2015年4月28日火曜日

主の救いの計画(二)

主の救いの計画(二)
2015年4月28日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
33:1 正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。
33:2 立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。
33:3 新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。
33:4 まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。
33:5 主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。
33:6 主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。
33:7 主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。
33:8 全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。
33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。
33:10 主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。
33:11 主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。
33:12 幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。
33:13 主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。
33:14 御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。
33:15 主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。
33:16 王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。
33:17 軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。
33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。
33:19 彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。
33:20 私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。
33:21 まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。
33:22 主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。

今、読んできてくださった箇所は、ダビデの告白であり、心からの祈りです。この確信を持つ人々こそが、幸せなのではないでしょうか。ソロモンという王は、次のように言ったのです。

伝道者
3:11 神のなさることは、(・・・・99パーセントではなく・・・・)すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

主はできる。人はできない。そして、モーセは言いました。

詩篇
90:2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

モーセは、この確信を持っていたから、告白することができたのですね。それから、ダビデは、次のように言ったのです。内容として、全く同じです。

詩篇
102:27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。

このあいだ、主の救いのご計画について、考え初めました。目的は、みことばをもっと良く知るだけではなく、もっと愛することです。ダビデの特長とは、それだったのではないでしょうか。みことばこそが、彼にとって、すべてのすべてでした。主は、救われた者ではありません。主なる神は、すべてのものを造りたもうたお方です。主のいのちは、造られたものではありません。ですから、このいのちは、初めもなければ、終わりもありません。

創世記
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

この節は、我々を数えることのできない過去に引き戻します。主がいつ、天地を創造されたか解りません。主が創造されたとしか書いていないのです。ヘブライ語で、「神」という字は、複数となっています。単数ではない。「創造された」という言葉は、単数で書かれています。創世記、1章を見ても同じことが表れています。

創世記
1:26 そして神は、「われわれに(・・・・わたしではなくて、複数形・・・・)似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

私たちはもうすでに、この創世記で・いわゆる神の三位一体――『三位一体』という言葉は聖書に出てこないけども、聖書的です――すなわち、父なる神、御子なる神、そして、聖霊なる神について聖書は言っています。三つにいまして、一つの神です。

神の統一性について、聖書は確かにたくさん言っているのです。

申命記
6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

ここで、主はただひとつであると書いてあります。けれども、他の箇所を見ると、この主なる神の人格の区別がわかります。有名なマタイ伝のいちばん最後の節です。

マタイ
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

父、子、聖霊となっています。パウロも、コリントにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。

第二コリント
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

ヨハネによる福音書にも、次のように書かれています。

ヨハネ
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

主はひとつですけども、父を通して、御子を通して、聖霊を通して、働いておられるのです。父なる神、御子なる神、聖霊なる神の三つの人格は、神と名付けられています。創世記一章一節、「初めに、神が天と地を創造した」と書いてあります。けれども、ヨハネ伝、一章一節を見ると、もちろん、同じことについて書いてあります。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

それを読むと、ピンとこないし、どういうことか、誰も解りませんけれども、14節を見ると解ります。

ヨハネ
1:14 ことばは人(・・・・結局、人間・・・・)となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

父は神と呼ばれている。誰でも納得しますし、イエス様も神だ、もちろん、そうよ!けれども、聖霊も神と呼ばれている。

使徒行伝
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

この箇所の中で、「聖霊を欺いた」、それから、「神を欺いた」、と書いてあります。創世記一章一節、「初めに、神」と書いてありますし、ヨハネ伝一章一節、「ことばは神であった」、14節、「ことばは人間となった」とあります。

そして、今の使徒行伝の五章を見ると、聖霊を神と呼んでいることが解ります。聖書がそう言っているから、間違いなくそうです。理解できるものではない。理性でもって、つかむものではありません。いわゆる我々の救いの働きにおいても、また、父なる神、御子なる神、聖霊なる神は、離れることのないひとつのものとして働かれたと、聖書は言っています。

世界の歴史における二つの大きな主なる神の働き、すなわち、創造と救いにおける働きと同様に、人間の個人的な救いにおいても、この三者、すなわち、父と御子と聖霊の三者は、一緒に働いておられるのです。私たちは、父なる神のご意思によって、そして、御子なる神の救いに基づいて、また、聖霊なる神の生かす力によって、信じるようになり、救われたのです。これこそ、恵みの現れ、そのものなのです。

主なる神は、創造の前に何をなされたのでしょうか。地の始まる前に、主なる神は、天使たちを創造されたと、聖書は言っています。全宇宙の始まる以前に、主なる神は、その御子であるイエス様と、永遠の愛の交わりを持っていたと、聖書も言っています。

祈りの中で、イエス様は告白しました。

ヨハネ
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

世界の始まる前に、主なる神は、人間一人ひとり、個人個人の救いの計画を定められたと、聖書は、はっきりと記しています。それだけではなく、世界の始まる前に、主なる神は、教会のために救いのご計画をなしてくださいました。世界の始まる時から、主は、ご自分の民のために、王国を準備したともあります。

マタイ
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』

「世の初めから」とあります。世界の始まる前に、主なる神は、御子、主イエス様を、あらかじめ定めた救いのご計画の仲保者に定められたのです。永遠の昔から、御子、主イエス様は、贖いの御業を成し遂げることを、決心してくださったのです。

実に、この世の始まる以前にさえ、施行者なる神は、あなたや私の声を心にかけておられた。また、海が荒れ狂い、波が立つ以前、地がたてられ、あるいは、その土台におかれる以前、すでに全能なる神が、人間一人ひとりのことを考えておられました。これは極め尽くすことができない。けど、事実です。いかなる人間の心も、ことばによっては、言い表すことのできない事実です。私たちは、ここで、ただひざまづいて拝することができるだけであり、万物を愛しておられる主なる神の足元に、我々の命を投げることしかできないのではないでしょうか。

初めに神が、天と地を創造した。主なる神は、いかにして天と地を創造されたのでしょうか。主は、権威あるみことばによって、いろいろな太陽と星とからなる天体を創造されました。

詩篇
33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

我々のうちの誰が、これを理解することができるのでしょうか。私たちは、これを理解することができません。造り主なる神は、天地、太陽、星を無から、材料なしで、お造りになった。主なる神は、あまりにも偉大なので、宇宙を創るのに少しも元素、材料を必要としなかったのです。主は、無限と呼ばれている大宇宙を、何から造ったのでしょうか。へブルの著者は――多分、パウロだったでしょうけど――次のように、書いたのです。

へブル
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

万物は、神のことばによってできたのです。けれども、神のことばとは、単なることばではなく、イエス様なのです。コロサイを見ると、はっきり、そう書き記されています。

コロサイ
1:16 ・・・・万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

へブル
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

創造は、三位一体の神の御業です。父なる神は、イエス様を通して、聖霊の力によって、すべてを創造されました。誰も、主なる神を理解する者はいません。それなのに、小さな人間は、神を石や木に刻もうとします。この偶像礼拝の罪に対する主の言葉は、非常に厳しいものです。

これから、宇宙の創造の起源、目的、偉大さについて、ちょっと見てみましょうか。

まず、創造の起源についてです。主なる神は、いったい何故、世界を創造されたのでしょうか。これに答えられる者は、誰もいません。私たちはただ、主が世界をお造りになりたかったので、お造りになったというほかありません。創造は、三位一体の神の自由な御業です。主なる神は、ひとつの御計画を立てられました。人間も、何か建築する場合、その前に、必ず計画を立てます。主なる神も、ひとつの御計画を立てられ、世界を創造したかったので、創造されました。

この創造の目的とは何でしょうか。何のために、主は世界をお造りになったのでしょうか。これには、二つの答えがあります。ひとつ目は、主なる神の栄光の啓示のため。二つ目は、主なる神の愛の啓示のため、この二つがその目的です。

主なる神のなされることは、全部、永遠に神ご自身が、その目標になっています。すべては、ご自身の御名のゆえに行われ、主なる神ご自身のために、また主なる神の栄光を褒め称えるために行われています。どうしてかと言いますと、主なる神は、いちばん高い存在ですから、ご自分の目標も、ご自分で定めるより、仕方がないのです。

それから、万物は、主なる神の愛の啓示のために創造されたと、聖書は言っています。父なる神が、全知の存在であることは、植物、動物の世界で、はっきり解ります。けれども、神の義、主の愛、真実を現すには、道徳的に自由な人格が必要です。そのために、主なる神は、原子、および、人類を創造され、その内に、ご自分の愛を現されました。言いかえれば、主なる神は、世界を愛することができるように、また、世界が神の愛に応えるように、世界を創造したということになります。

これから先の神の目標は、世界を導いて、神ご自身の聖と愛とに永久に預からせ、そして、世界を幸福と栄光にまで至らせることにあります。

世界の偉大さについて考えても、考えられません。我々の地球の大きさからして、すでに我々のすべての思考、考えをしのいでいます。人間が全世界に作った舟とか、島かいとか、村々を全部ひとまとめにしてみても、三百立方マイルを出ないでしょう。けれども、地球は、この三百立方マイルを、二千六百億も得ることができるのです。しかも、このような地球自体は、渦巻く星座のなかのひとつの天文学的原子にしかすぎない。宇宙の太陽系の海の中のひとつの塵にすぎない。あの大きな太陽の中だけでも、百二十五万個以上の地球を入れることができます。

そして、急行列車が休みなく走っても、地球から太陽まで行くには、百六十九年かかるでしょう。すなわち、その距離は、だいたい九千三百万マイルです。けれども、太陽それ自体も、また星が四百、集まった大きな球形を成す星のひとにしかすぎません。

私たちが、夜空を見上げますと、たくさんの星が見え、その星の角は本当に狭く見えるのではないでしょうか。けれども、実際には、宇宙における星の分布は、実際に稀薄なもので、地面の上に二十マイル、または、六十マイルごとに一本の樹の頭に出会う程度にすぎない。あるいは、地球の全面、すなわち、約一億九万六千平方マイルの上に、ただ一リットルの水を撒いたようなものです。

私たちは、宇宙の偉大さを想像することができません。ましてや、それにまさる主の偉大さを知ることはできません。なぜなら、天も諸々の天の天も、あなたをお入れすることができないと、ソロモン王は言ったのです。

【参考】第一列王記
8:27 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

創造の偉大さは、星に見られるばかりでなく、天使の軍勢においても見られます。これらの世界は、この天空の中で何のために存在するのでしょうか。生命のない物質を、神はお喜びになるのでしょうか。主なる神は、生ける者の神ではないでしょうか。魂のない物質が、すべての命の主である主を褒め称えることができるのでしょうか。あるいは、むしろ、主なる神の創造された星の世界でさえ、人格的生命によって満たされているのではないでしょうか。

聖書の中では、しばしば、星と天使を等しく呼んでいます。ですから多分、天使は、星をおのおの支配しているものと思われます。天使たちについて、聖書はいったい何と言っているのでしょうか。まず言えることは、天使たちは、我々の歩みを見守るものです。

エペソ
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためである・・・・

天使たちは、我々の歩みを見守るものであり、それだけではなく、主の使者であります。

ルカ
1:11 ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

こわがることはない。似ている箇所はマタイ伝の一章に書いてあります。

マタイ
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

似ている箇所は、もちろん、いっぱいあります。天使たちは、我々人間が困った時の助け手、我々の助力者であるともあります。

へブル
1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

使徒行伝
12:7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

天使とは、結局、我々の助け手として働きます。我々の最後の勝利のためにも、戦うものであるとあります。

黙示録
12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
12:8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。

天使たちは、また、主の世界秩序の仲保者でもあります。パウロは、それを考えたでしょう。

第一コリント
11:10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。

目に見える他の人間のためよりも、御使いたちのためとあります。天使たちは、主なる神の審判の執行者でもあると、聖書ははっきり言っています。主に仕えるしもべたちのようなものです。それだけではなく、天使たちは、主なる神の贖いの御業のための礼拝者でもあります。ルカ伝二章にも、『御使い』という言葉が出てきます。イエス様が生まれたときですね。

ルカ
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

今まで創造の起源、創造の目的、そして偉大さについて、ちょっと考えたんですけど、しかし、たとえば、私たちに見える創造とは、ちっぽけなもので、一時的なものにすぎないと聖書は言っています。神の創造された永遠の世界は、さらに高く、偉大です。だからパウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第二コリント
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

すべての上に、諸々の天の上に、高められたイエス様がおられます。

ローマ
11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

パウロはこういうふうに、主なる神を褒め称えたのです。私たちも同じ態度を取ることができれば、本当にありがたいと思います。

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