2022年11月8日火曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】 2.宇宙の中心としての神の御座

2.宇宙の中心としての神の御座

黙示録4章1節から11節まで

1.啓示の準備
・教会の携挙――閉ざされてしまう扉
2.御座と、御座に座っておられる方
・御座の不動性と神聖さ
・たとえとしての碧玉、赤めのう、緑玉
3.御座のまわり
・二十四人の長老たち
・四つの生き物
4.神への礼拝
・四つの生き物
・二十四人の長老たち

(1)その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」(2)たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、(3)その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。(4)また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。
(5)御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。(6)御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。(7)第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。(8)この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」
(9)また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、(10)二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
(11)「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから」(黙示4・1~11)

黙示録4章全体のテーマは「宇宙の中心としての神の御座」です。そしてこのテーマはまた、「神の支配の御座」、「神の御座の近くにおいて」、「御座の上におられる神」、「生きておられる神」、あるいは、「世界の主」、「歴史の主」、「宇宙の支配者」、「神は支配する」、「すべての者に対する神の支配」、「創造者に対する誉れ」、さらに「引き上げられた教会」と言うこともでき、これらのすべてが黙示録4章の主題だと言えるでしょう。

そして、黙示録4章は四つの部分、つまり、1節から2節前半まで、2節後半から3節まで、4節から8節前半、8節後半から11節までに分けることができます。これらを順に学んでいきましょう。

1.啓示の準備

・教会の携挙―閉ざされてしまう扉


その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」たちまち私は御霊に感じた。(黙示4・1、2)

「啓示の準備」とは、まことの教会の携挙のことを指しています。世の光となっていない、かたちだけのいわゆる「教会」はこの時には捨て去られてしまいます。サルデス、テアテラ、ラオデキヤの教会に予告されている裁きが、この時に行なわれます。この予告された裁きは、キリストの花嫁である教会が、この世におかれている間は受けることがありませんが、イエス様が真の教会を天に引き上げられる時には、信者とは言えない信者たちは、みなイエス様の口から吐き出されてしまうのです。

「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示3・16)

このことは、教会の携挙と同時に、恵みの門の扉が閉ざされてしまうことを意味しています。用意をおこたった「愚かな娘たち」は遅れて来て、扉の前に立って叩きますが、扉は開きません。しかし、扉の内側では、「賢い娘たち」が安全な場所をみつけています。この「賢い娘たち」とは、あらゆる時代の信者たちを意味し、黙示録4章4節で二十四人の長老たちとして示されています。彼らは白い衣を着て、御座の回りに座し、金の冠を与えられています。

ヨハネは天に開かれた扉を見ました。この扉は、昔から開かれている扉です。ステパノは石で打たれて殺される前、天が開けて人の子が神の右に立っておられるのが見える、と証ししました。

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7・55、58)

イエス様が十字架につかれて勝利をおさめられたので、天のみ国の扉は信じる者すべてに向かって開かれています。この天国への「扉」は、イエス様ご自身を意味しています。イエス様は「わたしが門である」とおっしゃいました。開かれた扉は自由に入ることができます。しかし、扉が閉ざされると、もはや入ることはできないのです。

「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10・9)

イエス様を救い主、そして主として、すでに受け入れている人々は、今この瞬間も、父なる神への開かれた道をもっており、さらに後には天国への開かれた道を見いだすことができるのです。

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。(ヘブル10・19、20)

ヨハネは「ここに上れ」という声を聞きました。それはラッパのような響きだったと述べています。ラッパについては聖書の他の箇所に次のように出ています。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。(第一テサロニケ4・16)

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第一コリント15・52)

「ここに上れ」という言葉は「携挙」を象徴しています。イエス様ご自身が降りて来られ、その時教会をご自身のところへ呼び寄せられるのです。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14・3)

この「ここに上れ」というヨハネへの呼びかけは、神の裁きが行なわれる直前のことです。黙示録6章から、神のこの世への裁きがはじまるのですから。

ヨハネは黙示録2、3章において教会の歴史を一瞬のうちに見せられましたが、4章以降では、世界の歴史を非常に短い間に見せられるのです。

イエス様はフィラデルフィヤの教会に対して、「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」(黙示3・10)と約束されました。

旧約聖書でも、教会の携挙を象徴した記事を数カ所で見ることができます。例えば、エノクは来ようとしているできごとを預言した後、洪水の起こる前に天に引き上げられました。

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(創世記5・24)

またロトは、主がソドムを滅ぼされる前に、町から助け出されました。

こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。(創世記19・29)

主はエジプトの軍勢を紅海で滅ぼされる前に、ご自分の民を安全な岸へと渡されました。

パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中にはいったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて行った。(出エジプト15・19)

エリコの町が滅ぼされる前に、ラハブはそこから救い出されました。

ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。(ヨシュア6・22、23)

「ここに上れ」という呼びかけは、世界の裁きが始まる前になされるのです。イエス様は世界の裁きの起こる前に、ラッパの響きのような声で私たちを安全な所へ導こうとなさいます。信者たちは裁きに会う方へ進んでいるのではなく、イエス様の再臨に向かって進んでいます。

ですから、私たちイエス様を信じる者の使命は、「開かれた門を見なさい。そしてその門から入り、イエス様を受け入れなさい」と人々に宣べ伝えることです。

2.御座と御座に座っておられる方


天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。(黙示4・2、3)

ヨハネは「一つの御座」を見ました。黙示録では「御座」について四十七箇所で語られていますが、そのうちの十二箇所は4章にあります。ヨハネはここで、彼の印象や感想を語っているのではなく、見たままを忠実に語っています。御座はいつも、「御座の上に」、「御座のまわりに」、「御座の前に」、「御座の真ん中に」というように語られています。この御座に関しては、次のことが言えます。

・御座の不動性と神聖さ


まず、御座の不動性です。この世の権力の座はむなしく移り変わるものですが、神の御座は移り変わることがありません。神の御座とは、揺らぐことのない神のご支配を表わしています。神は世界の支配者です。ヨハネはこの世の裁きの来る前に、神の御座と御座におられる方を十分によく見ることを許されたのです。

次は、御座の神聖さについてです。5節に「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった」とありますが、これは最高の権威を現わす御座から起こる、罪と、かたくなさに対する裁きを意味しています。

今の時代は、まだ「恵みの御座」が続いています。

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ3・25)

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4・16)

しかし、携挙のあとでは、この「恵みの御座」は「裁きの御座」に変わってしまうのです。

・たとえとしての碧玉、赤めのう、緑玉


ヨハネは御座を見ただけではなく、御座におられる方をも見ました。しかし、神を見たとは言っていません。ヨハネは神の御名を指すことを避けて、その現われすらも書こうとしなかったのです。人は神を描くことができません。人が神を描くことができないので、ここでも神の名が語られていないのです。詩篇の作者が言っているように、神は何にもたとえようのないお方です。

わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。(詩篇40・5)

ヨハネはそこでたとえとして、碧玉、赤めのう、緑玉などをあげることしかできませんでした。これらのたとえも神の真の姿からはほど遠いものですが、たとえにあげられた三つの宝石について、ここで少し考えてみましょう。

まず碧玉は、白い透き通った石で、神には完全な明るさと清さがあることを示しています。ヨハネは光を神の象徴として記しています。

都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。(黙示21・11)

その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉・・・・(黙示21・18、19)

神にはこの世に見られない光と清さがあるのです。

あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。(詩篇104・2)

光は闇に対立します。光には良いもの、真実なもの、神聖なものがすべて合さっています。

光は罪からの清めを意味します。光はこの世からの完全な分離と、神との真の交わりを意味しています。

ヨハネの手紙第一の1章5節に「神は光であって・・・・」とありますが、この言葉は「神は聖なるものであり、全ての悪を明るみに出し、滅ぼされる方である」という意味でもあります。神は私たちのうわべも内側も全てをご存じであり、神の前には隠されたものが一つもありません。そして、神はご自身を啓示され、私たちを救ってくださるのです。

次に、赤めのうは赤い石です。これは神の愛と憐れみとを現わしています。私たちは、碧玉から神の清さと高さをうかがい知ることができ、赤めのうから神の愛と憐れみを象徴的に見ることができるのです。

3節に「緑玉のように見える虹」とありますが、緑玉は緑の石で、虹の中にある緑色は特に目立つ色です。

旧約時代、神はノアに虹をお見せになって、「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9・11)と約束なさいました。虹は神の寛容と恵みを象徴しています。いま、虹は終わりの日の裁きの前に現われており、神の恵みが約束されています。しかし、黙示録20章に記されている「白い御座」の裁きの時には、もはや虹が出ていません。これは、裁きの時には神の恵みと憐れみの期間がすでに過ぎ去ってしまっていることを意味しています。

だからこそ、「神との和解を受けなさい」と呼びかけることが私たちの使命です。今は恵みの時、恵みの期間だからです。今なら神が、罪の赦しと、真の平安と、永遠のいのちとを提供しておられるからです。

3.御座のまわり


・二十四人の長老たち


(4)また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。(5)御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。(6)御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。(7)第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。
(8)この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。(黙示4・4~8)

ヨハネは、御座に続いてその回りにある二十四の座のことを記しています。回りにあるということは、これらの座が御座の支配の下にあることを表わしています。では、この座に座っている二十四人の長老たちとは一体誰のことでしょうか。それは旧約時代と新約時代の信者たちを意味しています。聖書では「天使」のことを「長老」と呼ぶことはありませんし、天使は冠もなく、座につくこともありません。「長老」という呼び名は、ただ救われた人々にだけつけられるものであり、「冠」や「座」は、イエス様が救われた信者に対してだけ、褒美として与えようと約束されたものです。

そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」(マタイ19・28)

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(第二テモテ4・8)

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。(第一ペテロ5・2~4)

黙示録4章、5章には、造られた全てのものが神を礼拝していることが記されていますが、これらの礼拝しているものたちは四つのグループに区別されています。まず「二十四人の長老たち」、次いで「四つの生き物」、そして「天使たち」、さらに「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの」です。ここでもし、この二十四人の長老たちが信者たちでないとしたら、信者たちは一人としてこの礼拝に加わっていないことになりますが、そのようなことはありえません。二十四人が座っている座は、イエス様が教会に約束されたものです。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3・21)

二十四人の長老がかぶっている冠は、イエス様が勝利を得る者に約束された冠です。

「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」(黙示3・11)

「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示2・10)

二十四人の長老が着ている白い衣もまた、イエス様が勝利を得る者に約束されたものです。

「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。・・・・わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」(黙示3・4、5、18)

白い衣は、イエス様から与えられる清さ、正しさ、神聖さを現わしています。また、祭司の務めをする者の衣服でもあります。そして金の冠は王の役目を果たす者がかぶっています。

また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・6)

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2・9)

王として、また祭司として主に仕えることが、私たちの生活の目的でなければなりません。

次にヨハネは「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった」のを聞きました。これは神が世界を支配しておられること、この瞬間に裁きによって支配されることを意味しています。主は歴史の中に力強く働きかけておられ、主のみこころでなければ、この世界にはいかなることも起こりえないのです。

三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。(出エジプト19・16)

そのあとでかみなりが鳴りとどろく。神はそのいかめしい声で雷鳴をとどろかせ、その声の聞こえるときも、いなずまを引き止めない。神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きな事をされる。(ヨブ37・4、5)

イエス様は働かれ、行動され、また命令を与えられます。イエス様はそのご計画を必ず成し遂げられます。

ヨハネは御座の前で「七つのともしび」が燃えているのを見ました。これは「主の七つの御霊」でした。ともしびが燃え続けているのは、主の霊が絶えず働かれているという証拠です。ここで私たちは三位一体を見ることができます。つまり、父なる神、子なる神、そして、ともしびとしての霊なる神です。聖霊はきょうも、人々にその人の真の状態を示し、主への悔い改めとイエス様への信仰と永遠のいのちを贈ろうとして働かれているのです。

ヨハネはまた、御座の前が「水晶に似たガラスの海のようである」のを見ました。これは何を表わしているのでしょうか。

旧約時代、幕屋の中には青銅の洗盤が置かれていました。

「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」(出エジプト30・18~21)

ソロモンは神殿を建てるとき、その中に鋳物の海を作りました。

それから、鋳物の海を作った。縁から縁まで十キュビト。円形で、その高さは五キュビト。その周囲は測りなわで巻いて三十キュビトであった。(第一列王記7・23)

この幕屋または神殿で、神に仕える祭司は、聖所に入る前に必ずここで手と足を洗わなければなりませんでした。しかし、実はこれら二つのもの、洗盤と鋳物の海は、天にあるものの雛形であり、ヨハネが記した「水晶に似たガラスの海」を型どって作られたものだったのです。

ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。(ヘブル9・23)

天国では全員が清められており、もはや汚れを洗い清める必要はありませんから、「ガラスの海」のようになっているのです。

一方、聖書において「海」という言葉は国々を象徴しています。このことは、人の目から見ると謎ばかりに見える人間の歴史も、神の目から見れば水晶を見るように明らかであることを物語っています。主はお定めになった計画を遂行しておられます。世界中のあらゆるできごとは、この主のご計画に従って起こっているのです。

・四つの生き物


ヨハネはさらに、御座のまわりに四つの生き物がいるのを見ました。この四つの生き物とは天使たちのことです。この天使たちは神が地上に創造された被造物そのものではなく、全知全能の神の権威を象徴する生き物です。これらの生き物は私たちにケルビムやセラフィムを思い出させます。

ケルビムは神の栄光と支配とに関係をもつ存在です。

こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記3・24)

アダムとエバは罪を犯したために、エデンの園から追放され、エデンの園の東にケルビムがおかれました。神はアダムとエバの罪の恥を隠すため、人間の罪と関係のない動物をほふって、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これは私たちの罪のために死なれたイエス様の象徴です。もし罪を贖うための犠牲が神に捧げられていなかったら、罪人である私たち人間は、神の御前に出られなかったのです。

セラフィムは神の清さと関わりのある天使です。

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も頭われた。」(イザヤ6・1~7)

天使セラフィムは「目」で満ちていて、この天使が神のご計画を知り尽くしていることを表わしています。また二つの翼で顔をおおい、神に対する恐れを表わしています。別の二つの翼で両足をおおい隠して謙遜を表わし、残りの二つの翼を使って飛んでいますが、これは神のご命令に即座に行動できるよう準備していることを意味しています。セラフィムは絶えず、「聖なる、聖なる、聖なるかな」と叫びながら神を賛美しています。

さて、ヨハネが見た四つの生き物は、それぞれ獅子のようであり、雄牛のようであり、また人間のような顔をもち、驚のようでした。これらのたとえは重要な意味をもっています。これらの四つはすべて、異教の宗教で礼拝の対象とされていたものです。バビロン帝国では、神は獅子のように強いものとされていました。またエジプトでは、神は雄牛のように生命を創るものだとされていました。イスラエルの民がエジプトから脱出した直後に、金の子牛を作って礼拝しようとしたことは興味深い事実です。ギリシャでは、神々は人間のように知恵があり、また肉感的なものでした。ローマにおいては、神々は鷲のように勝利を得るものとされ、ローマ帝国の旗には鷲の紋様が描かれていました。このように、異教の宗教では、人間が作りだしたものが拝まれていたのです。それは、彼らが自分たちの創造主についてよく知らされていなかったからです。

しかしこの黙示録4章においては、人々が誤って礼拝してきたものたちが、創造主そのものを礼拝するために「御座の回り」にいるのです。

主なる神は、この地上に造られたものと比較できるような存在ではなく、また比較されるべきでもありません。

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。」と。」(出エジプト3・14)

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。(出エジプト20・4)

黙示録2章7節に天使の長「ミカエル」が出てきますが、ミカエルという名前は「誰が神のようでありえようか」という意味です。誰も、何者も、神に比較できるような存在ではありえないのです。

四つの生き物はまた別の面から見ることができます。

まず「獅子」は、主がご自身の計画を成就されることを意味しています。

「雄牛」は、犠牲としてしばしば捧げられました。ですから、この動物は失われた者を救われる主のみこころを象徴しています。

「人間」は、自らを人間の姿に変えられるほどに人間を愛された主の御姿を象徴しています。

「鷲」は、あらゆる座よりもなお高い位置につき、敏速にご自身の計画を成就なさる主の御姿を象徴しています。

つまり四つの生き物は、主のご栄光と清さを象徴し、同時に神の裁く力と神の持続力と知恵と速さとを表わしているのです。

さらにこの四つの生き物は、内側も外側も「目で満ちて」います。内側に目を持つということは、神を知り、神の導きを受けることを意味します。私たちは、神を知り、神に導かれたいといつも願っているでしょうか。また、外側に目があるということは、周囲の環境と困難をよくわきまえて、しかも無条件に神のご計画を成しとげることを意味しています。聖書にはイエス様が「ごらんになった・・・・」と何度も何度も記されています。私たちは、神の目をもって人を見ているでしょうか。神の思いをもって、神の霊と神の力とをもって行動しているでしょうか。

4.神への礼拝


(8)この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」(9)また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、(10)二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「(11)主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示4・8~11)

・四つの生き物


これら四つの生き物は、二十四人の長老と違って冠も座も竪琴も持っていません。長老たちはひれ伏し、冠を投げ出して神を礼拝していますが、生き物たちは栄光と誉れと感謝を叫び続けています。

四つの生き物は神の聖さと栄光を慕って、夜も昼も賛美を捧げています。主は聖いお方であり、永遠に聖くあり続けられます。多くのことは変わりますが、しかし、主の聖さは変わりません。主の聖さによってすべて汚れているものが砕かれます。主はご自身を、その聖さにおいて、そしてその次にはたとえようのない恵みにおいて啓示されます。

アダムの場合は、救い主が来られるという約束を与えられました。アダムがエデンの園を追われたときには、主のご栄光と主の聖さを体験しましたが、その後で主の恵みを体験したのです。

イザヤは、祭壇から出た炭火によって聖められました。これは罪が滅ぼされ、消されるためのイエス様の犠牲の死を象徴しています。

ヨハネが見た二十四人の長老たちは、主に守られ、主に聖められて御座の前に座っていました。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(第一テサロニケ5・23、24)

・二十四人の長老たち


四つの生き物も長老も、共に感謝を捧げていますが、長老たちはさらに、主を自分たちの救い主として礼拝しています。四つの生き物がこれをしないのは、彼らが罪を犯さなかったので、救いを必要としないからです。ですから彼らは冠も持っていません。なぜなら、長老のように勝利を得る必要がなかったからです。長老たちはかつては滅んでいた者でしたが、彼らはそこから救い出されたのです。それだけに、彼らは深くひれ伏して礼拝せざるを得なかったのです。長老たちは自分から冠をとり、投げ出して御座の前で礼拝しています。これが真の礼拝の姿です。

礼拝は黙示録全体のテーマです。私たちは誰に礼拝を捧げているのでしょうか。誰を愛し、誰に仕え、誰に聞き従うのでしょうか。すべての者が主の足元にひれ伏すことが大切です。きょう、私たちも主に自らを明け渡そうではありませんか。きょう、主は礼拝する者を探しておられます。真の礼拝者が真の奉仕者となるのです。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・23、24)

聖餐式で私たちは、心を主に向けて救いを感謝します。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしいお方です。」と。

黙示録が記された当時のローマ皇帝ドミティアヌスは、自分自身を「主」、また「神」と呼ばせ、人々に皇帝崇拝を強要しました。オリーブで編まれた冠が皇帝ドミティアヌスの足元に投げられ、ともしびや宝石が捧げられました。

しかし黙示録のこの部分では、礼拝は皇帝にではなく、生けるまことの神に捧げられているのです。まことの神が礼拝される理由は「あなたは万物を創造し、あなたの御心ゆえに万物は存在し、また創造されたからです」というものです。たとえ皇帝であっても、人間であるドミティアヌスが礼拝を受けるべきではなく、宇宙の支配者であるお方、まことの主こそがこれをお受けになるべきです。ドミティアヌスは「あなたはそれにふさわしいお方です」というあいさつを自分が受け入れ、主に罪を犯しました。しかし、天にいる四つの生き物と二十四人の長老たちは、神こそがすべての誉れと栄光にふさわしいお方であることを知っており、礼拝を捧げています。

生けるまことの神、主だけが、力をもち、誉れを受ける権利を持っておられます。生けるまことの神、主のみが支配し、すべての権力を持っておられます。生けるまことの神、主にのみ、誉れと賛美がふさわしいのです。

この宇宙を支配しているのは主であり、悪魔ではありません。悪魔が地上に占めている座のその上に高く高く神の御座があるのです。主は全知全能ですから失敗なさることがありません。

このような「主よ、あなたは栄光と誉れと力とを受けるにふさわしいお方です」という賛美に反して、地上では「信仰が何の役に立つのか」、「イエス・キリストに従って行くことは何の益になるのか」、「神を礼拝することで、自分が認められるのだろうか」、という自己中心的な問いが起こります。

しかし、詩篇の作者は真の礼拝者として祈りを捧げました。私たちもまた、イエス様の本質と偉大さをさらに深く知ることによって、真の礼拝者になれるように主に祈りましょう。

・・・・正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。
みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。
神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、荒れ地を進み行かれたとき、地は揺れ動き、天もまた神の御前に雨を降らせ、シナイも、イスラエルの神であられる神の御前で震えました。
神よ。あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れきったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました。あなたの群れはその地に住みました。神よ。あなたは、いつくしみによって悩む者のために備えをされました。
主はみことばを賜わる。良いおとずれを告げる女たちは大きな群れをなしている。(詩篇68・3~12)

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