2015年11月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
エペソ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
ローマ
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
今まで私たちは、いろいろな問いについて、一緒に考えました。その問いのひとつは、我々の生活に対する主の御心とは、いったい何なのでしょうか・・・・だったのです。それに対する答えは、主の持っておられるいのちを、我々のものとするという答えでした。主ご自身のいのち、すなわち、永遠のいのちを持つことです。
ニ番目に、私たちはいかにして、主の永遠のいのちを、自分のものにすることができるか・・・・という問いを設けました。これに対する答えは、もし聖霊が、我々の罪と、その罪のために身代わりになって亡くなられたイエス様を我々に示して、私たちがその罪を告白し、イエス様に信頼するならば、聖霊は、我々の死んだ霊を生き返らせます・・・・ということでした。これによって、断ち切られていた主なる神との交わりが作り出されるのです。
これは、聖書の言っている新生です。この新生によってのみ、私たちは、主のいのちを自分のものにすることができるのです。このいわゆる回心は、実に偉大な体験です。しかし、回心は、終わりではありません。
赤ん坊が生まれると、よろこびますけど、その赤ん坊が全然、育たないで、小さいままだったら、それは、悲しむべきことです。成長しなければ、よろこばれません。
これと同じように、内面的に成長し、だんだんイエス様に似た者に変えられているキリスト者だけが、主によろこばれるのです。私たちは、だんだん、イエス様に似せられていかなければなりません。信じる者は、イエス様に似せられるより、この世に似せられやすい者です。この世の職業、教育方法、習慣、会話などによって、この世の者に変えられやすいのです。
これらのキリスト者は、イエス様に従って生きたいと、熱心に願っているかもしれないけど、悪魔がだんだん、その人の内に勢力を広げつつあるのです。たとえ、救われた人々でも、とんでもない罪、また、過ちを犯す可能性があります。あの人は、こういうふうに失敗してしまったから、救われていないと言えます。コリントの信者も当時、非常に退廃し、恥ずかしい罪を犯したんです。
回心は、人の霊の内に起こるものです。したがって、初めのうちは、その人の外側に現れず、多くの場合には現れません。この世にだんだん似ているキリスト者は、イエス様によろこばれないキリスト者であることは確かでしょう。しかし、私たちは、御子イエス様の形に似た者とならなければなりません。
ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
すごい!すばらしい箇所です。もし救われた人々が、主なる神の御心は、自分の罪を赦すだけではなく、自分がいよいよ、イエス様の形に似せられることも、神の御心だということが解ったなら、その時、今まで大切だと思っていたすべてのものは、粉塵(ふんじん)のように思えるでしょう。そして、同時に大きなよろこびに満たされます。
私たちのあらゆる苦しみ、困難は、私たちが御子の形に似た者となるために、備えられているのです。主なる神の御心は、あなたがたが聖くなることであると、よく書かれています。
我々のあらゆる苦しみ、困難は、私たちが御子の形に似た者となるために、備えられています。主の御心は、あなたがたが聖くなることです。聖化とは、終わりではない。主なる神の御子に似た者となる道順です。成長が目的なのではなく、成熟が目的です。道がなくては、目的地に着けるはずがありません。それと同じように、私たちは、聖化なくして、神の御子に似た者となることはできません。
今日は、前に設けた、どれくらい多く、主のいのちを自分のものとすることができるかという疑問に対する三番目の答えとして、成熟、すなわち、神の御子に似た者となることについて、もう少し、ご一緒に考えてみたいと思います。
神の御子に似た者となることは、成熟を意味しています。主なる神は、成人した息子を求めておられます。すなわち、主なる神は、ご自身の御子、イエス様に対する信仰によって集まる、成人した息子たちを求めておられます。新約聖書は、このことについて何と言っているのでしょうか。
たとえば、ローマ書8章とガラテヤ書を読むと、新約聖書の時代、ギリシャでは子供が生まれると、その子は、文字どおり、子供であって、僕(しもべ)と共に生活し、また、父の後継ぎとしての資格を持っていませんでした。成人して初めて、息子として、父の後継ぎとなる資格が与えられるのです。この子は、初めは子供だったのですが、成長し、成人となり、初めて息子となったのです。
これと同じように、まことの新生を経験した人は、神の子供です。この新生した子は、聖化、変化、成長によって息子となることができるのです。これに対する二、三の聖句を見てみましょうか。
ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この聖句は、真の新生を経験した人は、神の子供であるということを言っているのです。けれども、ギリシャ語では、『子』と『息子』の区別があります。
エペソ
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
「ご自分の子にしよう」と書いてありますが、主のご目的とは結局、それなんです。「ご自分の子にしよう」と書いてありますが、この「子」は、ギリシャ語では、「息子」となっています。ですから、子たる身分ではなく、息子の立場を意味します。息子の立場とは、成人した息子に、法的な立場と知恵を与えることを言います。イエス様は、成人した息子たちを、栄光に導こうとしておられます。
へブル人への手紙の2章10節、ここでも、多くの『子たち』という表現が使われています。
へブル
2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
ここでも、「多くの子たち」と書いてありますが、原語では、「多くの息子たちを栄光に導く」と書いてあります。
ローマ
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
このような聖句を読むと、次のように解釈する人もいるでしょう。すなわち、誰か知らない人が来て、一人の子をもらって育て、その子に財産を与えたと。けれども、ギリシャ語では決して、そのようなことを意味していません。もちろん、ローマ人への手紙は、信者に対して書かれたものです。ですから、ローマにいる兄弟姉妹は、イエス様を受け入れて、神の子供となっていたのです。このもうすでに神の子となった人々に、パウロは、主なる神のいちばん大切な目的は、成人した息子としてのキリスト者を通して、ご自身のご栄光を現されることであると書いたのです。神のご目的は、成熟した息子たちを通して、ご自身の栄光を現されることです。
確かに、私たちは、イエス様を信じ、受け入れた者として新生を経験し、聖霊の働きによってイエス様を宿し、永遠のいのちを持っています。けれども、これは終わりではありません。私たちは成長し、成人した神の息子、娘とならなければなりません。
それは、私たちが、神のご栄光を現す、神の同労者として、主に対する働きの責任を持つようになるためです。新約聖書は、子と成人した息子の区別をはっきりつけています。
子供は、自分の努力なしに誕生します。けれども、成人した息子となり、主の名誉と責任をとるには、一定の必要条件を満たさなければなりません。その必要条件が満たされなければ、私たちは、決して、主の名誉と責任をとることはできません。
ニつの疑問が出てきます。ひとつは、一度、生まれ変わった人は、滅びることができるでしょうか。もうひとつ、一度、生まれ変わった人は、何を失うことができるのでしょうか。
ヨハネ
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
質問は、一度、生まれ変わった人は、滅びることができるか。私たちは、まず頭で回心した人が非常に多いということを知らなければならないのではないでしょうか。多くの人々は、何年間も教会に通い、集会に出席しますけれども、決して、回心しません。また、多くの人が聖書の教えを頭で理解し、感情の動きは経験しましたが、決して、心から回心していません。このような人々のことを、ヨハネは次のように言っています。
第一ヨハネ
2:19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。
新生しなかった人々は、遅かれ早かれ、落後し、滅んで行ってしまう。けれども、私たちが今、設けている疑問は、本当に生まれ変わった人々は、滅びることができるでしょうかという疑問です。この疑問に答える前に、もちろん、もうひとつの疑問が出てくるでしょう。すなわち、生まれ変わるとはいったい何?
新しく生まれるということは、新しい人間になることです。悪魔の奴隷から、新しく創造された者となることを言います。悪魔の奴隷から新しく創造された者となる・・・・これが、新生です。
三つの簡単な問いについて考えたいと思います。第一番目、新生はいかにして起こるか。ニ番目、新生の時に何を体験するのか。三番目、新生はいったい、何に基づいているのでしょうか。
まず、新生はいかにして、起こるのでしょうか。イエス様は言われました。
ヨハネ
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
新生とは、御霊の働きの結果である。そして、ペテロも結局、同じことを書き記したのであります。
第一ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
霊的に死んでいる人が、主のみことばを聞き、これを受け入れた瞬間に、聖霊がその人の死んだ霊に入り、その人の霊は生き返ります。その人は、それによって、いのち、すなわちイエス様との交わりができましたから、神との結びつきが生まれました。新しく生まれることは、聖霊とみことばによってのみ成されます。新生の種は、神のみことばです。この種である主のみことばは、永久(とこしえ)にまで残りますから、新生も永久に続きます。
次の第ニ番目の疑問は、新生の時に何を体験するのでしょうか。
ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(・・・・人間ひとりひとりを愛された。・・・・)それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。
新生して私たちは、永遠のいのちを得ます。
第ニペテロ
1:3 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、命と敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
私たちは、新生して、神の性質にあずかる者となります。
エペソ
1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
一番目、聞くこと。二番目、信じること。三番目、やること。新生によって、私たちは、聖霊の証印を押されるとあります。新生の時に得たものを取り去ることは、決して、できません。なぜなら、永遠のいのちは、死ぬことができないからです。神の性質は、過ぎ去ることがないからです。聖霊の証印は、決して、消されることがないからです。
次に、新生はいったい、何に基づいているのでしょうか。
へブル
10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
新生は、主イエス様の犠牲の死に基づいています。
ローマ
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
新生は、イエス様の功(いさお)に基づいています。エペソ2章を見ても、同じことが強調されています。『賜物』と言う表現が出てきます。
エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
新生は、イエス様の働きに基づいています。回心は贈り物として、ただで受け取るものです。赤ん坊が生まれる時、赤ん坊の力で生まれるのではないのと同じように、新生も、我々の力にかかっていません。新生は、イエス様の犠牲の死、功、また、働きにかかっていますから、永遠に変わらないものです。なぜなら、イエス様の犠牲の死は、永遠に力あるものとして残りますから。イエス様の功は、決して、小さくならないから。イエス様の働きは、完全であるからです。
第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
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