルの中心にある教会」です。
どの手紙を見ても、最初は必ずイエス様の自己紹介から始まっています。そしてイエス様の自己紹介は、いつも手紙がイエス様の啓示であることを示しています。
教会そのものよりも、大切なのはイエス様ご自身です。イエス様が教会に対して語られることができ、教会がイエス様の語られることを聞くことができ、そして教会がイエス様の道具として用いられるためには、イエス様が「ご自身を教会に向かって啓示する」ことが可能でなければなりません。
「教会がもはや証しの場にならなくなったときには、イエス様はその教会を口から外へ吐き出してしまわれます。
天に上げられたイエス様は、当時のフィラデルフィヤの教会に対して、ご自身を三つの姿として啓示なさいました。最初は「力ある方」として、次に「真実な方」、また「忠実な方」として、そしてさらに「聖なる方」として、ご自身を現わしておられます。
[1]力ある方
イエス様は「力ある方」です。7節に出てくる「かぎ」とは、「力」を現わす言葉です。1章18節によると、イエス様は「死とハデスのかぎ」を持つお方です。このことはイエス様が死に打ち勝たれたこと、死に勝る力を持っておられることを意味しています。イエス様は無限の力を持つお方です。3章7節はイザヤ書22章20節から22節を思い起させます。イザヤ書22章に出てくるエルヤキムは、宮殿の責任者でした。その証拠として彼は大きなかぎを持っていました。エルヤキムは宮殿のすべての部屋に入ることができるかぎを持っていました。とくに、彼は貯蔵庫のかぎを持ち、その中から必要なものを取り出して人々に分け与えていたのです。同じようにイエス様によって、つまりイエス様の「かぎ」によって、私たちにも天国の窓が開かれているのです。
――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3・10)
全て求めるものは与えられます。私たちには、イエス様によって全てのものが与えられているのです(ローマ8・32)。イエス様は完全な力を持ち、完全さを保っておられます。しかしイエス様は、弱い者や貧しい者たちを拒まれません。そしてイエス様の愛は、小さな力しか持っていなかったフィラデルフィヤの教会にも向けられていました。
力があり、そして強い方として、イエス様は、弱く貧しい人々のところに来られ、恵みを通してそれらの人々を強めてくださるのです。イエス様は、強いお方、力あるお方として、貧しい者や弱い者を愛し、それらの人々に勇気を与えようとしておられるのです。
あなたがたの鍬を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ。」と言わせよ。(ヨエル3・10)
エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。(ゼカリヤ10・7)
[2]真実な方
イエス様は、「真実な方」であり、そして「忠実な方」です。イエス様はこの世が創られる前から、救いのみわざをもたらすお方として示されていたのです。イエス様の忠実さこそが私たちにとって慰めとなるのです。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2・13)
イエス様は忠実であられ、私たちを決して見捨てることをなさいません。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13・5)
真実な方として、そして忠実な方として、イエス様はあらゆる偽りとあらゆる不真実を憎まれます。イエス様は偽りと不真実を非常に憎まれるために、かえって偽り者や偽善者や不忠実な者や不真実な者に近づかれて、それらの人々の中に住もうとされるのです。
[3]聖なる方
旧約聖書において、主はしばしば「聖なる力」と呼ばれています。主イエスは聖なる力です。イエス様の内には罪がありません。イエス様は父なる神と同じようになるお方です。イエス様は聖なるお方として全ての汚れた人々に対して反対をなさいますが、しかし、決して汚れた人々から身を避けることはなさいません。
イエス様は非常に汚れを忌み嫌われるために、かえって汚れた者をきよめようとして、汚れた人に近づいてきてくださるのです。イエス様が汚れたライ病人に手を触れてきよめてくださったように、今日でもなお、汚れた人々は「聖なる力」イエス様との出会いによってきよめられるのです。汚れてきたなく、そして姦淫を犯す人々に対しても、イエス様は「聖なる力」として、これらの人々を愛し、これらの人々を聖なる者にしようとなさっておられるのです。
2.真の試練――称賛のみことば
次に、フィラデルフィヤの教会の信者に対する真の試練について考えてみましょう。
フィラデルフィヤはスミルナの東百二十キロメートルの所にありました。地震によってしばしば破壊されましたが、今日なおこの町はアラシェヒルという名前でトルコに残っています。アラシェヒルとはトルコ語で「神の都」という意味です。そしてそこには、今日約二千人のキリスト教徒がいます。
フィラデルフィヤという名前は「兄弟愛」を意味します。この町は紀元前一五四年にアトラス二世によって造られましたが、この王は別名をフィラデルフォスとも言いました。この王がその弟のエウメネスを愛していたからです。
この教会の特徴は、人間的な兄弟愛があっただけでなく、御霊による愛があったことでした。御霊による愛は、イエス様に対する愛です。この教会は真の試みを受け、そしてたいへん困った状態におかれていました。まず、ローマ帝国からの強制的な要求がありました。次に、祭司たちによる「ベハウプタング」といわれる支配権の主張がありました。それから、見えない悪霊の世界からのサタンの攻撃がありました。
フィラデルフィヤの教会は、このようにきびしい試みにあったのです。そして、サタンの攻撃に対して戦っていたのです。その試みの目的は、信者一人一人の心の思いが外に現われでるようにするためでした。御霊による愛、つまり、イエス様に対する愛が本当にあるかどうかが試されたのです。
私たちがこの手紙を読む時、イエス様の喜びがこの手紙の中に響いているのがわかります。ここでイエス様は、どのような非難の言葉も語られていません。たとえば、「あなたがたは初めの愛から離れてしまった」とか、「あなたがたに反対する」といった言葉はここにはありません。
イエス様はフィラデルフィヤの信者たちを喜ばれたのです。これらの信者たちはイエス様から百パーセントの賛同を受けることができたのです。
次に、三つの事がらがこの教会に対して語られています。まず、彼らは小さな力しか持たず、そのため祈るようになり、「イエス様への祈りの開かれた門」を見いだすようになりました。次に彼らはイエス様の名前を拒まず、それゆえに「イエス様を証しするための開かれた門」を見いだすことができました。そして彼らは、イエス様のみことばを守り、それゆえに「天国への開かれた門」を見いだすことができました。これら三つの称賛のみことばについて考えてみましょう。
[1]小さな力
3章8節には「あなたには少しばかりの力があって」と書かれています。ギリシャ語で「力」を表す言葉はいくつかありますが、ここで用いられている「デュナミス」という言葉は「霊的な力」を表しています。ということは、フィラデルフィヤの教会は霊的な力を持っていたことを意味します。霊的な力は、人間的な力が働いていない場合にだけ働くのです。人間的に考えると、フィラデルフィヤの教会は弱い教会でした。その教会は集まる人々も少なく、経済的にも貧しく、そして教育も十分ではなかったと思われます。つまり、この教会は、他に影響を及ぼすことが少なかったのです。
今日でもまた、これと似た経験をなさる方々は多いことでしょう。たとえば、あなたは学校や会社で人々が救われるようにと努力するかもしれません。そして、その結果は悲しいことにまだ誰も救われていないかもしれません。また家庭にあって、子どもや主人をイエス様のもとに導こうといくら努力しても、皆が無関心な態度をとり、まだ誰も救われていないかも知れません。このような場合、あなたは自分には影響力がないといって嘆くかもしれません。しかし、あなたの力が弱いというわけではないのです。
フィラデルフィヤの教会の人々も、「我々は力が弱く何をやっても無駄だ」とか、「我々には望みがない」と言うことはやさしかったかもしれません。しかし、彼らは決してそうは言いませんでした。
今日でも、フィラデルフィヤの教会と同じ環境におかれ、攻めるための闘いがなく、守るための闘いもなく、ただ包囲され、追い込まれてしまっている教会が多くあります。
フィラデルフィヤの教会は悪魔に取り囲まれ、さらに信者たちは不信仰と無関心の壁の前に立たされていました。フィラデルフィヤの教会は、敵の圧倒的な力の前に影響力を及ぼすことができず、全く無力でした。しかし彼らは、イエス様に対する「開かれた門」を持っていました。この弱い教会はまた、「祈る教会」でした。それゆえ、彼らの問題は解決されたのです。
イエス様はこの教会を喜ばれました。私たちにとっても、一番大切なことはイエス様に喜ばれることです。この教会の人々は、道徳的な力によってイエス様に喜んでいただこうとする努力が失敗に終わり、信仰的な努力もまた失敗に終わり、そして自信をなくしていました。つまり、自分自身がすっかり駄目になってしまっていたのです。しかし彼らは、祈りました。そしてそのことを通して「ダビデのかぎ」(黙示3・7)を持つことになったのです。つまり、力ある方、イエス様との真の交わりを得たのです。
フィラデルフィヤの教会には、誇れるようなものは何一つなかったのです。デュナミスという力は、人間の中にある力ではなく、神の力です。この力を人は祈りによって得るのです。
あなたもまた、「私は弱い。私は影響力をもっていない」と言うかもしれません。
パウロもまた、自分自身が弱いとき、神の力を体験した人でした。
私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。(第二テモテ4・16、17)
パウロ自身は、弱さを感じていました。しかし、イエス様は彼と共に立っておられたのです。
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント2・7~10)
パウロは何度も捕らえられました。彼は捕らえられ、もはや影響を及ぼすことができないと見られていたときでも、実は大きな影響力を持っていました。彼は捕らえられているときに、多くの手紙を書いたのです。
小さな力しか持たないフィラデルフィヤの教会は、それゆえに祈りによってイエス様への門を見いだすことができました。フィラデルフィヤの教会はイエス様に近づき、イエス様から助けと力とを与えられたのです。
まことの祈りとは、弱さの現われ、イエス様へのより頼みの現われであり、また、その告白です。フィラデルフィヤの教会は祈る教会でした。この教会は、イエス様のみもとに至る門を知っていたばかりでなく、この門により頼んだのでした。彼らはそうせざるを得ませんでした。彼らは祈りながらみことばにすがりついていたのです。
もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。(詩篇119・92)
フィラデルフィヤの教会は、それ自身が無となり、破産したものとなっていたのです。しかし、祈りがなされるところに、イエス様はご自身を現わしてくださいます。それによって、失望や弱さは消えてなくなっていくのです。
敵に包囲された戦闘では、軍隊は食料や弾薬を飛行機によって空から運んでもらわなければなりません。フィラデルフィヤの教会は、熱心なユダヤ教徒や、この世の人々や、悪霊によって取り囲まれていました。しかし、これらの上には開かれた門がありました。この門が開かれていることは信者たちにとっては何物にもかえがたい大きな慰めであり、そして悪魔にとっては何という大きな敗北でしょうか。
8節で全能のお方であるイエス様は、「だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」と言っておられます。
多くの人々が「私には力がないから何もできない、自分は駄目だ」と言います。そして諦め、失望してしまっています。これは間違っています。私たちがどのように感じ、どのように考えるかということは、重要ではありません。どうしてかというと、イエス様が無限の力を持っておられ、祈りがなされるところにおいてはご自身を必ず現わしてくださるからです。イエス様を信頼する者は、失望させられることがありません。私たちがイエス様に信頼し、悪魔に立ち向かっていこうとするなら、どのような奇蹟でも起こりえるのです。
テアテラとサルデスの教会は、いつもフィラデルフィヤの教会に対立していました。つまりこれは後にカトリックの教会もプロテスタントの教会も、フィラデルフィヤのような教会を迫害することを意味しています。祈りのあるところでは、必ず悪魔の攻撃が起こるのです。しかし、祈る教会だけがイエス様の承認をいただけるのです。祈る教会に対してだけ、イエス様はご自身を現わされるのです。そして、祈る教会だけをイエス様は用いることがおできになるのです。
[2]イエス様の名を否まない
イエス様の第二の称賛は、8節の後半にある、「わたしの名を否まなかったから」というみことばです。そのためにフィラデルフィヤの教会はイエス様を証しするという開かれた門をも持つようになりました。祈りの門が開かれる時に、人々に対しての門もまた開かれるのです。
イエス様は人の心を開かれます。人の心がイエス様に向かって開かれるとき、それはイエス様の奇蹟なのです。
イスラエルの民は、自分自身を神の民だと考えていましたが、実際は悪魔に仕える者となり、イエス様を十字架につけてしまいました。しかし、このように望みのないまでにかたくなにされた心であっても、イエス様は開くことがおできになります。もっとも救われにくいのは、観念論者や唯物論者や無神論者ではなく、自分自身が正しいと信じこんでいる人々です。悪魔に縛られ、悪魔に導かれている人々は、信者の祈りを通して新しく造りかえられなければなりません。
私たちはあらゆる方向から取り囲まれているかも知れません。しかし、私たちの上には門が開かれています。そして同時に、証しの門もまた開かれているのです。
祈るとき、そして私たちが自らの無力さを知り尽くす時に、私たちはイエス様を証しすることができ、それによって人々の心がイエス様によって開かれるのです。
私たちは、自分という管を通して人々がイエス様のもとに導かれるように、イエス様に尋ね求めることが必要です。人々がイエス様のもとに導かれるかどうかは、決して人間の地位や才能によるのではなく、イエス様がその人の心をお開きになるかどうかによるのです。
私たちが人々をイエス様のみもとに導くことができるのは、私たちが砕かれているときだけです。ただ一つの妨げは、私たち自身の力が余りにも大きすぎるということです。自分自身でそれをしようとすると、失敗に終わります。
イエス様は、私たちがお金を持ち、能力を持っているかどうかではなく、私たちが砕かれているかどうか、つまり、ダビデのかぎをもつイエス様のみ手にすがりついているかどうかを見ておられるのです。もし、私たちを通して、人々がイエス様のみもとに導かれることがないとすれば、私たちはこのことをよく考えてみなければなりません。
フィラデルフィヤの教会の証しを通して、9節にあるとおり、彼らに反対していたグループの指導者たちも信仰に導かれるようになりました。彼らは、かつてはその教会をあざける者でした。しかし、彼らは今やその教会に属したことを喜ぶようになりました。
今はイエス様の敵である人々も、後にはイエス様の救いを喜ぶ者とされることがありえるのです。あなたのまだ救われていない家族たちは、あなたにとって暗黒の壁のように思われるかもしれませんが、それらの人々も必ず救われるようになるのです。
祈る教会は同時に証しをする教会です。イエス様に至る祈りの門を通る人は、同時に人間に対する証しの門をも通ることでしょう。
さて、その頃、豊かで権力を持っていたユダヤ人たちは、イエス様を激しく拒んでいました。これに対して弱くて権力のない教会は、イエス様への信仰を言い表しました。その結果、この弱い教会の中に、イエス様がご自身を現わされることになったのです。
イエス様はこの弱い教会に対して、最も激しく反対している者もやがては救われる、と約束をなさっておられます。
これらの反対者は自分では神の民だと言っていましたが、実際はサタンの会衆に属する者たちでした。イエス様の霊によって満たされていない者は、悪魔の霊によって満たされているのです。しかし、イエス様は開かれた門を約束してくださっています。私たちは、自分の希望が満たされることが重要なのではなく、イエス様の御名があがめられること、そして、人々が救われることこそが重要なのです。
イエス様は壁に取り囲まれている人々を勇気づけておられ、そしてそれがこの人々にとっての力となっていたのです。
私たちが本当にイエス様により頼んでいるときに、私たちの前に証しの扉が開かれます。そして、人々が救いに導かれるのです。私たちを通して、イエス様の名前が汚されるか、あるいはあがめられるかのどちらかです。イエス様の名前を汚すということは、私たちの中でイエス様に恥をかかせるようなことをすることです。私たちが祈りと信頼によってイエス様に従うことをしないで、自分の力でイエス様に従おうとするとき、私たちはイエス様の名前を汚すことになります。
フィラデルフィヤの教会に向かって、イエス様は、「あなたがたはわたしの名を否まなかった。つまりわたしを否定し、わたしを捨てさったこの世において、あなたはわたしを否まなかった。またあなたは学校において、職場において、家庭において、わたしが主であり、また導き手であるとはっきりと言い表わした」と言っておられるのです。フィラデルフィヤの教会は、イエス様により頼んだのです。イエス様の御名は彼らにとって、それだけで充分なものだったのです。
イエス様の名は、彼らにとってかけがえのない価値のあるものでした。どれだけ豊かな満たしがイエス様の中にあることでしょうか。イエス様の御名を呼び求める者は救われ、平安を与えられ、赦しが与えられ、永遠のいのちにあずかることができるのです。
イエス様の御名によって、私たちは全ての敵に打ち勝ち、全ての絶望に打ち勝つことができます。「イエス」という名の意味は、救い、慰め、よりどころ、力、喜び、希望です。イエス様は、私たちがイエスの御名、つまりイエス様ご自身に信頼を置くときに、私たちを喜んでくださるのです。
喜んでイエス様に身をささげることが、今の堕落の時代における何よりの証しです。9節にユダヤ人であると自称しながら実際はそうでない人々のことが書かれています。ユダヤ人であるということは、神の民に属していることを意味しています。カトリック教会は自分たちが神の民であると主張しています。またプロテスタント教会も自分たちがいのちをもっていると言っていますが、実際には死んでいることが多いのです。
今の時代、真に神の民である教会は、いかなる聖職者も持っていないし、いかなる聖祭も行なわないし、また、いかなる特別の神聖な場所も持っていません。特定の、限定された時間や空間だけの「聖」ということはありえないからです。
真の神の民である教会は、全ての救われた人々、全ての時間、全ての場所が主に捧げられ、その全てが「神聖」なものとされなければなりません。
[3]イエス様のみことばを守る
三番目に、このフィラデルフィヤの教会は、イエス様の「みことばを守った」という称賛を与えられました。そのことを通して、この教会は天国へ至る開かれた門を与えられたのです。
フィラデルフィヤの教会はまた、終わりの時代の組織されたキリスト教の象徴です。私たちはこのような堕落の時代に生きているのです。私たちの時代は、多くの形式は持っていても、真の力を持っていないという特徴を持っています。多くのことが試みられていますが、イエス様ご自身のいのちがありません。また、多くの間違った教えにあふれていることも私たちの時代の特徴です(第二テモテ3・1~5)。
このような時代において、私たちはどのようにして自分自身を守ることができるのでしょうか。それはただ、私たちがしっかりと主のみことばに結びつくことによってです。カトリック教会においては迷信が支配し、プロテスタント教会においては不信仰が支配しています。カトリック教会では過去の人々による言い伝えが守られ、その反面、単純な福音の救いがないがしろにされています。また、プロテスタント教会の多くでは、聖書の多くの箇所は作り話であり、あるいは神話であると考えられています。カソリック教会とプロテスタント教会、つまり、迷信と不信仰の教会以外にも、多くの間違った教えが「統一教会」や「ものみの塔」、「セブンスデイ・アドベンチスト」、「原始福音」などによって広められています。このような間違った教えによって、多くの人々が誤りに導かれ、毒されています。
イエス様が私たちに、「あなたはわたしのことばを守った」と言うことがおできになるかどうか、これはとても重要なことです。イエス様のみことばを守るとは、どういうことでしょうか。それは、救いについてだけでなく、日常の問題についても毎日聖書を調べ、従うということです。私たちはあらゆる機会に、この世のこと、生活のことについて私たちの救い主であるイエス様がどのように言っておられるかを問い続けていかなければなりません。
私たちの霊性が決定的なのではなく、イエス様がみことばを通してどのように言っておられるかが決定的なのです。みことばを守るということは、みことばを信じるということだけでなく、みことばが私たちの導き手となっていなければなりません。私たちのみことばへの立場は、同時に私たちのイエス様への態度を意味しています。みことばを守るということはまた、みことばを他の人々に伝える、つまり、伝道するということでもあります。イエス様のみことばのみが私たちにとって決定的となっているでしょうか。みことばが守られている所では、イエス様が中心になっておられます。イエス様のみことばに全面的に立ち返るようにという呼びかけこそが毎日必要です。
フィラデルフィヤの教会の人々について、かれらが誤りを犯さなかったとはイエス様は言っておられません。しかし、彼らは、誤りを犯した時には、みことばによって自らを改めたのです。
9節後半には、イエス様はフィラデルフィヤの人々を愛している、と記されています。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。(黙示3・9)
愛されているということは、過ちを犯さないということではありません。反対者たちが彼らの足下にひれ伏したのは、決して教会の立派さによるのではなく、ただこの教会を愛されたお方、イエス様によるのです。従ってみことばを守るということは、イエス様と愛の関係をもつということです。
教会がみことばとの交わりを保つことによって、イエス様もその教会との交わりを保ってくださるのです。教会がみことばを守ることによって、教会も守られるのです。教会がみことばを守ったからこそ、人々は天国への門を見出すことができたのです。
10節で、イエス様は将来のことを見ておられます。サタンがつまずきを与えようと試みています。人々がイエス様を「個人的」に知っていない所では、信仰の試みと攻撃とが起こってきて、信仰が揺らぎ、駄目になってしまうのです。それに反して御霊の住んでいないところ、闇の地に対してはこのような抵抗も起こってきません。次のイエス様のみことばが、今日現実のものとなってきています。
というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。(マタイ13・12)
信仰が単なる理論になっているところでは、その信仰は打ち破られてしまいます。しかし、イエス様はみことばを守っている教会を、反キリストの時代の苦難の前にご自身のみもとへと引き上げてくださるのです。反キリストの恐るべき時代が来る前に、イエス様はご自身の花嫁をみもとへと引き上げてくださるのです。
創世記5章9節で、エノクを大洪水の前に引き上げてしまわれたように、イエス様はご自身の教会を、その大いなる苦難の前に引き上げてしまわれるのです。
信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。(ヘブル11・5)
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ14・7)
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第一コリント15・51、52)
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14・3)
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。(マタイ25・10)
イエス様のみことばを守った人々は開かれた門の中へと導かれ、見せかけの信者たちは閉ざされた門によって閉め出されます。イエス様は全能のお方です。イエス様は悔い改めのないところ、祈りのないところ、自己中心的なところ、みことばだけを百パーセントその導き手としていないところ、御名が告白されていないところにおいては、門を閉ざされるのです。
しかし、イエス様は、みことばが守られているところ、祈りの中で全てのことがイエス様に語られているところ、自分自身が完全に破綻してしまっているところにおいては、門を開け、覚醒を与えてくださるのです。
私たちは、イエス様のみことばを、全てにまさって価値のあるものとして受け取っているでしょうか。私たちは、イエス様のみことばを、決定的なものとして受け取っているでしょうか。イエス様との交わりがなければ、生きていくことができなくなっているでしょうか。みことばなくしてはただの一日も生きていくことができなくなっているでしょうか。
人々がみことばなしで生きていけるところにおいては、もはや、イエス様との交わりはありません。みことばに代わりうるものは、何一つありません。みことばは導きとなり、力となり、守りとなるのです。
イエス様は十九世紀に、ロシアにおいて真の信仰の覚醒をお与えになりました。その時、中心となり、主の器となったのは、ロシアの皇室の責任者コッフ伯爵でした。やがて迫害が起こり、コッフ伯爵は、「伝道することと、祈薦書なしで祈ることをやめるか、さもなければ、ロシアを出ていくか」という選択を迫られたのです。彼は、ロシアを立ち去る道を選び、家族をロシアに残したままでロシアを去りました。その時、彼の妻は彼の逃亡先にあてて一通の電報を打ちましたが、その内容は、「信仰においてイエス様にしっかりとより頼み、みことばから一歩も離れることがないように」というものでした。
三十八年後に、彼は次のような告白を書きのこしています。
「私たちはイエス様のものとなって以来、サタンの宣戦布告を受けています。罪とこの世とはサタンの最大の軍勢です。しかし、私たちをあらゆる闘いにおいて勝利へと導かれた主は、誉められるべきお方です。主はあらゆる苦難の時において、ますます導きを堅くしてくださいました。私たちの富も宝も、ロシア革命によって全て取り去られました。しかし、私たちはパウロと共に、次のように告白することができます。
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(第二コリント6・10)
私たちの信仰の生活において、イエス様が私たちの慰めであり、そして力でした。そのことを私たちは八十五年の生涯をもって証しすることができます。私たちはどこでも、どんな時にもキリストの香りであり、イエス様が私たちを迎えに来てくださるそのときまで、生きた証し人となるのです・・・・」。
ここで、今まで学んできたことをまとめておきましょう。
力あるイエス様は、砕かれた人々に対してだけ、ご自身を明らかにされます。自分のまわりに影響を及ぼすことのできない弱い人々も、祈りを通して、「開かれた門」を与えてくださるイエス様によって、奇蹟を体験することができます。
真実で忠実な方として、イエス様はご自身に忠実でその名を否まなかった人々に対してご自身を現わされたのです。このような人々には、他人の心を開き、イエス様のみもとに導く力が与えられるのです。
ヨハネ17章17節にあるように、イエス様は聖なるお方として、みことばによって汚れた人々をきよくしてくださいます。
みことばを守る人々はイエス様の姿に似たものに造り変えられ、そしていつまでもイエス様と共にいることができる「開かれた門」が与えられるのです。それは、比べるもののないほどの栄光です。力のあるお方が、力のない者を「力ある者」にしてくださるのです。真実で忠実なお方が、不真実な者を「真実な者」に変えてくださるのです。聖なるお方が、汚れている者を「きよい者」にしてくださるのです。このようなことができるのは、イエス様だけです。
「わたしは、すぐに来る。」(黙示3・11)
イエス様が来られることは、間違いのない事実です。イエス様は今日にも来られるかもしれません。
夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(ローマ13・12)
イエス様の再臨は大きな励ましであり、また慰めです。
・・・・あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(黙示3・11)
これはイエス様の大きな警告です。私たちは、聖書の全てのみことばとイエス様ご自身を、しっかりと自分の内に保っていなければなりません。神の敵と共存することなく、この世と妥協しないことが大切です。
永遠のいのちが失われなくても、「冠」が失われる、ということはありえることです。全ての新しく生まれ変わった信者は救われますが、しかし、全ての信者に「冠」が与えられるわけではありません。「冠」は、イエス様にあって共同の相続人となることを意味しています。
3.勝利を得る者の誉れ
次に勝利を得る者の誉れについてごいっしょに考えてみましょう。
勝利を得る者にたいしての報いは、「柱とされる」、「新しい名前を与えられる」、「冠を与えられる」の三つです。
[1]柱とされる。
フィラデルフィヤの教会では、人々は小さな力しか持っていませんでした。彼らは自分自身に破産をしてしまっていたために、自分の力をもはや用いようとはしませんでした。ですから彼らは、イエス様の力を持つことができたのです。力あるお方が、無力な者を、「力ある者」にすることがおできになるのです。影響力のない者が、突然影響力のある者になるのです。それは、彼らが「柱とされる」ということです。
柱には、二つの意味があります。一つは目じるしとしての働き、第二は支えとしての働きです。目じるしとしての働きについては、次のような聖書の箇所があります。
主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。(出エジプト13・21)
見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。(エレミヤ1・18)
柱は目じるしであり、遠くからも見ることができます。柱はまた、しっかりと立ち、倒れません。この世においてイエス様に忠実に仕える者は、目じるしとなり、天国においてその報いを受けるのです。
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(ヨハネ12・26)
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩篇23・6)
・・・・このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・17)
イエス様は、ご自身に忠実な者は決して外に出て行かないことを知っておられます。
柱の第二の働きは、人々の支えとなることです。
そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。(ガラテヤ2・9)
それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(第一テモテ3・15)
柱は支える力を表わします。建築物では、垂直な柱と水平な梁とはお互いに助けあっています。梁は重さを負い、柱はこれを支えます。つまり梁は重荷を負い、柱がその重荷を支えます。教会の信者も、他の人の重荷となるか、あるいは他の人の重荷を支える者となるかのいずれかです。勝利を得る者は、他の信者の重荷を負い、支え、他の信者の罪と咎との責任を負って自ら悔い改めをする「柱」のような者です。
人はどのようにして柱になることができるのでしょうか。柱になるための条件は、その信者が徹底的に破産を体験していることです。つまり、自分自身が残すところなく砕かれているということです。自分の力を完全に失った人だけが、神のダイナミックな力を体験することができます。つまり、力あるお方によって、力のない者が「力のある者」にされるのです。そのための秘訣は祈りです。弱く、自分の力を失った人は影響を及ぼすことがありません。しかし、このような人々は祈りによって強くされ、証しをする者にされ、そして影響を及ぼす者とされるのです。
[2]新しい名前を与えられる
次に、勝利を得る者は、誉れとして三つの名前を与えられます。それは「わたしの神の御名」、「わたしの神の都」、つまり、「新しいエルサレムの名」、そして、「わたしの新しい名」です。
・・・・『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』(ヨハネ20・17)
神の御名を持つということは、神のものとされることを意味しています。神のものとされ、神を自分の父として持つこと以上に大きな誉れがあるでしょうか。神の御名を持つということは、今より永遠に救いを受け、守りを与えられることを意味しています。主は「あなたはわたしのものである」と言っておられます。主はまた、「全て私のものはあなたのものである」とも言っておられます。イザヤ書22章20節から22節で、エルヤキムは王室の部屋の鍵を与えられていました。つまり彼は大きな財産への鍵を与えられていたのです。今日、イエス様は神の富へのかぎを持っておられます。イエス様の内に、神の豊かさがかたどられて現わされているのです。イエス様と共に、私たちには全てのものが与えられているのです。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(コロサイ2・9)
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8・32)
イエス様によって、神の満たしが私たちに与えられています。放蕩息子に向かってその父は、「全て私のものはお前のものだ」と言いました。イエス様も同じことを私たちに言っておられるのです。
次に、勝利を得る者は誉れとして、「わたしの神の都」、つまり、「新しいエルサレムの名」が与えられます。その意味は、隠されていた国籍が明らかにされるということです。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3・20)
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。(ガラテヤ4・26)
しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、・・・・(ヘブル12・22、23)
新しい名前を与えられることは、その人が真の教会、新しいエルサレムにある真のイエス様のからだである教会に属する者とされるということです。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(黙示21・2)
新しいエルサレムは、小羊であるイエス様の花嫁です。第三の名前とは、イエス様の新しい名前のことです。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。(黙示19・12、13)
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。(黙示19・16)
それは、全てのものに対する勝利者となることを意味しています。花嫁が結婚して新しい名前となるように、新しいエルサレム、つまり、私たち信者は、小羊であるイエス様に公認され、イエス様の新しい名を与えられるのです。この名前は、イエス様との最も深い交わりの象徴です。これはイエス様がご自身の教会と、真に一つのものとなられることを意味しています。勝利を得る者は、この世においてイエス様の御名を否みませんでした。そのことへの報い、誉れとして、イエス様はご自身の新しい名を教会に与えられるのです。
イエス様が勝利を得る者に対して与えられる名前は、すばらしいものです。それはその人がもはや自我の奴隷から解放され、イエス様のものとされることだからです。私たちは、イエス様の御名を永遠に持つことになります。もはやこの世の奴隷ではなく、イエス様の体である教会の一部とされるのです。そして勝利を得る者は、永遠に新しいエルサレムの名を持つことになります。もはやサタンの奴隷ではなく、イエス様の花嫁とされるのです。勝利を得る者は永遠にイエス様の「新しい名」を持つことになるのです。
[3]冠を与えられる
イエス様がくださる次の報いは、勝利を得る者に与えられる冠です。フィラデルフィヤの教会の信者は、周囲の人々、つまり神の民であると自称し、財産を持ち、強い影響力を持っていた人々から軽蔑されていました。しかし、フィラデルフィヤの信者たちは、人から認められたいとは思っていませんでした。
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。(ガラテヤ1・10)
彼らは主のみことばの権威に従ったのです。彼らにとっては主のみことばだけが、全てだったのです。それゆえ、彼らは冠を受けたのです。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(第二テモテ4・8)
冠は、用意されています。
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(第一ペテロ1・4)
冠は、天国にたくわえられています。
また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。(第二テモテ2・5)
冠が授けられるのは将来においてです。ということは、信者は冠を授けられないかも知れないという危険をもっています。イエス様を心から喜んで待ち望むことをしない信者や、イエス様に認められることよりも人からよく見られたいと思う人々には、天にたくわえられている冠は与えられないのです。一方、イエス様のみことばを守る人々は、イエス様のみすがたに変えられ、人の心を開く力が与えられます。その人々には他の人々をイエス様のみもとに導くことが許され、そして、報いを受けることが許されているのです。
思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(ダニエル12・3)
イエス様は次のように私たちに向かって呼びかけておられます。
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3・1、2)
イエス様は、私たちの生活に、このような生き生きとした望みを与えようとしておられます。私たちは、今日起こることがらを長い目で見、そのために長い時間をかけなければなりません。
力あるお方が、惨めで弱い私たちを、祈りという開かれた門を通して力づけ、「柱」にしようとしておられるのです。
聖なるお方イエス様が、私たちのように汚れている者を、ご自身のみすがたに似た者とし、冠を授けられるような者にしてくださるのです。
フィラデルフィヤの教会は、神の霊によって覚醒を与えられ、満たされている教会でした。私たちもまた、今日、あますところなくイエス様に全てをあけわたそうではありませんか。
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(第二歴代16・9)
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