2020年2月9日、御代田福音集会
古田 公人
ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
イエス様は、『ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座されました』と記されています。このみ言葉の中にある四つの言葉のうち、『はずかしめ』、『十字架』、『神の御座の右』、この三つの言葉については、それぞれが具体的に何であるかは、聖書を読めば、それなりに明らかになります。しかし、『ご自分の前に置かれた喜び』というものは、やはり、りちょっと聖書を読んだだけでは、何を指しているのかは、分かりにくいところではないかと思います。ですけど、この『ご自分の前に置かれた喜び』のゆえに十字架を忍ばれたのですから、前に置かれた喜びとは、イエス様が人のかたちをとってこの世に来てくださった、そのご目的に関わることであったということは、明らかであろうと思います。
そして、その目的を成就するために、イエス様が十字架におかかりにならなければならなかったということも、また、明らかなことではないかと思います。イエス様は、何のために人となってこの世に来られたかということを、様々な機会にお語りになっています。それぞれの機会に応じてふさわしく、例えば、律法を成就するために来た、あるいは、真理をあかしするために来た、あるいは、多くの人の贖いの代価として自分のいのちを与えるために来たなどと、おっしゃっています。それらの御言葉を一言で言い表すとすれば、多分、ヨハネの6章38節にありますように、父の御心を行うために来た・・・・というものになるのではないかと思います。
今日は、イエス様がこの世に来てくださり、十字架にかかってくださったことを通して成し遂げられた、主なる神のみ心を、神の義、新しい創造、教会、この三つに分けて、ご一緒に考えてみたいと思います。
最初は、神の義であります。主なる神は、天と地の造り主にして、支配者です。道そのもの、真理そのもの、光そのものなるお方ですから、そこには、罪と暗さは、全くありません。主なる神は、罪とは関わりを持つことのないお方であります。しかし、初めの人、アダムによって、罪が世界に入り、罪によって、死が入ったとローマ書にある通りであります。イエス様は、罪がもたらす結末を、ヨハネの八章でこうお語りになりました。
ヨハネ
8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。
罪の報酬は死であると言う通りに、罪は死をもたらします。主なる神は、義なるお方です。主なる神が、天と地と一切のものの支配者なら、罪は罰せられなければなりません。ですから、イエス様が全人類を代表して、罪の罰を受けてくださいました。
第二コリント、短いみ言葉ですけど、大切なみ言葉ではないかと思います。
第二コリント
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
そういうふうに記されています。罪を知らないお方であったイエス様が、罪そのものとなって、私たちの代わりに、十字架にかかって、死んでくださいました。こうして、イエス様にあって、全人類の罪は罰せられ、神の義が義となられ、そして、そのことによって、罪が赦される道が開かれました。罰せられたから、赦されたんです。この順序は大切ではないかと思います。
ヘブル
9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
この、『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない』ということは、主なる神の永遠に変わることのないみ心です。旧約聖書から、一貫して、このみ言葉は聖書の中に受け継がれています。ですから、旧約聖書の時代は、罪が赦されるために、生贄の動物の血が捧げられています。
ヘブル
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
このみ言葉は、動物の血は罪を除くことができないけれども、神の御子であるイエス様の尊く聖い血が、十字架の上で流されたことによって、全ての罪は、永遠に贖われた、赦されたということを、意味しているのでないかと思います。
ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
主なる神は、天と地の、そして、一切のもののただ一人の唯一の権威ですから、義なるお方でなければなりません。主なる神は、イエス様を――み言葉の二十五節にあるように――なだめの供え物として、十字架にお掛けになりました。こうして主なる神は、罪を見逃すことのないお方、義なるお方であることを明らかになさったと、み言葉は記しています。
イエス様は、ご自身が、ヨハネの十四章六節で、『わたしは道であり、真理であり、いのちなのです』と語りになっています。証しをされたという方がいいのではないかと思います。そして、その証しの通りに、イエス様の十字架の死によって、主なる神の義が、イエス様ご自身の道、真理、いのちであることが明らかにされることを、喜ばれたに違いないと思うのであります。それゆえに、十字架を、辱めをものともせずに、忍ばれたということが考えられるのではないかと思います。
二つ目のポイントは、新しい創造ということであります。
ヨハネ
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
イエス様は、ユダヤ人の教師であったニコデモに、新しい創造の意義をお語りになりました。でも、ニコデモには、まったく理解できなかったことであったようであります。でも、今は、イエス様の十字架の死とよみがえりを通して、新しい創造が、すべての被造物にもたらされています。
ヘブル書十二章二節――最初に読んでいただいたみ言葉ですけど――主なる神は、全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかって死なれたイエス様を、三日目によみがえらせ、天の高い所に引き上げられました。イエス様は、父なる神の右の座について、今も生きておられます。
ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
イエス様を信じるものは、イエス様の死とよみがえりを、このようにして、自分のものとすることができると記されています。イエス様を信じる者は、『私は、イエス様にあって死んでよみがえった、イエス様のよみがえりのいのち、すなわち、今は永遠のいのちにあって生きている』ということができるのであります。これは新しい創造であります。
第二コリント
517 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
その人にとって、全てが新しくなったと記されています。同じ内容が――多分、同じ内容だと思うんですけど――ガラテヤ書にも記されています。
ガラテヤ
5:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。5:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
見よ、全てが新しくなりました。宗教は、何の価値も持たない。割礼は、受けているか、いないかは大事なことではないということは、宗教は、何の働きもすることができない。大事なのは、新しい創造、イエス様にあって、十字架に共に死に、イエス様にあって、新しいいのちにあるあゆみをすることだと、み言葉は記しています。新しい創造にあずかった人は、罪によって霊的に死んでいた古い人が死んだんです。ややこしい言い方をしますけども、霊的に死んでいた古い人が死んだのです。
そして、新しいいのちにあって生きるものとされています。霊的に死んでいる古い人が死んだことは、罪が支配する暗闇の世界に対して、死んだことを意味します。このガラテヤ書は、それを明らかにしています。暗闇の世界に対して死んだ人にとっては、もうこの世界は、死んでいるのですから、そこには、恐れるべきものは何もない。『大事なのは新しい創造です』と、み言葉が語ってくださっています。
イエス様は、ご自分がよみがえりの主であることを証ししておられました。
ヨハネ
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
このようにして、イエス様の十字架の死とよみがえりを通して、新しい創造がもたらされることを喜んで、イエス様は、十字架にお着きになったのではないかと思います。
そして、三つめのものは教会であります。
ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
イエス様は、このみ言葉でもって、み体なる教会の姿を、前もって、お弟子たちに知らせてくださいました。ですから、イエス様は、ご自身の十字架の死とよみがえりを通して、み体なる教会がもたらされることを、ご自身のために、また、信者のためにもたらされることを、喜ばれたのではないかと思います。
エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
父なる神は、ご自身の全能の力をキリストのうちに働かせ、よみがえらせ、天上において、全ての支配、権威、権力、主権の上に、高く置かれました。
そして、天の高い所におられるイエス様に、体として教会をお与えになりました。教会がキリストの体なら、教会はイエス様です。教会は、イエス様が満ち満ちておられるところであり、イエス様が天と地の支配者であることを証しするもの、栄光の現れであるということができます。
イエス様は、教会によってご自身の栄光が現れることを強く望んでおられます。言うまでもなく、教会と言っても、頭であるイエス様が天におられるのですから、教会は天に属するものであり、全世界の全ての時代の信者がみ体の器官です。
私たちは地上にいますから、ついつい、地上の教会が全てだと考えがちですけれども、教会が天に属するものであって、いっさいのものを、一切のものによって満たす方の満ちておられるところであるということは、どれほど強調しても、強調しすぎることのない事実ではないかと思います。
地上の教会は、ですから、天の教会を表すべきものであります。この任務を忘れてしまったり、あるいは、捨ててしまった教会は、人間がどのように主張するとしても、イエス様にとっては、もはや、ご自分とは何の関係もないものであるばかりか、むしろ、人々の目をイエス様から逸らせる悪魔の道具となってしまうのではないかと思います。
教会が天に属するものであることを、世界に向かって証明するためにも、また、イエス様の満たしを損なわないためにも、私たちは、地上の価値観を教会の中に持ち込んだり、偶像をイエス様の代わりに置くというようなことはあってはならないと、み言葉は記しています。
エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
罪が赦され、主なる神との和解をいただき、永遠のいのちに与った一人一人の信者が、神の子供として、また、神の相続人として成長し、イエス様の満ち満ちたさまにまで達することによって、イエス様は栄光を現されます。私たちが、教会の持つこの霊的真理を自分のものとする時、み体なる教会は、イエス様の栄光となるということができるのではないかと思います。
最初に読んでくださいましたみ言葉のように、イエス様はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架をしのばれました。見てまいりましたように、イエス様の前に置かれた喜びとは、神の義があらわされること、新しい創造が成し遂げられること、そして、み体なる教会が与えられること。こういったことにまとめられるのではないかと思います。
でも、それ以上の喜びが、イエス様にはあったに違いないと思います。それは、人として来られたイエス様が、地上でなすべき全てのことをなしおえて、天の高いところで、父なる神の右の座にもう一度、着かれること、地上で与えられたすべてのことを成し遂げて、もう一度、着かれること。単に着かれることではなくて――イエス様は、最初からそこについておられたのですから、そこにいらっしゃること自体がそれほど大切だったら、人のかたちを取って来られなかったでしょう。でも父なる神のみ心に従うことが、はるかに大切だから、人のかたちをとって仕えるものとしてきてくださいました。
でも、全ての事をなし終えたら、もう一度、ご自身にふさわしいところに、ふさわしい形で、お着きになることは、やはり、大きな喜びであったのではないかと思います。そして、そのことを思う時、イエス様が地上でしのばれた自己犠牲の愛の大きさを、あらためて思わされ、イエス様にただ感謝と賛美しか、私たちにはないのではないかと思います。
私たちは、地上のご生涯を、十字架への道として、まっすぐに歩み通されたイエス様に従って、み体の器官として、イエス様の満たしにあずかり、イエス様の満ち満ちた様にまで、共に成長する歩みを、歩み通したいと思うのでございます。
どうも、ありがとうございました。
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