三つ撚りの糸
2020年1月26日、秋田福音集会
岡本 雅文
マタイ
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
イエス様を知らなかった頃の私たちもそうですけれども、イエス様を救い主として信じておられない現代の多くの善良な人々は、悔いのない人生を送りたいと思っておられるのではないかと思います。
この世の中で広く受け入れられているこの価値観について、少し考えてみると、ただ自分の思うとおりに生きていきたい、自分が満足する道を歩んでいきたい、すなわち、自己満足の道を歩みたいという人間の普遍的な自己愛の性質を、きれいな言葉で言い表したに過ぎないのではないかと思います。言葉を変えて言えば、多くの人々にとって――以前の私たちにとっても――悔いのない人生を送るということばで表される人生観は、ある種の高尚な生き方にさえ思われるのではないかと思います。こうして、『悔いのない』という短いフレーズの中に、人間の利己的な思いが覆い隠されて、美化された志(こころざし)として、広く人々に受け入れられています。
このような人間の思い、考え、価値観に対して、聖書は全く異なる真理を告げています。この人間の性質こそが、自分の思うとおりに自分が満足する道を歩みたいという人間の性質こそが罪の本質である、的外れである、すべての問題の根源であると聖書は告げています。
ローマ
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
このようなこの世の価値観から生まれる代表的な人生観のひとつは、次のようなものであると、聖書は告げています。第一コリント、十五章の三十二節であります。『もし、、死者の復活がないなら、』このことばは、すなわち、神がいないのなら――先ほどのローマ書の、『彼らの目の前には、神に対する恐れがない』と、神様が語ってくださったように、この世の中ではそういう考え方に立脚している。
第一コリント
15:32 ・・・・もし、死者の復活がないのなら、(・・・・神がいないのなら・・・・、)「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。
このように書かれています。どうせ、この世で終わりなのだから、あるいは、一度しかない人生なのだから、自分のしたいことをしよう。これが、どのような言葉を使うとしても、人間の心の奥底に横たわる暗闇の価値観であります。聖書はそう言っています。そこから、そのような価値観から、罪、すなわち、的外れ――罪とは、的外れと言う意味だそうですけれども――この的外れの結果が現れると、聖書は人の心の秘密を告げています。こういうことだから、的外れの結果が、人間の世界に、私たちの人生の中に、起こるのであると告げています。
このような現代の世の中にあって、イエス様を信じる者たちの群れが、このように存在する理由のひとつは、ここにあると私自身は考えます。パウロは、第一コリントで、次のように書きました。パウロとは、約二千年前にイエス様の福音を、当時の全世界に伝えた――もっとも多く伝えた――伝道者であります。
第一コリント
14:24 しかし、もしみなが預言をするなら(・・・・ここの預言とは、御言葉を告げるなら・・・・)、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25 心の秘密があらわにされます。・・・・
ここで、『心の秘密』とは、罪の性質があらわにされます。
14:25 ・・・・そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。
このようにイエス様を信じる者たちが集っているこの場所に、まだ信じておられない方が入ってきたとしたら、そして、私たちが聖書の言葉を語り合っているとすれば、信者でない方々が、心の秘密を、罪の性質を、あらわにされると書いてあります。そのような存在としてこの地上にぶれがある。そう、パウロは書いたのであります。
イエス様のお考え、すなわち、御心は、人の想いや考えと大いに異なります。人の考える悔いのない人生とは、自己を愛する性質のままに生きる人生、罪の性質に支配される人生でありました。それに対して、聖書が告げる、また、イエス様が望んでおられる生き方とは、イエス様をもっとよく知りたい、そのように願う人生ではないかと思うんですね。それは、イエス様と深い交わりが与えられる、そういう生き方であります。なぜなら、イエス様を通してだけ、神様の本質を知ることができると、聖書が証言しているからであります。そして、神との交わり、造り主との交わり、それが私たち人間にとって、もっとも幸いな時である――聖書の表現は、こういうものではないでしょうか。
ヘブル書の一章にはこのように書かれています。『この終わりのときには・・・・。』聖書は、今の時は終わりの時、もうすぐこの世界は終わると、聖書全編が語っています。
ヘブル
1:2 この終わりの時には、御子によって(・・・・イエス様によって・・・・)、私たちに語られました。
1:3 御子は(・・・・イエス様は・・・・)神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われである。
ここに告げられている通り、イエス様によって神が解き明かされた。ヨハネはそのように言ってます。イエス様を通してでなければ、神が分かりません。この方のうちに――イエス様のうちに――私たちが知らずに願っていた本当の幸いが全て備えられている。これが福音でありましょう。
この本当の幸いとは、イエス様ご自身の性質でもあり、聖書は、『御霊の実』という表現をしています。ガラテヤ書の五章に九つの表現がされています。イエス様のご性質と言ってもいいでしょう。また、信じる者に与えられるイエス様の御姿そのものであります。
ガラテヤ
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。
イエス様の性質を一言で言い表すことはできません。いろいろな言葉を用いて、そして、一人の人格が浮かび上がります。『イエス様との交わりの中で、このイエス様ご自身である御霊の実が与えられる』と聖書は告げているようであります。この幸いを、ヨハネというイエス様の十二弟子の一人は、どうしても私たちに伝えたかったようであります。ヨハネの手紙第一というこの手紙の中で、ヨハネは当時の兄妹姉妹たち、そしてまた、二千年後の私たちにも、彼の喜びを次のように伝えています。
第一ヨハネ
1:3 私たちの見たこと(・・・・ヨハネとその同労者たちが見たこと・・・・)、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの(・・・・ヨハネたちの・・・・)交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
神との交わりです。
第一ヨハネ
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが(・・・・ヨハネたちが約二千前にイエス様とともに生活をした彼らの喜びが・・・・)全きものとなるためです。
二千年後の私たちにも、当時のイエス様から与えられたあの喜び、信じるものの喜びを伝えたいと、ヨハネは手紙を書きました。
この方こそ――イエス様こそ――私たちを、ご自分の命と引き換えに、罪ある者から全くの解放へ――無罪放免へ――、また、完全な自由へと導いてくださった方であります。十二弟子の一人のヨハネ。彼が自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の手で触ったこの方、イエス様をよく知ることこそ、私たちに与えられた特権であります。そして、この聖書を通して、二千年間、数え切れないほど多くの人間が、イエス様と交わりを持ち、そして、御霊の実を体験いたしました。
この特権を行使することとは――イエス様を信じる者の特権を行使することとは――イエス様と共に生きるということであり、あらゆる機会を通して、御霊の実に出会い続けるということではないかと思います。この御霊の実――あの九つの言葉――は、生まれながらの私たちの性質には、見ることさえできなかったものであります。ただ、イエス様ご自身のうちにだけある神の性質そのものです。こういうわけで、私たちが生きている限り、このイエス様というお方の人格に触れ続け、彼に信頼して、彼の御心だけを慕い求めて生きることこそ、聖書が告げる喜びであり、幸いだと、私たちは耳で聞いて知っています。
このイエス様をよく知ることが、新約聖書の福音書に書かれている、『良きぶどうの木であるイエス様につながる』ということになるのではないでしょうか。この恵みに至る門は、すべての人の前に、同じように公平に開かれています。どんな人も、全く同じように、誰でもこの門を通ることができますし、そして、自ら拒絶することもできる――そういう恵みの門、狭き門であります。この神の命令は、ヨハネの福音書の十五章、一節、五節の短い命令、これだけがイエス様が私たちに命令している言葉ではないかと思います。
ヨハネ
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に(・・・・あるいは、御心、または、御心として、あるいは、御霊として・・・・)とどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
イエス様にとどまれば、イエス様に繋がっていれば、ぶどうの木につながる枝であれば、あの御霊の実が、私たち一人ひとりに与えられる。『私たちのものである』とは書かれていませんけども、養分が流れてくるということではないでしょうか。イエス様は私たちにただ、ぶどうの木――イエス様――に止まるようにとだけ、命名されました。イエス様はぶどうの木であり、豊かに実った御言葉の木そのものであります。イエス様から無尽蔵に与えられる言葉を食べて、養分を与えられ続ける、そういう喜びを共に感謝することができるなら、幸いです。
マタイの十八章から、もう少し、イエス様の御声をお聞きしたいと思います。マタイの十八章の三つの箇所から、イエス様は、小さいものに特別に目を注いでくださっていると知ることができます。
マタイ
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。(・・・・十二人の弟子たちです・・・・)「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
先ほど、子供の歌を歌いましたけども、天国で歌われる歌は、そうかもしれません。
この箇所の要点は、小さな子供のように自分を低くする者が天の御国でいちばん偉い人ですという箇所でしょう。
マタイ
18:12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
18:14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
要点は、その人、イエス様は、迷わなかった九十九匹の羊以上に、この迷った一匹を喜ぶのですというくだりです。
最後の三つ目は十九節、二十節、先ほど読んでいただいた箇所です。
マタイ
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
この箇所の要点は、二人が、どんなことでも、地上で心をひとつにして祈るならかなえられるという約束と、ふたりでも三人でも、わたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるという、祈りがかなえられる根拠が書かれています。この御言葉は、不思議な言葉であります。そして、私たちが生きる上で、大切な大切な御言葉ではないかと思うんですね。すなわち、大切な御心であります。
イエス様が地上で福音を告げておられる時に、まだ十字架におかかりになる前に、すでに天に帰られて、助け主ある御霊を――聖霊を――私たちのうちに送ってくださることを、前提として語っておられるように聞こえてまいります。そして、過去も、現在も、未来も支配される主は、二人がどのように祈ったらよいか分からない、そのような祈りを、ただ心をひとつにして御霊がとりなしてくださることを確信することができるなら、すでにかなえられたと知る、そういう奇跡が与えられると、この箇所は語っていると導かれるのであります。ですから、このマタイの十八章の十八節、十九節と、後でお読みするローマ書の八章の二十六節と、そして、第一ヨハネの五章の十四節、十五節、この三つの御言葉は、ひとつの御心を告げておられると思うのであります。
祈りがかなえられる鍵となる御言葉が、聖書にはございます。少し長くなるのですけども、この三つの箇所を続けて、お読みしたいと思うんですね。
最初は今、お読みしたマタイの十八章の十八節、十九節をもう一度、お読みします。
マタイ
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら(・・・・何でもですね・・・)、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
御霊が、聖霊が、キリストの心が祈り、そして、私たちの代わりに、主に願ってくださるということではないかと思うんですね。そして、三つめの最後は、第一ヨハネの五章であります。
第一ヨハネ
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
このヨハネは、最初にマタイの十八章でお聞きしたイエス様の言葉を、彼の耳で聞きました。祈りはかなえられる。そして、パウロとともに福音を宣べ伝えたその時に、ともにその主の御言葉を思い起こして、パウロたちと同じ思いで、イエス様を告げ知らせたのであります。それから、また何十年も経った老年になって、ヨハネは自分の一生を振り返り、そして、確信を持って、すでにかなえられている。祈り、そして、また願ったその時に、天で全てがかなえられており、私たちはそれを期待して、その時を待つだけに、そのように導かれたのではないでしょうか。
『小さなものよ。』イエス様の呼びかけはいつも少数の者たちに向けられています。古いこの世の価値観は、大人の高ぶりであり、迷わなかった九十九匹の羊であり、そして、多くの人が集まるところでありました。そして、イエス様を信じるようになった私たちも、イエス様から、心が離れると、目が離れると、いつでも、この古い価値観に捕らえられてしまいます。しかし、イエス様は、聖書を通して、御言葉を通して、はっきりと別の道を示しておられます。自分を低くするもの、主の声を求める迷うもの、小数の心をひとつにする兄妹姉妹たち、そして、私たちがこの古い価値観に陥っているということに気づかされるなら、本当に幸いです。
しかし、一人では危険です。二人なら、その真ん中にイエス様がおられて、三つ撚りの糸として、簡単には切れないと、聖書は語っています。そこは、主の光に照らされて、悔い改めの喜びが用意されているからであります。一人では気づかないことがある。二人では大丈夫と語ってくださいます。
ここまでに言葉に導かれて参りました。その結果は、小さいものたち、弱き者たち、さらに、貧しい者、悲しむ者、悩む者、苦しい者がイエス様に慰められるという、神の愛の約束でありました。イエス様が目を注いでくださるところは、この世が注目するところと大いに異なります。
第一コリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。(・・・・私たちがイエス様に出会った時のこと、導かれたとき、選ばれたときのことを考えてごらんなさい。・・・・)この世の知者は多くはなく、権力者も多くは なく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。
パウロが書いたこの手紙に、真実が告げられています。そして、これが人の思いと決定的に異なるところであります。私たち自身が取るに足らないものであることに気づかされるとき、また、自分の愚かさと弱さとを感謝をもって受け入れることができるとき、御心が天で行われるように、地でも行われるのではないでしょうか。この世でも、神の国が私たちの目の前に現れるのではないでしょうか。
御霊の実が、私たち兄妹姉妹たちのあいだで見ることができるとき、私たちは本当に幸せであります。そして、そのとき、私たちは、この地上において、既に神の国に一歩、踏み入れる、そういう恵みにあずかる者へと導かれるのではないでしょうか。神の国は、あなたがた、私たち、その真ん中にあると、イエス様は語ってくださいました。御霊の実が見られるところとは、次のようなところではないかと思うんですね。
マタイの二十五章の四十節であります。後で、この四十節の前後を読んでいただければ、もっと分かると思います。
マタイ
25:40 すると、王は(・・・・神は・・・・)彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
兄妹姉妹たちが、頭なるキリストにあって、ひとつの体のように、一人の人のように、一人の人格のように、真(まこと)の教会として、キリストの花嫁として、この世に存在することが許されるならば、どんなに幸いでしょう。福音を伝えるというのは、こういうことではないでしょうか。信じた者たちが、どんなに、イエス様につながることによって、幸いな者となるかということに尽きるではないかと思います。
聖書の終わりのヨハネの黙示録に、主なる神の奥義が明らかにされています。そこには、地上に現れた、あるいは、これから現れるすべての時代の七つの各教会に対する――兄妹姉妹たちの群れに対する――イエス様の評価と最後のイエス様の願いが告げられています。そこにも、本日ご一緒にふれて来たイエス様の、すなわち、父なる神の御心、御人格が現されています。
七つの教会の中で、もっとも目立たない、もっとも貧しい、もっとも小さなスミルナの教会と、フィラデルフィアの教会だけが御心にかなった教会として紹介されています。この終わりの時代にあって、私たちに与えられた、同じ主イエス様を信頼する兄妹姉妹のために生きる。そのような恵みが備えられていることを、心から感謝いたします。
遠く離れていても――ワシントンDCに離れていても――遠く離れていても、二人で心をひとつにして祈り合う恵みが、これからも与えられますように。そうすれば、イエス様は、必ず聞き届けてくださると聖書は証ししています。
最後に御言葉をお読み終わりにいたします。先ほど三つ撚りの糸と申し上げました。
伝道者
4:12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。
『もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。』パウロは牢獄に入っても、そして、どのような時にも、一人に思えた時にも、主がそばにおられて、そして、支えられました。そこに、もう一人、兄弟、姉妹がおられて、そして、ともに祈り会うことができるならば、どんなに幸いでありましょうか。遠く離れても、祈り会うことのできる恵みに心から感謝していきたいと思います。
いつも、霊の糧であるメッセージ起こしありがとうございます。
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