2022年11月13日、秋田福音集会
明日虎ゼネ子
マルコ
14:17 夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。
14:19 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。
引用箇所とは関係はないのですが、最近、自分がはじめて、イエス様にふれたのはいつだっただろうと、何となく考えておりました。私の家はごく普通の仏教の家で、イエス様の影もなかったのですが、小学校のころ、誰かが世界の伝記全集のセットを買ってくれました。その中にイエス・キリストという一冊がありました。
今から考えますと、この世で立派な功績を残した発明王エジソンとか、野口英世、リンカーン大統領など、いわゆる偉人たちと同列に、イエス様を扱うというのは何とも変テコなことに思えます。しかし、逆に考えますと、自分の中にも、生活の全てを支配される主としてではなく、この世での正しい生き方を教えてくれる先生として、イエス様を捕らえている部分があるということかも知れないと思いました。
最後の晩餐
本題に入ります。今、読んでいただいたのは、イエス様が、弟子たちと最後の食事を取られる有名な場面です。
イエス様と十二人の弟子たちが過ぎ越しの祭りを祝うために、エルサレムのある家に集まっていたときのことです。宴も終わりに近づき、しばらくの後には、イエス様は捕らえられ、十字架につけられるという時間であります。
その和やかな食事の席で、イエス様が、ここに自分を売り渡そうとしているものがいると告げられる、聖書の中でも、もっとも緊迫感に満ちた場面のひとつであります。同じ箇所をマタイ伝から読んでみます。
マタイ
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
これを聞いた弟子たちは、当然のことながら大いにうろたえます。
マタイ
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
この弟子たちの言葉は非常に不思議なものです。愛する師を裏切る者がいると言われたら、普通の反応としては、『私ではありません』と即座に否定するとか、あるいは、『それは誰ですか、』私がボコボコにしてやります!と立ち上がるといったところではないでしょうか。
『それは私のことですか』という言葉を読んで、私はこの人たちは自分が裏切るかどうか、分からないのだろうか?と笑いそうになりました。
しかし、繰り返しこの箇所を読むうちに、この非常に短い、おそらくは数分から数十分の会話の中に、聖書の大切なメッセージが込められているように思えてきました。
細かく見ますと、弟子たちの反応には三種類があったことが分かります。この場面で発せられた言葉を追いながら、この短いやり取りが全ての福音書に記録されていることの意味を考えてみたいと思います。
弟子たち
三種類のひとつ目は、ほとんどの弟子たちが口にした『主よ、まさか私ではないでしょう』という反応であります。
弟子たちは、自分が主を裏切るはずなどない、『それは私ではない』と言いたかったでしょうが、そこで彼らは、絶対に自分は裏切らないという確信を持つこともできないことに気づいたのではないかと思います。そのため、『それは私ですか』と疑問のかたちで否定するしかなかったのではないでしょうか。
彼らは、何があっても主に自分のすべてをささげるという決意が簡単に崩れてしまう可能性を思い知らされたのではないかと思います。
このために、彼らは、『非常に悲し』みました。直接、イエス様をお金で売り渡したのはユダでしたが、実際には、主が捕らえられた時、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまっています。
しかし、主は、弟子たちがそのような行動をとることも知っておられました。それは少し後の言葉にも表れています。
マタイ
26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
実際に弟子たちは、誰もが、『主のゆえにつまずき』、主を見捨てて逃げました。しかし、イエス様は彼らをそのことで責めようとはせず、ご自身が十字架につけられた後、弟子たちが生きる道を用意され、ガリラヤで彼らと再会することを告げられました。
マタイ
26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。
イエス様は、弟子たちの弱さをすべて知りながらも、彼らを受け入れ、失敗して自分に背を向けても赦し、彼らをこれからも用いていくことを明白に告げられました。
そして、この弟子たちが発した『私のことですか?』ということばは、私たちに対しても、自分を顧みる時間も持ちなさいという問いかけかもしれません。
私たちは、ユダのように信仰を完全に捨ててしまう可能性はないかもしれません。
しかし、主の呼びかけに耳を傾けながらも、実際には、自分の判断や世の価値観と、主の教えを秤にかけて、その時々の考えで都合の良いほうを選びながら、生きているということはないでしょうか?
祈りの中で、主よ、私はあなたを裏切っているでしょうかと問いかけることも必要なのではないかと思います。
ヨハネ
弟子たちの反応には三種類があったといいましたが、弟子の中でヨハネが発した言葉は、少し違うものでした。同じこの場面をヨハネの福音書から見てみます。
ヨハネ
13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
13:22 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。
弟子たちはやはり、誰が裏切る者なのかわからずに、当惑しています。しかし、ひとりだけ違う弟子がいます。
ヨハネ
13:23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。
この場面を描いたレオナルド・ダ・ビンチの『最後の晩餐』という有名な絵を見たことのある方もいると思います。
この絵を見ると、弟子たちが、イエス様の言葉を聞いて論じあっている中、『主に愛された弟子』と書かれたヨハネだけ、目を閉じて落ち着きはらっているように見えます。
ヨハネ
13:25 その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
他の弟子たちも、自分が主を信じていることには自信があったでしょう。しかし、ヨハネは、自分も主の愛を受けていることを信じていました。
この確信のゆえに、自分も主を裏切るのだろうかと不安になることもなく、静かに、『それはだれですか』と冷静に問いかけることができたのではないでしょうか。
ユダ
そして、三番目の反応を示したのは、ユダであります。マタイ伝から、先ほどの続きの部分をお読みします。
マタイ
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」
すでに見返りとして銀貨まで受け取っていながら、ユダは平然とこの晩餐の席に座っていました。
ユダは、イエス様の言葉に動じる様子も見せず、他の弟子たちと同じ質問で返しています。しかし、ここでひとつ、異なるところがあります。ほかの弟子たちが、『主よ、まさか私のことではないでしょう』と言ったのに対し、ユダだけは、『先生』と言っています。主のこたえを見てみます。
ヨハネ
13:26 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
主はパンをユダに手渡すことで、その答えを示されました。これだけを見ると、主は裏切るのは誰かを示すためにパンを渡したように見えます、それだけなら、ユダの名を告げるだけで十分だったはずです。
このころの習慣では、客人を招いた食事の席で、主人自ら、パンを客人に手渡すのは、その相手が特別な友人であると告げるしるしだったそうです。
主が、パンを手渡したのは、労苦を共にしてきた友人であるユダに対して、その心に浮かんだ裏切りの思いを赦し、ユダが自らの主の元に戻る最後の機会を与えていたと考えるべきなのではないかと思います。
しかし、そのパンを受け取った時、待ち構えていたサタンが入り込んで、再び主の方に振れかけていたユダの心からこの機会を奪いました。
ヨハネ
13:27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
聖書には、ダビデ、ペテロなど、一度は、主の愛を拒んで背中を向けながら、主の憐れみを受け入れて、御許に立ち返った人たちがたくさん出てきます。彼らは、自分の罪過を認め、主に告白することによって再生されました。
しかし、キリストを、自分の罪を赦す『主』ではなく、この世で大きなことを成し遂げる『先生』と呼ぶようになっていたユダは、このイエス様が与えてくれた悔い改めの機会を受け入れることができなかったのであります。
あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切る
弟子たちの三種類の反応を細かく見てきました。しかし、この言葉の不思議さは、実は、その前に投げかけられたのイエス様の問いの不思議さでもあります。
イエス様は当然、自分を裏切るのが誰であるか、ご存知でした。しかし、全員に向かって、『わたしを裏切るものがいる』と謎をかけるような言い方をされています。
その理由は何でしょう?イエス様が述べている『裏切るもの』とは、確かにユダのことです。しかし、本当は誰に対しても、彼らの忠誠心が危ういものであったかを示し、そのことを通じて、自分の心に絶対的に頼ることがいかに危険であるかを教えられたのかも知れないと思います。
この時点まで、弟子たちは誰もが自分の忠誠心に自信を持っており、主のためなら命さえ捨てると明言していました。トマスは事実、この数日前には、『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか』とまで言ってのです。
しかし、その夜、主が逮捕されると、ほとんどの弟子たちは、方々に逃げ出してしまいました。ペテロに至っては、三度も、主のことを知らないと否定してしまったことはご存じのとおりであります。
弟子たちが発した『まさか私ではないでしょう。それは私のことなんですか?』という問いかけを、イエス様は明確に否定しませんでした。ある意味では、誰に対しても、答えは、そう、『それはあなたです』というものだったのではないでしょうか。
そして、私たちの誰もが同じように簡単に逃げ出してしまう可能性があります。この最後の晩餐と受難の物語が私たちに呼びかけていることのひとつがここにあるのではないかと思います。自分の心の強さを過信することはやめ、主の哀れみと助けが最後まで必要であることを常に心に置いておくようにと、この場にいた弟子たちだけではなく、この出来事を読んでいる私たちにも示されたのではないかと思います。
まさか私のことではないでしょう
この晩餐のすぐ後で、イエス様は捕らえられ、おおぜいの群衆が見ている前で、あざけりを受け、いばらの冠を載せられて、鞭うたれました。
数時間後には、十字架に付けられることを予見していたイエス様は、『この中の一人がわたしを裏切る』と告げられた同じ席で、次のように言われました。
マタイ
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」
このことばは、その場にいた弟子たちだけではなく、主を信じない群衆に、そして、私たち一人一人に対して向けられています。
わたしが十字架で割かれたから、あなたは裂かれる必要はない。わたしの血が流されたので、あなたの血は流されなくてよい。
このことばを聞いたら、主を信じていない人たち、イエス様を伝記全集に出ている昔の偉い人としか思っていない人たちの反応は、やはり、『まさか私のことではないでしょう』というものではないでしょうか。見ず知らずの私のために、すすんで十字架にかかるはずなどない。
イエス様は、それに対して、「いや、それはあなたのことです」と言われます。
わたしは、鞭打たれ、釘で十字架に打たれますが、それは、わたしを見捨てて逃げようとしているあなた、わたしに背中を向けたままのあなたの罪が消えるためです。
それは、他の誰でもなく、あなたのためです。『まさか私のことではないでしょう』と言ったあなたのためですと、主は誰に対しても言われるのではないでしょうか?
神はへりくだる者に恵みを授ける
有名な最後の晩餐の場面から、弟子たちの心の動きを細かく見てまいりました。
『私のことですか』と言った弟子たちは、誰の心にも眠っている、主を裏切るという可能性を垣間見せています。しかし、弟子たちがこう問いかけたのは、同時に彼らの謙虚さの表れということもできるのであります。
マルコ
14:19 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。
私は自分がこの場にいたらどうしただろうと想像しますと、周りの誰かを見て、アイツのことだな、前から怪しいと思っていたなどと疑い始めるかも知れません。弟子たちのように、自分の内側に目を向けて、『それは私のことだろうか?』と、問いかけることができるでしょうか。
ヤコブ
4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
神は、自信たっぷりに人を疑うものを退け、そして、これは私のことだろうかと、へりくだって自分に問いかける者に恵みをお授けになります。
この主の問いかけの中に、私たちが自分を見つめ、心を変えられていく道があるということもできます。私たちは、自分の中に高慢さや虚栄心があるか、じっくり吟味して、『主よ、私でしょうか』とへりくだって、尋ねるべきであることを、弟子たちの言葉は教えているのではないかと思いました。
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