2022年11月27日、市川福音集会
黒田 禮吉兄
ガラテヤ
1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
1:11 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
ご存じのように、旧約聖書に出てきますソロモンは、晩年、主に背いて、ほかの神々に仕えるようになったため、王国は、北イスラエルと南ユダに分裂してしまいました。このうち、北イスラエルは、ソロモンの家来であったヤロブアムという人が引き継ぎました。けれども、彼は、自分の治世が始まった時、金の子牛を作って、そのための祭壇を作り、自分勝手な宗教を作り出してしまいました。彼は、人々が南王国のエルサレムに行くことを恐れたからです。そこで人々の心をつなぎ止めるために、金の子牛を作り、もうエルサレムに上る必要はないと言ったのであります。
第一列王記
12:26 ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。
12:27 この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
12:28 そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」
今日は、このヤロブアムの偶像礼拝をやめさせるために、主が遣わされた神の人の不思議な物語を紹介したいと思います。
第一列王記
13:1 ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。
13:2 すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」
13:3 その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」
13:4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。
13:5 神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。
13:6 そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。
驚くべき預言をこの神の人は告げます。ヨシヤという具体的な名前をあげて、ヤロブアムの祭壇の上で人の骨が焼かれることを預言しました。これは約350年後、南ユダの王、ヨシヤによってことごとく実現しました。
さて、このような神の人の言葉を聞いて、ヤロブアムは怒り、彼を捕らえよと言って、手を伸ばしたのです。ところが、彼の伸ばした手は突然、麻痺して萎えてしまいました。さらに祭壇は裂け、灰がそこからこぼれました。そこで、彼は自分の手を元に戻して欲しいと懇願したのです。
ヤロブアムはこのとき、主なる神のことを、『あなたの神、主』と言っています。彼にはもはや、まことの信仰はなくなっていたからです。けれども神の人は、ヤロブアムの願いを聞き入れて祈りました。これは、ヤロブアムが主に立ち返るようにするためであります。
第一列王記
13:7 王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」
13:8 すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。
13:9 主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。
13:10 こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。
助けられたヤロブアムは、食事と贈り物をしたいと言いました。けれども、ユダから来た神の人は、主から具体的に、食事を取ってはいけない、また、同じ道を通ってはならないとの命令を受けていました。そこで、ヤロブアムの申し出を断ったのであります。
物語がここで終わっていれば、何の問題もありません。ところが、神の人が、主の命令に従わず、自分の命を落とす悲しい出来事が、次に書かれています。
第一列王記
13:11 ひとりの年寄りの預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、この人が王に告げたことばも父に話した。
13:13 父は息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、
13:14 神の人のあとを追って行った。その人が樫の木の下にすわっているのを見つけると、「あなたがユダからおいでになった神の人ですか。」と尋ねた。その人は、「私です。」と答えた。
13:15 彼はその人に、「私といっしょに家に来て、パンを食べてください。」と言った。
13:16 するとその人は、「私はあなたといっしょに引き返し、あなたといっしょに行くことはできません。この所では、あなたといっしょにパンも食べず、水も飲みません。
13:17 というのは、私は主の命令によって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」
この年寄りの預言者は、主を愛するこのようなすばらしい若い神の人がいることを知って、ぜひとも交わりを持ちたいと思ったのでしょう。自分がベテルにいるにも関わらず、ベテルでの王の悪行について、何も言うことができなかった。けれども、この若者は、ユダから来て、主は大きなわざを行ってくださったのを知り、うれしくなっていたのだと思われます。そこで、ロバに乗り、神の人の後を追って来たのでした。
第一列王記
13:18 彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。
13:19 そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。
老預言者は、ここでウソの預言をしました。そして、神の人は、この偽の預言を聞き入れてしまいました。ここから、私たちは、偽預言について、多くのことを教訓として学ぶことができます。けれども、このような偽預言は、初めから悪を考えている人だけが行うものであり、私たちは無関係で、偽預言者などになることはないと、そう考えたら大きな間違いであります。
この老預言者が偽りの預言をしたのはなぜでしょうか?おそらく、老預言者は、自分がこの人と一緒に食事をして交わりたいという願いを果たすために、それは、やましいことではなく、純真な気持ちで、このような偽りを言ったのだと思われます。嘘も方便と言いますが、主が言われたことではなく、自分が願っていること、この人と一緒にいたいという気持ちを満たしたいために、このようなことを言ったと考えられます。
第二に、彼は預言者という職を主から受けているからこそ、偽りの預言をしたということができます。預言者だからこそ、『御使いが主の命令を受けて』と言ってしまったのではないでしょうか?そして、神の人がこの偽預言を受け入れてしまったのは、自分より年長であったこと、また、神の言葉を伝えるという同じ職にいる仲間ということで、気を許したのが原因でしょう。また、時の権力者に必要な預言を語るという大仕事が終わって、ほっとした時であったからでしょう。
そもそも、主なる神は、なぜパンを食べてはならない、水も飲んではならない、元来た道を通って帰ってはならないと命じられたのでしょうか?そのことは、よくわかりませんが、人間的な肉的な関わりを予め排除されようと、主はしたのではないでしょうか?
私たちのあいだでも、このような理解できないようなことに対して、人間的な解釈、人間的な考えや気持ちが働くとき、肉の働きに引きずり込まれます。年上の人を敬うことは大切ですし、同労者のあいだにある親近感も、どちらも大切ですが、主の御霊の中にとどまっていなければ、しょせん、肉の働きなのであります。
第一列王記
13:20 彼らが食卓についていたとき、その人を連れ戻した預言者に、主のことばがあったので、
13:21 彼はユダから来た神の人に叫んで言った。(・・・・叫んで言っているんですね・・・・)「主はこう仰せられる。『あなたは主のことばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、
13:22 主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない。』」
13:24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。
13:25 そこを、人々が通りかかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。
年寄りの預言者は、今度は、主から託された本当のことを預言することになります。厳しい、悲しい預言でありました。この厳しい御言は、神の人のみならず、それを語った老預言者自身も驚き、自らの罪を深く示されたことでありましょう。
そもそも、主は預言者の家に神の人に語るべき言葉を授けられたのです。しかし、主に従わないことによって、神の人は、獅子に殺されてしまいました。これは明らかに、主ご自身が介入されて、神の人に対する裁きを行われたことを示すものです。
第一列王記
13:26 その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」
13:28 彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。
13:29 そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。
老預言者は、神の人をていねいに葬りました。また、主ご自身もこのことを、尊ばれたのでしょう。主の命令に聞き従わなかったのは罪でしたが。命令に従って、ヤロブアム王に預言したその業績がありました。だから主は、後になって、ヨシヤ王を通して、次のように言わせたのであります。
第二列王記
23:17 彼は言った(・・・・この彼とはヨシヤ王のことです・・・・)。「あそこに見える石碑は何か。」すると、町の人々は彼に答えた。「ユダから出て来て、あなたがベテルの祭壇に対してされた、あのことを預言した神の人の墓です。」
23:18 王は言った。「そのままにしておきなさい。だれも彼の骨を移してはならない。」それで人々は彼の骨を、サマリヤから出て来たあの預言者の骨といっしょにそのままにしておいた。
さて、老預言者が人間的な思いで発した偽りの預言は、この世に、大きな悲しみをもたらしました。そして、大きな被害をもたらします。ここでは、一人の預言者の死でありましたが、永遠のいのちを偽りの預言によって失うことがありえます。
第二ヨハネ
1:8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
1:9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
イエス・キリストの御名によってのみ、その十字架と復活の御業によってのみ、天に入ることができるという福音を、例えば、それはあまりに偏重である、考えが狭いと言って、他にも道があるという間違ったことを語ったとすれば、大問題であります。これには、大きな代償が伴うからです。それによって、もしかしたら、人を永遠の罰の中に閉じ込めるという恐ろしい代償につながるかもしれないからです。
第二ペテロ
2:1 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。
2:3 また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
使徒ペテロは、にせ預言者、偽教師について警告しています。このことは、私たちには無関係なことだとは言えません。全てのキリスト者に当てはまることができる警告の言葉ではないでしょうか?
とくに集会でメッセージを取り次ぐ兄弟は、このような危うさを常に持っているのではないでしょうか?つまり、自分の思いをメッセージの中に入れて、みことばと混ぜて、これが主の御心と言ってしまう可能性が常にあるのであります。そして、メッセージを聞く兄弟姉妹も、例えば、分かりやすい納得感のある、そして、耳触りの良い、安心できるメッセージを好むのではないでしょうか?こういったことを聞きたかったという感想、ほめことばがあると、メッセンジャーが、聞く兄弟姉妹に迎合して、真理から逸脱したことを思わず語ってしまうことも充分にあり得るのではないでしょうか?
第二テモテ
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
第二ペテロ
1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
聖書の預言は、人間の意志によるものではなく、神の聖霊によって動かされた人たちが語ったものだと、ペテロは語りました。だから、人の私的解釈を施してはならない。ですから、祈りつつ、聖霊の助けを得て、聖書の御言葉のまま、伝えていくことこそが、真の預言を語ることになるのではないでしょうか?だからこそ、メッセージを語る兄弟も、聞く兄弟姉妹も、ともに祈る必要があるのであります。
み言葉を二か所ほど読んで、終わりにしたいと思います。
第二テモテ
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
4:5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
第一テサロニケ
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
2:6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。
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