2015年4月18日土曜日

御霊の人イサク

御霊の人イサク
2015年4月18日、御代田ワーキング・キャンプ
古田 公人

創世記
26:26 そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。
26:27 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」
26:28 それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。
26:29 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」
26:30 そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。
26:31 翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
26:32 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」

お疲れでしょうから、短くお話をさせていただきたいと思いますが、予定どおり短くなるかどうかは、主におゆだねしなければなりませんので、もし、長くなった場合はお許しください。


よく、アブラハム、イサク、ヤコブと3人の族長の名が記されることがあります。アブラハムとヤコブについては、聖書に詳しく記されていますけれども、イサクについては、ごく簡単にしか記されていません。そして、それも、アブラハムがイサクを縛って燔祭(はんさい)の捧げ物にしようとしたとか、あるいは、子供のヤコブがイサクを騙して祝福を奪い取ったとか、どちらかと言えば、イサクは主人公と言うよりも、あまり目立たない人として、聖書の中に記されているのではないでしょうか。記されているのも、本当に26章を中心とする僅かな量でしかありません。

創世記
26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。
26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。

イサクの畑は、大きな収穫をもたらしました。そして、彼は、牛と羊と多くのしもべたちを持つようになったのです。ペリシテ人の妬みを買うほどに、彼はゆたかになりました。もちろん、それは、イサクの努力によるものではない。『主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない』と、箴言の10章22節にあるとおりであります。ここにもあるように、主が祝福された。これこそがイサクの生活の特徴でした。でも、主の祝福はペリシテ人の妬みを買っています。

創世記
26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
26:16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」
26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。

ペリシテ人はすべての井戸に土を投げ込みました。それでイサクは、そこを去って、新しいところに移ったと記されています。

創世記
26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。

ゲラルの谷間でも、ペリシテ人たちは執拗に嫌がらせをしています。イサクにとって、たいへん、多くの家畜を飼うものにとっては、井戸をふさがれることは、死活問題でした。でも、イサクはペリシテ人と争おうとはしませんでした。

創世記
26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」

彼は、ついに争いののないところで井戸を見つけています。そして、最初に兄弟に読んでいただいた出来事は、その後のことでした。ペリシテ人は、イサクのところに来て、『私たちは、主があなたとともにおられるのを、はっきり見た』と言ったのです。イサクの態度と祝福された生活を通して、人々は、主がイサクとともにおられると言うことを、認めざるを得なかったということは、たいへんに大切なことではないかと思います。

では、何故イサクはそのように主を証しするものとして、用いられたのでしょうか。第一に、イサクという人は、生まれたままの人ではなかったということであります。

ヘブル
11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。

イサクは約束の人でした。そして、アブラハムは、死者の中からイサクを取り戻したと、記されています。私たちもまた、約束のイスラエルです。そして、私たちもまた、生まれながらの古い人から、イエス様にあって新しい人へと創造、新しい創造に与ったものであります。イサクは、それと同じように、新しい創造に与かった人であったということが、言えるのではないでしょうか。

コロサイ
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

これは、私たちについて言われているところであります。こういうふうに、イサクという人は、新しいいのちにあって生きる恵みに与った人であったというのが、第一の点であります。そして、第二の点は、イサクはいつも、主なる神との交わりの中にいたと言うことでございます。

創世記
25:11 アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。

イサクが独立して、最初に住んだ場所はベエル・ラハイ・ロイの泉のそばでした。創世記にベエル・ラハイ・ロイの名前の由来が記されています。

創世記
16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
16:9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
16:10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
16:11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。

16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。
16:14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

エジプト人ハガルはアブラハムの子を身ごもりましたけれども、アブラハムの妻、サライのいじめを受けて逃げ出しました。この時、ハガルは、この泉のところで、主の使いと出会っております。この泉のところに、主がおられたと言うことであります。そして、彼女もまた、ここで祝福の言葉を、神様からいただきました。聖書では、湧き水の泉は、生ける神を指し示します。

エレミヤ
2:13 わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

主なる神は、私は湧き水の泉であると、そういうふうに恵みを与え続けるものだ、いのちそのものだということを、お語りになっています。そして、イエス様もまた、ご自身を泉にたとえておられます。

ヨハネ
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

こういうふうに、湧き水の泉は、イエス様を、そして、主なる神を指し示しています。ベエル・ラハイ・ロイは、主の聖なる場所であったことが分かります。イサクは、この主の聖なる場所であるベエル・ラハイ・ロイの泉の近くに、独立したとき、最初にそこに住み着きました。大切なことは、彼がそこに留まり続けたということではないかと思います。言い換えるなら、彼は、生けるまことの神との交わりを選び取ったということを、明らかにしています。

ここで、イサクを離れて、私たちのことを考えてみたいと思います。イエス様は私たちの罪の身代わりとなって、十字架に架かってくださいました。イエス様の死は、私たちが受けるべき罪の処罰であり、十字架の上で流されたイエス様の血は、全ての罪を洗い流すために十分なものであると、主なる神が受け止めてくださいました。私たちは、生まれながらに罪過の中に死んでいたものでありましたけど、イエス様が罪の問題を解決してくださったことにより、主なる神との和解に与かり、そして、永遠のいのちを受けるものとされています。イエス様のところへ行けば、私たちは十字架の救いに与かり、ちょうど、イサクが古い人から新しい人へと生まれ変わったように、私たちもまた、新しいいのちにあって生きるものとされ、様々な過去から、過去の問題から解放されます。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 

イエス様が呼びかけてくださったこの御言葉は、そのことを明らかにしています。しかし、どうでしょうか。救われてもなお、私たちの生まれながらの性質は、イエス様に逆らうものではないでしょうか。

ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

そして、そのような肉の行いについて、『なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立している』(ガラテヤ5:17)と、記されています。でも、どうだったでしょうか。イサクという人はそう言ったものから、まったく自由な人であったことが分かります。敵意も、争いも、ねたみも、不品行も、また、汚れもイサクを支配しませんでした。イサクは自分を御霊の支配に委ねていました。

ガラテヤ
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

そういうふうに記されている通りに、彼は、平安と寛容と誠実と自制の人でした。先ほど見た創世記の26章を味わえば味わうほど、イサクが御霊の人であったことを、私たちは知ることができます。そして、イサクが肉の思いに支配されず、御霊の支配の内に歩むことができたのは、彼が主の御許に留まり続けたからだったのではなかったでしょうか。

イサクは、祈りのために野に出ることを好みました。『散歩から帰ってきた』と、記されていますけど、何も散歩に出る必要はない。ある聖書はそれを、『瞑想から帰って』、『荒れ野の瞑想』と記していますけど、やはり、祈りだったのでしょう。彼は、主なる神との交わりを静かなところで持つ人でした。そして、また主も、イサクに親しく語りかけておられます。少なくとも、二度、語りかけられたことが、創世記に記されています。

イサクという人は、大きな声をあげて、イエスさまを証しする人ではなかったようです。時には、人を怖れて、失敗をしてしまうこともありました。でも、イサクを見ると、主がイサクとともにおられると、ペリシテ人でさえも、認めざるを得なかったと言うことは、彼が本当に御霊の人であったことを明らかにしているのではなかったでしょうか。

今日は読みませんけれども、創世記の21章の14節から19節のところには、実は、ハガルとイシュマエルも、後になって、ベエル・ラハイ・ロイのその泉の水を飲んだと記されています。そのときも、実は、主が彼らの目をお開きになって、泉の水を飲むように導かれたのですけど、問題は彼らはそこにとどまることをしなかったと言うことであります。多くの人が苦しみの中で、助けを求めて、イエス様のところに来ます。また、聖書や教会に興味を持って、聖書を読み始める人もいます。でも、そうした人たちの多くは、問題が解決されたら、あるいは、興味が満たされたら、イエス様のところから立ち去ってしまっています。ちょうど、ハガルとイシュマエルが水を飲んだけど、そこから立ち去ってしまったようにであります。

そうすれば、イエス様との出会いは一過性のものとなり、その人のその後の人生は、イエス様とはかかわりのないものとなってしまいます。大切なことは、イサクのようにそこにとどまり続けることではなかったのでしょうか。

イエスさまとの交わりの中に居続けること。だから、彼は、生活を通して、主を証しする者であったということができるのではないかと思います。私たちは、イエス様を証しするものとして、この世に置かれています。

使徒
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

私たちが聖霊をいただく、その大きな目的のひとつは、証し人となることだと、ここから知ることができます。イエス様を証しする生活は、あのイサクの生涯が明らかにするように、イエス様のところにとどまり続けること以外にはないと、いうことができるのではなかったのでしょうか。イエス様も仰せになっています。よく知られているヨハネ15章3節です。

ヨハネ
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

そのとおりだとしか言えないのではないかと思います。

アブラハムは信仰の父でした。ヤコブはイスラエルの12の部族の父親でした。どちらも、目立つ人とした。目立つ人というのは、聖書の中にも、記述がたくさん、なされています。イサクはどうだったでしょうか?アブラハム、イサク、ヤコブと並べて言われながらも、イサクはほとんど、聖書に記されていない人でした。でも、はっきり分かることは、彼は御霊の人だったのです。そして、御霊の人は、決して、目立つ人ではないということを、このところは明らかにしています。私たちも、イサクのように、本当に生活を通して、主を証しするものでありたいと思うのでございます。


終わり

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