黙示録6章1節から2節まで
神のご計画と裁き
1.裁きの時
2.裁きの根拠
3.裁きを行なうお方
[1]白い馬に乗っている者はだれか
[2]白い馬に乗っている者が何をしたか
(1)また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。(2)私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。(黙示6・1、2)
黙示録の第6章については、いくつかの題名が考えられます。「十字架につけられたイエス様を通しての、神の世界計画の実現」、「小羊をとおしての封印の開封」、または「小羊が支配される」などです。
最初に、私たちはこの章の第1節から第2節についてごいっしょに考えて見ましょう。この箇所は、三つに分けて考えることができます。「裁きの時」、「裁きの根拠」、そして「裁きを行なうお方」です。
ここで、これまでに学んできたことを、簡単に要約しておきましょう。
1章で、私たちは、イエス・キリストの啓示について学んできました。2章から3章では、いろいろな時代の教会をとおしてのイエス様の啓示を見てきました。そして、4章から5章では、まことの教会が引き上げられた天のありさまとできごと、そして神の御座に着いておられる神と小羊とが、世界を支配しておられることを見てきました。
さて6章からは、私たちは神の世界計画の実現、「世界の審判」について、見ていくことになります。
1.裁きの時
この裁きの時は、いつ始まるのでしょうか。黙示録の示すところによれば、それは、「恵みの時が終わった後で」、「まことの教会の携挙の後で」、そして「巻物が渡された後で」、世界が揺り動かされ、それとともに始まります。
ルカの福音書4章17節からの節には、イエス様は、ナザレにいたある日、イザヤ書61章1節から2節を朗読なさったことが書かれています。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。(ルカ4・17~20)
しかし、イエス様は、恵みの年を告げる箇所で朗読を中断されました。そしてイザヤ書61章2節の後半に書かれている神の裁きの預言の箇所はお読みにならなかったのです。
なぜイエス様は、その時、神の復讐と裁きの日のことを語られなかったのでしょうか。それは、その当時も今も、神の恵みと救いの日が続いているからです。
「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6・2)
恵みの日が続いている間は、神の復讐と裁きが臨むことはありません。そのためにイエス様は、その箇所をお読みになられなかったのです。
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2・17)
今日もなお、この恵みの時は続いています。イエス様は、今この瞬間もあなたを招いておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)
これはイエス様の、「来なさい」という恵みに満ちた招きであり、呼びかけです。
ではイエス様は、誰に向かって「来なさい」と招いておられるのでしょうか。全ての人々、全ての重荷を負っている人々に向かって、招いておられるのです。誰を「休ませて」くださるのでしょうか。全ての疲れた人、重荷を負っている人々を休ませてくださるのです。
あなたはすでに、イエス様のところに来られたでしょうか。あなたはすでに、ご自分の罪を告白して神の救いに感謝なさったでしょうか。これは何よりも大切なことです。
しかし、黙示録6章1節で、四つの生き物の一つが雷のような声で言った「来なさい」という言葉は、まったく別の意味をもっています。ここの「来なさい」という呼びかけは、恵みのための「来なさい」ではなく、裁きのための「来なさい」です。
ここでは罪人たちが、罪の赦しと、永遠のいのちと、神との平和を得るためにイエス様のおそばに来るように招かれているのではありません。その逆に、馬に乗っている者が、「裁きのために出て来い」というイエス様の命令を受けているのです。
ここでは、十字架につけられ、よみがえり、そして天に上げられたイエス様が、巻物を手にして支配をしておられます。今や、小羊イエス様が封印の一つを解き、最後の審判が始まろうとしているのです。この裁きの時に、行動と決定をなさるお方はただ一人、小羊イエス様だけです。このことは、キリストの血によって罪を洗われた人々にとっては、何という慰めでしょう。キリストの血が私たちの罪を赦し、裁きの時に私たちを守ってくださるのです。人はキリストの血の下に立つか、小羊の怒りの下に立つかのいずれかです。あなたはどちらの下に立っておられるでしょうか。
最後の裁きは、教会の携挙のあとで、恵みの時の終わりとともに始まります。
2.裁きの根拠
裁きの根拠は何でしょうか。それは、「悪魔の意図を明らかにする」、「悔い改めのない者に対する神の答」、そして「神の計画の実現の手段」の三つです。
私たちはすでに、この巻物の封印を解くことのできるお方、イエス・キリストこそ、唯一正当なこの地上の所有者であり支配者であるという事実を見てきました。そしてそのためにイエス様が支払われた代価は、ご自身の血でした。そしてこの6章からは、どのようにしてイエス様がこの地を支配していかれるかが、私たちに示されていきます。裁きは、神のご計画が成就していくための道なのです。
古い家のかわりに新しい家が建てられる時には、まず古い家が取り壊されなければなりません。裁きをとおして、古い物が壊され、弱点や悪魔の意図が明らかにされるのです。
イエス様は悪魔に全力を出すことを許され、そのあとで悪魔を裁き、そして悪魔を滅ぼし尽くされるのです。イエス様は、外科医が腫れ物が膿むまで待ってからメスを入れるように、ご自身もそのように働かれるのです。
裁きの根拠は、悪魔の意図を明らかにすることです。さらに裁きは、悔い改めをしようとしない人に対するイエス様の答です。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3・19~21)
「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」(ヨハネ15・25)
神の愛が拒まれるところにおいては、神は無関心でいることがおできにならず、裁きを行なわれるのです。
神のご本質は光であり、神には暗いところがありません。したがって、光と闇とは区別される必要があります。
罪は闇です。したがって、神は隠れた罪を明らかにしようとしておられるのです。神が裁かれる時には、隠れているものが明るみに出されます。ですから神の裁きは、神の愛と矛盾したものではありません。
神のみこころは、人が救われることです。
彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。神である主の御告げ。―わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33・11)
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5・32)
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19・10)
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(第一テモテ1・15)
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2・4)
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3・17、18)
救うことと裁くこととは矛盾しません。救うためには裁きが必要です。裁くことなくしては、救いはありえません。神が救おうとなさる時に、神は「分けられる」のです。だれでも、その人の生活の中で光と闇とがはっきりと分けられていないなら、その人を救うことがおできになりません。したがってイエス様は、人に、「分けられる」ことと決断することを薦めておられるのです。イエス様を信じて受け入れ、イエス様に感謝する人は、救われ、裁かれることがありません。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3・18)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)
しかし、自分の罪をイエス様よりも愛し、イエス様を信じないで、光よりも闇を愛する人は裁きを受けます。イエス様よりも自分のことを愛する人々がそうなのです。そして、このような人に対してこそ、救い主であるイエス様は救いを与えようと望んでおられます。しかし、人が救いを拒むなら、イエス様は裁き主として臨まれます。
「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子(イエス様)にゆだねられました。・・・・また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。」(ヨハネ5・22、27)
「わたし(イエス様)は、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」(ヨハネ5・30)
イエス様は、あなたを救い、解放し、きょめ、光を与え、助けようとしておられます。しかし、その救いが拒まれるところには、裁きが来るのです。
3.裁きを行なうお方
「裁くお方について考える前に、黙示録6章における中心人物が誰であるかを考えてみましょう。それは小羊イエス様です。この章の中に「小羊」という言葉が七回出てきます。したがってまず、小羊イエス様をよく見ることが大切です。
ヨハネは6章1節で、「私は見た。小羊が・・・・」と言っています。あなたはすでに、小羊イエス様を見られたでしょうか。あなたは心の目で、十字架につけられたイエス様を見られたでしょうか。イエス様は、あなたの代わりに十字架の上で罪の裁きをお受けになりました。イエス様の貴い血は、あなたのために流されたのです。もしあなたがそれについて感謝したことがないなら、今すぐ、感謝をしてください。
「私は見た。小羊が・・・・」とヨハネは証ししました。私たちが裁きについて考える時、このように小羊イエス様をしっかりと見上げることが大切です。
イエス様は、ほかの誰の血でもなく、イエス様ご自身の血を流されました。イエス様は、全ての人の罪のために死なれ、限りなく罪人を愛しておられます。このイエス様に、全ての権威と力が与えられたのです。
そしてこのイエス様が、封印を解いて神のご計画を成就しようとしておられるのです。神のご計画とは、この地上に神の国を建設することです。
今まで私たちは、黙示録の4章と5章で神の御座の前にささげられた礼拝と賛美とについて見てきました。6章では、私たちはサタンの座のある地上に目を注いでいます。ここで裁きを行なう者は、一見白い馬に乗っている者に見えます。しかし、裁きの主導権は、この馬に乗る者の手の中にあるのではなく、小羊イエス様の手の中にあるのです。
黙示録のこの部分で、まず最初に小羊が巻物の封印を解き、次に四つの生き物の一つが「来なさい」という命令を与え、その後に白い馬に乗る者が出ていく、という順序が特に大切です。
次に、「白い馬に乗っている者はだれか」、「白い馬に乗っている者が何をしたか」、そして「結果はどうだったか」について、考えてみましょう。
1.白い馬に乗っている者はだれか
馬に乗っている者がだれかについては、今までに多くの間違った解釈がなされてきました。多くの人々は、黙示録し章でイエス様が白い馬に乗って現われて来られるために、この6章の場合も乗り手はイエス様だと考えてしまいます。これは間違いです。
ここでは、四つの生き物の一つ、つまり天使の長が、「馬に乗っている者」に向かって、「来なさい」と命令しています。しかし、天使がイエス様に向かって命令を与えるということはありえません。ですから馬に乗っている者はイエス様だという説は、はっきりと間違いです。また、馬に乗っている者に冠が与えられた、と書いてありますが、イエス・キリストにはすでに冠が与えられています。
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。(ヘブル2・9)
はっきりさせておきましょう。この白い馬に乗っている者は、イエス・キリストの模倣者です。この馬に乗っている者は、3章で「獣」として表わされている、反キリストのことです。
この馬の乗り手は、ほかの三人の馬に乗っている者と同じ性質を持つ者であり、この乗り手が、裁きのなだれを引き起こす最初の石となるのです。
小羊イエス様が世界の支配権を天においてお持ちになったあとで、反キリストが地上に現われ、神の国をこの地上で実現することになります。悪魔は、19章にあるように、イエス・キリストが白い馬に乗り、その名が「忠実また真実」と呼ばれるお方として来られることをあらかじめ知っていて、その前に自分の手先である反キリストを白い馬に乗せて遣わしたのです。この白い馬に乗っている者は、19章の白い馬に乗っているお方と対立している者です。
黙示録の中では、このような対立をいたるところで見ることができます。たとえば、二人の女性が出てきますが、一人は身ごもっている女であり(12章)、もう一人は姦婦です(18章)。また二つの場所が出てきますが、一つは新しいエルサレムであり、もう一つはバビロンです。さらに二つのほふられた動物が出てきますが、一つは小羊であり、もう一つは獣です。
2.白い馬に乗っている者が何をしたか
白い馬に乗っている者は、混乱したこの世界に一種の秩序をもたらそうとしたのです。そのために彼がとった方法は、戦争ではありません。彼は、多くの血を流すことなく、大きな領土を獲得します。彼は外交と戦略とを用いて、多くの国々を獲得します。この「白い馬に乗っている者」は、「平和の君」としてのイエス様を模倣し、自分のことを平和の君といつわっているのです。彼は多くの人々をだまし、目にしているのです。ですから、裁きの最初は、悪魔の手先が人々をあざむくこと、人々を目にすることから始められるのです。
3.結果はどうだったか
最後に、白い馬に乗っている者がひきおこす結果について考えてみましょう。彼は、勝利の上にさらに勝利を得るのです。彼はおそらくヨーロッパを一つの国にすることでしょう。
勝利者は、常に白い馬に乗っています。白という色は勝利の色であり、きよめの色であり、そして光の色です。しかし、この白い馬の「白」は「偽りの光」なのです。反キリストはあざむく者であり、目にする者です。この乗り手は、来たるべき世界の支配者です。ダニエルはすでに、この者を預言しています。
私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。(ダニエル7・8)
その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた。その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。(ダニエル7・20)
十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。(ダニエル7・24、25)
その姿かたちだけを見れば、白い馬の乗り手は平和の人らしく見えますが、彼が実は不法をなす人であることはだんだん明らかになってくるのです。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(第二テサロニケ2・3~4)
では、いつ反キリストがやってくるのでしょうか。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。(第二テサロニケ2・7~8)
右に引用した、テサロニケ人への手紙第二2章7節の「引き止める者」とは、聖霊の宮、つまり「まことの教会」です。このまことの教会が、反キリストがその力をふるうことができないように「妨げ、引き止めている者」なのです。しかし聖霊の宮である教会は、教会が引き上げられる時に、聖霊とともに引き上げられてしまいます。その結果、反キリストがその力を自由に現わすことができるようになるのです。
しかし反キリストの力も、小羊イエス様によって支配されています。裁きを行なう者たちは、神の御座から、「来なさい」と命令を受けました。しかしこれらの裁きを行なう者たちの力は全能ではなく、制限されたものでしかありません。真の裁きを行なわれるお方は、イエス様おひとりだけです。
小羊イエス様こそが世界の支配者であり、その支配権は決してだれにも渡されません。小羊イエス様のご計画が定められていることは、「馬に乗る者が四人であり、地上で殺されるものが四分の一である」という数字があらかじめ決められていることによってもよくわかります。
悪魔でさえも、神のご計画と神のみこころを成就するために用いられるのです。裁きを行なう者たちは、主なる神の手の中にあるチェスの駒であり、全てのものは、神のご計画を成就するために用いられるのです。主なる神は、あらゆる力の上に立っておられます。イエス様をとおして神の子とされている全ての人々にとって、何というすばらしい守りが与えられていることでしょうか。
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