不正な管理人
2015年11月29日、春日部家庭集会
黒田 禮吉
ルカ
16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
16:2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
16:3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
16:4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
16:6 その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。」
読んでいただいた、『不正な管理人』のたとえですけれど、非常に難解な話なんです。難解な話ではありますが、一度は学びたいと私も思っていて、今日はチャレンジであります。
これは、非常に不思議な話なんです。不正な管理人がやったことを、主人は怒ったのではなくて、ほめたのであります。多くの人が、これはいったい何のことだろうかと当惑します。そして、次にイエス様がおっしゃったことが、さらに理解を困難にしています。
ルカ
16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
実は、このたとえ話は、ルカの福音書、十五章の三つのたとえ話の後に語られています。皆さん、よくご存知だと思いますが、ルカ十五章でイエス様は、収税人、罪人たち、そして、その周りで聞き耳を立てているパリサイ人と律法学者に対して、三つのたとえ話を語られました。いなくなった一匹の羊を見つける羊飼いの話、亡くなった一枚の銀貨を見つける女、そして、有名な放蕩息子と父の話であります。
いずれも、天の神はいかなる方であるかを教えようとされました。そうした流れの後で、今度は、弟子たちに対して、不正な管理人の話をされたのです。いわば、弟子たちの訓練のための大切な話と考えられます。
注目すべき点は、『主人は、不正な管理人がこうも抜け目なく行ったのをほめた』という箇所であります。常日頃から、主人の財産を乱費しているのですから、それだけでも不正な管理人です。その管理人が、追い出される前に、債務者たちを一人一人呼んで、証文を書き換えさせて、負債の一部を免除したのですから、主人から見るならば、さらなる不正を重ねたことになります。
自分が直接、手を染めるのではなく、債務者に証文を修正させるところも狡猾であります。不正な管理人は、主人のものを不正に取り扱って、自分がやがて管理の仕事を辞めさせられても、自分を迎えてくれる友を作ろうとしました。そうした抜け目なさに、主人はすっかり感心してしまったというのであります。
イエス様は不正をすることを、ここで勧めているわけではありません。しかし、不正の富で、自分のために友を作りなさいとおっしゃいました。イエス様は、『そうしておけば、彼らがあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです』と言われました。不正の富で作った友が、あなたがたが死んで天国に行ったときに、あなたがたを迎えてくれるというのであります。
この話に入る前に、実はこの話は、私たちがこの世の財産をどのように利用したかによって報いが与えられるという話と似ているのではないでしょうか。その箇所を読んでみたいと思います。
第二コリント
5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
この世において、私たちはどのように自分たちが持っているものを、神の国のために使ったかということが、実は全部、記録されています。そして、イエス様の御座において、会計報告をすることになります。自分がしたことを申し開きすることになります。
もちろん、これは私たちの負債、罪の負債を申し開きすることではありません。それは、キリストの血によって全て帳消しにされています。ですから、これは罪の申し開きというよりも、私たちがどのように今ある財産を、御国のために用いたか――イエス様のために用いたか――を報告するのであります。そして、また、自分の時間と労力を、どのように主のために使ったかということを、キリストの裁きの座で申し開きをするのであります。それに基づいて、イエス様が報いを与えてくださるというお話であります。
戻りまして、ルカの十六章の十節から、また、ご一緒に読んでみたいと思います。
ルカ
16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
16:12 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
ちょっと分かりにくい話ですけど、イエス様はこの世の富について、『小さい事』としています。地上の富は不正な富であり、些細なことなんです。自分に与えられた財産や時間を、主のために、永遠の御国のために、いかに用いていくかを考えなさいということではないかと思います。
ここで語られているのは、成果ではなくて、忠実さだということです。例えば、一千万円のお金を献金した人が神の国で報いられて、一万円しか持っていない人は報いられないということではありません。忠実さであります。与えられたもの、任されたものに対して、外側の成果ではなく、心の動機がここで強調されています。
マタイの福音書の二十五章、タラントのたとえを見てみたいと思います。
マタイ
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
イエス様は、この世にある富を、『他人のもの』と呼ばれています。なぜなら、全ての財産は神から来たものだからです。私たちのものではなく、主の所有しているものです。そして、他人のものをきちんと管理できているからこそ、御国における霊的な財産、真の富が与えられるという報酬があるのであります。
マタイ
6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
さらに、ルカの十六章を読み進めてみたいと思います。
ルカ
16:13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
永遠の住まいである天国のために富を使うのか、それとも、地上において、富を浪費するのか。その違いがあります。前者は、神に仕えることであり、後者は富に仕えることです。私たちは、自分の所有する財産を管理しているつもりなのに、いつのまにかお金の奴隷になっているのであります。ですから、毎日の生活の中で、神を第一として、お金の使い方を決断していかなければなりません。
第一ペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
1:4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
神の国に入るということは、霊的な財産を持つということであります。私たちが救われるというのは、神の国を相続するということです。相続するとは、資産を持つということです。神の国で資産を持つ身になることが約束されているにもかかわらず、今ある財産をきちんと管理しなかったら、どうやって資産を持つのですかというのが、イエス様のおっしゃっておられることではないでしょうか。
ただ、ここまで、実は、この不正な管理人の学びをしておりまして、私自身どうもピンとこないんですね。神の国のために労すること、お金を使うということの必要性はよくわかったんですけども、どうもよく分からないところがありました。
実は、イエス様がこの地上に来られてなされたことは、ある意味で、この不正な管理人のしていることと同じなのであります。イエス様は、取税人たちや罪人たちを招いて食卓を囲み、彼らの罪を赦して受け入れられました。パリサイ人と律法学者たちは、イエス様の言動に対して、そんな不当なことは、決して受け入れることではないと考えました。
確かに、取税人たちには不正があったことでしょう。彼らの多くはローマに納める税金以上のものを取り立て、それを自分の利益にしていました。取税人や罪人たちは、律法によれば、神に対して罪があり、負債があり、その負債を取り消したりすれば、不正なことに加担したことになります。しかし、負債を取り除いてもらった収税人や罪人たちからは、感謝されて、友として迎え入れられたのであります。
イエス様は、罪人の友であったのです。律法による負債、重荷を取り除くことは、律法を要求する側からみれば、不正なことをしているわけで、公正ではありません。しかし、イエス様はその不正な行為で、取税人や罪人たちと関わりを持とうとされたのであります。
マタイ
9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
イエス様は、弟子たちに対して、あなた方も同じように、律法によれば不正とみられることをしなさい――それは、具体的には、収税人や罪人を受け入れることを意味します。つまり、律法が要求する負債を無視して、彼らと関わることを、ここでは、『不正な富で自分のために友を作りなさい』と表現し、薦めているのではないでしょうか。もっと端的に言えば、彼らに福音を宣べ伝えなさいということであります。
不正の富とは、この世の富のこと、不正の富とは、相手の負債を許して関わることです。その富を忠実に用いることで、友を得ることができます。兄妹姉妹を得ることができます。そのことができるならば、真の富が任せられるのであります。
真の富とは、主人である神の天上の全ての栄光の富のことではないでしょうか。罪人を受け入れることで得られる関わりは、不正の富であり、それは小さなことでしかありません。しかし、その小さなことに対して忠実であるならば、より多くの神の霊的資産を管理するという大きなことを任せられるのであります。
ルカ
16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。」
16:18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。
パリサイ人は、自分を正しいものとして、罪人たちや、その罪人を赦すイエス様を非難していました。このとき、主イエス様の周りには、姦淫の罪を犯していた罪人たち、多くの遊女たちも来ていました。しかし、イエス様はそういう人たちとも食事をしていた。彼らを受け入れておられたのです。パリサイ人たちは、そういう罪人たちをどうして赦すのか、それは神に対する不正だと非難していたのです。それに対して、イエス様は、『あなたがた方は、人の前で自分を正しいとする者です』とおっしゃったのです。
実際、パリサイ人のあいだでは、離縁状さえ渡せば、離婚して他の女性と結婚できると、律法を曲げて解釈していました。姦淫の罪を犯しながら、ちゃんと離縁状さえあれば、それは罪ではない、正しいということにしていました。ですから、イエス様は、自らを正しいものとして、取税人や遊女、罪人たちを非難していたパリサイ人の正しさをここで否定しておられるのです。
このたとえ話で、管理人のしていることは、本当に不正です。しかし、この金持ちの主人が、管理人の不正を赦すことは不正でしょうか。そうではないですよね。もし、この主人が本当に、彼を赦すとすれば、その代わりに主人は管理人が不正をした損失分を自分自身が負うことになります。そして、そうすれば管理人の不正は帳消しになります。
事実、イエス様は、取税人、遊女、そして、私たち人間のあらゆる不正、その罪を赦す代わりに、十字架を背負って死んでくださり、その避難、負い目、負債の全てを肩代わりされたわけであります。
有名なヨハネの三章、一六節、十七節にはこのように書いてあります。
ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
罪を赦すというのは、その罪を正しくないと断罪することではなく、その負い目を取り除いてあげるということなのであります。そして、その代償は、主イエス自身が十字架の死によって、支払ってくださったのであります。
このイエス様の十字架によって人を赦すということ、友となっていくということ、この十字架の富を、抜け目なく、忠実に、大切にしていくこと、そのことをこのたとえは語っておられるのではないでしょうか。もし、この十字架の富に忠実でなかったら、真の富を任せられるでしょうか。私たちが、他人のものに忠実でなかったら、誰が私たちに私たちの受け取るべきものを持たせるでしょう。
端的に言えば、地上の富を魂の救いのために用いなさいということです。そのようにしてできた真の富、本当の友という存在は、兄妹姉妹であり、キリストの友であり、神の家族であります。それは、この世の生涯ばかりではなく、永遠の神の国までつながっていく、本当の財産になっていくに違いありません。これこそ、私たちに与えられているキリストの最大の富であります。この十字架の富を、抜け目なく忠実に、大切にしていきたいものであります。
終わりにします。ありがとうございました。
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