2015年11月1日、吉祥寺福音集会
西川 義方
ルカ
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
私たちの人生は、様々な言葉で例えられると思うのですが、その中でも、私たちの人生を、もっともよく伝え、表している言葉は、『道』という言葉ではないでしょうか。道は、いつも平坦で真っ直ぐとは限りません。広い道もあれば、狭い道もあります。坂道もあれば、ぬかるむ道もあります。まさに、人生そのものではないでしょうか。また、道を歩く私たちの足取りも、その時の気分で、いつも軽やかな時ばかりではありません。時には、重い足を引きずって歩くこともあるでしょう。さらに、私たちが人生という道で遭遇する出来事も、私たち一人一人、実に様々ではないでしょうか。
そのようなこともありまして、本日はルカの福音書から、『エマオの途上でのイエス様との出会い』というテーマで、ご一緒に考えてまいりたいと思います。ただいま、お読みいただきました箇所は、復活されたイエス様が、エマオへの途上で、二人の弟子に会われたときの記事の一部であります。そこで、二人の弟子がエルサレムを離れ、暗い顔をしながら歩いていたエマオへの道というのは、二人にとってどのような道だったのでしょうか。そして、もうひとつ。復活したイエス様が、最初に十二弟子に現れずに、なぜそれまで全く知られていなかった二人の弟子に現れたのでしょうか。
それでは、兄弟にお読みいただきました前半の続きの部分が、すなわち、十七節から二十七節を順次、見て参りたいと思います。この箇所には、二人の目が遮られているあいだに起きた、イエス様とのやり取りが記されております。
ルカ
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。・・・・」
この十九節で、クレオパはイエス様のことを、『この方は、行いにもことばにも力のある預言者でした』と、告白しております。また、二十一節でも、『この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ』と、イエス様に望みをかけておりました。
当時、イエス様の弟子たちをはじめ、多くのユダヤ人は、イエス様こそ世を救うメシアとして、何百年も昔から予言されていたお方であり、この方こそ、ローマ帝国の支配から、イスラエルを解放してくださるに違いないと信じて疑いませんでした。クレオパも例外ではなかったと思います。そのために、イエス様の弟子たちをはじめ、イエス様に従ってきた多くの信者が、彼らの故郷を捨て、仕事を捨て、自分の人生をかけてまで、イエス様に従ってきたのです。
ところがイエス様は、彼らの願いも虚しく、十字架にかけられ、しかも、その上で、『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』という悲痛な叫びとともに、息絶えたのであります。しかも、その死は、兵士や民衆に嘲られ、鞭打たれ、裸同然の姿で十字架にかけられ、重い犯罪人と同じ刑罰を受けるという、この上もない羞恥に満ちた処刑でありました。
ルカ
24:21 ・・・・「事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
イエス様は、神でありながら、私たちと同じ人間の姿をとって、この地上に降りて来られました。そして、誰一人、例外なく経験する死をも体験され、墓に葬られました。しかし、イエス様は聖書の示すとおりに、三日目の復活を通して、死は終わりではないということを、自ら私たちに証明されたのであります。
弟子たちは、女たちから御使いたちを通し、イエス様が復活したことを伝えられましたが、彼らは受け入れられませんでした。また、イエス様ご自身からも、復活のはなしは何度も聞かされていたのですが、彼らは信じることができなかったのです。結局、弟子たちはイエス様の復活、すなわち、イエス様の復活によって私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、やがて、よみがえり、天国に引き上げられるという復活の真(まこと)の意味が分からなかったのであります。
イエス様の十字架での死という、あまりに大きな衝撃の前に、イエス様の復活の話は、とうてい、信じることができなかったのかもしれません。二人の弟子についても、そうだったに違いありません。全ての夢と希望を失い、無意味になってしまった人生をどう修復するのか、その当てもなく、また、イエス様という指導者を失った彼らの思いは、ただに身に迫る危険を感じて、エルサレムから一刻も早く、立ち去ろうとしたのかもしれません。
エマオがクレオパの故郷であったかどうかはわかりませんが、生きる希望を失った今、彼らの人生の旅は、虚しい孤独の旅に変わっていったのです。それが、彼ら二人の弟子にとってのエマオへの逃避行、つまり、エマオへの道であったと考えられます。
ところが、先ほどの十五節にありましたように、エマオへの道を歩いていた二人の弟子に、イエス様ご自身が近づいて来られたのです。そして、おっしゃった言葉は、次のような、叱責ともとれる励ましの言葉でありました。
ルカ
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
イエス様の復活を信じることができず、信仰を失いかけていた貧しい二人の弟子でありましたが、イエス様はそのような者を、決して、お見捨てになることはありませんでした。それどころか、ここでは復活したイエス様が、二人のそばに来てくださり、『キリストはあなた方を救うために、十字架で苦しみを受け、復活することが、神の御心として、既に御計画されていたではありませんか。それが今、あなた方の人生の途上で起こったのです』と仰られ、そして、聖書全体の中で、御自分について書いてあることがら、すなわち、イエス様によって成し遂げられる、救いの御業を説き明かされたのです。
ところで冒頭、復活したイエス様がなぜ、最初に十二弟子に現れずに、それまで、全く知られていなかった二人の弟子に現れたのかという疑問を申し上げましたが、そのひとつの理由は、イエス様が信徒たちが一人も滅びることなく、救われることを願っておられたからではないでしょうか。
ヨハネの福音書、三章十六節には、皆様も、よくご存知の御言葉があります。
ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ひとりも滅びないこと。それが、信仰を失いかけていたこの貧しい二人の弟子に向けられた、イエス様の深い御愛だったのではないでしょうか。イエス様は、彼らをなおも、弟子として愛し、教え導こうとされたのだと思います。
それでは、次に、始めにお読みいただきました、二十八節から三十五節をもう一度、順次、拝読させていただきたいと思います。
ルカ
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
この文章から、二人の弟子が、聖書の説き明かしをもっと聞きたがったことがうかがえます。しかし、ここで大切なことは、彼らに語りかけてきた見知らぬ人に、不思議な霊的な力を感じた二人の弟子が、その人がなおも先に行こうとしたとき、『私たちと共にとどまってください』と、無理に引き留めたことではないでしょうか。もし、弟子たちが、イエス様が通り過ぎるのをそのまま見送っていたならば、彼らの目は開かれず、復活のイエス様に出会うことはなかったでしょう。
ルカの福音書、十一章には、これも皆様、よくご存知の御言葉があります。
ルカ
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
復活したイエス様は、私たちには、まさに風のように、どこからともなく近づいて来られるお方でありますが、一方で、私たちの方も、共にいてくださるように、無理にでも、強く求める必要があることを、この御言葉は示していると思います。
ルカ
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
二人の弟子にとって、イエス様から聖書の説き明かしを聞いたことは、貴重な体験となりました。その説き明かしによって、神の言葉を聞き、この後の三十二節にありますように、心がうちに燃えるような体験が与えられたからであります。そのことが、復活されたイエス様との出会いの備えとなったことは、明らかであると思います。二人の弟子は、イエス様がパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された時、その瞬間、彼らの目が開かれ、イエス様だと分かったとあります。その時、初めて彼らは、はっきりと復活されたイエス様に出会ったのであります。
パンは、申し上げるまでもなく、イエス様御自身の身体を象徴しております。ですから、三十一節の、『イエスだと分かった』その瞬間というのは、この方が私たちのために、御自身の体を裂いて、すなわち、十字架にかかって死んでくださったイエス様だと、復活されたイエス様に気づいた瞬間でありました。
ルカ
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
二人の弟子にとって、エマオへの途上でイエス様から学んだ全てのことが、その時、初めて意味を持って、二人に迫ってまいりました。
二人の弟子が、復活したイエス様に出会った当初は、暗い顔をして、つい先ほどの出来事を、辛い悲しい出来事として、論じあっておりました。それが今や、『私たちの心はうちに燃えていたではないか』と語り合うほど、心がうちに燃えるような喜びと、希望に満たされたのであります。
復活したイエス様が、彼らと共にいてくださり、御言葉をもって導いてくださったことにより、彼らは、それまで信じることができなかった、復活という出来事を信じられるように変えられたのです。そればかりではありません。信仰を失いかけ、失望のうちにエマオに到着したばかりの彼らは、心の内の高鳴りを他の弟子たちに伝えずにはおられず、その日のうちに、すぐさま、十一キロ離れた夜の道を、エルサレムへ引き返したのであります。
つまり、エマオへ逃避してきた二人の弟子は、百八十度、方向転換して、再び戦いの場所であるエルサレムへ帰還したのであります。その時の彼らの熱意が、いかに強いものであったか、この文章からうかがうことができると思うのです。この日の夜、エルサレムに集まった弟子たちの中で、いちばん興奮していたのは、この二人の弟子ではなかったでしょうか。
しかし、それでもなお、イエス様に出会った弟子たちと、まだ半信半疑でいる弟子たちのあいだには、大きな温度差があったと思われます。まさにそうしたところに、次の三十六節にありますように、『これらのことを話しているあいだに、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた』とあります。
ルカ
24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
ところで、蛇足になるかも分かりませんが、十二弟子の筆頭でありますシモン・ペテロについて、ルカの福音書では、わずかに三十四節に、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた」とだけ、短く記されております。イエス様を三度も否認したとはいえ、初代教会で大きな働きをすることになったペテロに、復活したイエス様が、最初に現れなかった理由というのは何だったのでしょうか。
ルカの福音書の主題であります、十九章の十節を見てまいります。
ルカ
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
これが、ルカの福音書の主題でありますが、これまで見て参りましたように、復活されたイエス様が、最初に十二弟子に現れずに、信仰を失いかけた名も無い二人の弟子に現れ、彼らを救い出し、エルサレムに連れ戻された記事を、復活されたイエス様の救いの御業として、詳細に伝えていることを考えますと、その理由がうなずけるような気がいたします。
聖書には、この後、クレオパに関する記事は一切、記されておりません。したがって、二人の弟子が、どのようにイエス様に用いられたのかは分かりません。しかし、同じルカの執筆であります、『使徒の働き』には、エルサレムから危険を感じて去っていた弟子たちが、やがて、エルサレムに引き返し、いのちの危険を顧みずに、福音を宣べ伝え始めたことが記されております。その多くの弟子たちの中に、この二人の弟子も含まれていたことは、容易に想像できるのではないでしょうか。
最初に申し上げました通り、私たちが歩む人生という道は、決して、楽なことばかりではありません。時に、現実から逃避したくなることもあるかもしれません。しかし、二人の弟子が、心に燃えるものを感じて、踏みとどまったように、私たちも二人から学ぶべきことは多いのではないでしょうか。それには、いつも共にいてくださり、御言葉をもって導いてくださるイエス様から、心がうちに燃えるような喜びと希望を日々、新たにしていただきますように、祈りながら、心に留めて歩むことが、私たちにとって、大切なのではないでしょうか。
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