エペソ人への手紙から学ぶ
2020年2月25日、火曜学び会
水渡 紀久雄
エペソ
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
ご存知のようにエペソ人への手紙というのは、新約聖書の中で、ローマ人への手紙と並んで、パウロが残した重要な書簡とされております。ただし、ローマ人への手紙は、パウロがエペソの教会で活動し、ご奉仕した頃に、コリントで書かれたと言われてます。その代わり、このエペソ人への手紙は、ローマで殉教の死を遂げる前に、ローマに幽閉されていた時に書きました。だから、むしろエペソ人への手紙の方が、最後の手紙ということになると思います。ローマ人の手紙は、ローマで書かれたわけではないということです。
短時間ですので、全部、触れることはできません。今日は、四章を中心に学んでみます。まずは、一章から三章までを簡単に見てみたいと思います。
ここで、第一章の要点は、父なる神様は、永遠からのご計画により、私たちをキリストのうちに選び、きよく傷のないご自分の子にしようと定めていてくださったということであります(五節)。二番目は、おかげで私たちは、御子イエス様が十字架の上で流してくださった血の故に罪赦され(七節)、証人として聖霊を与えられている(十三節)。三番目に、イエス様は十字架の贖いの後、よみがえられて高く引き上げられ、いっさいのものが、そのイエス様のもとにひとつに集められている(十節)。四番目、さらに、父なる神は、罪を赦された者に、イエス様をかしらとするキリストの体なる教会を与えてくださった――ここがいちばん重要なところだと思います――皆さん、よく引用しておられる、一章の二十二節から二十三節であります。
とにかく、大切なことは、教会は人間が作った宗教組織ではない。十字架を経て、天にあるもの、地にあるもののいっさいの上に高く上げられた主イエス様をかしらとする、キリストの御体なる教会である。そして、そこには全てのものに高く立つ、イエス様の満ち満ちた豊かさが満ちている。決して、人間が作った宗教組織ではないということが大切であります。
第二章には、そのようにして罪の中に死んでいた私たちを、イエス様ととともに、新しく天の所に座らせてくださったとあります(一~六節)。このように選ばれた私たちは皆、同じ神の家族であり、イエス様が聖なる宮の礎石となり、私たちは共に成長し、建てあげられ、御霊により、神の御住まいになるのだ。このように、御体なる教会の特質ともいえる、その天的な性格と一体性が明らかにされています。
私たちも共に、既に天の所に座らせていただいている。その私たちが、こうして天におられるイエス様を頭とする、神の御住まいに住まわせていただいている。そのために、御霊が与えられている。これは、教会の天的な性格を表しております。また、それによって、皆が共に、御住まいとしていただいているという一体性が明らかにされていると思います。
次に、三章ですけれども、イエス様が御霊によって内なる人を強め(十六節)――内なる人というのは、肉で生まれたものではなく、生まれ変わった人という意味だと思います――一人一人の心のうちに住んでいてくださいますように。これはパウルの祈りであります。私たちの心のうちに住んでいてくださいますように。そして、私たちが人の思いをはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように(十九節)。ここでも、パウロは、私たちがキリストの愛を知ることの大切さを繰り返し、強調しております。
【参考】エペソ
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
いよいよ、今日の本題の第四章の前半です。先ほど、読んでいただいたところです(エペソ四章の一~五節)。一口に言うと、召された私たちは、愛を持って歩みなさい。そして、御霊の一致を保ちなさいという点が大切であります。先ほど読んでいただいた、エペソ四章一節です。『その召しにふさわしくあゆみなさい。』
エペソ
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
つまり、私たちが日々の御言葉と祈りを通して、主イエス様との親しい交わりにあずかって、イエスさまを心から愛し、また、イエス様からいただく愛をもって、兄妹姉妹を愛し、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し(二節)、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい(三節)。そして、それぞれの賜物を生かして、ひとつとなって主の栄光を表しなさい(七節)ということになると思います。愛をもって御霊の一致を熱心に保ちなさい。
先ほどの祈りの中でも、パウロはキリストの愛を深く知る必要があると強調していますけれども、このエペソ人への手紙の中では、愛という言葉が、全体で二十二回、出てくるそうです。
なぜ、それほど、キリストの愛を強調しているのでしょうか?もちろん、神の愛、キリストの愛は、御体なる教会がひとつになるためには、どうしても必要なことであり、反対に、生まれながらの肉的な愛や、いわゆるヒューマニズムと呼ばれる人間的な思想に頼るならば、教会の一致を妨げる恐れがあるということであります。肉の愛やヒューマニズムと言われるような――人間の最高の思想とも言われてますけど――こういうものに頼るならば、教会の一致は持ち得ないということです。
今回、私たちの集会でも、混乱、つまり、御体なる教会の秩序を無視した行動が繰り返されました。残念なことですけれども、過去いろいろな問題を起こして、集会を去った人物を受け入れるようにすべきだという兄弟たちが、礼拝などで、『互いに愛し合いましょう』と言って、イエス様が求められている愛とは全く違った、人間的な肉の愛をもって、集会を混乱させました。また、このような外からの惑わしにより、献金に対する扱いに異議を唱えたり、十数人がこの講壇を取り囲んで、責任役員会を非難するなど、まだまだ、あります。愛と言いながら、全く肉的な感情に捕らえられたグループの行動が繰り返されたことは、たいへん残念なことであり、イエス様が大いに心を痛めておられるところだと思います。
これらのことは、イエス様のくださる愛、御霊の結ぶ実としての愛からは、決して出てこない行いではないでしょうか。それは、次の言葉からも明らかです。
ガラテヤ
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。
パウロが求めたことがピッタリしていると思います。反対に、少し前のガラテヤ書の十九節にはこうあります。
ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、・・・・
ベック兄も学びの中で、次のように語っておられます。『本当の愛は、主からのものです。イエス様を愛さない人は、自分が中心になりたいと思っています。イエス様に対する愛なしに何かをすることは、肉的な行動することを意味します。そして、肉からは何も良いものは出てきません。』(2013年4月16日のメッセージ)
やはり、生まれながらの私たちのうちに、本当の愛はありません。自分の感情を捨てて、自分たちのうちに住んでくださる主イエス様のいのちによって、初めて兄妹姉妹に対する、心からの愛が生まれるのではないでしょうか。そのためには、やはり、全ての信者に十字架が必要だと思います。イエス様はおっしゃいました。
ルカ
9:23 ・・・・だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
9:24 自分のいのち(・・・・これは、自分の魂を意味するそうです・・・・)を救おうと思う者は、それを失い、(・・・・肉の思いを救おうと思うものはそれを失い・・・・)わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
また他にも、有名なローマ人への手紙、六章の六節で、『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた・・・・』云々と言うところがあります。罪の奴隷でなくなるためです。それから、皆さま、覚えていらっしゃると思います。
ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
私たちは、これらの御言葉を、絶えず信仰の支えとすべきだと思います。十字架は、罪の赦しを実現するだけではありません。新しい命を与えてくださるのです。自分が赦されたと言って、安心してはいけません。十字架によって、新しいいのちに生きる者としてよみがえらせていただけているかどうか、古い自分のいろいろな思いや自分の思想から解放されているかどうか。これが、イエス様が私たちに問うておられることであります。
そのためにも、この御体なる教会を立ち上げてくださった・・・・それほど、大切な教会であります。だからこそ、御体なる教会の御霊の一致を守って、主に用いられるために必要なのはその新しい命です。そして、この集会がいのちのない教会にならないように、共に悔いあらためて祈りたいと思います。
また、先のエペソ、四章七節にもありましたように、集う私たち一人一人は、これまでの生き方、考え方、置かれている環境、あるいは、信仰の歩みも違うと思います。また、与えられている賜物もそれぞれでしょう。しかし、イエス様はその異なった賜物を用いて、真の愛、また、謙遜、柔和、寛容などのへりくだったきよい心を持って、互いに仕え合うことを望んでおられます。
四章の後半に入ります。
エペソ
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
今までお話ししたことと、合い共通するとは思いますが、ここには、とくに教会に集う者、全てへの勧めと合わせて、使徒、預言者、伝道者など、御体なる教会全体を整えるために特別に召された働き人の役割が語られています。
一番目に、体全体のために、このように特別に召された働き人は、自分だけでなく、救われて集会に集う人々が、整えられて、肉ではなく御霊に導かれた信仰者となれるよう、身体全体に目を配る働き人となるべきとにあります(十一~十二節)。身体全体に目を配る働き人が必要だということですね。
二番目、同時に、集う私たち全ての者も、イエス様への信仰とイエス様への知識の偉大さにおいて成長し、自分の肉を十字架につけて、完全に大人になって、イエス様の姿に似たものとされるべきこと。
三番目、教会を堕落させようとして働く悪い霊の攻撃、惑わしに捕らわれないよう、自らに警戒するとともに、惑わされてる兄妹姉妹には、愛を持って真理を語り、ついには、悔い改めて、主の愛の元に戻れるよう、忍耐の限り祈り続けること。
こうして、途中経過はどうあろうと、皆が揃って成長させていただけるよう、イエス様のいのちと愛をいただいて、ひとつとなって歩み続けることが大切だとされています。
ところで、私たちの集会の場合には、この特別に許された働き人というのはどうなっているでしょうか。もちろん、ベック兄がおられた時には、まさに宣教師としてこの役割りを負って、ご生涯を捧げてくださいました。しかし、兄弟が召された後、誰が集会を守るために働いてくださるのかが問題になりました。そもそも、誰がこの任にあたるかは、まず、主がお決めになることです。生まれや家柄によるものではありません。教会の経歴によるわけでもありません。人間的な法律論や組織論で決めることでもありません。ベック兄も、主がお決めになると言って、後継者を指名するようなことはなさいませんでした。
しかし、現実に問題が発生したとき、責任役員会の主な兄弟が立ち上がって、更なる自己犠牲と霊的訓練が求められることも覚悟の上で、その重荷を負ってくださいました。おかげで、集会が度重なる混乱や攻撃を乗り越えて、現在に至っていることはご存知の通りであります。また、この間に、イエス様がときに知恵と力を与えて、兄弟たちを支え、導いてくださったであろうことは、想像に難くありません。
確かに、この兄弟たちは、牧師でも預言者でもありません。けれども、これは自分たちが重荷を負うべきだという、主からの示しに忠実に従った結果であり、全く聖書の教えにかなったものであります。
例えば、旧約聖書のネヘミヤ記に記されています。ネヘミヤはペルシャに捕囚として送られていたユダヤ人で、その頃はペルシャ王の献酌官でした。預言者などではありません。ただ、彼は祈りの人でした。そして、イスラエルの犯した罪の深さを思い、また、エルサレムの城壁が崩されるまま放置されていることを知って心を痛め、イスラエルの民の先頭に立って、城壁の再建に取り掛かるよう、主から示しを受けたのです。その後、城壁の再建を決意したネヘミヤは、祈りながら主の許しを得て、ユダヤに帰り、民とともに工事に取り掛かり、執拗な妨害行為や困難を乗り越えて、これを完成させます。この間に、王の厚意でユダヤの総督に任命されますが、これもまた、主は必要なときに思わぬところからも働いてくださるという証左だと思います。
ですから、私たちのあいだでも、集会を守るために、かつての働きを超えて、責任役員会の兄弟たちが召しだされ、また、それぞれに、それを受け入れて歩み出してくださったことは、感謝こそすれ、非難されるべきことではありません。むしろ、兄弟たちが、今後もいろいろな攻撃や惑わしから守られて、さらに、主の大能の力により頼んで、みこころの道をまっすぐ歩み通していただけるよう、私たちも祈り続け、共に重荷を負って、歩まなければならないと思います。
最後に、悪魔との戦いが第六章に出てまいります。これは、エペソ人への手紙で、パウロが何を言いたかったか、何を結びとしたかということでもあります。
主に愛されてる教会は、サタンの攻撃の的となります。何とかして、そうしたものをつぶしたいというのは、サタンの主なる神から切り離されたときからの、さらに昔からの望み、希望であります。私たちは、決して油断することなく、皆が十字架を負って、自分を主に明け渡し、サタンの攻撃からも自分が守られるように、一心に祈りながら、そして、肉の働きから解放されて、この宝である御体の教会を守り、さらに成長するものとしていただけるよう、また、今、集会の中で、迷いの中に置かれている兄弟姉妹も、どうか主の元、イエス様の元に戻れるように、共に祈り続けることができれば幸いと思います。
ともに、さらにイエス様を証ししながら歩みましょう。
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