2015年11月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
エペソ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
私たちは今までに、いろいろな問いについて考えました。
ニ番目に、私たちは、いかにして、イエス様の永遠のいのちを自分のものにすることができるかという問いを設けました。これに対する答えは、もし、神の霊である御霊、聖霊が、我々の罪と、その罪のために身代わりとなって亡くなられたイエス様を我々に示し、私たちが、その罪を告白し、イエス様に信頼するならば、聖霊は、我々の死んだ霊を生き返えらせますということだったのです。
もうひとつの大切な疑問があります。すなわち、私たちの救いの望みとは、いったいどんなものでしょうか。私たちは、救いをただで、しかも、決して失われることのないものとして受け取りました。これとともに、救いの希望も与えられました。この望みは魂の救いであると、聖書は言っています。
エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
ペテロも、全く同じことを書き記したのです。
第一ペテロ
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
次に、栄光のからだに変えられる望みです。いわゆる、よみがえりの書と呼ばれているコリント第一の手紙、十五章を見ると、次のように書かれています。
第一コリント
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
『朽ちるものは、必ず朽ちないものを着る』という望みがあるとありますね。
最後に望みとして、教会の携挙(けいきょ)があります。携挙とは、イエス様が来られ、信じる者をみもとに引き上げられることを言います。いちばん、よく知られている箇所は、いうまでもなく、テサロニケ第一の手紙の四章でしょう。
第一テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
確かに、近い将来のことは全く解らない。来週、何が起こるのか、半年先の世界は、どういうふうに見えるのか、わかりません。けれども、遠い将来のことは――今日、始まるかもしれない――わかっている。私たちは、いつまでも、主とともにいることになる。ありがたい。想像できない栄光であります。
ここまで学んだことにより、新しく生まれ変わった人は、滅びることのない、永遠にまで至る救いに与かっていることが明らかになりました。生まれ変わった人は、決して、滅びることはありません。
私たちは――イエス様を自分の救い主として受け入れた者は――新しく生まれ変わりましたから、証し人とならなければなりません。私たちは、この世に住み、救いの証しをするために、まだ生きています。なるほど、罪と死のあるからだでありますが、この地上に生きるためには、このからだが必要です。ですから、私たちの生活は、新しく生まれた霊と肉のあいだの争いが絶えません。
我々の霊は、新しく生まれ変わった。けれども、肉体には罪と死があります。この霊と肉の戦いの場所が、魂です。聖霊が支配権を持っているならば、我々は、勝利を治めます。肉体が支配権を持っているならば、その信者は、後退します。良い肉が我々を支配したならば、私たちは、ガラテヤの信者のように、律法の中に後退してしまいます。また、我々を悪い肉が支配するならば、私たちは、コリントの信者のように、この世に後退してしまいます。このようなキリスト者は、自分の罪を告白し、聖霊に自分を明け渡さなければなりません。
次に、堕落とは、いったい何でしょうか。先ほど述べたようなキリスト者が、後退したまま、死ぬまで、その内に生き続けるならば、その律法の中、また、あらゆるこの世に生き続けるなら、その人は新しく生まれた神の子としての救いは失いませんが、成人した息子に与えられるいっさいには、あずかることができません。
聖書を読まなくてもいい、祈らなくてもいい、他の信者と交わらなくてもいい。私はイエス様を信じているから、それで充分です・・・・と思う人もいます。確かに、救われるには、これで充分でしょう。けれども、そのような人は、日々の生活によろこびがありません。
そのような人は、日々の生活に真のよろこびはないし、イエス様を心から愛していない。救霊に対する熱意がない。このような人は、後で自分の無関心さを後悔するでしょう。すなわち、その人は天からの召しを失います。
これらを知って、第ニ番目のポイントが導き出されます。すなわち、新しく生まれた人は、何を失うことができるのでしょうか。いかなるキリスト者も、天からの召しを持っています。千年王国の時、キリスト者は、主と共に、この地上を支配するのです。そして、永遠に、イエス様と共に過ごします。
考えてください。私たちは、イエス様と共に、永遠に支配するはずです。何という召しでありましょうか。私たちが聖められ、実を結び、自分の全生活を明け渡してはじめて、この召しを全うすることができます。
自分は、聖書を読まなくてもいい、祈らなくてもいい、信じる者と交わらなくてもいい。自分は、自分の思う通りにやりたい・・・・と言うならば、主の備えたもう冠を得ることはできないでしょう。
聖書は、この召しについて、いったい何と言っているでしょうか。多くのことを、パウロもペテロも言ったのです。まず、パウロの言っていることは、エペソ書一章を見ると、次のように書かれています。
エペソ
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
パウロは、エペソにいる兄弟姉妹に書いたのであります。テサロニケにいる信者たちにも、だいたい同じことを書き記したのです。
第一テサロニケ
1:11 そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。
ペテロも、同じことを書いたのです。
第ニペテロ
1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
へブル
3:1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
「イエスのことを考えなさい。」そして、パウロも、ピリピ人への手紙の中で書いたのです。ローマの刑務所の中で書かれた手紙です。
ピリピ
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
救われた者は、すべて、イエス様とともに、主イエスの国を支配するはずです。けど、イエス様によろこばれるキリスト者だけが、そうなるのです。
しかし、注意してもらいたいのです。すなわち、救いと召しをいっしょにしないで。新しく生まれ変わった人は、一人残らず、永遠のいのちを持っています。この救いは、キリスト者、全部に同じものです。たとえば、キリストとともに十字架につけられたあの強盗の救いも、パウロの救いも同じであり、完全です。しかし、召しは違います。
簡単に三つの点について、考えて終わりたいと思います。第一番目、召しの祝福があります。ニ番目、召しの遺産があります。そして、三目、召しの安息があります。
召しの祝福を、とくにへブル書が語っています。へブル書を読むと、いろいろな箇所を理解できないかもしれない。へブル書は、すでに救われた永遠の救いに与かった人々のために書かれた手紙です。ですから、へブル書で言っている救いは、新しく生まれることを言っているのではなく、救われた者の召しの祝福を言っているのです。たとえば、次の聖句は、召しの祝福について語っているのでしょう。
へブル
1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。
2:3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
また、パウロは愛弟子であるテモテに、次のように書いたのです。
第ニテモテ
2:10 ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。
2:11 次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。
2:12 もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
2:22 それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
救いの祝福は、永遠に失われることはありません。けれども、召しの祝福は失われることがあります。
召しの遺産があります。天の召しは、我々のキリストとともに与かる遺産を約束しています。
ローマ
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
すばらしい約束ですね。
ヤコブ
2:5 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。
エペソ
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者---これが偶像礼拝者です。--こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
私たちは、キリストとともに、遺産に与かるはずです。もし、これを知らなければちょと問題です。召しの遺産とは、イエス様の国、千年王国を言っているのです。この千年王国では、良い行いをしたキリスト者だけが、イエス様と共に支配するようになるとあります。
最後にもう一つ、三番目ですけど、召しの安息があります。救われた者が、激しい戦いをたたかい、困難と苦しみを経た後、この安息が訪れてまいります。イスラエルの民はみな、エジプトから出る時、小羊の血を受けました。
新約聖書で言えば、これはイスラエルの民全部が、信者であったことを意味しています。また、イスラエルの民全部が、カナンの地に入りたかったのですが、現実として、二人だけがカナンの地に入っただけで、残りの人々はみな、荒野で滅んでしまいました。イスラエルの民はみな、救いを持っていました。けれども、安息に入った人は、わずかだったのです。パウロは、コリント第一の手紙の中で、また、次のように書いたのです。
第一コリント
10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
へブル
3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
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