2015年5月3日日曜日

いつまでも主とともに

いつまでも主とともに
2015年5月3日、御代田キャンプ
ゴッドホルド・ベック

ヨハネ
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

第一ヨハネ
5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

天国について、聖書は言っています。『もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。』我々にとって夢の世界なのではないでしょうか。本当に来たるべき栄光は想像もできないほどすばらしいものです。だから聖書は言っています。

ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの(です。)

何があっても、『また天国で会いましょうよ!』と、あいさつすべきなのではないでしょうか。こういう生ける希望、また、確信を持たない人は、本当にかわいそうです、行き先は真っ暗闇であるから。我々の目的とは、天国でなければ、すべては空しい。心を満たすものではありません。

何十年前だったか忘れましたけど、名古屋集会で、主にだけ頼ろうと決心した兄弟がいました。新井稔兄弟です。確かに変わっていたかもしれない。彼は、自分の葬儀のために、まず、小冊子を作ったんです。初めの文章は、『本日は、私、新井稔の召天式にお集まりくださいましたこと、本当にありがとうございます。』前夜祈祷式と葬儀に出た人々は、へんぴなところでしたけど、七百人以上集まったんです。彼が、主だけを大切にした兄弟だったからです。

はじめて彼に出会ったのは、ある病院でした。きっかけになったのは、彼の奥さんであるじゅん子が重病人になってしまったときです。その時、彼はまだ比較的若い四十五歳でした。奥さんは三十九歳でした。彼女は末期の癌だったのです。

けども、二人はこの病気のために、イエス様しかないと思うようになり、イエス様を信じ、悔い改めるようになり、赦されたという確信を持つようになりました。それからお二人は、共に悩み、共に祈るようになり、ともに全部、主に任せるようになったのです。

別の時だったんですけど、見舞いに行った時、重病人であるじゅん子姉妹が、ご主人である稔兄弟にむかって言ったのです。「病気になったのは良かったね。」彼の答えは、「あなたのおかげです。」その意味は、もし病気にならなかったならば、救いを求めようとしなかったでしょう。結果として、救い主に出会わなかったに違いない。そうすると、本当の喜びはなし、本当の平安もなし、生ける希望もなしに存在しなければならなかったに違いない。だから、病気になったのは良かった。永遠なるものを得たからです。

彼はある時、次のように書いたのです。『もし、聖書を知らなかったら、苦しみや悲しみにさいなまれ、運命を呪ったことでしょう。主イエスを信じて、じゅん子は死の恐怖から解放され、私も生き様が変わりました。今は再び天国でじゅん子とめぐり会える喜びと、主の御心と愛に感謝の気持ちです。』主イエス様が生きている証拠なのではないでしょうか。

多分、五十五年前に、うちの娘、リンデは癌にかかり、二十歳で天に召されました。娘はイエス様のために実を結びたいと心から願ったのです。自分の健康や自分の幸せは、彼女にとっては、枝葉のことでした。ただイエス様だけが栄光をお受けになるとき、私はうれしい!これこそがリンデの態度でした。

そして、この証しは実を結ぶようになりました。多くの人々が、結果として、イエス様を求めるようになり、イエス様を訪ねるようになり、イエス様に出会うようになりました。」ドイツで一人の方は、私を訪ねてくれました。次のような質問でした。「リンデが、そんなに喜んで死ぬことができた理由は、いったい何だったの?そして、彼女が、そんなにこの世から離れ、目に見えるものに関心を持たないで、目に見えないものに関心を持ったのは、いったいどういうことだったの?」と。

リンデは次のような文章を書きました。「人格者とは、死を直視することのできる人です」

ある人は、死後の問題は、死んだ時に初めてわかることであって、この世で生きているあいだは、そんな問題に煩わされない方が良いと思っています。そのような考え方に対して、私たちはどのよう態度を取るべきなのでしょうか。確かに、死についての人間の考え方は、いろいろ違っています。一般に、死について話そうとすると、嫌な顔をするんです。拒む人が少なくない。

彼は、フランスの王様だったんです。ルイ14世、太陽王と呼ばれた男です。彼は、葬式の列が通るのを見た時、すぐ「カーテンを閉めろ!」と命令したそうです。彼は、自分の望むものは何でも持っていました。名誉もあったし、地位もあったし、財産もありました。有名だったし、けど、彼にとっていちばん嫌ったものが、死だったのです。

ドイツのウルフガング・ゲーテという男は、詩人であり、政治家でもありました。けども彼は、死を嫌ったため、非常に親しい人の葬式でさえも、出席しなかったのです。

多くの人は、いろいろなことについて計画的に考え、その計画に従って行動しようとしますけど、死に対しても同じように考えようとすると、滅茶苦茶になって、何の計画も立てられなくなってしまうために、死のことに対しては、かたくなに目をつむってしまいます。そして、彼らは生きている限りは、できるだけ楽しみたいという強い願いを捨てきることができません。

けれども、神の敵である悪魔は、そのような人々に囁きかけ、死ぬことについて深刻に考えることを止めさせたり、あるいは、目をくらませて、享楽的な生活へと誘惑したり、絶えず悪の罠に引き込もうとしています。

けど、実際問題として考えると、事実は上で考えたこととは違った結果を示しています。すなわち、この国で、多分、一時間ごとに少なくても二十四人の人々が交通事故で死んでしまいます。また、第一と第二の二度にわたる世界戦争では、八千万人の人々が殺されてしまいました。日本では、毎年、多分、三万五千人以上の社会人たちが命を捨てて死ぬんです。残された家族の悩み、また、苦しみはいかなるものでしょうかね。死とは、否定することのできない事実ですから、死について真剣に考えようとしない者は、愚かでなのではないでしょうか。

ボルネオというところで、非常にめずらしい儀式というよりも習慣があります。それは結婚式の時に、新郎と新婦のあいだに死んだ人の頭蓋骨を置くという週間です。その意味するところは、人生でもっとも幸福な時に、死を忘れないようにということであると言われています。

冷静な人は、誰でも死がすべての終わりを意味するのではないということを認めざるを得ません。主なる神によって造られた人間の人生の目的が、死によってピリオドを打たれるとは、どうしても考えられない。

働いている人は、何らかの目的を持っていることは間違いない。もしも、大工が無計画に目的なく家を建てるようなことがあったとしたら、それこそ全く意味のないことでしょう。全能なる主なる神が、人間を創造された時にも、はっきりとしたひとつの目的を持っておられたことは明らかです。主なる神は、決して人間の死、人間の滅びを望んでおられません。

主なる神は、人間が生きることを望んでおられます。したがって、私たちは、死ぬことについて考える時には、死そのものだけを思い出すのではなく、死後に来るものに注意を向けなければならないのではないでしょうか。

いくつかの点について、いっしょに考えてみたいと思います。

第一番目、我々の数十年間の人生というものは、それですべてが満たされるためには、あまりにも短すぎます。現在、私たちの世界では、いちばん長生きしたとしても――沖縄にいる日本人ですが――、せいぜい百二十歳くらいが限界です。けど、百歳まで生きながらえている人の数は、少ないでしょう。

私たちが、この問題について真剣にまじめに考えるならば、聖書の言っていることが正しいと認めざるを得ない。あなたがたは、しばらくのあいだ現われて、消えていく霧にすぎないと聖書は言っています。我々の人生が、ちっぽけなものであることは、私たちでさえもよく分かることですが、六千年を超える人類の歴史といえども、主なる神の目から見ると、無に等しいものです。

私たちは、百年前にどこにいたでしょう。そして、百年後には、いったいどこにいるのでしょうか。我々の人生が、あんまりにも短すぎるために、死後の世界があるのではないかという考えが、自ずから出てくることも、当然と言えるでしょう。

この問いに対して、聖書ははっきりと言っているのです。別の世界があると教えています。なぜなら、人間の人生はあまりにも短すぎて、そこには本当の意味がなく、死んでから初めて本当の世界が始まるからです。

また、聖書が強調しているのは、主なる神ご自身が、人の心に永遠を思う想いを授けられたということです。人間は、主なる神の形に似せて造られました。そして、主なる神がその人間に、永遠とは何か、完全とは何かを理解する力をお与えになりました。

人間は、決して過ぎ行くはかないものや不完全なものによっては心が満たされません。人間は、心から愛し、心から愛されることを望んでいます。それですから、この世の人間的な愛に何回も失望するのです。

芸術家は、情熱をもって完全なものを作ろうとしますが、しばしば自分の作ったものを破壊してしまう。どうしてであるかと言いますと、自分の作ったものといえども、決して完全なものではないからです。青年は、将来に対して無限の希望を持ち、それが永遠に続くかのように思います。けども、それに対して、老人はそれほど夢の多きい将来を考えることがありません。若者にとっては、一年といえども非常に充実した意味のある長い一年のように思えますが、老人は、過ぎ行く一年が非常に短く、はかないものであるということを、体験から知っています。

人間の欲望は、新しいものが次から次へと与えられても、決して満足していません。それは悲劇であると言わざるを得ないのではないでしょうか。次から次へと目まぐるしく移り変わる、新しい流行を必至に追い求めても、そのことが幸せをもたらすとは言えない。

実業家は日夜、金儲けのために一生懸命、努力します。いわゆる独裁者は、自分の国を支配するにとどまらないで、やがてを世界を支配しようと無限に欲望を高めていきます。いわゆる仕事の鬼は、仕事だけを大切にして、他のことは何も考えないようにと、一生懸命に苦労していますけど、結局は何のために生きているのか、解らなくなってしまう。息が詰まってしまうのです。

人間を見ると、仕事が成功し、金持ちになり、病気もせず、非常に幸福そうに見える人であっても、常に満たされざる思いが心にあるため、主なる神の目から見ると、決して幸福ではありません。主なる神の御心は、我々人間が永遠のいのちを持つことに他ならない。それですから、主なる神以外に我々の心を満たしてくださる方は、この世にいません。

有名なヨハネ伝4章を見ると、五人の夫を持ついわゆる姦淫の女のことが描かれています。疑いもなく彼女は、幸福になりたいという願いを持っていたでしょう。けど、彼女の切なる思いは決して満たされませんでした。けど、イエス様は彼女に、「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがない。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と言われました。女は、イエス様に言ったのです。「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、この水を私にください。」

もう一つ考えるべきことは、死後の世界がなかったならば、この世は全く意味のないことです。永遠なるものから初めて我々の人生が意味あるものとなります。もしも、すべてが死で終わるとすれば、生きている時のあらゆる努力はいかなる価値を持つのでしょうか。

ソロモンという大王は、この世のものはすべて空しい、空の空であると告白しました。彼は、名誉、地位、財産、その他ありとあらゆるものを持っていましたけど、彼は、すべて空しいと告白せざるを得なかったのです。

もう一つ考えるべきことは、この世の正義といえども、決して、我々を心の底から満たしてくれるものではないということです。なぜならば、正義といえども、この世においては、我々の完全な正義に対する熱望を満たしてくれないからです。この世における多くの不義は、必ずしも正しく裁かれているとは限りません。また、反対にこの世で正しく生きている人が、それ相当の報酬を与えられているかというと、必ずしもそうとは限りません。

むしろ真理のために迫害されたり、殺されたりした人さえいます。もしも死によって、すべてに終止符を打たれるならば、人生は全く意味のないことでしょう。しかしながら、事実は決してそうではありません。確かに死んで別れることとは、誰にとってもにとって悲しいことでしょう。寂しいことでしょう。

けれども、それにもかかわらず、死んでから再び、愛する者と会うことができるという確信を持つことができるということは、すばらしい事実です。愛する者との死の別れは、一時的なものにすぎない。必ず再会できるという確信を持てることは、我々にとって最高の慰めであり、また、喜びでもあります。

どうしてであるかと言いますと、その時に、顔と顔とをあわせて、あいまみえることができ、イエス様に似た者となることこそ、主なる神のご計画に他ならないからです。ただ単に、人間が永遠の存在として造られ、完全なものを追い求めていくために造られただけではない。主ご自身のために造られたのだということを忘れてはなりません。すなわち、アダムの罪により主なる神から離れてしまった人間は、どうしても神との生き生きとした交わりを回復しなければ、生きてゆくことができないのです。

救われた者が、永遠に主イエス様との交わりの中に時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは、何というすばらしいことでしょう。

あらゆる宗教は、あの世のことについてはっきりとしたことを言わない。単なる想像に基づいて、抽象的なことを言っているにすぎない。けども聖書は、信者にとっても、未信者にとっても、死後の世界があることをはっきりと言っています。聖書によると、アブラハム、イサク、ヤコブ、すなわち、四千年前に生きた人々が、今も生き続けていると書かれています。それに対して、悔い改めようとしなかった人々は、黄泉の国に落ちていかなければならず、そこで苦しまなければなりません。

主イエス様は、頭を下げたくなかった人々が、死後、黄泉の国で苦しんでいる時は、決して無意識な状態にあるのではなく、はっきりとした意識をもって苦しまなければならないと言われました。このように死んだ後で、すべての信じようとしなかった人々は、黄泉の国で主なる神の前に引き出され、最後の審判を受けなければなりません。

救われた人々、また、救われていない人々も、死後も生き続けるゆえに終わりがない。主なる神によって救われた人々が、永遠のいのちを持ち続けることは明らかです。つまり、死後、救われた人々は、永遠のいのちを持って、主なる神とともにあり、悔い改めたくなかった人々は、苦しみと苦悩の中に滅びなければなりません。

これらのことを解りやすく要約すると、次のようになるでしょう。

すなわち、まず第一に、人間は、生まれた時に魂が与えられ、そのために永遠に存在する権利を与えられます。

第二に、そのような人間が、罪を悔い改めて、イエス様を信じる信仰によって、新しく生まれ変わった時に永遠のいのちを与えられます。

第三に、そのような人は、復活の時に不滅のからだを与えられます。確かに、未信者といえども永遠に存在するわけですが、しかしながら、新しく生まれ変わらない限り本当のいのちを持つことができません。本当のいのちは、イエス様との交わりの中にあって初めて存在することができます。

前に読んでもらった箇所をもう一回、読んで終わります。

ヨハネ(口語訳)
17:3 永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

イエス・キリストは真実の神であり、永遠のいのちです。

第一ヨハネ
5:20 私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

0 件のコメント:

コメントを投稿