2020年2月23日、吉祥寺福音集会
古田 公人
エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
イエス様を信じる者は、罪が赦され、主なる神との和解をいただき、永遠のいのちを受けます。しかし、大切なことは言うまでもなく、永遠のいのちを持つだけではなくて、その新しいいのちにあって生きることだと言えるのではないかと思います。
第一コリント十二章、よく知られているみ言葉があります。
第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
真(まこと)の教会と、そうでない教会は、イエス様が満ち満ちておられるかどうかによって、分けられるのではないかと思います。同じように、信者について言えば、単に御体なる教会の器官であるだけではなくて、生きた器官でなければならないということではないかと思います。ですから、今日は新しいいのちにあって生きる、そのことについて、三つの点から、一つは、自分を知る。二つ目は、イエス様との交わりの中に留まる。三つ目は、イエス様と目的を共にするということについて、ご一緒に、短く考えてみたいと思います。
最初は、自分を知るということです。私たちが新しいいのちにあって生きるには、自分の国籍、身分、立場を知って、自分は何者かをわきまえる必要があると思います。言うまでもなく、それは、生まれたままの人にとっては、自明のことではありません。みことばによって、自分の国籍を、身分を、そして、立場を知り、知ったことを経験的に自分のものとするということが求められています。そうでなければ、全ては知識で終わってしまいます。では、聖書は、私たちの国籍、身分、立場について、どのように言っているのでしょうか。順に見てみたいと思います。
ピリピ
3:20 私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
国籍は天にあります。永遠のいのちを持つ者には、地上は、一時的な居留の場となります。主イエス・キリストがそこから来られる時、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と、同じ姿に変えてくださいます。国籍を天に持つ者にとっては、本来あるべき姿に変えていただけるということではないかと思います。この御言葉は、ですから、私たちに無限の希望を与えてくださると、言っていいのではないかと思います。今の生活は、一時的なものに過ぎない。だから、たとえ失敗ばかりであっても、本当に惨めであっても、それで人生の価値が決まるのではないと、イエス様はお語りくださいます。
私たちにとって、天におられるイエス様が、私たちの主権者であるということほど、すばらしいお約束もないと思います。イエス様の愛のうちにあるものには、もはや、本当の意味で恐れるべきものは地上にはないと言えるのではないでしょうか。怖れるべきものは、むしろ、愛そのもの、いのちそのものであられる主イエス様だと言っていいのではないでしょうか。逆説的ですけど、イエス様を怖れることは、平安と絶えることのない御力(みちから)の喜びを、私にもたらしてくださいます。
第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
私たちは、今すでに神の子供です。驚くべき宣言を、主はなしてくださいます。永遠の命を持つものは、失われることなく、消されることもない天の記録に、『神の子供』と記されます。これが私の身分です。言うまでもなく、上司はイエス様です。そして、ここでも、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似たものとなると、約束されています。イエス様を信頼するなら、地上の姿は、それほど問題ではないと知らせられます。
もちろん、イエス様に似たものとしていただくとは、外側だけではないと思います。大切なのは、内側もイエス様に似たものとしていただけることではないでしょうか。恨み、憎しみ、妬み、僻み、意地悪と言った、私たちの持つ生まれながらの性質は皆、変えられます。愛、喜び、平安、寛容、親切、柔和、自制と言った、イエス様にある徳で満たしてくださいます。
ですから、自分を見つめて、がっかりするようなことはやめたいと思います。自分では気がつかなくても、イエス様は、私たちが自分自身をイエス様に明け渡そうとしたときから、既に働いてくださっています。ご自身に似たものにしようとしてくださっています。
もし、救われているにもかかわらず、なお、恨みや憎しみを持ち続けているなら、イエス様との親しい交わりを持っていないか、新しいいのちにあって生きていないのではないかと、振り返ってみる必要があろうと思います。そのようなことにならないように、いつもイエス様を見上げたいと思います。
第一コリント
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
これが、私たちの立場です。御体の器官として、お役目をいただいています。
救われて永遠の命を持つとは、天に国籍を持ち、神の子供、御体の器官であるということを、約束してくださっています。御体の器官として生きる人は、もちろん、御体を第一にします。そこには、個人主義的な主張や行動が入り込む余地はないと言っていいのではないでしょうか。頭(かしら)であるイエス様が、主導権をお持ちになるべきです。そうであるなら、教会は、一人一人の信者が、イエス様と親しい交わりを持つ、生きた有機体となります。もし、兄妹姉妹が、自分の考え、自分の計画、生まれたままの性質や能力を十字架につけているなら、教会は、本当に生きた有機体です。そこには、隔てのない交わりが見られるはずなのではないでしょうか。
私たちは、もう自分は古い人と古い人に属するものを十字架につけたと言えるのでしょうか。イエス様はそれを尋ねておられます。
今まで、自分を知る必要について考えてまいりました。次は、二番目のイエス様との交わりの中に留まるということについてであります。イエス様に止まるとは、言うまでもなく、イエス様との交わりの中に生きることを意味しています。イエス様は御体なる教会について、ぶどうの木と枝の例えでお語りくださいました。
ヨハネ
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ぶどうの木は、枝が成長し、実を結ぶために必要なものを、樹液として、枝に送ります。枝は、樹液を受けて成長し、実を結びます。でも、光が当たらなくなったり、病気にかかったり、カミキリムシのようなものが枝の中に入ったりすれば、枝は衰弱して、死んでしまいます。
全ての枝が死ぬと、木も死んでしまいます。ですから、木は、枝を支えているのですけど、枝もまた、木を支えていると言っていいのではないかと思います。もちろん、御体なる教会は天に属していますから、決して、死ぬことはありません。しかし、地上の教会は、天の教会を表しているものであるとはいえ、様々な理由で死ぬことがあります。理由は様々ですけど、共通していることは、イエス様との親しい交わりを失うことだと、言えるのではないかと思います。
黙示録
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
これに引き続いて、あと六つの教会を例えに、忠告が与えられていますけど、エペソを含めて、五つの教会が、それぞれに主から厳しい注意を与えられています。でも、それは、どれも共通するところは、イエス様との親しい交わりを失っていることと言えます。そして、問題は、イエス様との親しい交わりを失うとき、一人一人の心の中を、偶像が占めるようになることであります。そのようにして、ひとつひとつの器官が死ぬと、地上の教会もまた、死んでしまいます。
エペソ
1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
ぶどうの木の樹液にあたるものは、御体なる教会にあっては、御霊だと言えるのではないかと思います。御霊は御心を教えてくださり、御心に従って、導いてくださいます。御霊が、ひとりひとりの信者の主導権を持っておられるなら、木は豊かに実を結ぶようになり、イエス様が満ちるまで、御体は成長します。
ガラテヤ
5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
私たちは日々、古い人と古い人に属するものを、十字架につけるようにと、この御言葉は、私たちに語っています。そうすれば、御霊の満たしをいただいて、実を結ぶ者としていただけるのではないかと思います。
以上、自分を知ることと、イエス様との交わりの中にいる必要について考えてまいりました。三番目は、イエス様と目的を共にするということについてであります。
エペソ
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
イエス様のご計画が、ここに記されています。それは単に、罪人を救うことだけではなく、救われたものを、御体の器官とするだけでもない。それは、神の栄光が褒め称えられるためだと知らせられます。
御体の器官が、信仰の一致と、神の御子に関する知識との一致に達し、完全に大人になって、イエス様の満ち満ちた身丈にまで達することによって、御体は主にある聖なる宮、また、神の御住まいとして、イエス様の栄光を表すようになります。
エペソ
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
イエス様が満ち満ちておられる教会を作り上げることが、イエス様のご計画です。そのことによって、イエス様のご栄光が褒め称えられるからであります。そのためには、私たち一人ひとりの古い人が死んで、御霊に満たされた生活が、どうしても必要だと言えるのではないかと思います。
忘れてならないことは、地上には、イエス様のご計画を妨げようとする力があることであります。
使徒の働き
20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
イエス様のご計画を妨げようとする力は、初代教会の時代にも、すでに教会の中に入り込もうとしていただけではなくて、いつの時代にも働いていました。イエス様は、天と地の一切の支配と権威を持っておられます。そうであるのに、御体を壊そうとする力は、いったいどのようにして、教会の中に入り込むことができるのでしょうか。考えられることは、ひとつしかありません。黙示録の二章と三章を通して明らかにされるように、それは、既にいる信者によって入るということであります。
ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。
兄妹姉妹を用いて、教会を建て上げたいというイエス様のご意思とご計画は、いつの時代も、変わることはありません。ですから、もし御体を壊そうとする力が働いたとしても、イエス様との親しい交わりを真剣に求める兄妹姉妹がいるなら、イエス様は、イエス様のご計画を妨げようとする力さえも、教会の成長のために、訓練として、試練として、用いることがおできになります。
もう少し具体的に申し上げますと、例えば、イエス様のご計画を妨げようとする力が働くときにも、真剣に御心を尋ね求める兄弟姉妹は、組織化された教会と、御体なる教会はどこが違うのか、生きた器官であるとはどういうことなのかを、頭で知るだけではなくて、経験的に知るようになるのではないでしょうか。その結果として、それらの兄妹姉妹は、イエス様のご計画が成就するために、自分も用いられたいと思うようになり、同時に果たして、自分は頭(かしら)であるイエス様の喜びを自分の喜びとしているか、また、かしらであるイエス様の悲しみを、自分の悲しみとしているかと、吟味するようになります。そうすれば、一人一人は、もはや傍観者ではいられなくなります。
自分に死んで、イエス様を第一とする兄妹姉妹は、はじめは確かに、イエス様のご計画を妨げようとする力が働くことを嘆くでしょうけれども、後には、嘆くのではなくて、逆に、私たちは、御体なる教会の奥義を、経験的に知るようになったと言うことができるようになるのではないかと思います。そのようにして教会は、人間的な力に弄(もてあそ)ばれることなく、しっかりと組み合わされ、結び合わされるようになったと、主を褒め称えるようになるのではないかと思います。
完全ではありませんけど、私たちもまた、ここ数年来、そのような経験を、イエス様から与えていただいたのではないかと思います。もし、私の古い人が本当に死んで、イエス様が頭になっておられるなら、私たちは御体を壊そうとする力を、それほど恐れる必要はないと思います。
しかし、黙示録、二章から三章にある、エペその教会のように、初めの愛から離れるなら、あるいは、テアテラの教会のように、偶像を持ち込むなら、あるいは、ラオデキヤの教会のように、イエス様から完全に目を離してしまうなら、イエス様ご自身が、『わたしはあなたのところに置かれている燭台を取り外そう』と、仰せになります。本当に恐れるべきことは、そのことではないかと思います。
主はすでに、勝利をしておられます。いつも、主を見上げ、御霊に導いていただいて、地上の歩みを歩み続けたいと思うのであります。
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