2020年2月8日土曜日

来なさい。休ませてあげます

来なさい。休ませてあげます
2020年2月8日、御代田家庭集会
古田 公人

『来なさい、休ませてあげます』という題を紹介していただきましたけど、ちょっと、羊頭を掲げて、狗肉を売るという感じがしないわけではありません。お話しさせていただきたいことは、『必要な心構え』というほうがいいかもしれないんですけど、イエス様の愛の御言葉を題とさせていただきました。

イエス様一人一人に、来なさい、私のところに来なさい、休ませてあげますと、呼びかけてくださっています。今日は、この御言葉を、個人的に体験するために必要な心構えについてご一緒に考えたいと思います。

まずマルコの福音書の中のいくつかの逸話から、ご一緒に考えたいと思います。最初にマルコ5章、長血の女のところです。


マルコ
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

イエス様が歩いておられたとき、多くの群衆がイエス様の周りにいました。その時、一人の女性がイエス様の着物にさわりました。十二年間も長血の病気を患っていて、多くの医者にかかり、お金を使い果たしていたけれども、病気は悪くなる一方であったと、記されています。イエス様のことを聞いたとき、イエス様の着物にさわることでもできればきっと治ると考えました。そして、その通りになりましたけれども、イエス様も、自分のうちから力が外に出ていったことをお知りになり、『だれが私にさわったのですか』と、問いかけておられます。女の人は恐れおののいて、イエス様の前に進み出て、真実を余すところなく申し上げたと記されています。この女の人は、お医者さんに失望していました。お金も、もうなくなってしまいました。そのような時に、イエス様が、らい病人を清め、盲人の目を開けられたと聞いたのだと思います。それなら、私の病気も治してくださるに違いないと、確信しました。

ですけど、問題が二つありました。一つは、彼女は個人的にイエス様を知らなかったということです。そして、もう一つは、彼女の体験は医者はお金がかかるというものでした。ですから、もし病気を治していただいたとしても、大金を請求されたら――どの医者にも治せないほどの病気なんですから――それに対して、報酬を要求されたら、彼女はどうすることもできませんでした。そのような理由で、お金を払わなくても良いようにという――賢い方法なのかどうか知りませんけど――そっと着物にふれたと記されています。

多くの群衆がイエス様の側にいました。だから、イエス様の着物に触れたというだけなら、他にも何人もの人が経験していたはずです。でも、イエス様の力を経験したのは、この人だけでした。着物にでもふれればきっと治るという、イエス様への信頼が、イエス様の力を引き出したということは、すぐにわかります。大切なことは、『イエス様はできる』と信じて、疑わないことだと、教えられます。そうすれば、イエス様は御力をあらわしてくださいます。

イエス様が着物にふれた人を探しておられるということを知ったとき、彼女は恐れおののいたと記されています。そして、真実を余すところなく申し上げたと記されています。これだけのことに、どうしてそれほど言葉を使わなければならなかったのかということですけど、結局、彼女は、お金がなかったっていうところに行き着くのではないでしょうか。だから、無料で病気を治してもらって、しかも、黙ってそれをしたということに、恐れおののいたのだと思います。そして、真実を余すところなく申し上げたとは、十二年のあいだも病気をしていて、医者にひどい目にあわされてお金がないこと、無料で治していただこうと思って着物にさわったこと、そういったことを申し上げたに違いないと思います。でも、イエス様は笑わなかったんです。この人に祝福をお与えになりました。彼女は解放され、生きる希望をいただいています。

もう一人、マルコの福音書の九章から、お父さんの話を見てみたいと思います。

マルコ
9:14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
9:15 そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれた。
9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。
9:18 その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
9:19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
9:26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。
9:27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。

この父親は、息子を治してほしいと思って、いろんなところに連れて行ったんでしょうけれども、誰も霊を追い出すことはできませんでした。イエス様のことを聞いた時、もしかしたら、オシの霊を追い出してくださるかもしれない。ダメでもいいから行ってみようと、そういうふうに考えたようです。それで、父親が、『もし、おできになるなら、私たちを哀れんでお助けください』と言ったのに答えて、イエス様は、『できるものならというのか、信じるものにはどんなことでもできるのです』と、おっしゃっています。すると、父親は、すぐに、『信じます、不信仰な私をお助けください』と、叫んでいます。

父親は、イエス様が悪霊を追い出してくださると、確信していたわけではありませんでした。ですから、『もし、おできになるなら・・・・』と言ったんですけど、イエス様は、『あなたがわたしを信じるなら、わたしは何でもできる、でも信じないなら、わたしは何もできない』と、そういうふうにおっしゃっています。大切なことは、そのことではないかと思います。

不信仰なものには、イエス様は何もおできにならない。そのことを、私たちは知らせられます。でも、父親は、『信じます。不信仰な私をお助けください』と言っています。この言葉は短いですけど、そこには、父親の真心がこもっているのではないかと思います。そして、イエス様は、心をご覧になりますから、正直な心で求めたとき、答えてくださいました。息子も父親も、悪霊から解放されました。

信じます。不信仰な私をお助けください。私たちにとって、無関係な言葉ではないと思います。むしろ、本当にその繰り返しなのではないかなと思いますけど、イエス様は働いてくださる。それこそが希望であり、喜びではないかと思います。

もう一箇所は、マルコ十章からです。

マルコ
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

盲人の乞食のバルテマイは、いつも道端に座っていたに違いありません。そして、人々の話を聞いていたと思われます。そのようにしてバルテマイは、イエス様というお方は、ダビデの子、すなわち、約束された救い主に違いないと、確信するようになりました。イエス様が近くに来られていると聞いた時、彼は力の限り叫んでいます。ダビデの子よ、私をあわれんでください。彼は、イエス様にお会いするだけではなくて、目を開けていただいて、そして、目が見えるようになったら、イエス様についていきたいと、そう思っていたに違いありません。バルテマイは、本当のところは、救い主を求めていたと言うべきではないかと思います。

イエス様がバルテマイを呼ばれた時、彼は、上着を脱ぎ捨てました。多分、そんなに多く上着を持っていたわけではない。毎日、同じ上着を着て、彼は道端に座っていたに違いありません。ですから、その上着は、もうバルテマイ自身のようなものであったと言えると思います。でも、彼は、それを脱ぎ捨てました。イエス様によって、新しい人生が与えられることを確信していたことを表しています。目が見えないからこそ、彼は本当のものを見ていたと、知らせられるのではないかと思います。

イエス様が、わたしに何をして欲しいのかと尋ねられると、即座に、『目が見えるようになることです』と答えています。そして、イエス様の行かれるところについて行きました。イエス様に出会った者にとって、本当に大切なことは、このことだと知らされるのではないかと思います。

急いで、三人の人を見てまいりました。みんな、重荷を持っていましたけど、イエス様のところで、その重荷を取り除いていただきました。イエス様が、長血の女の人の病気を治された時、その場には群衆がいて、押し迫っていたと記されています。息子の悪霊を追い出された時も、そこには群衆がいました。バルテマイの目をお開けになった時も、その場には、きっと多くの人が、『多くの群衆が一緒に』と記されています。でも、イエス様の力を経験した人は、他にはいませんでした。

その場に居合わせながら、イエス様のお力を経験しなかった人たちに、重荷がなかったわけではないと思います。疲れていなかったわけでもないと思います、それぞれに、重荷を負っていたに違いありません。イエス様は、『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』と、おっしゃっています。そうであるのに、イエス様の力を経験することができなかった人たちが多かった。ほとんどの人は、イエス様の力を経験できなかったということです。では、なぜ逆に、長血の女、息子の父親、バルテマイの三人だけは、イエス様の力を経験できたのでしょうか。この三人に共通する点は何だったのでしょうか?三つのことが考えられると思います。

ひとつは、三人は、自分に何が必要かを、よく知っていましたけど、彼らはみんな、人間には期待しなかったということです。もう人間に期待しても無理だということを、よく知っていましたから、彼らは、人間にではなくて、イエス様に期待しました。とくに、長血の女とバルテマイは、イエス様の御業よりも、イエス様ご自身に期待しています。父親の場合だけは、息子を連れてきましたけど――『ダメでもいいや』というような気持ちも、なかったわけではありませんでしたけど――でも、イエス様との交わりを通して、彼は自分の不信仰を、正直に認めて、イエス様に求めました。この三人に共通することは、イエス様ご自身を信頼したということではないかと思います。そして、彼らは、イエス様の力を経験しました。

二つ目のことは、自分からイエス様のところへ行ったということです。もし、イエス様のところへ行かなかったら、例えば、長血の女が、お金を請求されるのではないかと、急に心配しだして、帰ってしまっていたら、あるいは、息子の父親が、お弟子たちはどうすることもできないということ、そのことでもう失望して、家に帰っていたら、あるいはまた、バルテマイが大声で叫ばなかったら、彼らは、イエス様の力を体験しなかったということになります。イエス様のところへ行ったから、万難を排して、イエス様のところへ行ったから、彼らは、イエス様の力を体験しました。

そして、三つ目は、彼らは皆、自分の問題をイエス様に正直に話しています。息子の父親の場合が、とくにそうなんですけど、ごまかそうとはしませんでした。正直に、何が問題かを、イエス様に申し上げています。ただ、長血の女だけは、黙ってイエス様の着物にさわりましたけど、それには、理由(わけ)があったんです。ですから、イエス様はきっと、その理由を知っておられたと思います。彼女は、イエス様の御力を体験して、恐れおののき、それから、正直に全てを語りました。イエス様は、彼女がもうさわった時から、彼女がどういう人なのか、何を求めているのか、どういう状況にあるのかを知っておられた。だから、正直に出ることを、主は求めておられるということを、私たちは知ることができるのであります。

最後に、この機会に少しだけ考えたい、二つのことがあります。ひとつは、私たちはどうすれば、では、イエス様のところへ行けるのかということであり、もう一つは、祈りによって、盲人の目が開いたり、病気が治るのかということであります。

どうすればイエス様のところへ行くことができるのかということに関しては、確かに、今は、イエス様は地上にはおられません。でも、十字架にかかって死んで、三日目によみがえられたイエス様は、今も天で生きておられます。そして、同時に御霊として、地上にとどまっておられます。人としてのイエス様に出会うことができたのは、本当に限られた土地の、限られた時間の中にあった人たちだけでしたけど、御霊としてのイエス様には、私たちはいつでも、誰でも、どこでも交わりを持つことができます。正直な心で祈り求めるなら、イエス様は、必ず答えてくださると、私たちは確信を持って、受け止めることが許されています。

もう一つの問題は、祈りによって、盲人の目が開いたり、病気が治るのかという問題であります。

そのことは、私にもよく分かりません。しかし、わかることもあります。それは、人としておられた時のイエス様は、ご自身が旧約聖書で予言されている救い主であることを知らせるために、あるいは、救い主であるからこそ、盲人の目を開け、病気を治されたということではないでしょうか。もし、そのことがおできにならなかったら、イエス様は、旧約聖書で予言されている救い主ではないということになってしまいます。イエス様は預言された通りのお人であったから、それをなさったということになるのだろうと思います。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

ここに、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない』と記されています。人は、病気だから不幸なのではない。同時に、健康だから幸せなのでもないと言えるのではないでしょうか。人を不幸にする原因には、表面的には、いろいろなものがありますけど、この『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない』というところにありますように、根本的には、罪が人を不幸にするということが言えるのではないかと思います。そして、そこで言う罪とは、いのちそのものである創造主なる神様から離れていること、そのいのちそのものである神様から離れているから、生きる目的を見出すことができない、そこに不幸の大きな理由があるということではないかと思います。

死を恐れますから、いろんなものを怖れます。そして、恐れがあれば、心に平安がありません。喜びも希望もないということになってまいります。結局のところ、人が生きるには、罪の問題の解決が、もっとも優先されるべき課題であるということなのではないかと思います。

マタイ
9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
9:3 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
9:4 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
9:7 すると、彼は起きて家に帰った。

大切なことは、罪の赦しです。自分の惨めさを知って、正直な心で求めるものには、イエス様は、罪の赦し、主なる神との和解、永遠のいのちを与えてくださいます。

病気は、人々がイエス様を求めるきっかけとして――この中風の人の場合も、まさにそうでした。彼の心の中にあった様々な問題が、彼を苦しめていたんです――病気は、人々がイエス様を求めるきっかけとして、あるいは、信者がイエス様と親しい交わりを持つためのものとして、大切な役割を持っています。私たちは、病気が治ることよりも、病気をきっかけに救われること、病気を通して、イエス様に似たものとされることを祈り、求めたいと思います。

イエス様は、一人一人に目をとめて、愛してくださっています。全てを知っていて、最善に導いてくださるお方です。この方に信頼して、歩み続けたいと思います。

どうもありがとうございました。

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