2022年10月30日、秋田福音集会
岡本雅文兄
マルコ
6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。
6:37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
交わりという言葉自身が難しい言葉ではないかと思います。簡単な言葉ほど、本当のところは分からない――そういうことではないかと思うんですね。
第一ヨハネ
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
ヨハネによって伝えられたこの御言葉は――ヨハネというのは、イエス様とずっと一緒に生活をして、そして、福音を共に伝えた使徒ヨハネです――、彼は、御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられて、イエス様と共に生きているという喜びを毎日、与えられること、そのような思いを持って、この交わりということを、聖書に残したのではないかと思います。そして、すぐ後の四節では、次のように言っています。
第一ヨハネ
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは(・・・・彼が書いた手紙ですね・・・・)、私たちの喜びが全きものとなるためです。
この喜びという言葉そのものを、私たちはよく使っていますけれども、本当のところは、分からないのではないかと思います。ひとりひとりが、交わりとか、喜びというのを、異なる思いで、異なるイメージで考えているのではないかと思われます。
しかし、ヨハネは、交わりとは、ただ語り合うというような、そういう交わりではないと言っています。『私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。』ここに、御霊という言葉はありませんけれども、三位一体の父と子と聖霊――聖霊が神と御子イエス・キリストを取り持つ、とりなす、そういう役目を持った――三つで一つの神との交わりであると、言っているようであります。そして、その交わりこそ、私たちに喜びをまったきものとしてくださると、説明すればするほど分かりにくくなる――そういう言葉ではないかと思います。ただ、喜びに出会わなければ、分からないものでありましょう。
ヨハネが私たちに告げたい、御父および御子イエス・キリストとの交わりは、そういう意味で、人と人との語らいではありません。この手紙の内容の土台は、彼、ヨハネが地上でイエス様との最後の夜の交わりで聞いたイエス様ご自身の御言葉でした。ヨハネは、その夜、最後の晩餐で、イエス様から聞いたヨハネの福音書の15章の13節の御言葉――イエス様の言葉を生涯、忘れることができなかったのであります。その御言葉は、こういうものです。
ヨハネ
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
この言葉を聞いた次の日、ヨハネがこの言葉を聞いた次の日、この御言葉どおり、イエス様は、友のために、また、ヨハネ自身のために、そしてまた、私たち自身のために、いのちを捨ててくださいました。この言葉をイエス様が口から語られた次の日に起こったことでした。エルサレムの郊外のゴルゴダという丘に立てられた十字架につけられました。
このヨハネの手紙全体が、神の御愛の証しであり、ヨハネ自身の証しであります。彼の晩年の手紙でありました。友のために命を捨てられた方との交わりの記録です。
神が、本当に小さなけし粒のような人間を、友と呼んでくださったということが、このヨハネによって証言されています。交わりとは、あの十字架につけられた方、イエス・キリストとの交わりです。これがヨハネが書いた手紙の要旨であり、彼の人生そのものの証し、そのものです。そのように私自身は、思わされています。
神という言葉は、全世界で、また、全ての時代に、何度も使われた、もっとも多く使われた言葉の一つではないかと思います。しかし、聖書は、神は、イエス様、イエス・キリストを通してでなければわからない――イエス・キリストが神を解き明かしておられると書かれています。本日は、私たちもこのヨハネが交わった主なる神、御子イエス・キリスト、イエス様のみこころを、聖書から共にお聞きしたいと思います。
この十字架につけられた神の愛、そのものであるイエス様と、実際にまみえるその日まで、この地上のいのちがなくなるその日まで、この地上で、イエス様との交わりが続けられるように、そのために、聖書が私たちに与えられているのではないかと確信しています。この御言葉以上に、この聖書の言葉以上に、私たちの足のともしびとして導いてくれるものは、ひとつもありません。このようなわけで、本日は、ヨハネの手紙に書かれている主との交わりについて、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
自分の理解力は、大したことではありませんので、御霊に助けられながら、私たちに与えられている、目には見えない神の霊、イエス様の心、御霊ご自身に助けられながら、ご一緒に御言葉に、耳を傾けたいと思います。
私たちは、イエス様を信じるようになって、みことばを読んだり、そして、聞いたりしていますけれども、本当にそのみことばを信じているかと言われると、どうでありましょうか?このイエス様の言葉が、言われるほど、書かれているほど大切ではないと考えていたり、聖書に書かれていることは、人に、また、私自身には、決してできないことだと思っていたり、さらには、パウロやペテロやヨハネたちと私たちとは違うと、半ば諦めているというようなことはないでしょうか?
ペテロとヨハネは、イエスとともに生活し、イエス様が行かれる所には、いつもついて行きました。約二千年近く前のことですけれども、冒頭で兄弟に読んでいただいたように、マルコの6章の34節から37節に描かれているあの時代の彼らは、イエス様の言葉を、私たちと同じように、いや、それ以下かもしれませんけれども、悟ることができませんでした。ずっとイエスと四六時中、三年半近く、ともに歩んだにもかかわらず、ほとんどイエス様の言葉を理解することができませんでした。
今、読んでいただいたこの時、イエス様は、多くの群集をご覧になって深く憐れみ、いろいろと教えられました。そこへ、弟子たちが来て、35節ですけれども、『時刻も遅くなったので、みんなを解散させてください』と、イエス様に進言いたしました。主なるキリストが、神であるイエス様が、群衆にとってもっとも大切ないのちのことばを語っておられる最中に、『時刻も遅くなった』という、この世の普通の判断が、弟子たちによって持ち込まれました。イエス様と弟子たちの会話は、何の問題もない普通の会話でした。しかし、聖書は、決して意味のないことは、告げておられません。
ここにも――この短い会話の中にも――、大切な重要な御心が告げられていると考えます。この箇所では、神の子イエス様は、『群衆が羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れんで・・・・』と、書かれています。そして、そのような思いを持って福音を、神の言葉を伝えておられました。その大切な主の時に――主の領域に――、弟子たちは、介入いたしました。弟子たちは、イエス様の話を聞いていたか――聞いていたとしても、本当に心から感謝して聞いていたか――どうか、それはわかりません。
以前のように、イエス様に初めて会ったあの初めの愛は、少しづつ減っていったのではないかと思われます。彼らは、その時、時間が気になりました。そして、彼らのこの行為は、神の働きを中断させることになったようであります。誰も不思議なことは思わなかったかもしれません。聖書も、特別に非難めいた言葉は告げていないように思われます。
ペテロも、ヨハネもその他の弟子たちも、この時、自分たちが何をしたのか、理解していなかったでしょう。生まれながらの人間の常識的な普通の判断でした。しかし、聖書は、この個所を通して、非常に大切なことを告げられていると思います。イエス様は、不思議な言葉を告げられました。
マルコ
6:37 すると、彼らに答えて言われた。(・・・・イエス様が弟子たちに答えて言われました。・・・・)「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
この言葉の背景は、男だけで約五千人ほどの群衆でした。おそらく、男以外も数えると、もっともっと二倍以上あったと言われています。その人たちに、『何か食べるものをあなたがたであげなさい』と、イエス様は言われました。このイエス様の言葉を聞いて、ペテロもヨハネも、弟子たち全員は、この方はなんと無謀なことを言っておられるのだろう――できるはずもないことを言っておられると思ったのではないかと思います。
二百デナリ――二百デリというのは、二百人の一日の給料と言われていますけれども、もっとかかったかもしれませんね。たくさんの何十万円になるか、わかりませんけれども、そのようなたくさんの大金は、手元にはなかったはずであります。
しかし、イエス様が意味なく弟子たちを試したり、彼らにできないことを言われるはずがありません。イエス様の御心は、弟子たちに、『自分たちであの人たちに何か食べるものをあげなさい』と言われたその言葉の中に、イエス様の思いが、イエス様の御心が、神の心があるはずであります。
弟子たちは、このイエスの言葉に驚いたでしょう。とうてい私たちにできないことをどうして言われるのですかと、イエス様の命令、イエス様の言葉に、疑問を覚えているように聞こえてまいります。あるいは、控えめに反論しているようにも思えます。いずれにしても、造り主イエス様に対するしもべの態度ではありませんでした。そこには、イエス様に対する絶対的な信頼や尊敬や期待する思いを見ることはできません。彼らの頭の中は、世の常識で満たされていたようであります。そして、イエス様は、その弟子たちの心を、充分に知った上で、このように言われたのではないかと思うのであります。
イエス様のこのことばは、同じルカの17章6節のみことばと、相通じるのではないかと思わされます。
ルカ
17:6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」
おそらく、このときも、こんなことができるはずはないと、弟子たちは思ったに違いありません。男たちだけで五千人の群衆を前にして、イエス様は弟子たちに、からし種ほどの信仰があればできる――すなわち、あなたがたで、あの人たちに何か食べるものをあげることができると言われたと、受け取らざるをえません。
そして、イエス様が、弟子たちにできないことを言われるはずがないからであります。イエス様は、本当にそのように考えて、そのように弟子たちに言われたに違いありません。からし種ほどの信仰があったらできたということでしょう。イエスの弟子たちに、この時、この御言葉を通して、からし種ほどの信仰も無いと、弟子たちの実態を明らかにされました。あったらできたのであります。このことばは、弟子たちだけでなく、聖書を読んでいる私たち自身が、信仰のかけらもない者であることをはっきりと知るように、事実を告げてくださった恵みの言葉、そのものではないでしょうか?
この弟子たちの反応に対して、イエス様は何も説明されませんでした。ただ、続く38節から44節で、五つのパンと二匹の魚から、男たちだけで何千人もの大群衆、すべて合わせれば一万人を超える、そのような大群衆が食べて満腹するほどに分け与えられた有名な奇蹟が、ここで行われました。
弟子たちが考えたこともないほどの驚くばかりの出来事でした。これが、イエス様の答えでした。もし彼らにからし種ほどの信仰があれば、できたことでありました。それは、からし種ほどの信仰があれば、彼らの期待どうり、彼らの願いによって、祈りの結果として、この奇蹟が、また、まことのいのちの御心が、真のいのちのパンの御心が、この日に、弟子たちに与えられたことでしょう。彼らの願いによって、彼らの確信によって、彼らの祈りによって、イエス様が動かされ、そして、彼らによって、パンが与えられたに違いありません。
彼らのイエス様に対する信頼、信仰は、からし種ほどにも成長していませんでした。ゼロと言ってもいい状態でした。そして、この奇蹟によって、弟子たち自身は、何一つ得たものがなかったかのごとく、聖書は、弟子たちを次の場面へと連れて行きました。
驚くべき奇蹟を体験した弟子たちの状態は、さらに45節から49節でも、再び明らかにされました。
マルコ
6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
6:47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
6:49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
イエス様は、一人で群衆を見送られました。ここまで、多くの民との交わりや、弟子たちとの交わりを導いてくださった父なる神に、感謝の交わりを持たれたのではないかと思います。
しかし、それに比べ、たった今、考えられないほどのイエス様の奇蹟にあずかった弟子たちは、相変わらず、48節で、この世の向かい風のために漕ぎあぐねていました。すぐ前までイエス様とともにおり、そのイエス様が、あれほどの大きな奇蹟をされたにもかかわらず、そのことから、何一つ得るものを、持っていませんでした。どのような奇蹟を見ても、それらによって、弟子たちは根本から変えられることは、ありませんでした。
本当にすぐ前に、イエスと交わりを持ち、考えることもできない奇蹟を経験したにも関わらず、瞬く間に、自分の生まれながらの性質に引き戻されました。しかし、それにもかかわらず、このような状態の彼らに、イエス様は、忍耐の限りを尽くして、約三年半の交わりを続けてくださいました。
最後まで、彼らは変わりませんでした。そして、後で、イエス様がいなくなられた後で、これらの恵みを一つずつ思い起こしたのであります。そのために、イエス様は、何一つ分からなかったような弟子たちに、後で思い起こすために、十字架の後で思い起こすために、このように忍耐し続けてくださいました。
こうしてユダヤ人の中から、十二人の普通の人たちを弟子として選び出し、イエス様ご自身との交わりを与えてくださいました。イエス様は、あらゆる性質、あらゆる性格の人と交わりを持ってくださいました。その中には、イスカリオテのユダもいたのであります。イエス様を売り飛ばしたイスカリオテのユダも、ペテロやヨハネとともに、この奇蹟を経験し、そして、一切をイエス様とともにしたのであります。
主なる神のご計画は、私たち人間の思いを遥かに超えています。その私たちが、今でも自分自身で、あれを調べ、これを調べ、そして、あれをし、これをし、いくばくかの知識を得たように思いますけれども、イエス様ご自身の知識は、十字架の言葉であると言われています。すなわち、イエス様ご自身の犠牲の愛、イエス様ご自身の人格に触れる交わりに比べ、私たちの成している事柄は、無きに等しい――そのような知識でありましょう。
弟子たちの感情も、また、知識も、そのすべてを知り尽くしておられるイエス様は、本日ご一緒に見てきましたように、彼らと絶えざる交わりを持ってくださいました。それは単なる交わりではありませんでした。すぐに有頂天になったり、反対に、イエス様を忘れて、この世の向かい風に必死で逆らって、疲れ果ててしまうような普通の人たちのそのうちに、ただ子供のように信頼する心が与えられるようにと願い続けてくださいました。
イエス様が私たちに期待しておられるのは、子供のように、あるいは、幼子のように、わがままな限りを尽くす、そのような幼子や子供たちのうちに、ただ一つ信頼をする心を、イエス様は、私たちにもっとも大切であると告げてくださいました。
イエス様は、弟子たちに多くを語らず、不思議な言葉を投げかけながら、福音宣教と、そして同時に、弟子たちを愛する訓練を続けられました。これらの不思議な言葉の一つ一つが、十字架の言葉であったことを、彼らは後で知るようになったのであります。この風変わりな、そしてまた、見栄えのしない弟子たちを連れて、イエス様は十字架の死を目指して、エルサレムに上られました。
弟子たちとの最後の過越しの交わりの日、ユダヤ民族があのエジプトから脱出した、それを祝う過ぎ越しの交わりの日を待ち望みながら、その日に十字架につけることを目標として、イエス様はエルサレムにのぼられました。そして、その十字架の死を、イエス様は待ち望みながら、最後の日を本当に心から待っておられました。
これはあとで、ルカ22章の15節を読んでいただくと、どんなにイエス様が最後の晩餐の日を待ち望んでいたかということが書かれています。
【参考】ルカ
22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」
そして、その日を迎えました。最後の晩餐の交わりを終えて、皆で賛美の歌を歌ってから、オリーブ山に出かけたと書かれています。そして、その山で、イエス様を見捨てて、弟子たちは皆、逃げてしまいました。これは、マルコの14章の50節に書かれています。彼らは逃げてしまいました・・・・イエス様一人を置いて。
【参考】マルコ
14:50 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
その夜、彼らは初めて、自分自身でからし種ほどの信仰すらないことを知りました。それまでは、少しはあるのではないかと思っていたのであります。
ペテロは、鶏の鳴き声とともに、初めて、みじめさの中で夜明けを迎えました。古い自分が崩れ去り、新しい一歩をこの日、初めて歩み出したのであります。この時です。ペテロが、泣くとしか知らない幼子が母だけにしがみつくようなイエス様との交わりの中で、ずっと三年半の間、育まれたイエス様に対する信頼だけが残っていたことに気が付いたことでしょう。
ここから、新しい契約の時代、新約の時代が始まりました。それは、ユダヤ人の将来のためだけでなく、すべての異邦人、私たちのためでした。私たちは、弟子たちの証しを土台として、さらに先に進むように、イエス様は私たちを励まし、そして、支えてくださいます。
本日、ご一緒に考えたかったことは、ただ一つのことであります。イエス様の弟子のヨハネやペトロたちに与えられたのと全く同じような交わりの恵みが、私たちにも与えられているという聖書が告げる事実を、ご一緒に思い起こしたかったのであります。
全く変わりません。ペテロ、ヨハネ、そして、パウロに与えられたイエス様との交わりは、今、私たちにも、全く同じように与えられているという事実であります。確かに、私たちと彼らとでは、目に見えるイエス様との交わりのかたちは異なります。彼らは直接、イエス様に出会ったでしょう。私たちは今、眼で見ることはできません。しかし、彼らは眼で見たとしても、最後まで信じることができませんでした。答えることができませんでした。結果は、まったく同じ恵みが用意されています。それは聖書の中のタラントのたとえや、ぶどう園の例えのなどで明らかであります。
そして、パウロと十二弟子たちとの交わりのかたちも違いました。しかし、結果はまったく同じ恵みが用意されていました。そして、ペテロやヨハネたちと、イスカリオテのユダとのイエス様との交わりのかたちは同じでした。しかし、結果は、まるで反対でした。ですから、目に見える交わりのかたちが問題ではありません。
私たちも、パウロも弟子たちも、自分のうちに、からし種ほどの信仰のかけらもないことを認めたとき、新しくされるのではないでしょうか?彼らはそうでした。彼らは、からし種ほどの、吹けば飛ぶような小さな種ほどの信仰さえもありませんでした。限りなくゼロに近いと、イエス様は彼らにも、私たちも告げてくださいました。その時、それを認めたとき、その事実を認めたとき、新しくされたことを知りました。それは、彼らが考えていた信仰ではなく、信仰のかけらもないということを認める信仰でした。
私たちと使徒たちでは、目で見えるイエス様との交わりのかたちは大いに異なりますが、十二弟子たちが、もっとも大切であると受け入れた幼子や子供のような信頼、そしてまた、パウロが私たちに、もっとも大切なこととして伝えてくれくださった御心――第一コリントの15章に書かれているような――その御心を、私たちは聖書によって手にしています。
もし私たちに、彼らと比べて足りないもの、欠けているものがあるとすれば、使徒たちが経験したイエス様の苦しみの深さを覚えて、感謝する恵みに預かりたいという渇きではないでしょうか?
からし種ほどの信仰も無い私たちに、新しい神の種、新しい自由の律法、イエス様だけに望みをかける信仰を与えてくださる主に、心から感謝を捧げ、心から期待することができるなら、彼らと全く同じ恵みにあずかることができるに違いありません。
私たちが、イエス様を愛する愛で満たされる時、そのとき初めて、ヨハネが語り続けたみ言葉、『あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』と言う、ヨハネが生涯の望みとして伝えてくれた新しい戒めの喜びも、その時、初めて与えられるのではないでしょうか?
信仰のないものが、それを認める者たちの中で、この御言葉が成就するのではないかと、聖書を読むたびに、イエス様の御言葉に耳を傾けるたびに与えられてまいります。
最後に、御言葉を二箇所、お読みして終わりにいたします。
ヨハネ
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
そして、最後はパウロの手紙です。パウロが、からし種ほどの信仰もないと、はっきりと自分で認めたその瞬間であります。
ローマ
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
どうもありがとうございます。
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