2015年10月27日火曜日

果たされた救いの計画(九)

果たされた救いの計画(九)
2015年10月27日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
4:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。

私たちのものとされ得る救いというテーマについて、一緒に考えてまいりました。三つの疑問について、まず、考えてまいりました。一番目、何を自分のものとしたら良いのでしょうか。答えは、イエス様にある永遠のいのちです。二番目、いかにして、それを自分のものにすることができるかという問いだったんですけど、これに対する答えは、新生によって、イエス様との出会いによってです。そして、三番目、どれくらい多くを、自分のものとしなければいけないかということでした。私たちは、次の四つのことについて、考え始めました。第一番目、新生。二番目、成長。三番目、成熟。四番目、完成。この四つを、私たちも体験しなければなりません。

私たちは、救われることだけではなく、成長しなければならない。たとえば、子供が生まれれば、楽しいでしょうけど、この子供が全然、育てられなければ、大きくならなければ、悩みの種になるのではないでしょうか。

我々の主なる神の御心とは、いったい何なのでしょうか。子を見て、すなわち、イエス様を見て、信じる者が、みな永遠のいのちを持つことです。それだけではなく、神の御心は、あなた方が聖くなることです。成長しなければ、結局、悩みの種になってしまうのです。

パウロは、ピリピにいる兄弟姉妹に書いたのです。

ピリピ
3:20 私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

待ち望まなければ問題です。

ピリピ
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

考えられないけど、約束されているから間違いなく成ります。

来るべき日に、私たちがイエス様を見る時――その前ではなくて、イエス様を見るとき――、イエス様と同じ姿に変えられるとあります。ヨハネ第一の手紙の三章、よく読まれるすばらしい言葉です。

第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。(・・・・原語を見ると、『はっきり確信している』という表現が出てきます・・・・)なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

パウロも、救われた人々の成長のために祈り続けました。『私の子どもたちよ。・・・・』もちろん、パウロは、結婚していなかったし、子供はいなかったはずですけれど、彼を通してイエス様に出会って救われた人々とは、自分の子供のようなものだと思っていたから、書いたのです。

ガラテヤ
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

苦しくて苦しくて、しかたがない。救われることはけっこうですけど、成長しなければ悲しいと、パウロは告白したのであります。神の御霊である聖霊が、私たちを栄光から栄光へ、御子の姿に変えていかれることが書かれています。これを確信することも、非常に大切なのではないでしょうか。

聖書の中で要求されている聖化とは何でしょうか。聖化に対する危険な見解もあります。多くの人は、聖化においても、ある特別な体験をすること、また、感情を持たなければならないものだと思っていますが、決して、そうではありません。

多くの人は、聖化にともなって、何か外面的に現れるしるしを求めます。けれども、これも聖書的ではない。ひとつの過ちです。感じることがら、外面的に現れるしるしは、必要ではなく、イエス様ご自身が、我々の内に宿り、私たちは、主と同じ御姿に変えられていくという信仰だけが、大切です。

聖化を目指して、色々な名前を付けています。たとえば、第二の祝福、聖化の祝福、聖霊によるバプテスマ、聖い心の祝福、完全なる愛、油注ぎ、五旬節などという、多くの名前で呼ばれています。けれども、これらは人間によって付けられた名前であり、名前は、さほど大切ではありません。大切なのは、自我を衰えさせることなのではないでしょうか。私たちが、生活の支配を御霊、聖霊に明け渡すことこそが、大切なのではないでしょうか。一歩一歩、導かれ、十字架とよみがえりの力を経験することです。

聖霊は、私たちの魂と肉体の力を支配しようとしています。これを考えるならば、感じること、また、外に現れるしるしを求めるのは、まだ、成熟していないキリスト者であることが解るのではないでしょうか。

ひとつの質問について、考えたいと思います。もし、私たちが自分の支配権を御霊に明け渡すならば、その結果、何が起こるかということです。

第一番目、イエス様は、我々の生活にとって、いよいよ現実のものとなります。イエス様は、次のように言われました。

ヨハネ
16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

こういうふうに、イエス様は御霊の働きについて、御霊の与えられる使命について言われました。もし、私たちが御霊に自分の支配権を明け渡すならば、御霊は、我々の目の前に、イエス様を、いよいよ大きく、映し出してくださいます。聖霊は、自分自身を語りません。聖霊は、いつもイエス様だけに栄光を帰してくださるのです。

信じる者は、十字架につけられ、亡くなり、葬られ、そして、よみがえられ、高められ、栄光をお受けになったイエス様とともに、十字架につけられました。けれども、それが信じる者の現実とならなければなりません。初代教会においては、それが、実際に、信じる者にとって、現実となっていました。その他の奇蹟、しるし、賜物は、初代教会の信じる者が、イエス様とひとつになった結果に、他なりません。

イエス様が、我々の生活において現実となる。

第二番目、主なる神のみことばは、ますます、生き生きとしてきます。

ヨハネ
16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

私たちが、聖霊に支配を委ねると、聖書は突然、ちょっと違うもの、違ったものに変わります。もし、私たちが、聖霊に自分を明け渡すならば、その時、私たちは、聖書を通して主の声を聞くことができます。それは、あたかも我々の顔から突然、ベールが取り除けられたようになります。

三番目、悪魔に対する勝利も、我々の経験のうちに、実際になります。パウロは、ローマにいる兄弟姉妹に、次のように書き記したのであります。

ローマ
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

私たちは、その時、イエス様の死が、罪について死んだ死であることがわかります。私たちは、イエス様と共に死んだのですから、私たちも、罪について死んだことになります。イエス様は、罪なき世界によみがえられました。私たちは、新しいこの主イエス様のいのちと、ひとつになったのです。もし、私たちが、この事実を信じ、この事実に基づいて行動するならば、聖霊による悪魔に対する勝利は、私たちの日々の生活において、実際となるのです。

四番目、我々の日々の生活において、私たちが他の人に捧げることにおいても、主なる神の愛が現れるようになります。

第二コリント
4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

パウロ、また、彼の同労者たちは、他の人々のしもべとなりました。もし、私たちが、自分を聖霊に明け渡すならば、私たちは、主を愛しますから、義務づけられて、主に奉仕するようなことはなくなります。もはや、『私は、これとこれをしなければならない』などとは言わなくなり、何事もよろこんで、これをすることが許されている・・・・と言うようになります。

五番目、あなたは、その時、主なる神のご計画を、もっとよく知るようになります。イエス様は、次のように約束してくださったのです。

ヨハネ
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

とくに、イエス様の再臨を待ち望むようになります。

ローマ
13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。

とくに、イエス様の再臨を待ち望むことこそが、大切なのではないでしょうか。今日、来られるかもしれない。

六番目、私たちは、よみがえりの力を知るようになります。

ローマ
8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

このよみがえりの力は、イエス様のご再臨のとき、私たちのからだを一瞬にして変えます。私たちは、毎日の生活で、聖霊が私たちのよみがえりの力であることを、知るべきです。

もうひとつ、七番目、私たちは、祈りと証しの力を自分のものとします。

使徒行伝
1:8 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

これこそが、イエス様の弟子たちの使命であり、経験でした。

マタイ
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

イエス様は、全能のお方です。私たちは、イエス様とひとつになっていますから、証しと祈りの力を持っています。これらの七つの事柄は、聖化、変化の始まりであります。私たちは、イエス様を信じる者として、聖霊を持っています。私たちは、永遠のいのちを持っています。けれども、それだけでは、充分ではありません。私たちは、イエス様の御姿にならなければいけません。そのための道は、聖化であり、変化です。私たちは、聖霊に自分を明け渡すことによってのみ、イエス様の御姿に変えられることができます。

「あなたがたは、御霊に満たされなさい」と、提案されていると言うよりも、命令されています。これは、感情の問題ではなく、意思の問題です。自分の生活を聖霊に明け渡すことは、意思の問題です。今日、すべてを新たに聖霊に明け渡したら、ありがたいと思います。聖霊が、我々に対する支配の権威を取ったことを信じるべきです。この二つとも、意思の問題です。明日の朝まで、待つ必要はありません。主は与えたいと望んでおられるからです。

ローマ
13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが(・・・・すなわち、救い主が・・・・)私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

『神の御心は、あなたがたが ことです(第一テサロニケ4:3)』とあります。パウロは、当時のエペソにいる兄弟姉妹に、祈りました。

エペソ
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

聖霊は、ここで、『啓示の御霊』と呼ばれています。そして、聖霊の使命は、ヨハネ伝16章14節に書かれているように、「御霊はわたしの栄光を現わします」と。啓示という言葉は、聖書の中でよく出てくる言葉です。パウロは、よく使った言葉です。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

啓示と教示の違いとは、いったい、何でしょうか。いわゆる教示によって、インフォメーションによって、何かを教えることによって、人間は救われませんし、変わりません。けれども、啓示によって、上からの光によって、人間は、心の目を見ることになり、確信するようになり、人間そのものは変わります。そういう人間は、自分の救われたことを説明することもできませんし、理解することもできないでしょうけど、「私は神の子供です。私のわがままが赦されていると確信している」と、言うことができます。

イエス様は、十二歳になった時、エルサレムの宮で、主のご計画について話された時、当時の聖書学者たちは驚かれたとあります。

ルカ
2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

教師たちは、十二歳になったイエス様の知恵について、驚いたり、話された言葉について、考えたりしたでしょうが、けれども、彼らは、イエス様とはどなたであるか、考えようとしなかったし、知ることができなかったのです。上からの光を持っていなかったからです。

けれども、十字架につけられた一人の強盗は、『イエスさま、あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』今でなくても、少し後でも、御国の位にお着きになる時、その時、私を思い出してくださいと、祈った。イエス様は、彼に答えました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる。」主の時は、今日でした。聖書の中でよく、「見よ。今は救いの時です。今は恵みの時です」とあります。

この犯罪人は、上からの啓示によって、確信したのです。すなわち、イエス様は、私をも救うことができる。私を思い出してくださいとは、私を救ってください、私の犯罪、罪、過ち、また、わがままを赦してください。この態度をとる人々は、みな、例外なく、救いに与かる者となります。私を思い出してくださいという意味は、私の罪を思い出さないでください。忘れてもらいたい。主の約束は、次のようなものです。

イザヤ
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

主なる神の御心は、私たちが神の子となることだけではなく、イエス様に似た者となることです。

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