2015年4月14日火曜日

主イエス様から目を離さないで

主イエス様から目を離さないで
2015年4月14日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

今日のテーマは、「主イエスから目を離さないでいなさい。」もっとも大切な呼びかけなのではないでしょうか。イエス様から目を離すと、もうおしまい、何の喜びもないし、平安もないし、安全もあり得ない。

ですから、イエス様を見上げることの必要性、大切さ、また、すばらしさについて、みことばの中でたくさん書かれています。

結局、主を見上げる者は、前に想像しなかったほどの喜びを与えられます。そして、イエス様だけを見上げる程度にしたがって、我々は、その度合いに応じて、喜びを与えられるようになります。我々の見上げる目の方向によって、喜びに満たされる者になるか、あるいは、自ら墓穴を掘る結果になるかのどちらかなのではないでしょうか。

今、読んできてくださった箇所を見ると、イエス様の愛に満ちた眼差しを見ることができるのではないでしょうか。ここに、書いてあるのですね。「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」とありますが、この箇所を見ると、この若者は、少なくとも、飢え渇きを持っていたでしょう。だから、イエス様の御許に走り寄って、御前にひざまづき、「永遠のいのちを得るためには、どうしたらいいでしょうか」と尋ねました。

確かに彼は、豊かな財産があるにもかかわらず、心そのものは満たされていなかったのです。人間はすべて、永遠のいのちによってのみ、本当の意味で満たされるようになります。そして、永遠のいのちを得るために、自分のどうしようもない状態、滅び行く状態を知るべきです。

その状態を示すために、イエス様はこの今、読みました若者に、いわゆるモーセの十戒を示されました。「殺すな。、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、欺き取るな、父と母を敬え。」すると、彼は、「それらのことは、守っております」と、答えました。

すなわち、彼は、自分自身の本当の心の状態について、全く何にも知らなかったのです。自分の罪を知らない者は、当然、罪を告白することができない。そして、罪を告白しない者は、罪の赦しをも得ることができません。さらに、罪の赦しを得ていない者は、永遠のいのちを持つことができないのです。イエス様の眼差しとは、本当に愛に満ちた眼差しでした。

二番目、このあいだも、ちょっと考えたんですけども、イエス様の眼差しとは、希望の眼差しです。有名なザアカイの話ですが――今日は、時間がないから読みませんけども――ルカ伝の19章1節から10節まで、ザアカイがイエス様との出会いによって、結局、彼が救われたことについて書いてあります。

ルカ
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

イエス様は、上を見上げました。そこで、桑の木に登っていたザアカイの視線がぶつかったに違いない。ザアカイは、イエス様の眼差しを見た時、急に何がはっきりしたかと言いますと、希望がある、あきらめる必要はない。

彼は、イエス様が自分の名前を呼ぶのを聞きました。そして、それと同時に、イエス様が自分に対して、何らかの関心を持っていることも、もちろん、解ったのです。しかも、イエス様は、ザアカイの家に泊まると仰り、ザアカイとの交わりをも、提供してくださったのです。

ザアカイは、イエス様を自分の家に受け入れる準備ができたのです。もちろん、彼は、それによって導かれ、本物を得るようになりました。イエス様の眼差しとは、愛の眼差しであり、そして、今、話したように希望の眼差しです。

三番目、イエス様の眼差しとは、あわれみの眼差しです。

ルカ
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。

この婦人は、いろいろと人生の重荷に耐えかねて、疲れ果てた、かわいそうな婦人でした。まず、主人が前に亡くなられた悲しみを経験しました。それだけではなくて、やもめになった彼女のただひとつの喜びであり、また、支えであった一人息子も病気になっただけではなくて、死にました。そして、イエス様は、この悲しみの婦人を見て、深い同情を寄せられました。イエス様は、この婦人のところに来て、「泣かないでいなさい」と、言われました。すると、この婦人は、涙ながらに、イエス様の顔を見上げたでしょう。

その時、二人の視線が出会ったのです。深いあわれみに満ちた眼差しがそこに出会ったのです。イエス様は、細々したことや、慰めの言葉などをくどくど仰ることはなさいませんでした。死んだ若者に向かって、ただ一言、「若者よ、さあ起きなさい」と、言われました。すると、死人は起き上がってものを言い出したとあります。

この婦人は、イエス様のあわれみの眼差しを見るまでは、全く打ちのめされ、絶望的な状態に置かれていました。そのようなわけで、葬式の行く途中、葬りに出すところで、この婦人は、全く望みのない状態にまで追い詰められたのであります。人間的に見るならば、時すでに遅く、もうどうすることもできないところまで行ってしまったのです。けれども、イエス様にとっては、決して、遅すぎるということはありません。我々にとっては、終わりと思われる最悪の状態にあっても、イエス様は、助けることがおできになるのです。

イエス様の眼差しとは、愛の眼差し、希望の眼差し、あわれみの眼差しだっただけではなく、誤った者を正しい道に戻し、正しい道を教え諭す訓戒の眼差しでもあります。この訓戒の眼差しは、ペテロとの関係において、ひとつの姿を見出すことができるのではないでしょうか。

ルカ
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。

『主が振り向いてペテロを見つめられた。』このペテロについては、マタイ伝の中でも、次のように書いてあります。

マタイ
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜(・・・・結局、何時間か後です・・・・)、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」

かつて、ペテロは、イエス様の前で、自信に満ちた言葉をもって、断言しましたね。

マタイ
26:33 ・・・・「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」

26:35 ・・・・「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」

彼は、嘘をつくつもりではなかった。本当に、そう思いました。イエス様は、ペテロも含めて、弟子たちに向かって言いました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と、注意をなさいましたが、ペテロは、自信に満ちていて、真剣には、考えなかったのです。

彼は、下役どもと一緒に座っていましたけど、彼らは、イエス様を信じようとしていた人々ではなく、反対に、イエス様を捕えようとしていた人々でした。そして、ペテロは、そのような連中と一緒になって、交わったのです。ペテロのこのような態度の結果は、以前、自信に満ちていた時の状態とは、全く変わって、臆病者のように、「イエス様を知らない」と、拒んだのです。

マタイ
26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

自信が強すぎると傲慢になり、心の目がくらまされてしまいます。その結果、ペテロは、イエス様の警告を無視してしまいました。そして、みことばの上に立たず、みことばだけを大切にしないと、必ず悪魔の勝利になってしまいます。自信過剰からみことばを無視すると、やがては、未信者と交わるまでもう一歩というところまで、行ってしまうのです。だから、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、警告したのであります。

第二コリント
6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

イエス様は、「悪魔の誘惑に陥らないよう、目を覚まして、祈っていなさい」と、警告なさるのです。私たちは、『もう大丈夫!』という自信過剰に陥ると、間もなく、悪魔の業に陥ってしまいます。

これこそ、ペテロの体験でした。人間的に見るならば、この瞬間に、ペテロはもうダメになったのです。

ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。(・・・・イエス様は、これを良しとした。・・・・)
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

イエス様は、サタンが、ペテロを試練に会わせることを願って、許されたため、ペテロの信仰がなくならないように、ペテロのために祈られました。ペテロが、イエス様を知らないと言って、三度拒んだ時、イエス様は振り返って、ペテロをじっと見つめられたのです。

この時のイエス様の眼差しこそ、正しい道から離れてしまった者に、その道を指し示す、訓戒の眼差しでした。このイエス様の訓戒の眼差しは、ペテロの心を貫き通し、悔い改めの心を起こさしめたのです。その時、ペテロは、未信者から離れて、一人、外に行って、激しく泣いたとあります。

それからの三日間というものは、ペテロにとって、すべてが暗闇であり、何を考えることもできなかったのです。ペテロは、天から来られた、約束された救い主を拒み、裏切る者になったということだけは、はっきりと分かったのです。

けれども、イエス様の眼差しは、彼にとって忘れられないものとなり、いつも頭の中に刻み込まれていたのです。婦人たちからイエス様の復活のことを聞いたペテロは、本当に墓が空であるかどうか、確かめるために急ぎました。後で、ペテロだけがイエス様に出会ったと書かれています。その時、どのようなことが話されたかは、もちろん、わかりませんけれども、ペテロがイエス様の訓戒によって、正しい道を示されたことは確かです。イエス様が、「わたしを愛するの?」と、ペテロに三度も問われた時、ペテロは、「そうです!」と答えました。

使徒行伝や手紙を見ると、ペテロが後で、完全に回復されたことが解ります。ペテロのしっかりとした錨は、イエス様との持続的な結びつきに根差していました。

ペテロの喜びは、イエス様に徹頭徹尾、より頼むところにありました。そして、ペテロの全生涯の特長は、完全な権威と力でした。イエス様を拒んだ臆病者であるペテロは、後で、死をも恐れない勇気のあるイエス様の証し人に変わったのです。最後に、彼は、イエス様のために殉教の死を遂げたと伝えられています。私たちも、ペテロと同じように、自分自身により頼むことをせず、常にみことばの上に立って、妥協しない、未信者と一緒になることから遠ざかるように、注意しなければならないのではないでしょうか。

イエス様の眼差しとは、どういうものでしょうか。今、話したように、愛の眼差しであり、希望の眼差しであり、あわれみの眼差しであり、訓戒の眼差しであります。

それだけではなく、五番目になります。イエス様の眼差しとは、是認する眼差しであるということです。

ヨハネ
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

このナタナエルという男の特長は、何だったでしょうか。真実、純粋、誠実でした。このような特長があれば、イエス様は、その人を是認なさるのです。今日(こんにち)、いったい真実、純粋、誠実はどこにあるのでしょうか。今日(こんにち)の特長は、偽り、不真実、邪悪、不純など、およそ、正反対の時代です。

けれども、そのようなナタナエルといえども、イエス様を直ちに信じたわけではなく、初めは疑っていたのです。「ナザレから何の良いものが出ようか」と、彼は言いました。けれども彼は、イエス様が本当に神であるかどうかを確認するために、イエス様のところへ行ったのです。ナタナエルは、メシアがベツレヘムから出ることを確信していたために、ナザレから出たイエスがメシアであるとは、とても信じられなかったのです。

けれども、彼は、イエス様がナザレから出ていたか、ベツレヘムから出たかということに、あまりこだわらなかったのです。直接、イエス様に会って確かめてみようと、決心しました。彼は、イエス様に出会って、イエス様が本当に神の御子であることを、確信するようになりました。出会う前までは、ナザレのイエスは神の子ではないと、百パーセント、確信していましたが、出会った時に、イエス様が神の御子であることを、百パーセント信じ、確信するようになったのです。

このような真実、純粋、誠実の性質は、決して、生まれつきのものではありません。いかなる人間にも、多かれ少なかれ偽りの気持ちがあるものです。けれども、イエス様との出会いによって、欺きや偽りの気持ちが、消えてなくなってしまうのです。

正直な心がない場合には、本当の望みと祝福はありません。正直な素直な心を持っている者は、天が開けるのを見ると、イエス様は約束してくださいました。天が開かれるとは、上からの啓示によって、イエス様をより良く知ることを意味します。いわゆる偽り、欺きからの解放は、ただ、イエス様の十字架によってのみ、成就されます。それですから、主イエス様は、十字架を受け入れて、それを背負って、イエス様に従うことを要求なさったのです。パウロは、まさに十字架を負って、主に従う用意のできた人でしたが、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もう私ではない。イエス様である」と、パウロは言うことができたのです。

私たちも、イエス様に出会って、イエス様の眼差しを見る必要があります。深い愛に満ちたイエス様の眼差しは、明らかに十字架について語っています。イエス様の希望の眼差しは、ご自身との交わりに入ることを望んでおられます。私たちもイエス様との交わりに入りたいという強い要求を持っているのでしょうか。そのことに対して無関心な人は、災いです。そして、あわれみに満ちたイエス様の眼差しは、死人をも生き返らせる力があります。イエス様の訓戒の眼差しだけが、我々に正しい道を指し示し、回復してくださるゆえに、私たちにとって、どうしても必要なものです。我々の生活の中には、回復されなければならないことが数多くあります。そのことについて、無関心である者は、次第に心が頑(かたく)なになり、メクラにされてしまいます。また、、是認してくださるイエス様の眼差しは、天が開かれるのも見ることが、約束されています。

自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に、優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものです。そのような状態にある者を、主は用いることができない、むしろ、悪魔の道具にされてしまいます。我々は、ダビデのような態度を取るべきなのではないでしょうか。

詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。・・・・

自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただ、イエス様だけを仰ぎ見ることこそが、勝利の生活の秘訣です。

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